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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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3.マリー婆さん

  3.マリー婆さん


 マリアが母の記憶の断片を思い出してから二週間後、白井玲子はウィーン郊外にある小さな音楽ホールで、ピアノ・リサイタルを開催していた。


 玲子が演奏している曲は、シューマンのトロイメライ。

 この曲は、曲が穏やかなため演奏し易く、世界中の人たちに愛されている曲だった。

 そしてこの曲は、ヘ長調を軸とし、展開部では三回転調を行い、ニ短調で最大に盛り上がる。その後、再びへ長調に戻るが、それとニ短調との対比が素晴らしく、穏やかで安らぎを感じる曲である。


 玲子が奏でるピアノの調べは、時空を超えた旅へ観客の心を(いざな)った。

 今回の玲子の演奏は、観客の魂を子供の頃の世界へ導いた。無邪気に遊んだあの頃、希望を膨らませ、夢をいだいていたあの頃。人それぞれ、思い出す情景は異なる。夕暮れまで友達と遊びまわった記憶、遊園地で両親と遊んだ記憶、思い出す情景も人それぞれで違う。だが、観客は皆、玲子の演奏で心地よいひと時を過ごした。いつまでも曲が終わらないでほしい。誰もがそう願っていた。


 だが、どんな旅にも、必ず終わりはやって来る。

 玲子のピアノ演奏が終了し、皆の心が現実世界へ戻ってきた。全員笑顔である。中には感動のあまり涙を流している人もいる。そして涙を拭き終えた観客は、まるで心が洗われたかのような表情をしていた。

 そんな観客から惜しみない盛大な拍手が鳴り響き、リサイタルが終了した。



 玲子が控室で帰り支度をしていると、契約会社オーナーのカール氏がやってきた。

「玲子、素晴らしい演奏だったよ。思わず私の子供の頃を思い出してしまった」

 カール氏は、三十代の実業家。三年前に玲子の特別な演奏の魅力に気づき、玲子にリサイタルを勧めた人物でもある。玲子は、もう三年と半年、カール氏と仕事をしている。

 通常、カール氏はリサイタル会場へは姿を現さない。姿を現すときは、特別な用事があるときだけである。玲子は、そのことに気づいていた。


「こんばんは、カールさん。私の演奏を気に入っていただき、ありがとうございます」

 玲子自身も、今日の観客の表情を見て、自分の演奏が皆の心を和ませたという実感を掴んでいた。

「ところで、今日はどんな御用でしょうか?」


 玲子が尋ねると、カール氏は、ドアのところにいる四十代の人物へ手招きをした。

 その人物が控室へ入って来ると、カール氏が玲子に紹介した。

「こちらは、私の仕事仲間のヨーゼフさんだ」


「初めまして、玲子さん。ヨーゼフです」

 ヨーゼフは、物静かで落ち着いた感じの中年の男性である。スーツを着こなしており、ホワイトカラーの仕事をしていることがわかる。


「玲子、実はヨーゼフさんが玲子に相談があるそうだ。すまないが彼の相談にのってくれないか?」


「私にできることなら良いのですが…」


「大丈夫。玲子ならできる」

 カール氏は自信たっぷりである。

 玲子は、カール氏がいつも持っている『根拠の無い自信』が不安だった。


 そんなカール氏に対する玲子の不安に気付くことなく、ヨーゼフが静かに話を切り出した。

「玲子さん、実はあなたに頼みがあるのです」


「どのような頼みでしょうか」

 玲子は戸惑いつつも、ヨーゼフと向き合った。


「私の母は認知症で、しかも病気を患っており、余命がいくばくもありません。だから…」

 ヨーゼフは、ここで一呼吸置いた後、続けて、

「だから、玲子さんのピアノ演奏で、母の認知症を治していただきたいのです」

 ヨーゼフの頼みは、この前のグレイ神父の相談と同じようなものだった。


「私は…、医者ではありません…。私のピアノ演奏に、そのような力があるとは思えませんが…」

 玲子は、ためらいがちにこたえた。

 この前、マリアの記憶がほんの少し甦ったのは、奇跡だった。奇跡が何度も起こるわけが無い。そのことを、玲子は知っていた。


「そんなことはありません。あなたのピアノの調べは、多くの人の心を別の世界へ誘います。過去の記憶を呼び起こします。先ほど演奏されたトロイメライを聴いて、私は子供の頃の情景を、はっきりと目に浮かべることができました。家族みんなで地中海の海岸を歩いたときの風景が、しっかりと思いだされました。だからお願いです。私の頼みをかなえてください」


 大人しそうなヨーゼフの力強い口調に、玲子は圧倒された。だが、玲子はヨーゼフの依頼に、ある疑問を感じた。

「なぜ…、延命ではなく、認知症の回復なのでしょうか?」

 玲子は、ヨーゼフの依頼の目的がわからない。通常ならば病気を治す方を優先させる。


「母の(がん)は、全身を(むしば)んでいます。回復の見込みはありません。それに延命治療だと、母は苦しみを増すだけです。それよりも母の記憶を戻し、残りの人生を楽しませてあげたいのです。記憶が戻らないままだと、母は心安らかに逝くことができません」

 ヨーゼフは、ここで一旦沈黙し、そして続けて、

「それに…、このままだと私は、母へ感謝の言葉を伝えることもできません」

 ヨーゼフは頭を下げ、真剣な表情で玲子にうったえた。


 通常、四十過ぎの立派な社会人が十八歳の女性に頭を下げて頼む行為は、プライドが許さない。しかし、ヨーゼフは、プライドよりも母への愛情が勝っていた。母の記憶を戻すためならば、彼は土下座でもできた。誰にでも頭を下げることができた。愛する人を幸せにするためならば、自分のプライドなどどうでも良かった。


 ヨーゼフの熱意と母を思う愛情は、玲子の心を動かした。

(彼は死期を目前にした母のために、懸命に努力している。私も彼を応援してあげたい)

 玲子は、ヨーゼフの目的を理解した。そして決断した。

「わかりました。私にできるかどうかわかりませんが、やってみましょう」


「ありがとうございます」

 ヨーゼフは、嬉しそうな顔をした。


「ヨーゼフ、良かったな」

 そう言いながらカール氏は、ヨーゼフの右手と玲子の右手を引き寄せ、三人で右手を合わせた。

「玲子、よろしく頼む」

 カール氏は玲子の対応に満足した。彼は、玲子が人の頼みをむげに断ることは絶対に無いと確信していた。玲子を心の底から信頼していた。



 その後、玲子はヨーゼフと待ち合わせの時間を決めて別れた。別れに際しても、ヨーゼフは何度も玲子にお礼を述べた。

 きっと彼は、母の認知症治療を病院や自宅で何度となく試みたのだろう。そして、何度となく悔しい思いをしたに違いない。

 玲子は、ヨーゼフの母の認知症を治してあげたかった。それ以上に、ヨーゼフに笑顔になってほしかった。


(私のピアノ演奏が少しでもヨーゼフさんの役に立つのであれば、それでいい)

 玲子の素直な気持ちだった。



 翌日の午後、ウィーンで一年に二度咲く藤の花が二度目の開花をしているとき、玲子の家にヨーゼフが母親のマリーを伴ってやってきた。


「お待ちしていました」

 家政婦のビビが笑顔で出迎え、ヨーゼフ親子を演奏室へと導いた。


 演奏室には玲子とマリアがいる。マリアは最近、玲子が家にいる日は必ず来るようになった。しかも、休みの前日は、玲子の家へ泊っていた。玲子も、マリアが大変気に入っている。二人は、姉妹みたいに仲が良い。


「マリア、こちらがヨーゼフさん。そしてこの方がヨーゼフさんの母親の…」

 玲子は、ヨーゼフの母親の名前を知らなかった。


「母の名前はマリーです。玲子さん、よろしくお願いします」

 ヨーゼフは母を紹介した。


 ヨーゼフの母親であるマリー婆さんは、六十歳を超えていた。髪は白髪で覆われており、何も話さず、起きてはいるが、意識がここに無いように見える。


「初めまして、マリーさん。私は白井玲子です。よろしくお願いします」

 玲子が挨拶しても、マリー婆さんは玲子の話を理解しているとは思えない。目の焦点が定まっておらず、無言のままだった。


「初めまして、私はマリアです」

 マリアも挨拶した。


 するとマリー婆さんは、少しだけマリアのほうを向いた。明らかに玲子のときとは違う動作だった。


「ヨーゼフさん。今、マリーさんはマリアの方を少し向いたけど、どうしてかしら?」


 玲子が尋ねると、ヨーゼフは腕を組み、しばし考えた。


「もしかして…、マリアさんを僕の姉のクリスティーネだと勘違いしたのかもしれない。小さい頃の姉は、マリアさんと同じような髪型だったし、声も似ているので…」


「そうなのですか。ところで、クリスティーネさんは、今はどちらにお住まいですか?」


「姉は五年前に、交通事故で亡くなりました。それから母は、生きる気力を失くしてしまったのです。昔は姉のピアノ伴奏で母はよく歌っていたのですが、近頃は全く歌いません」


 ヨーゼフの説明を聞き、玲子は、マリー婆さんが認知症になった理由がわかった。

(娘の交通事故死がきっかけで、生きる気力を失くし、認知症になった。そうであれば、仮に記憶を呼び戻しても、すぐにまた記憶を失くすかもしれない)

 玲子は、今後のことに不安を感じた。

(しかし、今はマリー婆さんの記憶を呼び戻すことを優先させよう。それから先のことは、後で考えよう)


 玲子は気を引き締めて鍵盤の前に座り、トロイメライを演奏した。

 優しく懐かしげな調べが部屋中に響き渡る。

 ヨーゼフもマリアも、ピアノの演奏に心地良さを感じた。


 それに対しマリー婆さんは、まだ視点が定まっていない。しかし、徐々に顔が穏やかな表情に変わっていった。

「アー。アー」

 突然、マリー婆さんが叫びだした。目に涙を浮かべている。何か懐かしい風景にでも出会ったような顔をしている。明らかに今までうつろだった表情と違っていた。


 母の表情の変化に気づいたヨーゼフが驚き、すぐさま母に話しかけた。

「お母さん、僕だよ。ヨーゼフだよ。わかるかい?」

 しかし、マリー婆さんは「アー。アー」と叫ぶだけで、ヨーゼフの言葉を理解していないように見える。

 この状況は数分続いた。

 やがて、玲子のピアノ演奏が終了すると、マリー婆さんは、また元のうつろな表情に戻っていった。そして、その後は何も話さなくなり、目の焦点も元のように定まらなくなった。


 玲子のピアノ演奏では、ほんの少ししか効果がなかった。

 ヨーゼフは気落ちした表情をしている。そんなヨーゼフの顔を見るのが、玲子はつらかった。


(まだあきらめるのは早いわ。もっと効果のある曲があるかもしれない)

 玲子はそう思い、ヨーゼフに尋ねた。


「ヨーゼフさん、姉のクリスティーネさんは、いつもどんな曲を演奏されていたのかしら?」


「グノーのアヴェ・マリアをよく演奏していました。姉がピアノを弾くと、母は必ず歌っていました」

 ヨーゼフは、懐かしい昔を思い出した。とても幸せな時代だった。


「ヨーゼフさんは、歌えますか?」


「もちろん歌えます」


「今からピアノを演奏するので、ヨ―ゼフさん歌ってください」


「はい。わかりました」

 ヨーゼフが返事すると、玲子は閃いたようにマリアを見た。


「マリアも一緒に歌ってね!」


「玲子姉さん、わかったわ。私も歌う」

 マリアは、玲子の閃きに気づいたようだ。


 やがて玲子は、グノーのアヴェ・マリアを演奏した。

 ヨーゼフとマリアが共に歌いだした。


 すると、マリー婆さんの表情に、明らかな変化が生じた。とても幸せそうな表情で、歌に合わせて「アー。アー」と歌いだしたではないか。先ほどのトロイメライの曲のときとは違い、明らかに笑顔を見せている。だが、正しい歌詞は出てこない。それでも嬉しそうに「アー。アー」と声を曲に合わせて歌っている。


 おそらくマリー婆さんは、幸せだった昔を思い出して歌っているのだろう。言葉は伝わらなくとも、心が伝わってきた。痛々しいほど玲子の心に響いてきた。

 やがて、ピアノの演奏が終了した。


 マリー婆さんはまた、無口に戻っていった。

 しかし、ここに来たときと、明らかに表情が違う。優しい笑顔の表情に変わっていた。


「玲子さん、ありがとうございます。母の安らかな顔を見ることができました。母も幸せでしょう」

 ヨーゼフは、母の表情が穏やかになったのが嬉しかった。たとえ少しの間でも、母が幸せそうな表情を見せたことに満足した。


 だが、玲子自身は、まだ満足していない。

「ヨーゼフさん。まだ私は、ヨーゼフさんの依頼を果たしていません。マリーさんは、記憶をまだ取り戻していません。もう少しなのだけど…、何かが足りないの。でも…、それが何だか分からない…」

 玲子は悔しそうな表情をした。


 すると、マリアが玲子の肩を軽くゆすりながら、

「玲子姉さん。私が思うに、玲子姉さんのピアノが上手すぎるせいなのかもしれない。それに、このグランドピアノは最新式でしょう?」


「確かに、このピアノは半年前に買ったものよ」


「ヨーゼフさんのお姉さんが弾いていたピアノでなら、マリー婆さんは昔を思い出すかもしれない」


 確かにそうかもしれない。マリアの提案に玲子もうなずき、

「そうだわ。今度は、それを試してみましょう」

 玲子は良い案が浮かんだように両手を叩いた。

「ヨーゼフさん。クリスティーネさんが使用していたピアノはありますか?」


「私の家にあるピアノがそれです。昔、姉が演奏していました」


「それじゃあ、今からヨーゼフさんの家に行きましょう」

 玲子がヨーゼフに告げ、急遽みんなでヨーゼフの家に行くことになった。


 玲子は、自分ができることなら何でもやろうと決めていた。中学の頃に好きだった友達のように、必死にあがいて、あがき続けて、少しでも前に進もうとした。

(どんなにみっともなくともかまわない。あがき続けたら、光が見えてくるはずだ。だから白井も諦めずに頑張ろう)

 玲子は、中学の頃の友達が言っていたことを思い出した。



 ヨーゼフの家は、玲子の家から車で十分の距離だった。庭にはたくさんのバラが植えてあった。だが、ここ数年はバラの手入れがされていない。うっすらと枝葉が伸びきった状態で、花はあまり咲いていなかった。


 ヨーゼフの家で玲子は、小さい頃のクリスティーネの写真を見せてもらった。笑ったときの顔の表情がマリアと似ていた。しかも、髪型がマリアと同じだった。だが、髪の色が違う。マリアは紫色の髪だが、クリスティーネは金髪である。


 クリスティーネが演奏していたピアノは(ほこり)をかぶっていたが、演奏に支障はなかった。


「今から演奏します」

 玲子は、集中してピアノを演奏した。もちろんヨーゼフやマリアも、ピアノの演奏に合わせて歌いだした。

 すると、マリー婆さんが再び「アー。アー」と歌いだした。しかも、玲子の家で歌ったときよりも幸せそうな声を響かせている。顔の表情も、さっきと比べると大変良い。


(今度はいけるかも…)

 玲子は手ごたえを感じた。

 マリー婆さんは、まるでクリスティーネがいたときのように、幸せそうに「アー。アー」と歌っている。声にはりがあった。


 ヨーゼフは、母の記憶が戻ることを信じて歌を歌い続けた。ヨーゼフも、マリー婆さんの表情から手ごたえをつかんだようだ。


 まもなくマリー婆さんの記憶が回復することを、誰もが信じて疑わなかった。

 だが…、いくら待っても、マリー婆さんの口から歌詞は出てこない。あと少しで、正しい歌詞で歌うはずだった。だが、もう一歩、何かが足りなかった。


 やがて玲子の演奏が終了した。


「玲子さん。ありがとうございます。母のこんな穏やかな顔は久しぶりに見ます。私は満足です」

 ヨーゼフは、玲子がここまでしてくれたことに十分感謝していた。


 だが、玲子は満足していない。悔しかった。あとほんのわずかで、マリー婆さんの記憶が戻ると玲子は確信している。だが、そのほんのわずかが不足している。

「ヨーゼフさん。まだ私の使命は終わっていません。私は諦めが悪い性格だから…」


(ピアノは用意できた。後は私の弾き方だけだわ。クリスティーネさんそっくりにピアノを演奏するには、どうすれば良いの?…)

 玲子は考えた。何度も考えた。そして閃いた。

「そうだわ! 楽譜よ。楽譜を見ればクリスティーネさんの癖がわかるかもしれない」

 そう叫ぶや否や、

「ヨーゼフさん。クリスティーネさんが使用していたアヴェ・マリアの楽譜はありますか?」と、尋ねた。


「数年前に見た記憶があります。探してみます」


 ヨーゼフがクリスティーネの部屋で探し始めた。玲子やマリアも手伝った。

 だが、いくら探しても楽譜が見つからない。

「おかしい。確かに数年前に見た記憶があるのですが…」

 ヨーゼフは、楽譜を見つけられないことに責任を感じているようだ。押入れから本棚の隅々まで懸命に調べ直していた。


 すると、マリアが突然閃いたように、

「ヨーゼフさん。マリー婆さんの部屋を調べてみませんか?」と、提案した。


「マリア。どうしてマリーさんの部屋なの?」


「ただ何となく…、そんな気がするの…」

 玲子の質問に対し、マリアはあいまいな回答だった。これはマリアの勘だった。勘というよりも、突然に頭の中に閃いた情景だった。


「わかりました。母の部屋を調べてみましょう」

 ヨーゼフたちは、マリー婆さんの部屋に入った。


 マリアは部屋に入ると直ぐに、タンスの二段目の引き出しを一瞬だけ見た。まるでそこに楽譜があるのがわかっているような眼差(まなざ)しだった。

 そしてマリアは部屋の真ん中に立ち、部屋中をゆっくりと一通り眺めると、

「ヨーゼフさん。マリー婆さんは大切なものをどこに入れていましたか?」

 と、尋ねた。


「母はいつも、大切なものはこのタンスの二段目の引き出しにしまっていました」

 ヨーゼフがそう言いながら引出しを開けようとするが、開かない。どうやら鍵がかかっているようだ。

 ヨーゼフが鍵を取り出し、引出しを開けた。

 すると、驚いたことに、クリスティーネの楽譜があるではないか。おそらく、マリー婆さんがクリスティーネの死を悼んで保管したのだろう。


「玲子さん、ありました。マリアちゃん、ありがとう。見つかったよ」

 ヨーゼフは、アヴェ・マリアの楽譜を玲子に渡した。


 玲子が楽譜を見ると、楽譜には鉛筆でいろいろと書き込まれていた。玲子は、書き込みを一つ一つ確認した。

 しばらくして、

「ヨーゼフさん、クリスティーネさんの曲を完全に再現するには一週間ほど時間がかかります。一週間待ってもらえないでしょうか?」


 玲子の頼みにヨーゼフは驚いたが、ヨーゼフには断る理由がない。

「わかりました。来週をお待ちしています」

 ヨーゼフは、来週を楽しみにした。


 その日、玲子は楽譜を借り、マリアと共にヨーゼフの家を後にした。

 玲子は、クリスティーネの演奏を真似るために、ある覚悟を決めた。



 一週間後、再びヨーゼフの家に、玲子とマリアが訪れた。

 驚くべきことに、マリアの髪が金髪に染まっている。さらに、玲子のすべての指には、(ばん)(そう)(こう)が貼り付けられていた。マリアの髪の色や玲子の指の絆創膏には、意味があった。


「ヨーゼフさん、またアヴェ・マリアを演奏しますので、一緒に歌ってください」

 玲子は早速、ピアノの演奏を始めた。


 玲子の伴奏で、マリアとヨーゼフが歌いだす。玲子のピアノの演奏は、いつもとやや異なる。どちらかというと、初心者の弾き方だった。


 すると、うつろな目をしていたマリー婆さんの表情が変化した。

 玲子のピアノ演奏に合わせて「アー。アー」と歌い始めたかと思うと、いつの間にか立ち上がり、たどたどしい歌詞で歌いだしたではないか。


 マリー婆さんの変化に、ヨーゼフも玲子もマリアも驚いた。そして喜んだ。だが、玲子は演奏を止めることなく、ヨーゼフもマリアも歌い続けた。この曲を中断するとマリー婆さんが元の状態になるかもしれない。それだけは避けたかった。


 マリー婆さんの歌声は、少しずつしっかりしたものに変わっていった。

 マリー婆さんの記憶が(よみがえ)った。それはまさに奇跡だった。


 ヨーゼフが母と一緒に歌うのは、実に五年ぶりである。ヨーゼフは、この上ない幸せをかみしめていた。いつの間にか涙が頬を伝わって落ちてくる。その涙を噛みしめながら、ヨーゼフは歌い続けた。

 この五年間、辛い日々が何度もあった。母の認知症が少しずつ悪化していった。そのたびにヨーゼフは、希望を失っていった。一時期は、母と一緒に自殺しようと思ったことがある。だが、今日は、再び幸せを感じることができた。その幸せをかみしめながら、ヨーゼフは歌い続けた。

 

 やがて、ピアノ演奏が終了した。


「お母さん、ヨーゼフだよ。僕のことが分かるかい?」

 ヨーゼフは、思わず母親の両肩を握りしめ、必死に話しかけた。


「ヨーゼフ…。私は…あなたの母親だよ…。わかるに…きまっているわ…」

 マリー婆さんが、たどたどしい言葉でヨーゼフに答えた。まるで、まだ半分眠っているような話し方だった。だが、マリー婆さんの表情は、少しずつ生気を取り戻してきた。


 ヨーゼフは母親のマリーを抱きしめ、ボロボロと涙を流した。次から次へと涙が溢れ出してくる。


「ヨーゼフ…、そんなに涙を流して…、どうしたの?…」


「何でもないよ…。ただ嬉しくて…」

 ヨーゼフは、これ以上言葉がでなかった。


 人間にとって幸せである最大の条件は、お金でもなく、権力でもない。自分自身が幸せと感じることである。今、ヨーゼフは、まさに幸せを実感していた。


 母親と会話ができるようになった。ただそれだけのことである。

 しかし、『ただそれだけのこと』が、人間にとっては、とても大切である。


 一般に、家族が亡くなった後、もっと話しておけばよかったと後悔する人が、たくさんいる。どんなに悔いても、亡くなった人とは、もう話すことができない。

 後悔しないためにも、常日頃から家族で会話をすることが大切である。話題が無ければ今日の出来事でも、自分の夢でも何でも構わない。自分の思いを伝えること。それは相手に対する愛情表現と同じである。

 ヨーゼフは、身をもってそのことを理解した。



「ヨーゼフ…、ところで、あそこにいる二人は…、誰だい?」

 マリー婆さんは意識を取り戻したことで、玲子とマリアの姿を認識した。


「あの二人は、僕たちの恩人だよ。玲子さんと、マリアちゃんだよ」

 ヨーゼフは涙を指で拭いながら母に答えた。


「初めまして、マリーさん、私は玲子です」

 玲子が挨拶した。


「初めましてマリーさん、私はマリアです」

 マリアも続けて挨拶した。


「マリアというのかい…。クリスティーネによく似ているね…。特に声がそっくりだよ…」


 マリー婆さんのマリアを見る目が、輝いている。おそらく、マリアを見ることで、今は亡きクリスティーネの面影を感じているのだろう。


 マリー婆さんが遠慮がちに、

「お願いがあるのだけど…、マリアちゃんを…抱きしめてもいいかね…」


 するとマリアは、突然マリー婆さんに抱きついた。まるで自分のお婆さんに甘えるような、可愛らしいしぐさだった。


「マリアは、母親やお婆さんの顔を覚えていないのです」

 玲子が説明すると、マリー婆さんはマリアの頭を撫でながら、

「そうかい…。私で良ければ…いつでも甘えていいからね…」

 マリー婆さんの声には優しさがこもっていた。


 マリアはマリー婆さんに抱かれながら、

「マリー婆さん。私は…、ここに遊びに来ても良いですか?」

 と、遠慮がちに尋ね、

「この髪…、実は染めているの。本当の髪の色は紫なの」

 と、正直に告げた。


「いつでもおいで…。私が料理を用意して…待っているから…」

 マリー婆さんは、マリアに優しかった。

 その優しさは、マリー婆さんからマリアへの愛情である。マリアは、愛情をもらったことが嬉しかった。

 長い間、肉親の愛情をもらえなかったマリアにとって、マリー婆さんの愛情は、まるで本当のお婆さんからの愛情のように感じた。


「マリー婆さん、ありがとう。また遊びに来るね」

 そう告げるとマリアは、マリー婆さんから離れた。


 そのとき、マリー婆さんがマリアの首にさげているペンダントに気づいた。

「おや?…そのペンダント…、象牙でできているのよね…。懐かしいわ…」

 マリー婆さんは、顔をほころばせた。


「えっ?」

 玲子は驚き、思わず大きな声で尋ねた。

「マリーさん、どこで…、どこでこのペンダントを見られたのですか?」


 玲子の慌てぶりに、ヨーゼフとマリー婆さんが驚いた。それでもマリー婆さんは右手を額に当て、懸命に思いだそうとしている。


「主人と昔…、アフリカ…北部を…旅行していたとき…、見た記憶があるよ…。アフリカ北部の…どこだったかな?… ごめんよ…。思い出せない…」

 さらにマリー婆さんは、マリアが首に下げているペンダントをかざしながら、

「でも…、このペンダントは…、二つで…一組だよ…。ごらん…。左右が…対象でないだろう?… このペンダントは…、二つ合わせると…ハート形になるのよ…」


 マリー婆さんの説明に、玲子とマリアは驚いた。このペンダントには意味があった。


 ヨーゼフの家を玲子とマリアが離れるとき、ヨーゼフは何度も玲子とマリアにお礼を述べた。

「玲子さん、マリアちゃん、ありがとうございます。あなたたちの恩は一生忘れません」


「気にしないでください。それより、今後マリアが時々遊びに行くと思います。そのときは、よろしくお願いします」

 玲子がお願いすると、

「はい。もちろん歓迎しますよ」

 ヨーゼフは嬉しそうな顔でこたえた。


 おそらく、ヨーゼフにとって今日の出来事は、近年まれにみる幸せなことだった。彼の目の輝き、言葉の明るさ、しぐさ、その全てが幸せであることを告げていた。


 ヨーゼフが自宅まで車で送ると言ったが、玲子はそれを断って電車で帰ることにした。

(ヨーゼフさんには少しでもマリー婆さんと一緒にいてほしい)

 それが玲子の願いだった。

 マリアも、玲子の顔を見て玲子の思いを察し、電車で帰ることに同意した。



 帰りの電車の中で、マリアも嬉しそうな表情をしていた。まるで本当のお婆さんに甘えてきた後のようだった。

 帰り際に玲子たちが見たマリー婆さんの顔も、幸せそうだった。


 マリアは、玲子の指の絆創膏を見て、

「わざと下手な演奏を身につけるために仕事を休んで練習するなんて、信じられない…」とつぶやき、

「でも、そんな玲子姉さんの優しいところが、私は大好き」

 マリアは玲子の腕に寄り添った。他の乗客の視線など全く気にしない。


 玲子は優しく、マリアの頭をなでた。

 確かに、小さい頃のクリスティーネの演奏には癖があった。楽譜の書き込みを見ると、レガート(音と音との間に切れ目を感じさせないように、なめらかに演奏すること)の箇所をクリスティーネは苦労していたのが分かる。クリスティーネの演奏を再現するために、玲子は指に絆創膏を貼ることで感覚を鈍らせた。さらに玲子は、レガートの箇所をおぼつかない弾き方で演奏した。そのために玲子は、仕事を休んで練習したのである。


(しかし、私はヨーゼフ親子の笑顔を見るために手伝った。それが実現できたので、仕事を休んでも悔いは無いわ。かつて私が好きだった人も、一生懸命、他人のために尽くしていたもの)

 玲子は、自分自身に言い聞かせた。


 それに、マリアの過去が、また一つ明らかになった。

 マリアは、アフリカ北部のどこかの国で生まれたのだろう。しかも、マリアが持っているペンダントは、二つで一組とのことだった。おそらく父親か母親が、もう一つのペンダントを首に下げているのかもしれない。

 

 一歩、一歩、着実にマリアの過去に迫りつつあることを、玲子は感じた。

(もしかして、私とマリアは、北アフリカに行くかもしれない)

 そんな考えが玲子の頭に、ふと(よぎ)った。


 玲子の運命の歯車が、少しずつ速度を上げて回り出した。

マリアの記憶が少しずつよみがえってきました。


次回は、またスラノバ国の内戦の忌まわしき記憶です。

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