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5 迷いの道と巨木神殿

 チエは一人のまま待ち疲れてしまった。あきらめたように立ち上がったチエは、ふたたび巨大な針葉樹林の中へ進んでいく。すでにチエは背が二十分の一ほどの大きさにされていた。それゆえに、先ほどまでそれほどに感じていなかった杉の木がすべて、巨木に見えている。


 この細いけもの道はどこまで続くのだろうか。奥へと進むうちに、遠くの蹄の音が不気味に響く。その尾とは振動となって次第にチエの背後へ。明らかにその蹄の音はチエの後を追っている。それは蹄鉄のある馬のそれではなく、豚の足の音。正確には豚ではなく猪の音。呪われた穢れた獣に違いなかった。

チエはようやく巨大な倒木の空洞へ逃げ込むことができた。その巨大な倒木は、まるで獣が臥せっている姿に見える神殿だった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 初秋の9月。新小岩高校の修学旅行は、三日目。皆が待っていたグループごとの行動日だった。孤独なチエも誘ってくれた者たちがいた。そうして三人、カズキと山梨ヨウコとチエが訪れたのは、叡電の終点の駅から少し上がりこんだ寺院のはずだった。

 広々とした前庭を抱いた正殿。その左手をさらに奥へ進み、奥の院。そしてさらに奥へ行く道があった。その道は、チエのパンフレットにのみ載っていたもの。ほかの二人のパンフレットに載っていなかったのだが、先導役のチエがほかの二人を引っ張っていたため、皆は疑問に感じずにその道に入り込んでいった。そして・・・・・チエたちがそこへ入り込むと道は消えた。そのあとを誰も追うことができなかった。


 その先からは貴船神社まで坂道のはずなのだが、これほどの荒れた坂道なのだろうか。まるで転げ落ちるような岩ばかりの谷のどん底を三人は降っていく。いつのまにか周りは針葉樹の巨木の森。三人がそろって腕を回しても十分の一にも届かない杉の巨木。三人がそれを縫うようにして進んでいくと、その巨大な杉の葉が初秋の風にゆっくり揺れる。・・・・まだ貴船神社に着かない。終バスが早いから、焦る気持ちが三人を無口にした。いけどもいけども、道は坂道を下がっていく一方。それでも、神社はおろか、人家や谷川すら見えない。

「もう終バスに間に合わないんじゃない?」

 ヨウコが半ベソをかき始めた。足にけがもしている。カズキは、それを労るように声をかける。

「いざとなれば、タクシーを呼ぶよ」

 だが、車の来るような道はおろか、人間の手の入った道はまだ見えない。すでに暗闇が辺りを覆い、移動することが危険な状態だった。カズキはヨウコを慰めながら、持ち合わせていたたばこ用のマッチで見繕った焚火を設けた。こうして三人は、次の日を待った。


 次の日の未明、大風の巻き上げる枯葉と土ぼこりの舞う荒れた夜。焚火も吹き消された闇の中で、どこへ行くにも移動のできない三人は、不安の中で日の出を待った。

 風がやんだ朝の光の中に、空にヘリコプターの音が響いてきた。その音が杉林の間を押し広げる。それが先ほどまで視界を遮っていた巨木群をすっかり消し去り、目の前の視界が広がった。三人が見上げた上空にはヘリコプターの姿。それは、轟音と拡声器でよぶ三人の名前とを響かせながら降下してきた。三人はようやく助かったと思うことができた。


 吊り下げられる救助用のロープ。けがをしているヨウコ、そしてヨウコに付き添うカズキが続いた。そのあと、ロープがチエのところまで下りてきた。チエがロープを自分の体に括り付けた時、再び急な風が吹き出していた。

「ロープを早く巻き上げろ」

「ウインチが故障。動力が絶たれています」

「このまま上昇するしかない」

 ヘリコプターは風に流され、ロープが杉の枝に絡む。

「このままでは危険です」

「平さーん、いったん地上におろします。必ずまた戻ってきます。この地点はわかっていますので、必ず戻ります」

 そう言ってヘリコプターはチエを置いて飛び去ってしまった。


 一人になったチエは、ヘリコプターが戻ることを待っていた。すでに夕暮れ。チエは汚れた制服の代わりに、持ち合わせていた予備の体操服に着替え、時を待った。明かりのない暗黒の林の中に、里山で聞くような犬や鶏の声ではなく、聞いたことのない遠吠え、唸り声、女の悲鳴のような鳥の声。チエは幼い時の樹海を思い出した。あの時はたしかに一人だったが、決して不安を感じてはいなかった。そばに誰かがいてくれた記憶がある。あの時以来、今ほど、孤独と不安を感じたことはなかった。


 ………………………


 巨木の神殿は、異様な構造だった。二本の鋭い枝が地上から突き出た間に、上唇のようなひさしが飛び出ており、細い入口の奥に大空間が広がっている。落ち葉の敷き詰められた通路はチエを通すほどの大きさ。その先の内部の大空間には、崩れかけた屋根から夕陽が差し込んでいる。赤く薄暗い空間には、金色の巨像が立っていた。左の握りこぶしの上に右の握りこぶしを重ね、立ったまま神殿の外を見透かすような薄目を開けている。

 外にはまだ巨大な猪たちの群れが走り回っている。チエを探し続けているに違いなかった。匂いを嗅ぎつけた何匹かの唸り声が、神殿を振動させ始めた。その衝撃で土砂が崩れて通路をふさぎ、別の部分にはイノシシの鼻づらの鼻息が聞こえている。神殿自体が揺れ、巨像自身がギシリギシリと振動をし始めている。いや、神殿全体が、周囲の猪とともに動き始めているといったほうが良いかもしれない。

「すべては揺れ動かされ、崩れていくもの。空しいもの。私の命も、私の思いも、何もかも」

 チエは暗闇の中で動くことができず、死を覚悟した。


 大きな揺れが辺りを襲った。同時にすべての動きが止まって神殿の開口部が大きく外へ開いた。神殿の立像からチエの頭の中に響いたものは言葉ではなく、詠歌のような低い声のような繰り返しだっただった。


 ナム からたんなあ たらやーやー

 ナム ありやーばあ りょうぎゃあてい

 ちい しふらーやー ふじさーたあ

 ぼー やー

 まかさた  ぼーやー

 まかきゃー るにきゃー

 やー オン


 神殿の外へと響く通奏低音。チエはそれに誘われるように神殿の外へと出た。先ほどまで巨木の神殿と思われたそれは、獣のような姿を露にしていた。チエはそのまま神殿の前に座り込んだ。

 響き渡る通奏低音。それがチエの心をある思いへと導いていく・・・。最初は残された自分を憐れみ、運命を呪った。だが、自分自身は憐れむほど大きな存在なのか。そんな都合のいいことがあるはずもなかった。次にはそれさえも小さくむなしい思いにすぎないと気付いた。横たわったチエの心は次第に何も感じない境地へと移り、自らが消えていくように感じられた。

「私は、このまま消え去ることがふさわしい存在よね」

 心の中が動かぬようになって、ふと気づくと深夜だった。周囲はすでに静まっている。巨像の影に身を潜めていたチエは、もう震えてはいなかった。


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