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せみ

作者: 弘せりえ

ここで立ち止まっては

おしまい、といった勢いで、

志保は地下鉄の階段を

かけのぼった。


自分のペースが

人の目から見れば

それほど速くないのは

わかっているが、

のぼり切ったところで

息がつまり倒れそうになる。


一瞬どこか悪いのではないかと

不安になるが、

この暑さと蓄積した疲労のせいだ

ということは、承知していた。


地上に上がった所で、

外のムッとした空気に思わず

肌が粟立つ。


  

今日も残業を終えて

ここまでたどり着いたのが

十一時過ぎだった。


志保は額の汗をぬぐい、

大きく息をつく。


やらなければいけないことは

毎日山積みで必死だったが、

誰がやっても同じ仕事だ

ということはわかっていた。


そんなものに追われながら

過ごして来た歳月の長さを考えると

溜息が出る。


時々自分の存在価値さえ

わからなくなって、

苦しくなった。


人の言う生き甲斐や

幸せって何だろう。


周りが言うように、

早く結婚して、子供を持つことが

一番価値あることなのだろうか。


最近こういうことばかり

考えているような気がする。


そして考え出すと家に

帰るのが怖くなる。


こんな気持ちで

一人ぼっちでいると、狭い部屋に

押しつぶされそうな気がするからだ。


しかし、こんな時間に

疲れた体で行くあてはなかった。


消えてなくなりたい・・・

何の根拠もないのだけれど、

最近やたらと

そう思うようになった。


が、その術もないまま

毎日が過ぎていく。

 

死ぬわけにいかないのだから

気分を変えよう。


せめて、好きなものを

買って食べよう、


そんな発想が

滑稽なくらい女っぽくて

思わず苦笑しながら、

志保は近くのコンビニに入った。


 

 

コンビニの蛍光灯は

会社と同じく、現実的な光で

全てを照らし出す。


志保は菓子パンと

ビールをつかむと、

勘定を済ませて外に出た。


 

再び生温かい外気にさらされて

一瞬ゾクッとしたけれど、

駅前よりはずいぶんいい風が

吹いている。


いつも通るこの道の左側は

マンションに囲まれた

公園になっていた。


時々浮浪者が寝ていたり

するのだが、

今夜はいないようだ。

 

志保は思い切って

夜の公園に足を踏み入れた。


真っ暗な所は怖いので、

ベランダがこちらに向いた

マンションの近くのベンチに

腰かけた。


 

いい風が吹き抜ける。


まるで今夜、

志保のために準備された

かのように静かで、

適度に明るく、

そして誰もいない公園。


どこか現実離れしている

気がして不安になるが、

ずっと留まっていたいとも思う。


 

そんな思いとは裏腹に

志保はメロンパンの袋を開ける。


パリパリという

乾いた音があまりにも

現実的で興ざめだった。


冷たいビールを一気に

飲みながら、

この組み合わせは

まるで大人と子供が同居している

ようだ、と思った。


メロンパンは子供の頃から

同じ味がする。

 

志保は何となく

昔を思い出し、ビールを呷りながら

ベンチの後ろの大きな木に

背をもたげた。


木はびくともしなかったけれど、

一匹のせみが微かな振動に驚いて

ビッと一声上げると、

夜の闇へと消えて行った。


志保もびっくりして身を起こし、

木の幹に何か

妙なものがひっついていないか

チェックする。


幸い背の当たる辺りには

何もいないようだった。

 

志保はもう一度木にもたれ、

そして、フッと

既視感に襲われた。


かつて同じようなことが

あった気がする。


そしてその時、

何か不思議な体験をした覚えがある。


あれは夢だったのだろうか。

 

志保は遠い記憶をたどって、

ゆっくりと目を閉じた。 





 

小学校四年生の頃、

志保は家族と喧嘩をして

家を飛び出したことがあった。


真夏の昼のことだった。


子供の志保がとりあえず

身を隠す場所として

思いつくのは近所の

林くらいだった。


家を出て十分も歩くと

民家が途切れ、

林と宅地を隔てる

急斜面があらわれる。


子供たちはよく木の根や枝を

つたって、その坂のてっぺんまで

よじ登り、そこから緩やかな傾斜を

下って林に入って行った。


大人が入る場合は斜面を

ぐるりと回って川の方まで行き、

民家裏の溝をつたって行く道

を使った。


 

志保は勢いよく

急斜面に立つ木の枝につかまり、

足を根にひっかけて坂を登った。

てっぺんまでひとふんばり、

後はのんびりと坂を下った。

 

坂を下りて左は

大人用の溝に通じているので

迷わず右の道を進んだ。


この道をまっすぐ行けば

大きな林に出るし、

左に折れれば町外れのお寺に

通じている。

 

休みの日のお昼とあって、

林の方からは近所の男の子たちの

声がした。


志保は左に折れ、

お寺の方へ向かった。


 

いつの間にか小走りで先を急ぎ、

人気のない静かなお寺の境内に

たどり着いた時には

かすかに息を切らせていた。

 

青々と茂る木々の葉から

もれる太陽の光に目を細め、

汗をぬぐう。


木や下生えの草から

強烈に緑がにおい立つ。


志保は少しでも涼しそうな

場所を探して境内をさまよった。


 

さっきの些細ないさかいが、

かすかに胸を絞めつける。


居心地の悪い家よりは、

ちょっとくらい暑くても

ここの方がましだ、

と思った。


 

志保はお堂わきの

大きな木の下に、

座り心地の良さそうな石を

見つけて腰かけた。


石はひんやりとしていて

気持ちよかった。

 

ゆっくりと背を伸ばし、

後ろの木にもたれようとした

その時、大きな声を上げて

一匹のせみが飛び立った。


志保は思わず悲鳴を上げて

飛びすさった。


が、大慌てで飛んでいくせみの

後姿と自分の慌てようが面白くて、

笑いがこみ上げてくる。


もう一度落ち着いて

石に腰かけて耳を澄ませてみると、

境内の林はせみの鳴き声で

いっぱいだった。


志保は昔、

親戚のおじさんに聞いた話を

思い出した。


 

長い間、

土の中で幼虫として過ごした

せみは七年の後、

やっと成虫のせみとなって

自由に空を飛び回れる。

しかしそれは、

たった一週間だけなのだ。

この一週間のために

せみたちは七年もの間、

土の中で耐えてきたのだから、

捕まえたりしてはいけないのだよ。



 

それを聞いて以来、

志保はせみがうらやましかった。


せみにとって七年は長いだろうけれど、

最後に夢が叶うのなら、

人間よりましかもしれない。


お堂の方から漂う線香の

かすかな匂いが鼻をかすめる。


志保は目を閉じて

せみたちの至福の時の愛の賛歌に

耳を傾けた。


 

せみの声が心なしか

遠のいていったような気がして、

何だかフワフワ気持ちよくなって

きたところだった。



 ― 本当にそう思うのですか?


 

志保は誰かに尋ねられて、

驚いて辺りを見回した。


自分はいつの間にか

居眠りしていたのだろうか。



「ここはどこ?」



周りは真っ暗で、

物音ひとつしない。

不安に思って辺りを

見回していると、

ポッと一ヶ所にかすかな光が

見えた。


志保はその光に

目を凝らす。

何かがぼんやりと

見えてきた。

 

それは何かの幼虫だった。


志保はゆっくり手を伸ばし、

暗闇で唯一、目に見える

おぼろげな光に手を

かざしてみた。


何となく温かいものが

手のひらに伝わってきて

ホッとする。

 

すると、さっきの声が

再び語り出した。


どっしりと重く、

そして寂しげな独り言のような

声だった。


志保は夢心地で耳を傾ける。



 ― どうして人は

我々が土の中で過ごす時間を

忍耐の時だと思うのでしょう。

我々がこの歳月を

いかに楽しく意義ある

青春の時としているか、

どうして

思い及ばないのでしょう。

今日、私は長年共に

過ごしてきた仲間たちと

別れを告げてきました。


もう体が固くなり、

土の中では息苦しくて

仕方ありません。

こんな姿で苦しむさまを

若い仲間たちに

これ以上見せるわけには

いかないのです。

 

しかし、残酷なことに、

彼らは私の末路を知っています。

それは私がこれから

地上で待つ試練を知っているのと

同じです。


我々の本能が

自分たちの将来を、最期を、

いやがうえにでも

伝えるのです。

ほんのわずかしか

地上で生きられないことを

知っている我々にとって、

この別れはすなわち

死を意味します。

 

長い長い間、

土の中で暮らしてきた者にとって、

突然灼熱の日のもとにさらされ、

慣れない羽で飛ぶことが、

そしてそれが慣れる前に

終わってしまうことを知っているのが、

どんなにつらいことか、

おわかりですか? 

 

我々は地上での日々を、

子孫を残すためだけに

与えられているのです。

我々の鳴き声が

愛の賛歌ですって? 


とんでもない。


強いて人の言葉にすれば、

こんなところでしょう。


  早く死にたい


  早く死にたい


  そのために早く子孫を残さなければ



それは異形となり、

真夏の太陽に焦がされる

断末魔の叫びとなって森に、林に、

こだまするのです。


・・・しかし、思うのです。


人の一生とせみの一生、

どれほど違うというのでしょう。


 

幼虫の体は

いつの間にか固いよろいで

覆われていた。

まるでロボットのような

足取りで関節中を

ギシギシきしませながら、

幼虫は苦しそうに

暗闇の天井をかきむしる。


志保の耳にかすかに、

しかし、はっきりと何かが

押し寄せてきた。


地の底から湧き上がるような

それは、お経だった。


その抑揚のないリズムと

せみのぎこちない動きが今、

世界を支配している。


志保は宇宙の暗闇にいるような

気がして、叫び出しそうになった。



その時、せみの前足が

痛々しい動きで最後の土を

ひとかきした。


突然あらわれる、

目も眩むような太陽の光。


灼熱の空気。


せみのまだかすかに

柔らかかった体が途端に悲鳴を上げ、

水分を失って固く縮んでいく。


志保は恐怖に目がくらんだ。


 

驚いて目を覚ました志保の耳に、

突然境内のせみの声が

こだました。


さっきよりずっと大きく

耳に響き出したその声が

あまりにも恐ろしくて、

子供の志保は耳を

ふさいで家に逃げ帰ったのだ。


 


そして今、

志保は夜の公園で再び

大きく響くようになった

せみの声を耳にした。

長い夢から覚めたような

気分だった。


時計を見ると十二時をまわっていた。



ゆっくり立ち上がると、

背後で何か落ちる気配がした。


せみの抜け殻だった。


茶色く乾いたその物体は、

夏の風に吹かれてカラカラと

音を立てながら

木の根元で空虚にゆれている。


 

「・・・人の一生、せみの一生、どこが違うというのかしら」


 

公園のどこかで最後の力を

ふりしぼって声高らかに歌う

せみたちの命の歌を聴きながら、

志保はその場を後にした。











                    了

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