序章:紅い記憶
少年は一人異界に立ち尽くしていた。
見るもの全てが紅く染まった世界。
それは全て均一な色ではなく、よく見れば微妙に違っていたが大まかに定義するならそれは間違いなく紅色だろう。
だがその不均一性が逆にその紅の美しさをより際立たせていた。
その景色はまるでこの世の全てを紅一色で塗りつぶしたかのように壮大だった。
これは一種の芸術の域まで達していると思う者も少なからずいることだろう。
しかし、少年はこんな物に美しさを感じることは無かった。
何故なら、所詮その紅は醜い人間から流れ出たただの“血”なのだから…。
少年の周りには数体の肉塊が無造作に転がっていた。
元々人間だったであろうそれらは原型をとどめない程に破損していた。
引き裂かれ、噛み砕かれ、蹂躙されたそれらに生前の面影が残ったモノは無かった。
少年はその光景を何の感慨もない目でただ見つめていた。
少年にしてみればこの様な光景は既に見慣れたものになっていた。
そしてその血を流す人間の醜さも少年は知っていた。
ふと、何処からか泣き声が聞こえる。
少年は誘われるようにその声の元に進んで行く。
その声は今まで聞いてきたどの人間の泣き声とも違っていた。
この様な死の異界で少年が今まで聞いてきたのは恐怖を孕んだ泣き声。
死への恐れや自分の保身のためものばかりだった。
『死という場面で人の真価は問われる。』
これは少年がこの世で一番嫌いな人間からいつも言われていた言葉だ。
そいつのことは嫌いだったがこの言葉だけは真実であると少年は信じていた。
長い間死の場面に立ち会ってきた少年だからこそこの考えを許容できたのだろう。
その点で言うならば今まで見てきた奴らは皆、醜い死に様ばかりだった。
だがこの声は恐怖の色など微塵もない。
その感情を一言で語るのなら『悲壮』という言葉が一番しっくりくる。
悲しみに満ちるそれは死者への鎮魂を願うような響きにまで聞こえてくる。
そこに居たのは一人の少女。
血が紅く染めた地面に力無く座りこんで泣いていた。
見た目は少年と同年であろうその少女の存在はこの異界にはそぐわない。
いや、少女自身がこの紅の世界では異質な存在なのだろう。
長い黒髪とその美しく透き通る白い肌はこの場には恐ろしく不釣り合いだった。
しかし、少年がその少女に抱いたのはそんな感情ではなかった。
少年の心を支配したのは言い知れない高揚感。
少女の服は血で紅く染まっていた。
元々純白のドレスであったのであろうそれは幾人もの人間の血を浴び、真紅のドレスへと変わっていた。
顔を上げた少女を見て更に少年は震えた。
少女の真っ白で端正な美しい顔に返り血が一滴。
白を汚す快感。
少年は人の心の奥に潜む欲望が沸々と沸いてくるのを感じた。
少女の泣き顔とそれを染める紅がただただ美しかった。
それはこの異界の穢れた空気と少女の余りにも穢れを知らぬその美しさとの対極する二つの要素が重なる事でしか生まれ得なかっただろう。
少年が人の血を美しいと感じたのはそれが初めてだった。
そしてこれは少年が生まれて初めて心の底から欲した唯一の存在だった…。