第003話
コメットは急いで階段を下りてロビーまでおりてきたが、そこに人の姿はなかった。カウンターの所にある小さな照明が付いているだけで、フロアの照明は完全に落とされていた。
壁に貼られた出勤表に目をやる。コメットの所だけフルタイムになっており、一緒に働いているはずの二人のセクサロイドの所は白紙になっている。風俗店であるはずなのに、客の相手をするアンドロイドが一人しかいないというのは、なかなか笑えない状況である。カウンターの所にある端末をいじってみるが、コメットが先ほど相手した男性以外は来ていないようである。そしてこの後の時間に予約も入っていない。飛び込みの客が来ない限り、コメットの仕事は今日はおしまいのようである。
お客さんの入口になっている扉の方へと目をうつす。磨りガラスになっていてよく見えないが、扉のすぐ横にある窓に寄りかかる人影がいるのが見えた。無礼なお客さんもいるもんだとコメットは一瞬思ったのだが、すぐにその影がメアリーであることに気がついた。
扉をそっと開けて、外に出る。夏だということにくわえ、周りのビルに備え付けられたエアコンの室外機が全てこの通りに向けられているため、夜だというのに信じられないくらい暑かった。それもいつものことだから、コメットにとってはどうでもいい。そんなおおよそヒトが居るべきではない場所にかまえられたお店を背にして、メアリーは電子タバコを吸っていた。彼女の口から吐かれた煙が、ビルの隙間をのぼっていく。
「すいません。お待たせしてしまって」
コメットが声を掛けると、メアリーはようやく私が来たことに気がついたようだ。たばこを加えた姿良く似合うメアリーはこちらをゆっくりと振り向いた。
「あまり焦んなくてもよかったのに」
その声はどこか、あまり来て欲しくなかったようにも聞こえた。そっと近づいてきたメアリーは僅かに湿っているコメットの髪にそっと触れる。
「大事な話があると聞いたものですから」
「そうね……そうだったわね」
メアリーが一歩下がり、コメットと僅かに距離を開ける。しかし、すぐに話は始まらない。なにかをためらっているようにも感じる。
「タバコ、吸ってみる?」
口からタバコを外したかと思うと、コメットの方に吸い口を向ける。
「壊れるのは嫌ですから、吸いませんよ」
いつもと同じように、コメットは返した。こんなよりとりもすっかり慣れっこだ。しかし、今日のメアリーはなんだか違う。いつものような冗談じゃなくて、本当に誘っているようにも感じた。しかし、コメットがそれに気がついたのは、誘いを断った後だった。メアリーは電子タバコの火をけして、ポケットの中に押し込んだ。電子タバコ特有の独特な匂いだけが、空気に残る。それを吹き飛ばしてしまうような深い溜め息をついた後、メアリーが静かに話し始めた。
「実はね、今日でもうこのお店も閉めようとおもって」
コメットの驚きは僅かなものだった。部屋でメアリーの声をきいたときから、なんとなくそんな気がしていたからだ。
「ヒトが来ないからですか?」
「それもそうなんだけどね……」
メアリーの頬に涙が伝う。
「今日のお客さんと少し話してたんだけどさ……なんか……もういいのかなって」
「でも、私はまだ続けたいです!」
ヒトに必要とされている。それが一番実感できるのがここでの仕事だと、コメットは信じている。だからこそ、セクサロイドでもないのに風俗店で働いているのだ。だからこそ、どれだけハービーに反対されてもこの仕事を続けてきた。
「それに、あなたにはもっと可能性があるわ。こんな寂れた場所に縛っておくのも申し訳なくてね」
その言葉に、コメットの視界もだんだんと潤んでくる。やがて目から溢れた涙は頬を伝い、入口にしかれた赤いマットを濡らした。
「あんたまで泣かないでよ」
涙を拭うコメットを、メアリーがそっと抱きしめる。その暖かさは、母親のものに近いのだろう。もちろん、コメットはアンドロイドであるから、人間で言うところの親というのは存在しない。それでもあえて親がいるとすれば、メアリーは間違いなく母親だった。戦中という社会情勢が非常に不安定なときから、路頭に迷っていた所を助けてくれた。コメットにはまだ、その恩返しが充分にできていない。
「あなたは、いつでも自由なんだから」
メアリーが言うその自由の中に、このままここで働くという選択肢がないことが、ただただ哀しかった。しかし同時に、メアリーをこのままこの仕事にしばっておくこともまたできないことも、少しは理解している。コメットがどんなに頑張っても、社会情勢だけはどうしようもできない。そのせいで人が来なくなっており、そしてお店を経営しているメアリーが限界だといっているのだから、もうどうしようもないのだろう。こうなってしまった世界を、恨むことしかできない。
「そうそう、忘れてたわ」
そういって、メアリーはポケットから封筒を取り出した。それを差し出されたコメットは、震える手で受け取り、中を覗き込む。
「今月の給料と、退職金」
数えてみると、一千ドルも入っている。それはあまりにも多すぎる金額だった。今月はまだ二人しか相手をしていないため、封筒に入っているお金の大半は退職金だ。いままで一度だって、こんなにたくさんお金をもらったことはない。
「こんなにたくさん……もらえないです」
コメットは封筒をそっと閉じて、メアリーに返す。しかし、彼女は首を振る。
「あなた、真面目に来てくれるし、お客さんからの評判もよかったから、サービスよ」
「でも」
言いかけた言葉を遮るように、メアリーが人差し指をそっとコメットの唇にあてがえる。
「これからの活躍を願って、私からのサービス」
そんな嬉しい言葉まで言われてしまっては、受け取らない理由はない。コメットは封筒をそのまま自分の小さな鞄の中に押し込んだ。
「いってらっしゃい。私はたぶんいつでも暇しているから、何かあったら帰っておいで」
「はい、ありがとうございます」
そう返してみたが、もうここに戻ってくることはないと言うことは、なんとなく分かっていた。メアリーの方も、それは分かっているに違いない。それでも、彼女がそう言ってくれたことが、コメットの背中をそっと押した。高層ビルに埋もれた雑居ビル街を、家へと向けて歩き出した。
いつも曲がる交差点で、一度振り返ってみる。先ほどまで務めていたお店の前にまだメアリーは立っている。振り向いたことに気がついたのだろう。大きく手を振ってくれた。コメットは小さく手をふり、再び歩き出した。