7 恐怖迷路
闇にまぎれてチエの後ろから近付いていた生霊、それは赤く灯るユウキの巨大な顔。それが、般若の顔へ変化して襲い来る。チエは、それを避けながらユウトの広げた黄土のストールの陰に隠れた。それを何度か繰り返したところで、チエは恐怖に囚われた悲鳴を上げた。生霊がチエのかばんを蹴飛ばし、恐怖がユウトを吹き消し、チエは暗黒の針葉樹林の中に一人残されてしまった。
チエを襲うユウキの生霊は容赦がなかった。般若となった際の角でチエの腕を突き刺し、脚を突き刺し、心を突き刺した。今、チエの心は恐怖でいっぱいになり、冷静な考えは一切消え去っている。ユウキの生霊を追ってきたアサトの思念は、それを見ながらユウキを押しとどめようとした。
「やりすぎだ。平さんをそこまで追い詰める必要はない」
「アサト、いまさら何を言うのか? この女があたしを陥れたんだといったのは、あんただよ」
「それは・・・・・」
「あたしの恨みは必ず晴らすんだ。たとえアサトでも邪魔するなら許さないよ」
「お前、このままだと滅ぶぞ」
「何が滅びだよ。あたしはこの力を存分に使わせてもらう」
「その力が何から由来するか知っているのか」
「ああ、知っているよ。構うもんか。あたしは恨みを絶対に晴らすために生きているんだ」
「まあ、今は待て」
「いやだね。納得するまであたしはやるんだから」
ユウキの生霊はそのままチエを追い立てながら、針葉樹林の中をゆらゆらと進んでいった。
・・・・・・・・
摘まみ上げられたユウトは、大声でチエに一生懸命に伝えようとしていた。
「チエの安全が俺にとっては大切なことだから…」
「だからって、…私を・・・・私の…を見続けていたわけ?」
「もう、私、どうしたらいいの?」
羞恥心がチエの注意力をそいでいた。ユウト自身も詰問されて周りへの警戒を怠っていた。そこへ突然の生暖かい大風。振り返った小さなユウトを横目でにらみながらチエの方へと襲い来たのは、般若の大きな顔だった。
ユウトを見失ったチエは、道のない木々の間を、赤く反射する般若の顔面と角に追い立てられながら、ひたすら駆け下りるしかなかった。
「先輩!」
「恐怖は守り手を消す。恐怖に囚われてはいけない」
小さなユウトの声は、もうチエに届かなかった。チエは恐怖に顔をゆがませて転がるように駆け下りていく。そして、チエのいく手には崖しかなかった。足を踏み外し、気を失ったチエ。しかし、そこにユウトの投げた黄土のストールがチエの足元を守った。チエは、気を失いながらも生霊から逃げおおせていた。
ユウキは、般若と生霊の姿を交互にしながら、まだ辺りをめぐり動いていた。
「おのれ、平チエ。キョウコとカズキを糺そうとしたあたしたちを邪魔し、あたしたちのバイクを廃車にしやがって…・」
アサトの思念はあきれながら指摘した。
「それは、お前の逆恨みだ」
「あんたは黙っていろよ。 恨みを買うやつがいけないんだ。平チエ、このまま祟り呪い殺してやる」
「お前、それは行き過ぎだ。やりすぎだ。このままと言うなら、俺とたもとを分かつことになるぞ」
「アサト、あんたはあたしの双子の片割れにすぎないよ。そこまで言うなら、あんたの言うことなんざ一切聞かないよ」
ユウキは、暗闇の中、戸惑うアサトの思念から離れていった。
「あいつ、まだその時ではないのにあの方を呼び出すのか? 明らかにまだその時ではないはずだが・・・・」
アサトは、羅睺星を見上げながら心配のまなざしを向けた。
ユウキが行き着いたところは、アサトが立ち寄る叡智の招来神殿とは異なる教令身の神殿だった。
「教令身様。今こそお立ちになる時です。さあ、いまこそ…・」
「誰だ。われのしばしの平安の時を乱すものは?」
「教令身様…。今こそ…」
「教令身とな? わが名を知らぬまま我を呼ぶのか?」
「はは、さあ、いまこそ」
「愚か者。お前は依り代か。やはり違うな・・・今はまだその時ではないわい。お前は下がれ」
「でも、あなたの力づくによる涅槃に放り込むべき人間がいます。あなたのお出ましを願うものです」
「くどいな。お前は嫉妬からここに来たのではないか」
「嫉妬? それはなんですか?」
「言い直すと『やきもち』だ。 お前はわれを私情によって動かそうとすることは、明らかだ」
「違います。これは反撃です。かたき討ちです」
「ほほう、反撃、敵討ち・・・。なんのための・・・・?」
「私、そしてアサトの率いるチームの秩序を乱した者たちを追い詰めたのに、邪魔をした者がいたのです。その女、平チエは、あたしの、アサトの仇です。それを打つのがあたしの目的です」
「平チエ、確かに我も知っておる。しかし仇を打てば、必ず反撃のために襲い来る者がいるぞ。しかも、それはわれらの敵でもある。しかし、われらはまだ準備ができておらん」
「でも、あなたは教令身様です。あなたの時が近いはずです。そうアサトから聞いています」
「それならば、ふさわしい時があることを知るべきだ。今は違う」
「でも・・」
「くどい。下がれ」
教令身は大声とともにその姿を再び消した。
「なんで、あたしのいうとおりにならないのさ…」
ユウキは怒りのまま神殿を去っていった。
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チエが意識を取り戻したのは、崖下の針葉樹林。ユウトは崖の上から黄土のストールを投げてくれたものの、ここまでは来ることができていないようだった。
「ここは・・・・」
チエはようやく身を起こし、周りを見渡した。星明りが辺りを照らすものの、杉林の下は暗闇のまま。その針葉樹林の中に、まだ道らしいものを見出すことができていない。谷あいの川筋を目指すしかなかった。暗闇の中、流水の音とともに、ごとごとという音、そして明かりが見える。チエは、その明かりを目指して降りていった。
その後ろに、再び赤い巨大な角が二本現れた。それは、ユウキの変化した般若の角だった。赤く光る巨大な顔とその二本の角のまま、チエに襲い掛かろうと追って来ていた。
「平、ここにいたのかい。もう逃がさないよ」
チエは、再び恐怖に囚われて、ひたすら川の筋へと駆け下りていった。その先に明かりが見えたから・・・・。
目指した建物は、家ではなかった。あかりと見えたもの、それは廃寺に灯された灯明。誰もいない。灯明の横には線香と捧げ物らしい米が残っている。線香の長さと米の暖かさとから見て、先ほどまで誰かがいたはずである。すでに山の中で数泊過ごしている身からすれば、廃寺とはいえ屋根のあることはありがたいことだった。その上、誰かがいるのであれば助けてくれることにもなる。チエはすがる思いで誰かが来ることを待った。
その外を般若が動き回る。ただ、廃寺の中へ入り込むことができないらしい。チエはその様子を見てひと安どしていた。そこへ来た主。それは、まさかのアサトだった。
「お待ちしていましたよ。ここはあなたが一時的とはいえ、心を休ませられるところとして用意していたものです。」
チエはアサトが告白してきたときのことを思い出していた。チエは交際を断ったのだが、それにもかかわらずに目の前のアサトは嫌悪感を持っていないように見える。
「私は、あなたの妹にここまで追い込まれてきたのよ」
「だからこそ、もう追われることがないように、ここに逃げ場所を用意したよ。ここならば、もうあの般若が来ることはないから」
アサトはチエに断られたことを思い出した。断られたことは、彼にとって諦めに通じるはずなのだが、アサトにとってチエはいまだこだわりの対象だった。そのうえ、彼女がこの世にいる限り、アサトは涅槃との行き来の能力を得ることが有限だった。それを叡智に指摘され、チエを涅槃に連れ込む算段を重ねてきていた。