女神様を信仰していたら、聖女として生まれ変わりました
「この地を見守りし愛しい女神。貴女の娘、ティアの祈りをどうか御受け入れください。この者に安らぎをお与えください。」
この世界を見守る女神様、ミーフラウ様の像の前に膝をつき、指を組み合わせる。
女神像の背後のステンドグラスから注ぐ柔らかな光を浴びながら、私は祈りの言葉を捧げた。
私の背後には同じように祈りを捧げる男性。彼は最近、呪いを掛けられた。それはじわじわと精神と身体を蝕み、ゆっくりと衰弱させていく類いのものだ。
最近ということでまだ正気を保っているものの、夜もしっかりと眠れていないらしい彼の目元には隈が出来ていた。
術者が弱く不完全な呪いならば聖女や神父にも呪いを解くことが出来たのに、彼は余程怨まれていたらしい。強く心臓まで絡み付く呪いは人間の手に負えず、女神様へと助けを乞い願う。
(女神様、お母様……この方をお助けください。)
祈りの言葉は形式上必要なだけで、私は心の中で呼び掛ける。
すると組んだ手の内が暖かく光を帯びて、ゆっくりと手を開くとコロンとした丸い形のガラス玉が現れた。
そのガラス玉を男性へと差し出して、「肌身離さず持ち歩いてくださいね。」と告げると、男性は安心した様子でそれを受け取った。
彼を見送って、そっと教会の扉を閉める。女神からは、1日に祈りを受け取るのは3人までと告げられていた。今日は彼で3人目だったのだ。
私はティア、女神ミーフラウの娘だ。
数年前の事。
私は傷だらけの姿で、とある貴族の私有地に転がっていた。
幸いにも命があるうちにそこの旦那様と奥様に見つけて貰って、癒しの力がある旦那様に傷を治して貰えた。
片目が見えない程に潰れてしまっていたのに、すっかり治せるほどに力の強い当主様は、女神様に深く祈りを捧げている方だった。
「……ああ、折角綺麗な緑の瞳だったのにね……。」
私の目は森の緑を映す泉のような透き通ったグリーンだったのに、力の影響で片目が旦那様と同じ夕陽色に染まってしまったらしい。
けれど奥様が「私と同じ緑の瞳と、貴方と同じ夕陽色じゃないの。」と笑ったから、私も嬉しくなってしまった。
そのままこの家でお世話になることになった私は、長く子供が出来なかった二人の娘のように育ててもらった。
女神様と同じ名前よ、とミーフラウという名前まで貰った。
私はその時名前がなくて、本当の親とも逸れてしまったのだ。その内に森に迷い込み、大きな獣に襲われた。
なんとか逃げて逃げて辿り着いた先が、たまたまこのお屋敷だったのだ。
お庭を散歩している時に、ふと綺麗に咲いた花に惹かれて近寄ると、たくさんでなければ摘んでいいと言われた。
一輪綺麗なものを選んで摘むと、それを持って敷地の端にある教会へ向かう。
「めがみさま、おとうさまとおかあさまをおまもりください。」
その頃の私はふたりを親のように慕い、そしてお父様お母様と呼んでいた。
摘んだ花は女神像へ供えて、小さく頭を下げる。お父様もお母様もよく女神様へお祈りしていて、見様見真似で始めた。
「女神様が私たちを引き合わせてくださったのね。」
そういわれたので、女神様にたくさん感謝しなければいけないな、と思った。
2年ほど暮らしていたある日、なんとお母様が妊娠している事が分かった。やっと出来た子供が嬉しくて、ふたりも使用人たちも浮かれていたのを覚えている。
当然私も嬉しかった。だって弟か妹ができるのだ。
「弟でも妹でも、私が面倒を見てあげるわ!」
お母様の膨らんだお腹に頬を寄せると、時々向こう側から蹴っているのが伝わってくる。
とんとんと優しく撫でてあげれば、お腹の中で眠ってしまったのか蹴るのをやめてしまった。
「あらあら、お姉ちゃんはもう立派に下の子の面倒をみてくれるのね。」
幸せだった。
何事もなく産まれてくると、誰も疑わなかった。
その日は朝から慌ただしかった。
お母様がお腹が痛いといって動けなくなってしまった。お医者様がいうには、赤ちゃんがまだ早いのに出てきたがってしまっているらしい。
そわそわとした気持ちからだろうか、なんだか私も具合が悪い。気持ちが悪いような頭が痛いような、変な気分だ。
朝ごはんが食べられなくて、メイドさんからも心配された。
「お嬢様、今日はあまりお食べになりませんね……お母様の事が心配なのかしら。」
その通りよ、と頷いて、お母様のお部屋に顔を出す。
苦しいはずなのに私の姿を見つけたお母様は、私に手招きをしてくれる。
「ミーフラウ、大丈夫よ……ちゃんと赤ちゃんに会えるから、いい子にしていてね。」
「おかあさま、わたしいいこにしているわ。」
いつものようにお母様のお腹を撫でた時だった。
お母様が悲鳴を上げて、ベッドの上で何度も寝返りを打つ。
聞きつけたお父様やお医者様がやってきて、私は怖くなって部屋を飛び出した。
「どうしよう、わたしのせいだわ……!」
私がお母様のお腹を触ったりしなければ、私のせいだ!
そう思ってしまったら、居ても立っても居られなくなってしまった。朝よりも私の具合も悪くなってきているけれど、それどころではない。
お母様の為にできることをしなくちゃ、と思ったら、私は庭に向かっていた。
庭で、綺麗に咲いている花を何輪も選ぶ。いつもは一輪だけにしているけれど、今日は特別だ。
持てるだけたくさんの花を束にして、急いで教会へ向かう。
女神様の足元に辿り着いた時には、頭が割れそうに痛むし、慌てたせいか息切れもひどい。
出来るだけ丁寧にお花を供えて、頭を下げる。
「めがみさま、どうか、おかあさまをたすけて。あかちゃんも、たすけてください!」
頭を下げると、そのままずるずると床に突っ伏してしまった。
失礼な体勢なのに、もう今は座っていられない。お願い女神様、どうか、と何度も祈っていると、私の体がふわりと浮き上がった。
「ミーフラウ、貴女の祈り……確かに聞き届けましたよ。」
優しい声に、柔らかな腕の感触。
ああ、女神様に届いたんだと安心すると同時に、とろりと溶けていくように意識が薄くなってしまう。
お母様のものではない女神様の掌が、優しく私の頭を撫でる。
このまま目を閉じてしまったらもう目が覚めない事が何となくわかって、最後に会いたかったな、と思った。
夜、逸れた本当のお母さんや、追いかけて来た大きな獣を思い出して泣いてしまった時、「大丈夫、お母様がいるわよ。」
そういって優しく抱き締めて一緒に眠ってくれたお母様。
ご飯の前なのにお腹が空いて我慢出来なかった時、机の引き出しからクッキーを取り出して、
「お母様には内緒にしようね。」
そういって一緒に食べてくれたお父様。そのあと二人揃ってお母様に叱られてしまったわ。
いつも元気よくお母様のお腹を蹴っていた赤ちゃん。あの子とも、たくさんお話したかった。
「お母様も、お父様も……弟も、きっと大丈夫ですよ。さあ、ゆっくりおやすみなさい。」
弟、あの子は弟だったのね。みんな大丈夫ならそれが一番いい。
わかりました、と返事をして目を閉じる。
痛くもないし苦しくもない。私は、女神様に連れられて天へ向かった。
その日の夜。早産だったものの、母子共に無事だった事を喜ぶ声ばかりがあがる屋敷の中。ぽつりと上がる、私のミーフラウは?と呼ぶ声。
朝具合が悪そうだった、と聞いて慌てて屋敷の中を探しても姿が見つからない。
もしかして、と思い浮かんだ教会に向かうと。
「……ミーフラウ……!」
きっと小さな体でかき集めただろう庭の花が、何輪も女神像の足元に置いてある。いや、置いたのではなく彼女が供えたのだ。
自分を真似ているだけだと思っていたのに、彼女は彼女なりに本当に祈りを捧げていたのだと、初めて気が付いた。
花に囲まれた体を、そっと掌に掬い上げる。
「ミーフラウ……君が、女神様に祈ってくれたんだね。」
溢れ出る涙は、ミーフラウの柔らかな白い毛に吸い込まれていく。
冷たくなった一匹の猫の口元は薄く開いて、満足そうに笑っているようにも見えた。
気付くと私は体がなく、ぽわぽわと光る玉になって浮いていた。
周りにも幾つか同じような光る玉があって、おしゃべりをしているように揺れたり震えたりしている。
「あら、お目覚めね?」
聞き覚えのある声は女神様だ。
そちらを向くと、女神像と同じ姿の女神様が座っていた。
女神像は足元に引きずるくらいに長いプラチナブロンドの髪に、金の瞳。柔らかくて優しくて、見ているとなんだか泣きそうになってしまうようなひとだった。
「あの、私……。」
「貴女はあの教会で亡くなったわ。たくさんお祈りしてくれたから、天国へ案内したのよ。」
「天国……。」
正直、猫だった私に女神様や天国といったことはよくわからなかった。けれども此処がいい場所だというのはわかって、小さく頷く。
そんな私に女神様は笑って、頭を撫でてくれた(体がないのに頭に触られたな、という感触がした)
「ねえ貴女、折角だから人間に生まれ変わってみない?」
唐突な言葉に、私は猫の体のままだったらピンッと尻尾が立っていたと思う。
そんな様子を感じ取っているのか、生前の姿が見えているのか、女神様はくすくすとおかしそうに笑っている。
「今ね、丁度聖女が足りないの。私を信じてくれて、お祈りしてくれる子なら、その資格はあるのよ。勿論、猫でもね。」
人間になれる。
考えた事もなかった。私は猫でも幸せだったし、お父様とお母様と話が出来なくても、それでいいと思ったからだ。
「っふふ、そうかもしれないわね。流石にあの夫婦の子供にはしてあげられないから、そうねえ……人間には親が必要だから、私の娘として、あの国の教会に行けるようにするわ。」
名案だ、と女神様は一人で決めてしまった。私はどうしていいかわからないままに話は進んで、人間としての知識を与えられていく。
あまり詰め込むと可哀想だから、と言って12歳くらいの知識と、体。聖女としての力。真っ白な髪と、緑と夕陽色のオッドアイ。生まれ変わった姿を見てすぐに大泣きして女神様に抱きついてしまった。
今度の私はティア、12歳。聖女。母が女神様なのは内緒で、孤児として教会に預けられていたという設定になった。
女神様に似た姿と強い力のせいで……と言っておけば向こうが勝手に想像するから、と笑った女神様を信じていいのか、少し不安だ。
私の不安をよそにとんとん拍子で話が進み、私はこの国でも比較的大きな教会で暮らしている。
強過ぎる力は争いの元にしかならないと神父様はお考えで、私が女神様と会話(神託と呼ぶらしい)出来て、たくさんの力を使えるのは一部の人しか知らない。
女神様の御力をお借りする時、教会にある女神像の近くでなければ私たちの声は届きにくい。
聖女は癒しや祓いの力を使い、足りない分を女神様からお借りする。
癒す力だけならば聖女でなくとも使え、旦那様もその力を持っていた。
悪しきものを祓う力だけは聖女にしか扱えず、本人の力が強くない場合は、どれだけ女神様と会話が出来るかによって力の強さが変わる。
3人までというのも作戦のうちだ。本当なら私の力はまさしく女神様譲りなので、たくさん使うことが出来る。
ガラス玉も役目を終えると粉々になって消えてしまうし、ガラス玉がなければ私は聖女の力が使えないと思わせるのも作戦らしい。
「今日は早く終わってしまったから、護衛の方もお時間あるでしょう?お外に出てもいい?」
悪い人に狙われては困るからと、聖女は中々外出させて貰えない。
今日の仕事は終わったけれど、私についた護衛は夕方までいる筈だ。
神父様に相談すると、お出掛け用の大きなフードが付いたコートを出してくれた。
「必ず、護衛の方から離れてはいけませんよ。」
「ありがとうございます!」
早速コートを着ると、大きなフードを被る。
このフードで少し珍しい色の髪や目を隠すのだ。聖女として教会にいるときには、顔が見えないようにベールを被っている。
フードにはまやかしのまじないがかけられていて、少しはみ出る程度なら茶色の髪と茶色の目に見えるようになっている。
今日の護衛は若い男性で、サウルという。腕っ節が自慢です!と笑って力瘤を見せてくれたことがある。
他にも出来ることはあると思うけれど、詳しくは知らなかった。
教会は誰でも利用出来て、基本的にお金が掛からない。お茶やお菓子を食べながらちょっとした休憩をとったり、お喋りをしたり。だからといってたくさんの人が住んでしまっては困るので、きちんとした食事や宿泊は出来ない事になっている。門が開く時間も決まっているのだ。
傷や病気を癒したり、悪しきものを祓ったり、そういった特別な力を必要とする事に対してはお金を受け取っている。
困っている人を助け、女神様に祈り、自らも女神様に助けられる。そんな人たちだけが教会に住む事を許されていた。
孤児院と併設されているところもあるようで、私が元々育ったのはそういう教会ということになっている。
此処は大きな街なので、教会と孤児院は別々になっている。教会は利便性も重要とされ、そこそこ栄えた通りに建てられていた。
「サウルさん、おやつを買いに行ってもいいですか?」
聖女といっても、質素倹約を求められたりはしない。
聖女が心安らかに、そして豊かに(贅沢とは違うらしい)暮らす事で、周りの人が安心できるのよ、と女神様が言っていた。
過度に贅沢な暮らしをするとすぐに女神様に見つかって、その教会では女神様の御力を授かれなくなってしまうとは、神父様のお言葉だ。
「お供します。」
にこにこと笑ってサウルさんが頷くのを見ると、お気に入りのお菓子屋さんへ向かう。
お菓子屋さんからは甘いいい香りが漂っていて、入り口で大きく息を吸い込んだ。
「いらっしゃいませ!」
元気よく迎えてくれる店員さんに軽く頭を下げる。店内が狭いので、サウルさんは入り口で待機だ。
私は干した果物やキャンディ、クッキーを手に取っていく。色んなお店(と言っても私のいける範囲は少ない)のクッキーを試して、ここのクッキーがあの時の味に近い気がした。
包みを3つに分けてもらうと、お金を支払ってお店を出る。包みのうち1つは自分用、1つはお土産。
そして待っていてくれたサウルさんに1つ包みを渡すと、驚いたように目を丸くしている。
「これは今日のお礼です。教会の外まで着いてきてくれて、ありがとうございます。」
「いや、参ったな……俺も仕事ですから。」
そういいながらもきちんと私の気持ちを汲んでくれて、包みを受け取ってくれる。
サウルさんの包みには栄養価の高いナッツも入れてもらってあったので、包みを渡す時にナッツの揺れる音が聞こえた。
「じゃあ、またお買い物に付き合ってくださいね!」
私の分の包みもサウルさんが持ってくれて、両手がまだ空いている。今日はもう少し買い物をしていこうかな、と思って通りを歩いている時だった。
「危ない!」
誰かの叫び声がした。えっ?と思うよりも先に馬のいななきが聞こえ、次いで何かがぶつかるような、地面に落ちるような大きな音がした。
私が驚いて足を止めると、サウルさんが私を庇うように前に出る。
その大きな背中から辺りを窺うと、少し離れた所で暴れる馬とその足元で倒れた男の子の姿が見えた。
「大変!あの人踏まれてしまうわ!」
馬車に繋いでいた馬が暴れて逃げてしまったのか、更に離れたところに馬車と、そこから走ってくる御者の姿があった。
興奮し暴れている馬の足元で倒れた男の子は、既にぶつかられてしまったのか起き上がる気配がない。
助けようとする人の姿もあるが近寄れずにいるようだった。
「お嬢さん!」
私はサウルさんの左側を全力で走って抜け出すと、真っ直ぐに女性の方へ向かった。
慌ててサウルさんが引き留めようとしたけれど、上手くその脇を通り抜けられた。右利きの彼は剣を抜く為の右手しか空けていないのだ。
「暴れちゃ駄目!」
「大人しくして欲しいのはお嬢さんの方ですよ!」
あっという間にサウルさんに捕まってしまったけれど、大きく声を張り上げて馬に呼びかける。
すると私の声が聞こえたのか、まだ鼻息は荒いものの暴れるのをやめて此方を向いた。
「大丈夫よ、私がお話を聞いてあげるわ。」
馬が大人しくなる様子と私とを見比べて、街の人までも静かになってしまう。
ゆっくり馬に近寄って行くと、今度はサウルさんも一緒に着いてくる。
手を伸ばして馬の首筋に触れると、馬は何度も訴えるように鼻を鳴らした。
私は元が猫だったからか、動物の気持ちが理解出来た。
猫であれば完璧に。そのほかの動物は種類にもよる。馬は前に住んでいた所にもいたので、よくお喋りをしていたから大丈夫だ。
ふんふんと頷いてそのまましゃがみ込む。
大人しくなったとはいえ馬の足元なんて、とサウルさんは止めたくて仕方がないようだったけれど、気付かないふりをした。
「何か踏んでしまったのね。」
よく見ると足元の土は血が付いたのか黒く色が変わっているところがある。
怪我をして驚いて、それから痛くて痛くて動き回ってしまったのだという。
「すぐに痛くなくなるわ。」
馬の足元で膝をついて、傍に倒れている男の子の様子を窺う。うつ伏せになった背中はゆっくりと上下に動いていて、呼吸しているのが分かる。
私はお母様譲りの力のお陰で、死者の魂を呼び戻す以外ならば殆どの治療が可能だ。幸いにも試す機会がなかった為に胸を張っては言えないのだけど。
私は普段のお祈りと同じ体勢を取った。
手を組んで目を閉じて、痛みが無くなりますように、怪我が治りますようにと願えば、じわじわと暖かな光が馬と男の子の足元に広がった。
「綺麗な光ね……聖女様のようだわ。」
近くにいた女性が呟くと、次々と街の人が喋り出し、辺りは次第に賑やかさを取り戻していく。
癒しの力ならば聖女以外にも扱えるのでバレにくいが、万が一聖女だと気付かれてもまずい。
サウルさんが差し出した手に捕まって起き上がると、スカートに付いた土を払い落とす。
その間もサウルさんは周りの様子に気を配り、これ以上騒ぎが大きくなる前に此処を抜け出そうと考えているようだ。
「坊っちゃん……!」
声を掛けるタイミングを窺っていたのか、御者と身なりの良い男性が駆け寄って来る。
御者は馬へ向かい、私達は男性が男の子へと近寄りやすいように少し後ろへ避ける。
「お嬢さん、行きましょう。」
「そうね……!もし気付かれてしまったら、私外出出来なくなってしまうわ!」
心配性の神父様のことだ。この事が耳に入ってしまえば、外出してはいけませんと言うに違いない。
サウルさんと一緒に人の隙間を抜けて走り出す。
何人か引き留めるように声を掛けて来た気もするけれど、私は悪い事をした訳ではない。
走ってまで追いかけて来る人もなく、念の為いつも通らない道を選んで教会へ帰った。
それから2週間が過ぎた。
幸いにも特にあの日の事は耳にしていない。やってくる患者さんやお祈りをしにくる方のお喋りの話題といえば、何処のお坊ちゃんが結婚したとか、何処の店のご飯が美味しかったとか、そんなものだった。
「ティア、こちらへ。」
私も今日のお祈りを終えて、近所の奥様たちのお話の話に加わっていた。此方のグループの話題は、とある奥様の若さの秘訣についてだ。
そんな女の集まりに近寄りにくそうに少し離れたところから神父様が手招きをしている。
奥様たちに手を振って、私は神父様の傍までやって来た。
「はい、どうかしましたか?お掃除ですか?」
「そうではないよ。君にお客様がいらっしゃっているんだ。」
私を訪ねてくるお客様なんて、こうした話し相手の奥様や近所の子供、わざわざお礼を言いに来てくれる人。それくらいだ。
心当たりがなくて首を傾げながらも、神父様に促されるままお客様用の応接室へ向かった。
部屋の扉をノックすると、「どうぞ」と女性の声がした。
失礼します、と声を掛けてゆっくり扉を開くと、まず目に入ったのは男の子の姿だ。
髪の色や背格好が先日助けた男の子に似ていて、これはバレてしまったのだと察する。
そのまま扉を閉めてしまいたかったけれど、声の主の姿は見えないから男の子の向かいに座っているのだろう。流石に失礼だと思って、意を決して扉を大きく開いた。
「貴方がティアさん?」
私の名前を呼ぶ声が、ひどく懐かしい。
予想通り、声の主は男の子の向かい側に座っていた。
ベール越しにでも分かる、優しく揺れる緑の瞳。笑みの浮かぶ口元には薄い皺が増えていて、あれから少し時間が経ったのを表していた。
「……お、かあ、さま……。」
ぽとり、と大粒の涙が胸元に落ちて、布に弾ける音を立てる。
ぽとり、ぽとりと落ちる雫は抑えられず、ついに私は両手で顔を覆ってしまった。
「まあ、急に訪ねてしまったから……。」
驚かせたと思ったのだろうか、慌てたように席を立つ気配がする。
そのまま此方へ近付いてきて、すぐ側で立ち止まったのが分かる。
「息子を助けてくださったお礼がしたくて訪ねて来たのだけれど、また改めて伺いますね。」
行きますよ、と男の子に声を掛けている。神父様も近くで様子を伺っていたのだろう、そちらへも声を掛けているのが聞こえる。
「待って……!」
慌てて手を退けたせいで、ベールに爪の先を引っ掛けてしまった。
気付くと布は足元に落ちていて、視界の端に髪が映る。きっと髪はぐちゃぐちゃになっているし、それ以上に顔もぐちゃぐちゃだ。
声を掛けられて驚いたのか、動きを止めた女性と目が合う。優しい緑は瞬きを忘れてしまったように、じっと私を見つめている。
「ミーフラウ……?」
よろよろと覚束ない足取りで再び此方に近寄って来る。
その間も私はぼろぼろと泣いてしまっているけれど、今度はしっかりと女性の事を見ていた。
「……あ、の……わたし、」
違います、と言わなくちゃ。
猫だった私が人間になったなんて、信じられないはずだ。きっと目の色が似ているから、少し動揺しているだけだ。
でももし、私の事がわかるのなら。そんな淡い期待に、目が離せなくなってしまう。
「……私の娘はね、言いたい事がある時はじっと私の事を見つめてきたの。」
すぐ手の届く距離までやってきて、ゆっくりと口を開く様子も懐かしい。私に言い聞かせるように、例えば何かを教える時や諭す時には、そうしてわざとゆっくりと話し掛けてくれたのだ。
上手く返事が出来なくて、そっと一歩後ずさる。
「それでね、あっ、これは都合が悪いなって思うと……そうして、右足を少し引く癖があったわ。」
ああ、この人はもう全てお見通しなんだ。そう思ってしまうと、もう我慢なんて出来なかった。
「おか、っおかあさま……っ!」
堪らなくなって、胸に飛び込む。
甘くて安心する匂いは間違いなくおかあさまのものだ。
綺麗なドレスが涙や鼻水で濡れてしまうのも気にせず、おかあさまは私を抱き締めてくれる。
「ミーフラウ……っ私の、可愛い娘……こんなに素敵な女の子になったのね。」
背中に回していた腕を離すと、おかあさまの手のひらが私の両頬を包む。
間近に見たおかあさまは私に負けないくらいに泣いてしまっていたけれど、あの頃と変わらない優しい笑みを浮かべていた。
「おかあさま、っごめん、なさい……!おかあさまと、あかちゃん、私が、っなでた、から……っ。」
ごめんなさい、とわんわん子供みたいに泣きながら謝ると、今度は優しく頭を撫でられる。
ぐちゃぐちゃな髪を丁寧に指で梳かれる心地よさに気持ちが少しだけ落ち着いた。
ずっと戸惑ったように私たちを見ていた男の子に手招きすると、私と一緒に抱き締めた。
「ミーフラウ、この子は貴方の弟よ。貴方は2回もこの子の命を救ってくれたのよ。」
何が何だか分からない様子だった男の子が、それでピンときたのだろう。ぱっとお日さまみたいに笑うと、おかあさまの腕を抜け出して紳士のようにお辞儀をした。
「お姉さま、貴方のお話をずっと両親から聞いていました。僕のために、女神さまにお祈りしてくれてありがとう。」
「貴方のせいじゃないのよ、ミーフラウ。貴方のお陰で、私もこの子も元気に暮らしてきるわ。」
「そうですよ!お姉さま、直接お礼が言えるなんて夢みたいです。」
2人にそう言われて、やっと体の力が抜けた。
少し落ち着いた涙は引っ込むどころかまた溢れ出して止まらず、何となく事情を察し始めた神父様に宥められて、その日はそのまま2人とも帰っていった。
今度はお父様も連れて来ますね、と笑っていたのでそんな日も遠くないと思う。
あれから、まずは私の今のお母様とお話をした。
「貴方はよっぽどあの家族と縁があるのね」と笑っていたお母様は、おとうさまとは少しお話が出来るかもしれないから次は女神像の近くまで来て欲しいと言っていたけれど、実際はまた皆んなで大泣きしてしまった為に次の次まで持ち越されてしまった。
おとうさまは帰宅したおかあさま達から話を聞いて、次の日にでも会いに来たかったみたいだけれど、お仕事の都合で1週間後に会いに来てくれた(その間、おかあさま達は3回会いに来ていた)。
「ミーフラウ、君とこうして話ができるなんて夢みたいだよ。」
撫でてくれていた大きな手の平は、少しだけ皺が増えていた。ぎゅっと抱き締めて貰うのは初めてで、嬉しいのと恥ずかしいのとで真っ赤になってしまったのはおかあさまに笑われてしまった。そしてその後に揃ってわんわん泣いて、また神父様に宥められたのだった。
それから何度か会う内に、弟だと思っていた(実際生まれ変わりの時期の関係で、あちらが年上になっていた)男の子が成長期を迎えて私よりずっと年上っぽくなったかと思えば、「貴方を姉以上の、女性として慕っています。」と告白されてしまった。
お母様なんて「養子にあげるつもりはないけど、お嫁さんになるならいいわ!」と喜んでいるし、おとうさまもおかあさまも「また私たちの娘になってくれる?」と乗り気だ。
私はといえば。
「……姉弟じゃなくて、突然恋人になるのは追いつかなくて……お友達からでもいい……?」
実質4対1の私があっという間に恋人になって夫婦になって、本当の家族になるまで、あとほんの少し。