8 霊世界のささやき 呪い
チエは、心を落ち着かせることができたと思った。廃寺の本殿は、チエにとって安心できるもののように思われた。ガランとした暗い空間の入り口に入り込んだだけだが、それでもチエはその本殿の内空間に響く呪文のような通奏低音に包まれた。
ナム からたんなあ たらやーやー
ナム ありやーばあ りょうぎゃあてい
ちい しふらーやー ふじさーたあ
ぼー やー
まかさた ぼーやー
まかきゃー るにきゃー
やー オン
チエの目は次第にその暗闇に目が慣れてきた。と同時に、差し込み始めた秋の月明かりが、その空間の奥に横たわる物体を照らし始めた。それはおびただしく収容された人間たちの横たわった無言の姿。
「この人間たちは・・・・」
後ろからアサトの思念が声をかけてきた。
「これは、うつつより抜け出ることができた人間たちだ。うつつは空なるもの。そこからこの時空に逃げ込めば、寂静、すなわち涅槃へと入ることができる」
「うつつ、つまり現実の時空からここへ・・・・。つまりあなたが連れ込んだの?」
「正確には、シッタルから数えて100代目の俺になるまでに救われた人間たちだよ」
「寂静・・・・涅槃・・・・。それって・・・・」
チエは、はるか昔のことを思い出した。寂静が全てを明めることの先にあることを。
「あきらめること・・・、でも私はそのことに裏切られてきた。私のお父さんは、それで死んだのよ。私も死にゆくわけ?。」
「問題ないよ。何が問題なわけ?」
「生きることではなく死ぬことになるわけ…?。そんなのおかしいわ」
「平さん、素直になりなよ」
「私は嫌!」
「拒むなら、衆羅たちに教えてもらうんだね」
その途端、チエの周りを守っていた神殿は消え去っていた。それと同時に、チエを囲む異形の者たち。彼らは衆羅たちだった。
衆羅は、しばらくチエを見つめた後、次々に口を開いた。
「俺たちは、ずっとこの女を見ていたぞ」
「この女は、俺たちの前で肌を晒した」
「この女は、一糸も身に着けずに、踊っていたぞ」
「この女は、生まれた時から男たちを手玉に取っていた」
「そうだ、そうだ、この女は複数の男たちに言い寄らせ、手玉に取っていた」
「俺は知っているぞ。この女は幼い時も父親を死なせたから、男を精神的にも殺すやつなんだ」
「この女は母親も死なせたんだ。そんな女だから、男たちを誑かす悪魔の女」
「この女は母親を身代わりにして助けられているんだぜ」
「そうだ、この女はあのユウトとかいう男に囲われているんだ。きっとあの男を誑かしているんだ」
ついには、衆羅はチエを囲みながら、蔑みを公言し、生きる資格がないと攻め立て続けていく。
「なぜ、そんなに私を責めるの?。なぜそんなに私を悪く言うの?」
チエは勇気を振り絞って叫んだ。しかし、衆羅の声はやむどころが、強くなっていく一方だった。
「それはお前がお前だからだ」
「それは、お前が目障りだからだ」
「それは、お前みたいなやつが生きているからだ」
「それは、お前が見にくいやつだからだ」
「それは、お前が言うことを聞かないからだ」
「それは、お前が俺たちに反対したからだ」
チエは、耳をふさぐのだが、衆羅たちの声は頭の中に響くばかり。チエは、やみくもに走り出した。どこに行くのかわからずも、ただその場から逃げ出したかった。いやな衆羅たちを避けるため、いやな悪口から離れるため、何より弱い自分から逃げ出すためだった。そして、チエは自暴自棄になりながら衝動的に崖の上から身をひるがえした。
「平さん、待って!」」
ユウトはチエの衝動を予測していた。チエを見出したのがちょうどチエが身をひるがえしたところだった。ユウトは、寸でのところで気を失ったチエを黄土のストールで受け止めた。
「この人を自殺に追い込むとは。お、俺の大切にしている平さんを…。お前たち、これが何を意味するかを知っているんだろうな。自由を奪い、追い込み、傷を負わせ、さらに叩き続けるとは。俺は今心が冷たく冷え切っている・・・。俺の普段の思いは、平さんへの思い。それはいつもは熱い・・・・。だが、アサト、そしてその眷属たちよ。お前たちに相対する俺の心は、首先に突き付けた切っ先のように冷たく鋭い思いが渦巻いている。・・・ゆるせぬ。必ず天によって復讐が果たされようぞ」
崖下に落ちたチエは、再び黄土のストールで自らをくるみながら、指先ほどもないユウトを見つめた。
「疲れちゃった。私にはどうしようもないわ。もう気力もない。誰も助けてくれない。私はまた孤独になっちゃった」
ユウトは、チエの声を聴きながら尋常ではないチエの気持ちを汲み取った。
「でも・・」
「もう、私は力がないのに…。どうすればいいのよ」
「もう少し頑張れば・・・」
「もう疲れたの・・・・。誰も助けてくれない。」
「こうやって、俺はそばにいる・・・」
「でも、私はあなたの前で肌を晒した」
「あれはしかたがなかった・・・」
「私は、一糸も身に着けずに・・・・」
「いや、あれは仕方がなかったんだ」
「私は、男たちを手玉に取る女だそうよ。もうけがれている悪魔の女、あなたを誑かしているんだわ」
「そんなことはない、俺がそのことをよく知っている」
「だから、それが何なの? 意味がないわ。もう、ほっといて!」
「・・・」
「私は、ここで生きるのをやめるのよ」
「だが、俺は言い続けるよ。生き続けなければ…」
「なぜ、とめるの?」
「君は、俺にとってかけがえのない存在だ」
「でも、私、疲れちゃったのよ。もうこの世のいざこざに嫌になったわ。
「しかし、それは…・君を強くすることになるから…」
「ああ、そうでしょうね。でも私は耐えられないの。もうたくさん・・・」
「・・・・・」
「何も答えられないでしょ。私はあなたにとってそんな程度の存在よ」
ユウトは継ぐ言葉を失った。
しばらくしてユウトは言葉を重ねたのだが、チエは黙りこくったままだった。今、チエの心は、自殺に取り付かれていた。これこそが、叡智によってアサトに与えられた画策、アサトの狙っていたことだった。これでチエがアサトのものになる。チエを涅槃に導き入れてしまえば、チエはアサトのものだった。それが、自殺にしてもほかの死にしても・・・・・。
チエはそのまま手に取った木の枝を自らの首に突き刺そうとした。ユウトは、チエが自らの身に向けた切っ先をその小さな体のままで受け止め、チエの自殺行為を食いとどめた。その時、チエはわれに返った。チエの握った木の枝の切っ先に突き刺さったままのユウトの姿があった。ユウトの血潮がチエの手の指の間から流れ落ちる。その血潮とともにチエは目覚め、今自分がどこにいるかを見出した。すべての幻覚が消え去り、チエは鞍馬寺から降りていく道、ヘリコプターが去った後の道に佇んでいた。と同時に、チエの腕の中に倒れているユウトも見出した。