三つのパイ
ベルティーナが嘘をついているわけはないけれど、あらゆることが衝撃的すぎてその一語しか思いつかなかったのである。
「す、すまない」
テーブルの向こうから、替え玉、じゃなくって本物の皇太子が謝ってきた。
「その、先程も言ったように、怖かったんだ。これまで、散々怖がられたり気味悪がられたりしたから……。だ、だから、女性の前だと緊張してしまう。そ、それに、もともと不器用だから相手を怒らせてばかりで……」
彼は視線を合わせようとせず、消え入りそうな声で言葉を発している。そんな彼を見ていると、いい人なんだとつくづく実感した。
彼は人一倍思いやりがあり、他人の痛みをよく理解している人である。
そんなことがあれば、だれだって自信がなくなる。嘘をついて、相手から断らせようとかんがえてしまう気持ちはよくわかる。
自分を守る為じゃない。相手の為にそうしている。
だって、「替え玉」と偽ったところで相手への配慮がうかがえるから。
実際、わたしも彼は皇太子の替え玉だから、彼自身に愛されなくっても仕方がないって思っていたし。
それにしても、お姉様じゃなくってほんとうによかったわ。
お姉様だったら、たとえ彼が替え玉だろうと本物であろうと完膚なきまでに撃破したはずよ。
このごつい体格と顔っていう時点で、お姉様にはNGだから。
彼女には条約とか王国とか王国の民などを守らなければならない、という概念はまったくないから。彼女は、あくまでも自分の基準、自分の好みで相手を推し量る。つまり、見てくれがいいか悪いかに限られる。
というわけで、残念ながら彼はお姉様の基準を満たさない。まったく好みじゃない。だから、一目見ただけで断ってしまう。
わたしは、一番最初に彼から「替え玉だから愛せない」発言をされたけど、お姉様なら彼が口を開くよりもはやく「帰国します」と宣言して即実行に移したわ。
「殿下、自信を持って下さい。すくなくとも、わたしはあなたとすごせたわずかな時間、とても有意義でした。心からよかったと思っています。楽しかったですし、しあわせでした。あなたといっしょにいて、とっても安心出来ます」
そこでいったん言葉を切った。
「申し訳ありません。じつは、わたしもなんです」
それから、正直に告げた。
黙っているのはフェアじゃない。
「わたしの場合、殿下とは逆なのです。『大陸一の美人』、でしょうか?残念ながら、わたしはその噂の美しくって性格のいいクラウディア・デルネーリではありません。クラウディアはわたしの姉です。わたしは、アユコ・デルネーリ。家族から蔑まれている、出来の悪い王女です」
正体を明かすと、皇太子とベルティーナはまた顔を見合わせた。そして、しばらく見つめ合った後にどちらからともなく笑いはじめた。
「知っているよ。じつは、数年前にカナーリ王国にお忍びで行ったことがあるんだ。おれの片腕のファウスト、彼はベルティーナの婚約者できみの護衛を任せている近衛隊の副隊長のダミアーノの兄貴なんだが、彼といっしょにね。その際、遠目にだけど噂に名高い王女を見たんだ」
彼は、急にペラペラと喋りだした。
彼の中に幾つもの人格が存在している。そんな豹変っぷりである。
本音で言い合ったことで、心の負担がなくなったのかしらね?
「そちらから話があったとき、本人は来ないだろうと予想したんだ。男女問わず、ああいう噂の人はたいてい相手には完璧を求めるからね。それから、相手のことをつぶさに調べ上げる。だって、そうだろう?自分の物差しに合わなければ、いざ嫁入りして相手がとんでもない化け物皇太子だったら大変なことにある。きっと姉妹とか従姉妹とか、下手をすれば上位貴族のご令嬢とか、身代わりをよこすだろうと思っていたよ」
「見事な洞察力ですね、殿下」
さすがは軍を統べる将軍だけのことはあるわよね。洞察力は半端ないわ。
ただ女性に対してちょっぴり、いいえ、かなり奥手なだけでね。
「それでもやはり、自信がなかった。だけど、これだけは断言出来る。それは、きみが来てくれたことだ」
彼のごつい顔に、やっと笑顔が戻ってきた。
髭の中で白い歯が光っている。
「妃殿下。じつは毎朝のスイーツも花束も、贈り主は殿下なのですよ。妃殿下のお姉様がお好きということは有名ですが、それを抜きにしても、スイーツも花束も贈られて不愉快に思う女性はすくないですから。一度贈って、わたしが妃殿下の反応をうかがいました」
「え?花束は殿下だと思っていたのよ。ベルティーナ、あなたにプレゼントして、あなたがわたしに譲ってくれていた、と。だったら、もともと花束もわたしにってことよね?それで、スイーツも?まさか、料理人のだれかに作らせて?」
「おれだよ。おれが作った」
「えええええっ?」
でっかい図体の彼が、小麦粉とかふくらし粉とかを計量したり泡立てたりデコレーションしたりする姿が、頭の中でも心の中でもまったく思い浮かばないんだけれど。
いつまで経っても、その光景は脳裏にも瞼の裏にも浮かんではこない。
そのとき急に胸に塊が出来、それが喉元にせり上がってきた。
「ア、アユコ?」
「妃、妃殿下?」
二人が慌てだした。
なぜなら、わたしが急に涙を流し始めたからである。
崩壊した涙腺は、いついつまでも止まらなかった。
夜なべして作った三つのパイ。
二つは、スイーツを贈り続けてくれた謎の人物と花束を贈り続けてくれた庭師っていうか替え玉皇太子に、最後の一つは替え玉皇太子自身にだった。
だけど、結局、その三人は同一人物だった。
本物の皇太子だったのである。
三つのパイを泣きながら完食した。
皇太子とベルティーナ。それから、護衛の近衛隊の隊員たちも呼んできてにぎやかに食べた。
お砂糖とお塩を間違って投入してしまったかと思ったほどしょっぱかったけど、それはわたしだけだったみたい。
みんな、美味しいって言って食べてくれた。