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少女酒

作者: kazariya千年

 その日も、いつもと変わりなかった。

 いつものように、彼は店を開いてお客を待っていた。

 彼の店にはたいてい、予約した客しかやってこないが、たまには飛び込みもいる。しかしそれはかなり稀なことだった。

 理由は二つある。一つは扱う商品が特殊であまり需要がないこと。一つは店の立地条件だった。

 彼の店は山深いところにある洞窟の、更に奥だった。

 客は彼の店にくる為に、道無き道を数時間歩き、深い渓谷を越え、真っ暗な洞窟の中をおよそ一時間も歩き続けなければならない。

 彼の営む店にはそうまでしなければたどり着けない。

 しかし、そうまでして、客はやってくる。

 ここでしか手に入らない、特別な品物の為に。


 人里離れた、というにはあまりにも森深すぎた。もう人間や人間に因る文明の匂いはまったくしない、そんな山奥。

 まだ日本にもこれほどまでに人の手の加えられていない場所があるのだ。

 もしここを百人の現代人が訪れたなら九十九人はそう思うだろう。

 民家はおろか、田んぼも畑も、炭焼き小屋もない。立て札も、標識も何もない。

 この土地からは土器も石器も何も出土しない。

 ここは地球が出来てから一度も、人間が生活したことの無い場所なのだ。

 彼一人を除いて。

 彼の洞窟は黒い石で出来ていた。艶やかで少しごつごつした石だ。

 黒曜石ではないがそれに近いほど黒くつやがあった。

 入り口は高さが二メートル弱、幅は三メートルほど。

 中に入ると急に天井が高くなる。

 中は迷路のように入り組んでいて、おそらく一度迷ったら外には出られない。分かれ道につぐ分かれ道の連続である。その洞窟を一時間進むと、ようやく洞窟の深層にたどり着くことが出来る。

 そこで初めて、客は人工の灯りを見る。

 行き止まりになっている洞窟の奥に、灯りが灯っている。そこには書斎に置かれているようながっしりとした机が一つ。その机とセットになっている椅子が一つ。

 応接用のこれまたしっかりした作りのローテーブル。ローテーブルとセットになっている四つの椅子。背の高いスタンドライト。本棚。カップの並んだ食器棚。

 洞窟の岩壁はむき出しだが、それなりに部屋らしくなっている。

 彼はいつもそこにいて、ようやくここまでたどり着いた客に「いらっしゃいませ」と声をかける。

 客は応接机の椅子を勧められ、彼は客の為にお茶を入れる。

 今日も、彼の店には客がやってきた。

 いつものように。

 そう。いつものように……。


「いらっしゃいませ」

 コウモリの羽ばたきで来客に気付いた店主は、やってきた顧客にそう声をかけた。

「お待ちしておりました。どうぞ、おかけ下さい」

 ローテーブルとセットになっている椅子に座るように進める。黒い木を使った重厚な椅子だ。かなり古い物だが汚らしさや安っぽさは微塵も無く、むしろ高級感を感じさせる、荘厳な家具だった。

 訪ねて来た客は二人連れだ。こんな山奥に来ているというのに、一人はスーツ姿でもう一人はセーラー服だった。

 スーツを来ているのは三十代前半の男でやや厳めしい顔つきだ。もう一人、セーラー服の方は華奢な少女だった。少女はそのほっそりした手足にまだ新しい、生々しい痣や傷があった。

 店主はお茶を三人分入れ、ローテーブルにカップを三つ並べた。カップもまたアンティーク調の洒落た陶磁器だ。

 カップにお茶を注ぐ。二人の客の目の前に、より詳しく言うなら、スーツの男の方の目の前の椅子に腰を下ろした。紅茶の馥郁たる香りが心地よく広がる。

「ようこそお越し下さいました。ご注文の品は出来上がっております」

 店主はローテーブルの下から箱を一つ取り出して男の方へさしだした。

「これが……」

 スーツの男はつばを飲む。

 店主は無言で頷いた。

 スーツの男は箱の蓋を持ち上げ、中に陶器の壷が入っているのを確認した。

「開けてみても構いませんよ」

 店主は言い、男は中にぎっしりと粉状のものが詰まっているのを見て頷いた。スーツの男は持って来ていたアタッシュケースの中から封筒を取り出した。

「お確かめ下さい」

 店主は白い封筒を持ち上げると中を覗いた。笑う。

「確かに」

 店主はそう言ってカップのお茶を一口飲んだ。

「これにて商い終了です。ここまで来るのは大変だったでしょう?ご苦労様です」

「いや…聞いた通りにして来たおかげで迷いもしませんでしたよ。」

 そういう男の頭上でコウモリが羽ばたいた。予約してくる客については店主が飼っているコウモリに道案内をさせている。

「それでもお疲れでしょう。少し休んでいかれてはいかがです?長居して下さっても構いませんよ」

店主は立ち上がり、食器棚から缶を出し、その中のマカロンを皿に並べ始めた。

「いやいや、おかまいなく。…しかしどうやって菓子や茶をここに運んでいるんです?」

「お客様に直接来て頂くお店ですからね。一応、おもてなしの為のものは揃えています」

 店主は笑って言うと、踏み台を使ってお菓子の缶を食器棚の一番上に戻した。

 その後ろ姿をスーツの男は見つめる。少し信じられない気持ちで。

「ところで、そちらの方は?」

 椅子に戻った店主はセーラー服の少女に笑いかけた。少女は無言どころか無表情だ。ただし、ふて腐れているというよりボンヤリしている、という方が印象として正しかった。

 少女の代わりにスーツ姿の男が答えた。

「急で悪いんですが……この女は今日ここに置いて帰ります」

「……うちは旅館でもペットホテルでもないんですが」

 店主は男の言葉の意味が分からない、といったふうに言った。スーツの男は少し語気を強めた。「実は、…あの薬を作って欲しいんです。この女はその為に連れてきました」

 スーツの男は言い、店主は少し息をのむ。

 しかし、店としては注文に答えるしか無い。店主はこわばった顔をすぐに緩めた。

「分かりました。それではお預かりします。他の材料が揃い次第、取りかかります」

 店主はそう言って頭を下げた。

 スーツの男はローテーブルの上にある木箱を大事にアタッシュケースに収め、彼の店を後にした。

 店主は残された少女に憐憫の情を込めて「よろしく」と言った。

「改めて、こんにちは。僕はこの薬店の店主でモア・グードといいます。…名前はなんて言うの?」

スーツの男が帰ってから、店主は少女に微笑みかけた。

「ルナ。大塚ルナです」

「年は?」

「十五歳です」

「じゃあ、ええと中学生?」

「いえ、もう高校生です」

 少女はすらすらと僕の質問に答えてくれる。

「そうなんだ。僕は何歳に見える?」

 試しに聞いてみた。

「十…二歳くらいですか?」

 少女…大塚ルナは言った。

 僕は笑う。

「大体合ってる…ことになるのかな」

 向かいの椅子で僕は足を組んだ。

「それくらいの時からまったく年を取っていないんだ。僕は」

 少女は言葉を失っていた。呆れているのか、冗談だと思っているのか。どちらにせよ本気とは思ってはいまい。

「ところで、君は承諾しているの?この件に関して」

 僕は出来るだけさりげなく聞いた。少女は少し表情をこわばらせた。

「……はい」

「…君は死ぬんだよ?」

 僕は憐憫が一%に無関心が九十九%といった声で少女に言った。

 少女は口元の痣を隠すでも無く見せつけるでも無く、そこに在って当然のほくろかなにかのように晒したまま頷いた。

 半袖のセーラー服から除くすらりとした腕までも傷と痣があった。スカートから伸びる足も同じだ。

「分かっています。でも……この命が人の為に役立つなら、それもいいかなと思っています」

 微笑みは力無いようでいて、どこか芯の強さを感じさせる不思議なものだった。


「薬屋と言ってもここは薬を製造するところからやってるんだよ。主に、合成じゃなく、生薬になるけどね」

 僕はごく普通の子供のような口調で話す。なぜならここには鏡があるからだった。姿を映す物があると、なぜかそれに合わせた態度を取ってしまうから不思議だ。

 実際に、僕の知り合いには年を取らない妖怪みたいな連中が何人もいるがどういうわけか、ほとんど皆が容姿にあった口調で話す。それなりに若い容姿の者は若者らしく話すし、老人の姿をしている者は年寄りらしい口調で話す。

 僕は既に齢30歳を超えていたが、それでも鏡に映る姿の為に、いまだ年を重ねた気分になれないままだった。

「こっちへどうぞ。ルナお姉さん」

 僕は応接用の椅子から立ち上がり、大塚ルナに手を差し伸べた。

 ルナは僕の手を取り、立ち上がる。大塚ルナの身長は百六十センチメートルほど。僕よりずっと背が高い。

「こっちへ」

 僕はルナと手をつないだまま、本棚も食器棚も置かれていない、洞窟の岩肌がむき出しになっているところへ向かって足を進めた。

 壁を前にして少女は少しうろたえている。

「あの……」

「手を伸ばしてみて」

 僕は戸惑うルナのもう一方の手を取って黒い岩壁に触らせた。

「あっ…」

 ルナは思わず声を漏らした。

 それはそうだろう。

 手が岩壁に何の抵抗も無く突き刺さった。

 いや、突き刺さったと言う感触も無いはずだ。煙か霧の中に手を入れたよう。

 僕はルナの背中にまわると、思い切りどんと押した。

「あっ!」

 夜闇の中に消えるように、ルナが壁の中に消えた。

 続いて僕も壁の中に入った。


 ルナが前のめりに跪いて両手をついている。

「見てみて。ルナお姉さん。大したもんでしょう」

 僕は少し自慢げに言った。

 大塚ルナは顔を上げた。

「う…わぁ……」

 思わず声を上げたルナに僕の気分はますます良くなる。

 壁のこちら側は広い鍾乳洞になっていた。さっきまでの黒い岩肌からは想像もつかないような白い空間。ツララのように垂れ下がる鍾乳石。底が見えるほど透明な、水たまりのように小さな地底湖の数々。

 そこかしこに太い蝋燭が束になって設置されており、鍾乳洞の中はかなり明るい。

「ここが、まあ、言ってみれば玄関ホールてとこだね。こっちに来て」

 僕はルナの前を歩き、ルナは素直に後に付いて来た。

 奥には廊下のように白い洞窟が伸びていた。壁の鍾乳石はしっとりと水を伝わせていたが、床は平らで歩きにくさはまったく無い。天井も十分な高さがある。

 洞窟は手袋の指のように各小部屋に伸びていた。

 

「ここはお風呂。天然の温泉がわいてるからいつでもどうぞ」

 モアは小部屋の一つにルナを案内して言った。岩穴の温泉。乳白色のお湯が底の方から常にわき上がり、洞窟の外に通じる溝に沸き上がるのと同じ水量、排水されている。お湯の温度は40度弱。モアが作った石鹸なども完備されている。

「すごいわ」

 ルナは感嘆したように言った。

「それから、こっちに来て」

 モアはルナを別の部屋に誘った。部屋の数は手袋の指と同じ、五部屋だった。

 温泉の湧く部屋はちょうど親指のところ。

 モアが今からルナを案内しようとしているのは、温泉から一番遠い部屋、ちょうど手袋で言うと小指のところに位置する部屋だった。

 洞窟の行く手を阻むように分厚い木の壁が立ちふさがっている。そこにはドアが取り付けられており、ドアを開けると中は簡単な部屋になっていた。ベッドとタンスのようなクローゼット、机と椅子がある。机にはランプシェードが置かれていた。

「ルナお姉さんはこの部屋を使って下さい。服とか、生活に必要なものは今から用意しますから」

「私がこの部屋を?私はこの部屋に住むの?」

「はい」

 少女は惚けたように驚いた顔をして立ちすくんだ。

「…すぐに漬け込まれてしまうのかと思ったのに」

 モアはそれに答える。

 モアは死を待つ苦しみを長く続かせてしまうことに対して詫びた。

「材料?」

 大塚ルナは首を傾げる。

「はい。あなたと一緒に漬け込む、薬草、鉱石や宝石を今から取り寄せます。それまで待って下さい」

 モアはぺこりと頭を下げた。

「…そう…そう、分かったわ」

 大塚ルナは傷だらけの膝を揃えた。

「じゃあ、改めてよろしくね。モア・グード君」

 ルナは、死を前にした人間のそれとは思えない顔で笑った。


 モア・グードは大塚ルナを使ってこれからある秘薬を作ろうとしていた。それは古来から伝わる、秘薬中の秘薬だった。

 生きたままの少女を漬け込んで作る酒。

 使用する少女は男を知らない清らかな乙女でなくてはならない。

 さっき、大塚ルナを連れて来た男はある暴力団事務所の構成員だった。この少女はどういったいきさつで連れてこられたんだろう?

 もしかしたら自殺志願者なのかも知れない。モア・グードは思った。

 この少女の死を安らかに受け入れようとする姿勢から察するに、自分から志願したということも考えられた。

 少女を漬け込んで作る酒はかなりの高値で取引される。

 少女が死にたがっており、暴力団事務所が金銭を求めているのなら利害の一致と言えるだろう。

 果たしてどうなのだろうか。

 とにかく、モア・グードは今日から二週間をこの少女とともに生活する。


「あと三時間くらいしたら夕食にしようと思うんだけど、いいですか?」

 モアは部屋を物珍しそうに物色しているルナに聞いた。

 ルナは振り返り、小首を傾げるようにして頷いた。長い黒い髪が肩を流れる。傷だらけでなければ本当に美少女だ。

「よかったらそれまで温泉でも使ってよ。ここの湯は打ち身や傷にもきくし。あとで傷薬ももってくるから」

 モアは重ねて言う。

「ありがとう」

「タオルはあのクローゼット。着替えは……今はガウンしかないけど、僕以外、誰もいないし、我慢してもらえないかな」

「十分だわ。ありがとう」

 ルナはまたお礼を言う。

 今まで酒に漬け込んで来たどの少女より悟りきった潔い態度に、モアはどうしても不思議さを感じざるを得ない。

 彼女は一体なぜ、ここに来たんだろう?

 モアはさっきから何度も考えていたことをまた考えた。

「あの…」

 モアが言い、少女がまた小首を傾げる。

「あの、夕食はここで食べる?それとも他の部屋にする?凄く広くて綺麗な場所があるけど」

 モアはすこしとってつけたように言った。少女ともう少し話がしたかった。

「凄く広くて綺麗な場所があるの?じゃあ、是非そこにいってみたいわ」

 ルナは顔を輝かせたように見えた。

「じ、じゃあ、あとで…ゆっくりしてね」

 モアはそう言って部屋を後にした。

 鍵はつけていないが、ドアはしっかりと隙間なくきっちり閉まるように立付けよく作ってある。光もほとんど漏れない。

 モアは一瞬振り返ってから、その部屋の前を後にした。


 三時間後、モアはルナの部屋のドアをノックした。

「はい」

 澄んだ声で返事がしてすぐにドアが開けられた。ルナは部屋にあったはずの茶色いガウン一枚だった。温泉に入ったらしく、髪がしっとりと濡れている。

「そろそろ夕食にしない?その前に、これをどうぞ」

 モアは手に持っていたガラスの瓶を渡した。

「何?」

「傷薬だよ。塗っておくと良いと思って」

「ありがとう」

 ルナは瓶を受け取った。

「今塗った方がいいの?」

「お好きに。手伝おうか?」

 モアは何気なくつい、そう言っていた。傷は体の至る所に及んでいたから、ちょっとこの申し出は不躾だったかも知れない。

 実際ルナも少し驚いたような顔をしたような気がしたが、それは一瞬だった。

「じゃあ、お願いしようかな」

 ルナはそう言い、モアを部屋に招き入れる。

「背中だけ、塗ってくれる?」

 ルナはベッドに浅く腰掛けてガウンを肩から落とした。長い髪を片手で背中からよける。

 ルナの白い背中は柳の枝で滅多打ちにでもしたかのように傷まみれだった。細い幾筋もの傷が入り乱れるように刻み付けられている。

「…一体何があったの?」

 モアは思わず言った。

 瓶から緑色のクリームを取り、背中に塗り広げていく。

 ルナは何も言わなかった。

 背中に傷薬を塗る作業はすぐに終わった。

 モアが瓶をルナに手渡すと、ルナはベッドを立って、机のところに行った。机に備え付けてある鏡を見ながら顔と体に薬を塗っている。

 それが終わると腕と足の傷にもルナは薬を塗った。

 白い体が緑のまだらになってまるでペンキで遊んだ後のようだ。もしくは前衛的なアートのようというか。

「それじゃあ、夕食にしよう。案内するね」

 モアはドアを開け、ルナの前に立って歩き始めた。


 モアが言うところの『凄く広くて綺麗な場所』に付いたとき、ルナはまたしても感嘆の声をあげた。

 さっき、『玄関ホール』と言っていた鍾乳洞の間も確かにすばらしかった。

 だが、ここは更に美しく、また快適な場所だった。

 温泉の間の隣である為、適度に暖かく心地よい。

 そして広さは『玄関ホール』より少し狭いくらい。何よりすばらしいのは宝石のような石がそこかしこから突き出していることだった。

 ここにも太くて白い蝋燭が束になった状態であちらこちらに配置され、宝石と鍾乳石を輝かせるように照らしていた。

「すごい…本当に綺麗ね。それにあったかくて気持ちいい」

 ルナは緑まだらの姿のまま見上げるようにくるくる廻って言った。

「気に入ってくれて良かった。食卓はこっちなんだ。さぁ、どうぞ」

 モアはそう言ってルナの手を取り、椅子の二つセットされたテーブルに案内した。テーブルには緑とクリーム色のテーブルクロスが互い違いになるようにかけられていた。

「そこに座ってちょっとだけ待ってて。すぐ食事を運んでくるね」

 ルナは椅子に行儀よく腰掛けた。

 既にテーブルには磨き上げられたカトラリーが並び、テーブルの真ん中には火を灯された蝋燭が置いてあった。

 すぐにモアが食事を運んで来た。

 次々とテーブルに皿を並べていく。思っていた以上の豊かさにルナは少し驚く。

 小さなカップに入った白い色のポタージュスープ。ゴマドレッシングをかけた水菜とレタスとダイコンのサラダ。人参のグラッセとゆでたブロッコリーを添えた小さめのステーキ。それから丸い二つのパン。

「どこからこんなに?」

 ルナは並べられた料理の数々を見渡すようにして言った。

 取り立てて品数が多いわけではなかったが、こんな山奥の洞窟奥深くでは奇跡のように思えた。

 モアは含み笑いをすると、磨りガラスで出来た小さめのグラスをルナの前に置き、ピンクがかった黄色い液体を注いだ。

「もしかしてお酒?」

 ルナは苦笑うような顔で聞いた。

「うん」

 モアは頷きながら自分のグラスにもそれを注ぐ。

「私、未成年よ」

 ルナは言った。

「まぁね…でも、そんなの些細なことでしょ?」

「それもそうね」

 これから死ぬ少女は笑った。

 モアはルナの向かいに座るとグラスを持ち上げた。

「乾杯」

「あっ…乾杯」

 ルナはあわててグラスを掲げた。ルナはグラスの酒を一口飲んだ後、銀色に光るスプーンでポタージュスープを掬って口に運んだ。唇の端に塗った緑色の薬を舐めないように注意しているのがモアにも分かった。

「おいしい……あの…いろいろとありがとう」

 ルナは楽しそうに言った。

「いえいえ、料理なんか久々にしたけど、どうかな」

 モアは言い、ルナはにっこり笑った。

「すごくおいしい」

「よかった」

「ねぇ、すごいご馳走ね。どうやってここに食材を運んだり料理したりしてるの?」

「食材はルナお姉さんが来てすぐに発注しました。届けさせるんだよ。特別な方法でね」

 モアは一息にグラスの中を飲み干して言った。

 少女がどうしてここに来たのか知りたい。

 だが、まだそれほど親しくもない、さっき会ったばかりと思えばとても聞けなかった。

 その夜の会話はずっと、当たり障りのない和やかな雰囲気だった。


 次の日の朝、ルナはドアがノックされる音で目を覚ました。

「朝食持って来たよー」

 ルナは「どうぞ」と言おうとしてやめた。ここはホテルじゃないし、モア・グードはルナの家来ではない。

 ルナは小走りにドアに歩み寄り、開けた。

 ドアの前に、モア・グードが立っていた。ワゴンを一台ひいて来ており、ワゴンの上には朝食を乗せた大きなトレイが乗っていた。

「どうぞ。テーブルまで持っていくね」

 モアはそう言うと朝食の乗ったトレイを運び込んで来た。

 トーストした食パン二枚と茹でたソーセージ、半熟のスクランブルエッグ、イタリアンドレッシングをかけたレタスとトマトのサラダ、細かく刻んだ野菜を入れたスープ、それと紺の模様の入った白いカップと熱い紅茶の入ったポット。

 他の人の感想は分からないが、大塚ルナにとってはなかなか豪華な朝食だった。

「ゆっくりどうぞ、ルナお姉さん。トレイはまた取りにくるね」

「ありがとう。あっ、ちょっと待って」

 ルナは部屋を出ようとするモア・グードを呼び止めた。

「?」

 モアは振り向いて首を傾げた。

「今度から、一緒に食事しない?」

 更に付け加える。

「良かったら今からでも」

 モアは意外にも嬉しそうな顔をして言った。

「ありがとう。でも、今朝はもう食べちゃったんだ。昼食は一緒に食べよう。昨日、夕食をとった場所か、ここか、どっちがいい?」

「じゃあ、昨日の場所で。」

 モアは少し言い辛そうに頼んだ。

「あの…もし良かったら…どうしてここに来たのか、教えてもらえないかな」

 その瞬間、ルナから少し笑顔が消えた。

「…いろいろあったのよ」

 モアもバカではない。話したくないのだ、ということが一瞬で分かり、モアは後悔した。

 でももう一度言ってしまったことは引っ込められない。

「お昼は12時くらいに用意するから…」

 モアはそう言って少し慌ててルナの部屋を出た。


「散歩をしてもいい?」

 三日目の夜、大塚ルナは言った。

「散歩?」

「そう。逃げたりしないから」

 ルナはきわめて屈託なくそう言う。

 モアは信用、という意味ではまだルナを理解しきっていない。どうしたものかと悩んだ。

 自分が逃げることを心配しているのだろうと思ったのか、ルナは提案する。

「むしろ、一緒に行かない?たまには森の中を歩いてみたりしないの?」

 モアはうつむいて首を振った。

「そう。……じゃあ、この洞窟のすぐ前で食事をしない?三日も室内にいると空が見たくて」

 ルナは更に妥協案を出す。気がめいるのだろう。少し外に出たい気持ちは分からなくもない。

「……行きたいならルナお姉さんだけ、少しだけ外に出てみる?僕は洞窟の入り口にいるよ」

 モアは少し静かな声で言った。

「私は逃げない」

 ルナはしっかりとした口調で宣言する。

「……うん」

 どこまで信用出来るものか。でも、仮に逃げたとして、この樹海から出られるとは思えなかった。

 おそらく逃げ出したところで迷い、飢え、乾いて死ぬに違いない。

「何なら首に紐をつけてくれてもいいわよ。私は逃げないわ」

 ルナは弁解するように繰り返す。

「そこまでしないよ」

「でも、一応私の誠意として」

 ルナは急にムキになり始めた。

 モアは迷ったあげく、ルナの左の足首に鎖を巻くことにした。細くて軽い鎖だ。彼女の気がすむなら。


 二人が一時間かけて洞窟の外に出たとき、外は夜だった。月はほとんど満月で、とても明るい、綺麗な夜だ。

 ルナは嬉しそうに洞窟から走り出た。

 左足の鎖がチャラ、と音を立てる。月と星の光に鎖が光る。ルナはセーラー服のスカートと裾を翻してくるくると廻り始めた。長い髪がスカートと一緒の動きで翻る。まるで踊っているかのようだった。月明かりの下でセーラー服と鎖を身につけた少女が踊っている。

 モアはそんな彼女を洞窟の入り口から見ている。鎖の端はモアの足元にあった。

「外にでないの?」

 ルナは首を傾げ、体を揺らして聞いた。モアのいる位置はちょうど洞窟の影になっていて月の光も星の光も当たらない。

 モアは黙って手を振った。その仕草は大人のようだった。

「どうして?」

 ルナは聞く。

「出られないんだ」

 モアは答えた。

「僕は月の光を浴びたら砂になるし、太陽の光を浴びたら土くれになっちゃうんだよ」

 ごくさりげない口調でモアは言った。

 ルナの動きが止まった。

「うそ」

「本当だよ」

「なぜ?」

「……昔は僕も人間だった」

 少しヤケになってモアは言った。そうだ。これから死ぬ人間に何を言っても、何を知られても構うもんか。

「昔、僕はごく普通の小学生だったんだ。いたずら好きの悪ガキだった。ある日、近所の公園に段ボールが一つ置いてあってね。中には捨て猫がいた。既に生きている猫は貰われていった後で、一匹だけ死んだサバトラの子猫が残されてたよ」

 モアはそこまで言ってふーっと息を吐いた。

「僕はその死骸の尻尾をつかんで振り回した。周りにいた友達がわめくのが楽しかったんだ。猫の死体を振り回しながら友達を追いかけ回すって悪ふざけをしたんだ」

 モアは洞窟の暗がりからルナを見据えた。

「……子供らしいわ」

 ルナは言葉を選ぶように言った。

 モアは自嘲気味に唇を少しだけ動かした。

「背筋がぞくっとして振り返った」

 モアはあの日のことを思い出しながら呟くように、しかし十分な声で言う。

「そこに猫がいた」

「猫?」

「そう。大きな猫だった。キジトラに近い、ベージュに茶色の模様でその体の縞には金の縁取りがしてあるみたいに見えた。僕がぎょっとしたのはその眼だったよ。その猫の緑色の眼はまるで人間みたいだった。形は猫の眼そのものなのに、人間そっくりの意思や感情があった。無慈悲で無感動な、処刑前の捕虜に女王が向けるような冷たい眼でじっと僕を見ていた。僕はその眼のなかに揺るぎない正義を見た」

 モアはルナから目をそらした。

「きっと僕に罰を与えたのはその猫なんだと思う。猫が一声鳴いた瞬間から、僕は普通の人間ではなく、今の僕になっていた」

 そこまで言う頃には、ルナは泣いていた。

「あなたのせいじゃないのに」

「……どうなんだろう」

 僕は洞窟の影にいっそう身を隠して答える。

 月明かりのしたで、ルナの涙は美しく輝いていた。


 なぜあんな話をしたのだろう?モアは考える。

 答えは簡単かも知れない。僕はルナの身の上話を聞きたかった。だから先に話したのだ。

 ちなみに嘘は言っていない。

 僕は確かにあの猫によって人間ではなくなった。そしてこの洞窟で生きることをはじめ、すでに三十年以上がたっている。

 モアは少しだけ唇を噛み締めた。


 ルナをここに連れて来た男がまたやって来た。男はこの間とは違う薬を受け取りに来たのだ。

「あの女は大人しくしていますか」

 女子高生という幼い少女に『女』という言葉を使うのが少し違和感あったが、モアはそこは指摘せず答えた。

「ええ、特にわめいたり逃げようとしたりはしていませんね。妙に達観したところのある子ですね。これから死ぬ人間とは思えない」

 素直に感想を述べる。本当にあの大塚ルナと言う少女は変わっていた。

「一体、あの子は何者なんですか?ただの高校生なんですか?……どうしてここに連れてこられたんです?」

 モアは言う。

 嘘ではなかった。彼女は異常ともいえる落ち着きぶりで、その姿にモアはずっと驚かされている。

「あの女は……」

 かつてルナを連れて来た男は小さくため息をつきながら答えた。

「ウチの組長のお嬢さんを殺したんですよ」

「え?」

 さすがに驚いてモアは声を上げてしまった。

「先月ですね。お嬢さんは家出みたいに行方不明になりました。見つかったのは熊本の阿蘇山です」

「……ずいぶん遠い所ですね」

 モアは言った。この男の所属する組は関東にある。

「あの女は阿蘇山の火口に組長のお嬢さんを突き落としたんです」

 ふてぶてしい子供をしかるような口調で男は吐き捨てた。

モアは流石に言葉を失った。

 殺した?あのルナが、暴力団組長の娘を火山の火口に突き落として殺した?

 あの静かな、世を達観した目で見るような、どことなく冷めたような少女が?

 にわかには信じられない想いでモアは一瞬言葉を失った。

「事実が発覚したのが二週間前です」

 男は更に説明する。

 男の所属する組は、大塚ルナが組長の娘と一緒に新幹線に乗り、九州は熊本まで移動したことを突き止めた。

 そして彼女を拉致すると制裁として暴行を加え、更に薬酒の材料にすべく、ここに連れて来たのだと言う。

「……彼女が、お宅の組長の娘を殺したこと、自白したんですか」

 モアは重ねて訪ねた。

 男によると、ルナ以外に組長の娘が熊本に移動する際、同行したものはいなかった。ただ、ルナは誰に頼まれたかもどうしてこんな凶行に及んだのかも明かしていないと言う。

 男は更にモアの驚くことを言った。

「すぐに調べはつけましたがね。あの女は元々ウチのお嬢さんの友達だったみたいです。しかも何年か前には売春をしていた形跡まであって……そんなろくでもない女だから後先考えずに人殺しも出来たんでしょう。ウチの組の、しかも組長のお嬢さんを殺したりして後でどういう目にあうか……分からなかったんですかね、まったく」

「人は……見かけによりませんね…って、え?」

 モアは男に改めて聞いた。

「売春?」

「ええ。ずいぶん稼いでたみたいですけど」

「そんな……今から作る薬酒…。使えるのは乙女だけなんですよ」

モアはやっとそれだけ言った。「男性経験のある少女は使えないんです」

「え、そうなんですか?」

 男は驚いたように言い、モアはため息をついた。

 しかしこのまま少女を薬酒に使わないとしたら今度こそ無意味な拷問で殺されてしまうかも知れない。

「とにかく僕から話を聞いてみますので」

 モアは取り繕うように言って男を追い返した。


 次の日、荷物が届いた。

 大塚ルナを漬け込んでつくる薬酒の材料だ。数十種類のハーブ、鉱物や宝石。ルナは少し顔をこわばらせてそれを見た。

「……怖くなった?」

 ルナの方を見ずにモアは言った。

 あとは肝心の酒、それから最後の材料がひとつ。それで作業に入れる。

「なぜ、ここに来たの?」

 モアの薬のおかげでほとんど傷の直ったルナに聞く。少し悲しそうな顔をしてルナは呟いた。

「私は人に自分を理解してもらおうなんて思わない」

 今までの物腰の柔らかいルナではない。誰も好きにならない、他人を何とも思っていないような無機質で無感動な声だった。強がっているのではなく、本当に、ごく自然にそう思っているような口調だった。

「でもどうしてモアはそれを知りたいの?」

 今までに無い冷たい口調でルナは言った。なぜモアがそんなふうに考えるのか、理解出来ないと言うかんじだ。

 そう。ルナにはそれが分からないようだった。モアにはルナがごく自然にそう感じているということがはっきりと伝わって来た。

「知りたいね」

 それでもモアは言った。

 ルナは微かにため息をついた。呆れているというよりは観念した、という感じだった。

「じゃあ説明する。その前にひとつ、見てもらいたいものがあるの」

 ルナはそう言って寝起きするのに使っている部屋に向かってきびすを返した。戻って来たのは5分後で、手には封筒を一つ持っていた。


私に捧げる遺書

 中学に入ってから、私は1年A組になった。あなたのお姉さんと同じ、A組に。小学校からの同級生は一人もいない。だってそのために私立に進学したのだから。

 誰よりも強くなりたい。そう思っていた。けれど…私は強くなかった。

 新しいクラスに入ってから、私はすぐに隣の席に座っていた女の子に声をかけて友達になろうとした。その週末には私の家にその子を招待した。その子は私の家を見て、それで私に一目置くようになったみたい。

 次の週には私はクラスの有名人になっていた。少なくとも私はそう思った。

 それでもいい。舐められなければ。

 私は少なくとも蔑まれることはなくなった。

 あなたのお姉さんはそう言うことに無頓着で誰とでも平等に接していた。彼女は私にとって、虚勢を張る以外で純粋に人間同士として付き合いが出来る相手だった。

 だから最初は私は彼女のことが人としてとても好きだった。

 これは本当の話。信じて欲しい。私はあなたのお姉さんのことを尊敬すらしていた。

 クラスの中心にいて騒いでいる同級生達に対して私はいつも見栄を張っていたけど、あなたのお姉さんにはそんなことはしなかった。

 というか出来なかった。

 あなたのお姉さんはいつも冷めたような目で私の虚勢を見破るかのように微笑んでいたから。

 私は最初、彼女のそんな顔を見るたびに、この人には敵わない、と思った。そして、出来るだけ仲良くしようとした。

 たぶん、悔しかったからだと思う。

 悔しい?何がって思うでしょう。私は自分の力の及ばないことが存在するのが悔しかった。

 私は彼女と仲良くする為にありとあらゆる手段で歩み寄った。

 親しく話しかけることはもちろん、本やCDを貸したり、お茶に誘ったり、遊びに誘ったり……。彼女はそのほとんどを受け入れ、嫌な顔はしなかったが、でも自分から私を何かに誘ってくれたことはなかった。

 勝手かも知れないが私はそれを少し不満に思った。なんで私ばっかりこんなに気を使わなきゃいけないんだろう?

 そんな気分だった。

 たまに腹が立って彼女にあまり話しかけない日もあったけど、彼女の態度は変わらなかった。本当にフラットな人物と言うか、何を考えているのか分からない。

 こんなにこびている自分がいつも嫌だった。

 私はもう、クラスの中心人物なんだから、こんな子に構うことないのに……そう思う日もあったけれど。

 私は昔の、みんなから無視され、ありとあらゆる人に媚ながら生きていた頃を思い出して酷くプライドを傷つけられる想いだった。

 そんなある日のことだ。

 クラスの友達の一人が彼女の悪口を言った。

「大塚ルミってさ、きちんとしてるよね」

 と。悪口じゃないのかも知れないけど、その口調は私には『彼女って付き合い辛いくらい完璧主義者だよね』というように言ったように感じた。

 私はここぞとばかりの言ってしまった。

「なんか上から目線ぽくない?」

 それから私は彼女にはいつも親しくしようと話しかけているのに全然打ち解けない女だ、というようなことをさりげなく話した。

 彼女はクラスにそんなに親しい人が多くなかったから私の言葉は優先的に信じられた。

 その頃からだと思う。クラスで何となく、彼女は疎まれ始めた。

 私は心の中で少しいい気分だった。私をないがしろに扱った報いなのだと思った。

 彼女は自分を取り囲む状況に気付いてか気付かなくてか分からないが変わらず毅然としていた。

 その態度は益々お高く見えた。

 そのうち、何となくみんな、彼女の目の敵にするようになった。

 そして時々私に、

「あの子って嫌な子なんでしょ?」

 というようなことを確認するようになった。

 私は「うーん、悪い子じゃないんだろうけど……まあ、性格なんじゃない?」と答えた。

 私はクラス中から誤解され、そんな扱いを受けている彼女を見るのが愉快だった。だから彼女の陰口をきくたびに嬉しくなった。

 小学校のとき、私をいじめていた女が戻って来たのはその頃だった。転校していた先から戻って来たのだ。

 どうしよう。素直にそう思った。私の小学校時代のことがバレたら、今のクラスのみんなにバレたら。

 転校生として私のクラスにその女がやって来た日は本当に気が気じゃなかった。その女は私をちらりと見た。その目には確かに蔑みの色があった。

 私はあの頃から何も変わっていない。何だかそう思い知らされた気分だった。誰かより優れていると実感しないと安心出来ず、人と比べられてようやくホッと出来る私の性格。私はあなたのお姉さんという自分より格下の人間を見ていないと心の平穏を保てなかった。「あの人よりマシね」と思いながらでないと生きることが出来なかった。

 転校して来た、かつて私をいじめていた女はすぐに過去のことをしゃべった。

 私のかつての姿はあっという間に広まった。

 もう学校へなんかいけない。

 そんなとき……あなたのお姉さんの鞄の中に写真を見つけた。

 あなたの双子のお姉さんは売春をしていたのね。

 私はどうしても自分より格下の存在が欲しかった。

 だから、その事実を……大塚ルミが売春をしていたことをクラス中にバラした。

 彼女が自殺したのはその直後だった。私のせいで。私は日に日に、自分が人の命を奪ったことが恐ろしくなった。

 いじめられていたことも、何もかも。

 私はクズだ。

 私なんて生きていてもしょうがない……。それに私が死んだら少しはあなたも私を許してくれるのではないか、せめて立派な人間だと思ってくれるのではないか。そんな気もする……。

 だから、こんな方法を取ってみた。

 さよなら。ついて来させてごめんね。


「これは……」

 モアは封筒に入っていた手紙の中身を全部読み終わってから顔を上げた。

「二週間前にね、その手紙を書いた子は阿蘇山の火口に身を投げて死んだの。私はどうしてか、彼女に自分の自殺を見届けて欲しいって言われて一緒に阿蘇山に行ったのよ。私は彼女が火口に身を投げるのを見ていた」

 モアは理解出来ないというふうに首を振りながら聞いていた。

「自殺した彼女からその手紙は最後に渡されたものなの。死の直前に、後で読んで、って渡されたのよ」

 たいして感慨もなくルナは言った。

「で、彼女は暴力団組長の娘でね。私が彼女の死に立ち会ったことを 知って、なんで止めなかったのかって怒り狂ったの。まるで私が殺したみたいな言い方だった。私は捕まってさんざん乱暴されたあげく、ここに連れてこられたのよ」

 まるで他人のことを話すかのようにルナは説明した。

「……そんな理由で君は抵抗もせずに死ぬの?」

 モアは目を見開いて言った。

「君のせいじゃないのに」

 思わずそんなセリフが唇から漏れた。

 月のしたで、ルナがモアに対して言ったのと同じセリフだった。

 でもルナは力無く笑っただけだった。自分の運命を受け入れる、その姿勢そのもののような表情だった。


 水族館の水槽のような大きなガラスの容器に様々な生薬や鉱物、宝石が入っている。ガラスはその厚さが歪でところどころ歪んで見えた。

「ねえ」

 大塚ルナはそのガラスの中から、モアに話しかける。

「いろいろ良くしてくれてありがとう。さよなら」

 モアは無言で頷いた。うつむくように。

 ガラス瓶の中に専用のホースで酒を注ぎ入れる。

 大塚ルナの体には重しがついているため浮き上がったりはしない。

 すべてが酒に漬かってルナが静かになったとき、モアは中を覗き込んだ。

 モア・グードの目から涙がこぼれた。

 モアは彼女のことを確かに好きになりかけていた。


 モアは彼女に心から同情する必要があった。彼女のために真実の涙を流す必要があったのだった。

 モアは自分自身の心が自分の思惑通りになったことに満足した。

「作り手の心からの涙が7粒」

モアはそっと呟いて最後の材料を瓶に落とした。

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