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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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5.スラノバ国からの依頼

  5.スラノバ国からの依頼


 マリー婆さんの記憶が甦った次の日の早朝、玲子は契約会社のオーナーであるカール氏の事務所を訪れた。


 カール氏の事務所は、ノイバウ地区にあるミュージアム・クォーターの近くにある。

 ウィーンのミュージアム・クォーターは、世界最大規模のカルチャーエリアのひとつである。六万平方メートルの敷地には、バロック建築から現代建築までの様々な様式で建てられた美術館があり、レストランやカフェ、ショップなども存在する。また、この辺りはウィーン自然史博物館や美術史美術館などがあり、休日になると多くの観光客でにぎわう場所だった。


「カールさん、このたびは大変ご迷惑をおかけしました。今は風邪が治り、この通り元気です。今日からは通常通り働けます」


 実は一昨日、玲子は仕事を休んでいた。クリスティーネの演奏を再現するために指に絆創膏を貼り、おぼつかない演奏を身につけるために、あえてリサイタルを一日キャンセルした。そのときの理由として、風邪で高熱が出て動けないとカール氏に告げていた。

 今回の仕事を休んだことで、カール氏には多大な迷惑をかけている。玲子は何度も丁寧に謝った。


 しかし、そんな玲子の姿を、カール氏は冷静に観察した。

「玲子、本当に風邪だったのか? 自宅に電話をしたところ、家政婦のビビさんが『玲子は腹痛で動けない』と言っていたが…」


 カール氏の返答に、玲子は当惑した。

(ビビ、『風邪で休む』とカールさんに伝えるよう頼んだのに…)

 玲子は心の中でつぶやき、

「腹痛を伴う風邪だったのです。昨日の夜まで寝込んでいました」

 と、とっさに言い訳した。


「たった今、ヨーゼフさんから電話があった。『玲子のおかげで昨日、母の記憶が(よみがえ)った』と喜んでいたよ」

 カール氏は、玲子の嘘を既に見破っていた。


 玲子は返す言葉もなく、たたずんだ。

 しばらくの間、部屋は静寂となった。置き時計の秒針が『コチ・コチ』と聞こえてきた。


 静けさを打ち破るように、玲子が大きな声で謝った。

「嘘をついてしまい、すみませんでした」

 玲子は、深々と頭を下げた姿勢のままで動こうとしなかった。


 やがて、カール氏が静かに語りかけた。

「玲子、頭を上げて正直に話してくれないか。私とこれから先も一緒に仕事をやっていくのなら、隠し事は無しにしてほしい」

 カール氏は、玲子を信頼している。だが、真実を話してくれない玲子に対して不満があった。


「すみません…。実は…」

 玲子は、ヨーゼフの母であるマリー婆さんの記憶を取り戻すため、仕事を休み練習したことを正直に話した。


 その事実を知り、カール氏は驚いた。

「赤の他人のために、そこまでするなんて信じられない。きみは、女神みたいに優しい心を持った人か、大馬鹿者かのどちらかだよ」

 ぶっきらぼうにカール氏がいった。


「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」

 玲子は再び頭を下げ、謝った。


「いずれにせよ、玲子がリサイタルをキャンセルしたことによるうちの損失は、君の年収のおよそ三分の一の金額だ。今回は病気でも事故でもないことがわかったため、保険は適用できない。つまり、君は、その金額を弁償することになる」


「わかりました。弁償します」

 玲子は弁償を覚悟した。


 そんな玲子の(いさぎよ)い姿を見て、

「しかし、もとはと言えば、ヨーゼフさんの依頼を引き受けるよう玲子に頼んだのは私だ。今回の損害額は、玲子と私とで折半して払うことにしよう。それでいいかな?」

 と、カール氏は玲子の負担を軽くした。


 カール氏は、玲子の優しさをよく知っていた。だからこそ、カール氏はヨーゼフに玲子を紹介したのである。

 紹介したとき、玲子がヨーゼフのために、なりふり構わず一生懸命頑張るであろうことも、カール氏は予想していた。だから彼は、その結果のみを責めることをしなかった。


 世間では、部下に無理難題を与え、部下が失敗したときに叱るのみの上司が少なからずいる。だが、それはダメな上司の典型である。できる上司は、部下の失敗の責任を自分の責任として受けとめる覚悟が必要である。


「はい。折半とさせてください。ありがとうございます」

 玲子はカール氏の思いやりに感謝した。


「しかし、玲子。今後は、リサイタルを突然キャンセルすることはしないでくれよ。こんなことが続くと、私たちは生きていけなくなるからね」


「はい。わかりました」

 玲子は素直に返事した。

(私はプロのピアニスト。プロならば、第一に、お客様のことを考える必要がある。今回、私がとった行動は、アマチュアの行動だった。結果として、ただの自己満足の行動だった…)

 玲子は深く反省した。


 玲子がカール氏の事務所を退出するとき、「玲子、きみはプロとしては大甘だが、人間としては美しい心の持ち主だ。私は、そんな玲子と末永く一緒に仕事をしたい」

 カール氏は、玲子の人柄が好きだった。誰にでも分け隔てしない優しい玲子を、カール氏は好ましく感じている。だから彼は、プロポーズの意味を含めて玲子に伝えた。


 だが、玲子は恋愛に(うと)かった。カール氏の想いが分からなかった。

 玲子は、カール氏の言葉を仕事上の言葉と受け止めて、事務所を後にした。


 玲子が憂鬱(ゆううつ)な気分で家に帰ると、家政婦のビビが(あわ)てた表情で出迎えた。右手に夕刊を握りしめている。

「玲子、夕刊を見て! ここにあなたの記事が書いてあるわよ」


 何事かと思い、夕刊の記事を見ると、

『ピアニスト玲子の奇跡 認知症の婆さんの記憶を回復させる』と、大々的に記載されていた。しかも、玲子がピアノを演奏する姿とマリー婆さん、ヨーゼフ、マリアが歌う姿が写真として載っていた。


 あのときの出来事を、ヨーゼフはビデオで録画していた。

 テレビをつけると、ニュース番組でも、マリー婆さんの歌う姿と玲子のピアノを演奏する姿が放送されていた。

 ニュースを見ている最中に、家の電話が鳴った。仕事柄、携帯電話の電源はいつも切っておくことが多い。

 ビビが電話をとった。

「玲子、カール氏から電話よ」


 すぐさま受話器をビビから受け取ると、受話器の向こうから、まるでマシンガンのような早口で、

「玲子、リサイタルのチケットがすべて売り切れた。ヨーゼフさんの記事が新聞やテレビで宣伝されたためだ。至急、追加リサイタルを企画するが、問題ないか?」

 電話の向こう側のカール氏は大変興奮していた。電話を通して興奮の様子が、しっかりと伝わってきた。


「そうですか。追加リサイタルは問題ありません。懸命に頑張ります」


「追加リサイタルが成功すれば、今回の損害額はチャラになるよ」

 カール氏はご機嫌だった。


「カールさん。ところで、なぜマリー婆さんの記事が新聞に掲載されたのでしょうか?」

 玲子は、ヨーゼフが新聞社に投稿したにしては、記事になるのが早すぎると思っていた。


「玲子、おかしなことを尋ねるね。ヨーゼフさんは、ウィーン新聞社の編集長だよ。彼から名刺をもらわなかったのかい?」

 カール氏は当然のごとく説明すると、

「急ぎの用があるので」

 と告げ、電話を切った。


 玲子は、ヨーゼフからもらった名刺を改めて眺めた。

「あっ」

 驚きのあまり、しばらく声が出なかった。


 名刺には『ウィーン新聞 広報部編集長』と記載されている。玲子は、ヨーゼフがどんな仕事をしているのか知ることなく、依頼を受けたのだった。



 翌日から玲子は大忙しだった。

 リサイタルでの演奏の他にも、新聞、テレビ、ラジオのインタビューを受けた。

 さらには、認知症のおじいさんを治してほしいとか、お婆さんを元気にさせてほしいなどと、多くの依頼があり、ビビは電話対応に大わらわだった。しかも、その依頼はオーストリアだけでなく、ドイツやイギリス、アメリカなどの外国からも沢山(たくさん)あった。マリー婆さんの認知症を治した記事が、インターネットで世界中へ配信されたためである。


 カール氏は、玲子の国外公演の予定も組んだ。ヨーロッパの各国はもちろんのこと、アメリカやカナダでも公演することになった。

 そして、ウィーンでの追加リサイタルは、フォルクスオーパーで開催することになった。


 フォルクスオーパーは、ウィーンにおいては国立歌劇場に次いで二番目に大きな歌劇場であり、約千五百人の収容人数を可能としている。1898年に開館しており、ウィーンを代表する由緒ある歌劇場である。

 通常、フォルクスオーパーは歌劇などの上演予定が半年以上前から決まっている。今回は、歌劇場の改修工事が予定以上に早く終了したことと、オーナーのカール氏が歌劇場のボスと親密だったため、急遽実現が可能となった。


 フォルクスオーパーでの演奏の日、会場は満員だった。

 さらには、テレビやラジオのニュースを聞きつけ、ウィーン市長も玲子のピアノ演奏を聴きにやって来た。

 多くの観客は、玲子の演奏を聴いたことが無かった。ニュースで玲子を知り、玲子の演奏に興味をもって訪れた観客が殆どだった。また、認知症の家族を連れた観客も多く見受けられる。それらの観客は、玲子にすがる思いで訪れている。


 予想を超えた観客の多さに、玲子自身が驚いた。

(みんなが私に期待している。頑張らなければ…)

 玲子は、心を込めて演奏した。


 大きなホールに玲子のピアノの調べが美しく響き渡る。しばらくすると、ほとんどの観客の心が、玲子が奏でるピアノの世界に(いざな)われた。

 旅先は時空を超えた世界である。あるときは子供の頃の世界であり、あるときは宇宙旅行だった。また、あるときは中世のパリやベネツィアだった。さらには、大空を自由に飛び回る大鷲の背中に乗り、大自然を空から眺めているような壮大な旅も観客は味わった。


 旅先は玲子が奏でるピアノの演奏曲により変わる。

 観客は、そんな玲子の演奏に満足した。いつまでも玲子の演奏が終わらないでほしいと願っていた。

 だが、演奏の終わりは必ずやって来る。最後の演奏曲は、奇跡のニュースで話題になったグノーの『アヴェ・マリア』だった。

 この曲は、バッハの平均律第一番ハ長調を伴奏にして、グノーがメロディを作曲したものだった。


 玲子のピアノ演奏が始まる。ピアノの調べが、今度は観客の心を神々の世界へ(いざな)う。

 殆どの観客は、いつの間にか目を閉じていた。彼らは目を閉じながら、光り輝く楽園を見ていた。天国へと旅していた。美しい建物と美しい花が咲き乱れる庭園。そして、信じられないことに、多くの観客が、すでに亡くなった大切な家族との再会をした。

 観客は、神々の世界への旅を満喫し、心が洗われるような幸福を感じていた。


 やがて、玲子のピアノ演奏が終わり、観客の心が、ひとり、またひとりと現実世界に戻ってくる。

 現実世界に戻った人の拍手で、多くの人が現実世界に戻ってくる。

 観客から惜しみない拍手が、長い間鳴り響いた。その後、

「おじいさんに会えた」という人や、「亡くなった息子に会うことができた」と叫ぶ人の声で、会場は一時騒然となった。そして、認知症だった家族の記憶が甦ったと喜ぶ観客もいた。


 リサイタル終了後、ウィーン市長は新聞記者の質問に対し、

「玲子のピアノは、聴く者すべてを別の世界へ(いざな)う。世界旅行や宇宙旅行はもちろんのこと、神々の世界や時空を越えた世界へも導いてくれる」と褒め称え、

「しかし、自動車の運転中は、玲子のピアノを聴くのは禁止にすべきだ」

 と、最後にユーモアを付け加えた。

 追加リサイタルは大成功に終わった。

 カール氏は上機嫌だ。おかげで玲子は、前回の損害分を払わずに済んだ。



 次の日の夜中、玲子の家に電話がかかってきた。

 家政婦のビビが電話をとった。

「玲子、日本の篠原真美さんから電話よ」


 篠原真美は、玲子の中学時代の同級生だった。多少そそっかしいが、明るく元気で優しい性格である。

 玲子が寝ぼけ(まなこ)で電話に出ると、受話器の向こうから、

「玲子、凄いよ! 日本でも新聞で報道されているよ!」

 篠原真美は興奮していた。


「真美、久しぶりね。相変わらず元気そうだけど、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないよ。玲子がピアノで認知症の人を回復させた記事と、ウィーン市長が、自動車の運転時に玲子のピアノ曲を聴くのを禁止にした記事が掲載されているよ。玲子、ピアノの中に超音波発信機か何かつけているの?」


 篠原真美は、玲子のピアノには装置が取り付けられているかもしれないと真剣に疑っている。どうも新聞記事が伝聞で日本へ着いたときに、真実とユーモアとが混ざってしまったようだ。


「認知症のお婆さんが回復したのは正しいけど、私のピアノ曲を聴くのが禁止になった記事は、でたらめよ。聴いても罪にならないわ」

 眠そうな声で玲子が答えると、

「そ、そうなの。そうよね…。私も、そう思う。玲子のピアノ演奏は素晴らしいから、禁止なんかにならないわよね。私…、信じていたから」

 篠原真美は、慌てて平常心を(よそお)った。さっきまで疑っていたことをすっかり忘れていた。


「ところで、みんな元気にしている?」

 玲子が尋ねると、電話の向こうから、

「みんな元気だよ。近藤君はアフリカへ医療支援に行ったきりで連絡先がわからないけど、それ以外の友達は、全員と連絡が取れるよ。特に涼は、元気に毎日二つの予備校に通っている」

 と、篠原真美が答えた。


 浪人中で予備校通いしているのが元気と呼べるかどうかわからないが、とりあえず、『佐藤涼』が病気もせずに生きていることだけは確認できた。


「真美、そちらは朝九時だと思うけど、こちらは午前一時よ。今度電話をかけるときは別の時間にしてね」

 玲子はあいかわらず眠そうな声をした。


「えっ。時差は十二時間じゃなかったの?」

「それはリオデジャネイロ。ウィーンとの時差は八時間よ。真美はヨーロッパもアメリカも、日本との時差を十二時間だと思っているんじゃない?」


 玲子の指摘に対して篠原真美はギクッとした。玲子の指摘は、まさにその通りだった。まるで、心が読まれているように真美は感じた。

「あはは。ごめんね。今度は、ちゃんとした時間に電話するから。おやすみなさい」

 篠原真美は、あわただしく電話を切った。


 電話を受話器に戻しながら、玲子は考えた。

(あの記事が日本に伝わったのなら、アフリカ北部にも伝わっているはずだわ。おそらくマリアの顔写真も掲載されているはず…)

 玲子は突然閃いた。

(もしかして、マリアの顔写真を見たマリアの両親か親戚が、何らかの方法でマリアにコンタクトをとるかもしれない)

 玲子はそう考えて夜空を見た。


 九月の星空が静かにきらめいていた。真上にはペガサス座があった。

(ペガサスに乗ることができたら、マリアの両親のもとまで行けるかもしれない)

 玲子は、いろんな思いを巡らせて星座を眺めていた。

 この星々の輝きは、北アフリカでも見ることができる。まだ見ぬマリアの両親も、今この瞬間、夜空を眺めているかもしれない。


 玲子は、まもなくマリアが両親に会えるような予感がした。


   *****


 この頃、マリアは、よくマリー婆さんの家へ遊びに行く。マリー婆さんは、マリアのことを本当の孫みたいに可愛がっている。マリアも、マリー婆さんが大好きだった。両親のいないマリアは、愛に飢えていた。


「玲子姉さん、ピアノの弾き方を教えてほしい」

 突然のマリアの頼みだった。


 事情を聴くと、マリー婆さんに聴かせたいとの答えだった。それにピアノの曲が流れると、マリー婆さんの気分も良くなるらしい。

 玲子は、家にいる時間は可能な限り、マリアにピアノを教えた。


 マリアのピアノ演奏技術は、あたかも砂漠の砂が水を吸い込むかのように、玲子の教えを吸収し、瞬く間に上達した。ひと月もすると、自分で楽譜を見ながらピアノの勉強をし、分からない箇所だけを玲子に尋ねるようになった。


「玲子姉さん、見て。私のピアノ演奏でマリー婆さんと一緒に歌ったのよ」

 マリアが写真を見せた。写真にはマリアとマリー婆さんが楽しそうに歌っている。おそらく、ヨーゼフが写真を撮ったのだろう。


「マリア、二人とも楽しそうね!」


「うん。それにピアノもいろんな曲が演奏できるようになってきたし…」


 本当にマリアのピアノ演奏力は、日々向上している。

 明確な目的があると、技術力は瞬く間に進歩する。そのことを玲子は、改めて知った。そして、それ以上にマリアのピアノ演奏の才能に驚いた。

 マリアがピアノでいろんな曲を演奏することで、マリー婆さんが笑顔になる。それが今のマリアにとって、一番の楽しみだった。

 そのためには、マリアは努力を惜しまない。驚くべき集中力で練習し、毎日新たな演奏ができるようになった。



 しかし、不幸は突然やってきた。

 マリー婆さんが亡くなった。


 元々マリー婆さんは癌に蝕まれており、痛み止めの注射を毎日打っていた。ただそのことは、マリアには内緒だった。


 その日、マリアは、いつまでも泣いていた。マリアのすすり泣く声が、昼間から途切れることが無い。

 玲子はマリアの部屋へ行き、ベッドで泣いているマリアの隣に添い寝して、マリアの肩を優しく抱きしめた。


「マリア。ヨーゼフさんがマリー婆さんの認知症を治してもらいに来たとき、既に癌が全身に転移していたの。ヨーゼフさんは、マリアにすごく感謝していたわ。マリー婆さんが最後まで笑顔でいられたのは、マリアのおかげよ」


「玲子姉さん」

 マリアは玲子に思いっきり抱きついた。目から大粒の涙がこぼれている。

「ようやく私にお婆さんができたと思ったのに…。みんな私の前からいなくなる…。玲子姉さん、いなくならないでね。玲子姉さんがいなくなったら…、私…」


「マリア、私はいなくならないわよ。いつでもマリアと一緒」

 紫色のマリアの髪を撫でながら、玲子が優しく答えた。


「本当? 嘘つかない?」

 マリアは涙を拭い、瞳を輝かせた。だが、その瞳の奥には、玲子がいなくなるかもしれないという不安が残っている。今まで一人ぼっちで生きてきたマリアにとって、その不安は当然のことだった。


 そんなマリアの不安を、玲子は見抜いていた。

「私は嘘つかないわ。指切りしよう」


ベッドで抱き合ったまま、玲子の小指とマリアの小指を絡め、玲子は日本の指切りげんまんを唄った。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」

「これで私はマリアとずっと一緒よ」

 玲子はマリアをしっかり抱きしめた。マリアも玲子の胸に顔をうずめ、まるでコアラの赤ちゃんのように抱きついた。



 次の日、マリー婆さんの葬式が行われた。

 マリアはマリー婆さんの家族ではないが、ヨーゼフの希望でマリー婆さんの(ひつぎ)のすぐ近くに座っていた。


「マリアちゃん、ありがとう。お母さんは記憶を取り戻した後は、マリアちゃんと話すのを毎日楽しみにしていたよ。お母さんが安らかに逝くことができたのも、マリアちゃんのおかげだ…」

 ヨーゼフはマリアの手を握りしめ、涙をこらえていた。


 葬式の最後に、玲子が別れの曲を演奏した。

 重く、切なく、止めようがなく涙があふれ出す。参列者の胸の中にマリー婆さんの姿が思い出される。

 教会にいる全員が慟哭した。その中でもマリアの泣き声が、最も教会に響きわたった。『発狂するのでは』とみんなが思うほど、マリアは自分を抑制できなくなっていた。


 マリアとマリー婆さんとの付き合いは、たかが一ヶ月である。だが、その一ヶ月は、マリアにとって至福のときだった。生まれて十四年のマリアにとって、最高に幸せな時間だった。

 そのことだけでも、いかにマリアが愛に飢えていたのかが良くわかる。


 やがて、葬式が終わった。玲子とマリアは一緒に寂しく帰った。

 マリアも玲子も、その夜は一言もしゃべらなかった。一言でも話せば、涙が溢れだして止まらなくなることを、マリアはわかっていた。



 翌朝、玲子は、かすかに聞こえるピアノの音で目を覚ました。

 演奏室に行くと、マリアがピアノを奏でている。しかもその曲は、練習の本にも記載されておらず、マリアに教えたことがない曲だった。


「マリア、その曲はどこで覚えたの?」


「マリー婆さんの葬式のときに、突然思い出したの。昔…、この曲をお母さんと歌ったことがある」

 マリアがポツリと答えた。


 マリアが演奏している曲は、スラノバ国の国歌だった。スラノバ国は、アフリカ北部にある人口四十万人の小さな国である。

 マリアはスラノバ国で生まれたに違いない。

 マリアの過去が、また一つ明らかになった。



 次の日、マリアは、もう一つ思い出したことを玲子に告げた。

「私が幼かった頃、私の遊び相手は、もう一人の私だったの」


「それ、どういう意味?」


 玲子が尋ねると、マリアは頭を抱えながら、激しく首を左右に振り、

「私にも分からない。普通ありえないよね。もう一人の私と一緒に遊ぶことなんてできない。私…、頭がおかしくなったのかな?」

 マリアは、自分自身の記憶が信じられないようだった。両手で顔を覆い、取り乱している。


「マリア、落ち着いて。大丈夫、あなたは正常よ。きっとその記憶には、謎があるのよ」

 玲子がマリアを包み込むように、優しく抱きしめた。


 するとマリアは、玲子の腕の中でポツリとつぶやいた。

「記憶にあるの。もう一人の私がいる」


 マリアのそのつぶやきは、玲子には理解できなかった。だが、とても重要な手掛かりのように思えて仕方がなかった。



 それから数日後、スラノバ国から玲子宛てに、ピアノ演奏の依頼が来た。


(何かが始まろうとしている)

 依頼の手紙を受け取ったとき、玲子は、そう感じた。


 玲子は、このときがいつか来ると予想していた。でも、その時期がこんなにも早く訪れるとは、思ってもみなかった。マリアと出会ってから、まだ三ヶ月も経っていなかった。


「スラノバ国からピアノ演奏の依頼が来たわ。マリアも一緒に行く?」


 リビングでコーヒーを飲んでいたマリアの手が止まった。

 思わぬ玲子の知らせにマリアは驚き、しばらく声が出ない。コーヒーの湯気が、静かに揺らめいている。ウィンナーコーヒーの甘い香りがする。庭先で小鳥の鳴き声が、にぎやかに聞こえる。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。リビングの中は、時間が止まったように静かだった。


 やがて、意を決してマリアが答えた。

「玲子姉さん。私も行きたい。私が奏でているスラノバ国の国歌、これにどんな意味があるのかを知りたい。何が起こるか分からないけど、玲子姉さんは私のそばにいてね。お願い」


 すがるようなマリアのうったえだった。玲子は思わずマリアを抱きしめた。


「私はいつもマリアのそばにいるわ。安心して」


「ありがとう。玲子姉さん」

 マリアは、見えない何かから身を守るように、玲子にしがみついた。強く玲子の背中を握りしめていた。マリアの爪が玲子の背中に食い込むかもしれないと玲子は感じた。



 まもなく、マリアの記憶が甦るだろう。だが、記憶を取り戻すことが、マリアにとって幸せなのかどうか、今は誰にもわからない。

 マリアの記憶を取り戻すことは、パンドラの箱を開けるようなものかもしれない。多くの災いが溢れ出す可能性もある。

 しかし、パンドラの箱の底には、希望もある。

 玲子とマリアは、希望がある限り、前向きに生きて行こうと決意した。


玲子のウィーンでの活躍は見事でしたね。

そして玲子とマリアはスラノバ国に行く覚悟を決めましたね。


次はまたしてもスラノバ国の内戦の話です。

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