19.さらばスラノバ国
19.さらばスラノバ国
マリアは一人、教会の礼拝堂にいた。
照明も灯らない薄暗いなかで、マリアは両手をくみ、お祈りをしていた。
「神様、いま、ようやくわかりました。
近藤さんは、スラノバ国の守護神。そして玲子姉さんは、近藤さんの守人。
おそらく、これからも近藤さんは国民のために活躍し、何度も生命の危機に直面するでしょう。そのたびに、玲子姉さんが近藤さんを守る。二人は神様が遣わした使者だったのですね」
マリアの声が静寂な礼拝堂に響き渡る。
「ふーん。マリアはそう感じたの」
突然、マリアの背後から玲子が現れた。
思わぬ玲子の出現に、マリアは驚いた。
「でも、私たちは神様の使者ではないわ。普通の人間よ。自分の意思で考え、自分の考えで行動する普通の人間」
そう言いながら、玲子はマリアの手をとり、
「マリアと一緒に泣いたり笑ったりする普通の人間よ」
玲子はマリアを抱きしめた。
「それにマリアは私の妹。いつまでも、私はマリアと一緒よ。だから、これからの人生を教会に捧げようとか、誰にも人知れずに生きていこうとか、考えないでね」
マリアが驚きの表情を見せた。
「どうして…、どうしてわかったの? 誰にも秘密にしていたことを…」
「だから言ったでしょう。私はマリアのお姉さん。マリアの顔を見れば、何を考えているかくらいわかるわよ」
玲子はマリアの目の前に顔を持っていき、そして続けて、
「マリアは私と一緒にウィーンに戻り、楽しい日々を過ごすの。過去に縛られず、これからは自分の人生を楽しむのよ。
いま、マリアの前には無限の可能性が広がっているわ。人生を楽しまなきゃ」
玲子の話を聞いたとたん、マリアの目の前が明るくなった。
「玲子姉さん」
マリアは玲子に抱きついた。
「ありがとう。私は玲子姉さんと一緒にウィーンに戻る」
そう言ったマリアの目は、希望に満ち溢れていた。おそらく彼女は、これから多くの幸せを見つけるだろう。
教会の鐘の音が鳴った。まるでマリアのこれからの人生を祝福するかのように。
教会の屋根にいた鳩が一斉に飛び立った。まるでマリアに「こうやって飛び立つんだよ」と示すように。
「玲子姉さんと一緒ならば大丈夫。何でもできる」
人間だれでも、一人で決断できないとき、背中を押してくれる人がいたら、安心して決断できる。そして、どんな壁でも乗り越えられそうな気がする。今のマリアが、まさにそうだった。
沈みゆく夕陽が、とてもまぶしくマリアの目に焼きついた。
おそらく、マリアはこの日のことを一生忘れないだろう。今日は近藤の命が助かった日だけではなく、マリアが生まれ変わる日でもあった。
その日の夜、玲子は不思議な夢を見た。
「玲子…、玲子…」
夢の中で、誰かが玲子を呼んでいる。男の声だった。
声の方へ歩いて行くと、王宮の庭園に出た。そしてそこには年老いた男性がいた。老人は立派な身なりをしている。きっと国王の親族だろう。
「私を呼んだのは、あなたですか?」
玲子の質問に、老人は首を縦に振った。
「玲子、ありがとう。そなたのおかげでサマルは救われた」
しわがれた声だった。この声は前に一度、聞いたことがある。そうだ、神の沼でマリアが発した異様な声だった。
「あなたは…、あなたはいったい誰でしょうか?」
「私はシャウカト…」
シャウカトは顔中皺だらけだが、頬笑んでいた。そしてもう一度「ありがとう」といい、庭園に溶け込むように姿が薄れていった。
やがて、シャウカトの姿は完全に見えなくなった。それから庭園の風景もおぼろげになり、やがて真っ白になった。
玲子が気づいたときは、ホテルのベッドの中だった。隣のベッドではマリアが安心したように眠っていた。
翌日の朝、信じられないことに、近藤は強引に王宮の医療施設を退院した。
モナ王女が近藤の身を案じて休養を勧めたが、近藤は応じない。
モナ王女は、マリアを通じて玲子に近藤を説得するように頼んだ。
「えっ、近藤君が退院したの?」
昨日は死ぬか生きるかの重症患者だった。その近藤が退院するなんて、玲子にも信じられなかった。
さっそく近藤の仕事場である中立地区の病院に行くと、近藤は手術に必要な道具をまとめている最中だった。おそらく、その手術道具を持って、トンガル村へ再び行くのだろう。
「近藤君、無理をしないで。今日は仕事を休み、ゆっくり休養したほうが良いわ」
玲子も、近藤を心配し、休養を勧めた。
「ありがとう。でも、早く手術をしなければ間に合わない人がいる」
そう言うと近藤は、ムハマドを連れて急いでトンガル村へ向かった。
本来ならば、まだ入院が必要な状態である。彼を支えていたのは、信じられないほどの気力と責任感だった。
(私の説得を、近藤君は少しも聞いてくれなかった)
玲子は悲しかった。
(近藤君にとって、私の存在は何なのだろうか。ただの友達? それとも…)
しばらく佇んでいると、玲子の携帯電話が鳴った。日本にいる篠原真美からの電話だ。
「玲子、近藤君は大丈夫なの?」
篠原真美は、いきなり質問した。なんだか慌てているようだ。
「近藤君は今朝退院した。またトンガル村に出張診療に向かったわ。ところで、どうしたの?」
日本との時差は6時間なので、日本時間では十五時だ。おそらく篠原真美は、大学を早退して自宅から電話をしているのだろう。
「新聞ではワニに食べられたり、毒蛇に咬まれたり、近藤君が何度も死んだことになっているけど、あれは新聞記事の間違いだよね?」
慌てながら篠原真美が尋ねると、
「残念ながら、その新聞記事は正しいわ」
と、そっけなく玲子が答えた。
日本にもニュースが伝わったのかと玲子は思い、思わずインターネットの偉大さを再認識した。
「えっ。ワニに食べられて大丈夫だったの?」
篠原真美は動揺を隠せない様子だ。
「自ら口の中へ飛び込み、しかも胃の中へ入って行ったので、奇跡的に大丈夫だった」
「えー、信じられない」
篠原真美は驚いている。もちろん真美に限らず、普通は誰でも驚くだろう。
「巨大なワニだったから、噛まれずに飲み込まれただけだった。だから奇跡なのよ」
「でも、飲み込まれたら胃液で溶けちゃうでしょう?」
「溶ける前にメスを使って腹からでてきたの」
「すごーい。近藤君、まるでエイリアンみたい」
エイリアンはメスを使わないはずだが…。篠原真美は、どこかで間違った解釈をしているようだ。
「ところで玲子、また凄いことをしたね」
篠原真美は、急に話題を変えた。嬉しそうな声だ。
「どうして?」
「近藤君を生き返らせたと新聞に書いてあるわよ」
篠原真美は、電話の向こうで新聞を広げているようだ。
「死者蘇生の呪文でも使ったの?」
「真美、古いテレビゲームのやり過ぎだよ」
篠原真美は、いまだに古いテレビゲームの世界から抜け出せないみたいだ。
「近藤君の心臓が止まったので、私たちで心臓マッサージと人口呼吸をしただけよ」
「ふーん。そうなの」
と言ったものの、篠原真美は、玲子の言葉を信じていない。
「でも、新聞には『ピアニスト玲子の奇跡 ピアノの旋律で死者を蘇らせる』と書いてあるよ」
「確かに私はピアノを演奏したけど、近藤君が生き返った本当の理由は、心臓マッサージと人口呼吸よ」
「でも玲子。『ドクター近藤は、暗闇をピアノの旋律が聞こえる方向に歩き続けたら目が覚めた』と書いてある」
「それは近藤君の夢よ。おそらく夢の中でピアノの旋律が聞こえたのだと思う」
玲子は、自分の力を過信していない。それに、今の玲子の指の傷は当分治らないだろう。
仮に治ったとしても、あのときの演奏は再現できないことを、玲子は感じていた。
あの旋律は、近藤を神の世界から呼び戻すためだけの目的で作った即興の曲だった。
あの旋律には、大好きな人を呼び戻すための必死さが奏でられていた。他の人に対して、あそこまで必死に演奏できるかどうか、玲子自身もわからない。
「ところで玲子、近藤君の人口呼吸は、誰がしたの?」
篠原真美が意外な質問をした。
「マリアよ。以前話した妹のような子」
「ああ、玲子のお父さんが海外で作った子ね」
「ちがう!」
篠原真美は、玲子が先週説明した内容を、すっかり忘れていた。
先週と同じ説明を、もう一度したところ、
「玲子、焼きもち焼かなかった?」
篠原真美の質問に、思わず玲子はドキッとした。
「どうして?」
「だって一時間もの間、近藤君とマリアちゃんがキスしていたのよね?」
「人口呼吸よ」
玲子は即座に大声で答えた。そして一息ついた後で、
「それに、私も後で人口呼吸をしたから、気にしない」
玲子は落ち着き払って答えた。
「えっ。玲子、それおかしいよ。だって、近藤君が目覚めるまで、玲子はピアノを演奏していたでしょう? できるわけないよ」
鋭い質問だった。
「だから目覚めた後でしたのよ」
「玲子。それ、キスだよ。人口呼吸じゃない」
篠原真美は、こういうときには頭が働く。おそらく、この手の問題が試験に出たら、篠原真美は百点満点を取るだろう。
「玲子。近藤君とキスしたの?」
「そうよ。枕元でね」
玲子は、自分の言っていることが恥ずかしかった。いつの間にか顔が赤くなっていた。
篠原真美は、意外と誘導尋問するのが得意だった。
電話の向こうで篠原真美が、
「涼、聞いて。玲子が近藤君の寝込みを襲ってキスしたみたい」
と、大声で言っているのが聞こえた。
人間スピーカーの篠原真美にかかれば、噂は尾ひれどころか背びれや、胸びれが付き、昔の仲間に伝わるだろう。
玲子は恥ずかしさに耐えきれなくなり、思わず電話を切った。
「ハー。当分日本には帰れない」
玲子は顔を赤くして、自分自身につぶやいた。
今日はスラノバ国で最後のピアノ演奏を行う日だった。
だが、練習を始めてすぐに、玲子は指の痛みを感じた。
指先を見ると、昨日の激しいピアノの旋律で負傷した指が大きく腫れていた。
玲子は、サイルに相談した。
指の負傷が思ったよりひどく、予定していた曲が演奏できないためだ。
「その傷だと、当分ピアノの演奏ができませんね」
サイルは玲子の指を見ると、直ちに状況を理解した。
両手の指先が全て腫れていた。これだと鍵盤にふれた時の感覚がいつもと異なる。結果として、いつもと同じ演奏ができなくなり、観客の期待している音色が出せない。
「玲子さん。わたしからアマル王妃に報告しておきます」
そういってサイルは、部屋を出て行った。
サイルの報告を受けると、アマル王妃はリサイタルよりも玲子の傷を心配し、直ちに見舞いに来た。
「玲子、今日の観客には私の方から説明しておくので、無理をしないでゆっくり休んでほしい」
アマル王妃は、痛々しそうな玲子の指の傷を見ながら、
「今年のリサイタルはこれで終了とします。来年、またスラノバ国にきてください」
と告げた。
「えっ」
玲子は驚いた。
「来年、スラノバ国で、再び玲子にピアノを演奏してもらいます」
アマル王妃は毎年、玲子をスラノバ国に招待するつもりだ。玲子を招待することで、マリアもスラノバ国に呼ぶことができる。
「毎年、玲子をスラノバ国に招待します。スラノバ国の国民も、『東島の勇者』を歓迎するでしょう」
「アマル王妃、ありがとうございます。アマル王妃のご厚意に感謝します」
玲子は、アマル王妃のために何かできることがないか考えた。
(あった)
玲子は、素敵なプレゼントを思いついた。
「ところで、マリアが王妃にお話があるとのことです。たまにはお二人だけでお話してみては? 私もサイルさんも席を外しますので」
玲子はサイルに目配せし、サイルと共に部屋を離れた。
部屋の中は、アマル王妃とマリアの二人きりになった。二人だけで会うのは、実に八年ぶりだった。しかも、ここでは隠し事をする必要が無い。
アマル王妃は、思わずマリアを抱き締めた。
マリアもアマル王妃に抱きついている。
「お母様…」
マリアは母の胸に顔をうずめて目を閉じた。
「サマル…」
アマル王妃もスラノバ国でのマリアの名を呼び、感激に浸っていた。
二人はそのままの体勢でいろんな話をした。
マリアにとっても、母親と二人でこのように語り合えるとは、思ってもみなかった。
(玲子姉さん、ありがとう)
マリアは、心の中でつぶやいた。
「お母様、聴いてほしい曲があるの」
そう言うとマリアは、部屋にあるピアノを演奏した。
マリアが演奏している曲は、スラノバ国の国家だった。とても優しい調べが心に染み渡った。
「この弾き方は、まるで昔の私の弾き方と同じ…」
アマル王妃が驚いた。
マリアは、ひととおりピアノを演奏すると、
「この曲は昔、お母様がよく演奏していた曲です。私は、この曲のおかげで、お母様から愛されていたことがわかりました」
そう告げると、続けて、
「私もお母様を愛しています」
マリアは静かに力を込めていった。その言葉には、嘘偽りはなかった。マリアは眼を輝かせていた。
そして、再びアマル王妃の腕に寄り添い、
「お母様、私は、来年またスラノバ国に来きます」
マリアは、この上ない笑顔を見せていた。
「私は、玲子姉さんと一緒にウィーンに戻ります。たまにはウィーンに遊びに来てください。ウィーンでなら、人目を気にせず、いつでも会うことができます」
「サマル…」
「お母様、お元気でね。お父様によろしくお伝え下さい」
「サマル、ちょっと待って。おじいさんにも別れの挨拶をして」
思い出したようにアマル王妃は、ふところから小さな遺影をとりだした。それは玲子が昨夜の夢の中で見た老人の写真だった。
「この人は?」
「私の祖父、シャウカト爺さん。サマルにとってはひい爺さんにあたるわ。サマルが三歳の時に亡くなったので覚えていないかもしれないけど、サマルのことを誰よりもかわいがってくれたのよ」
マリアはシャウカトの遺影を見ると、どこかで会ったような気がしてならない。それも昔で無く、最近までどこかで度々(たびたび)会っていたような気がする。いつも励まされていたような気がする。だが、それが何処か思い出せない。
「シャウカトひい爺さん、今まで私を見守ってくれて、ありがとう」
マリアは無意識に言葉が出た。不思議な感覚だった。なぜそんなことを言ったのか、マリア自身にもわからない。だが、マリアの言葉を聞き、遺影に映ったシャウカトの顔が一瞬、笑ったように見えた。
そしてマリアはアマル王妃から離れた。
「サマルは、お父様もお母様も愛しています」
それがマリアの別れの言葉だった。
「ありがとう、サマル。私もあなたを愛しています」
アマル王妃は、その言葉を残して王宮へ帰って行った。
それから二日後、玲子とマリアがスラノバ国を離れる日が来た。
二人が中立地区を離れるとき、多くの人たちが見送りに来た。
アマル王妃、モナ王女、それにイルート族のサラやマレーやイリアたちだ。もちろん近藤やムハマドもいる。運転手は来たときと同じくサイルだった。
見送りには、中立地区の多くの人たちが集まった。
沿道には、『東島の勇者』玲子を見送るため、多くの人たちが道の両端に並んだ。
「玲子、またスラノバ国に来てくれ」
サラがいった。
マレーやイリアも別れを惜しんでいる。
「来年、玲子のピアノを聴かせてくれ」
「サラ、マレー、イリア。来年またスラノバ国に来ます。そのときは、いろんな曲を演奏するので、みんなで歌いましょう」
玲子やサラたちは、来年を楽しみにしている。
「白井、三度も僕の命を救ってくれて、ありがとう」
近藤は、玲子がスラノバ国にいる三週間の間に、三度も死に直面した。
一度目は中立地区での戦闘であり、二度目はワニに飲み込まれたときである。そして三度目は毒蛇に咬まれ、心臓が停止したときだった。
しかも、それら全てを、玲子が救ってくれた。
「近藤君、今度来るときまで元気でいてね。サヨナラ」
そのとき、近藤が玲子の唇にキスをした。
「玲子、手紙を書くよ」
近藤の呼び方が、いつの間にか『白井』から『玲子』に変わっていた。それは近藤の玲子に対する気持ちを表していた。
やがて、見送りの人たちが、平和の歌を歌いだした。
「ルルルルー ルルルルー ルルルルー ルルルルー」
すると、しめし合せたかのように、沿道に並んでいる人たちも歌いだした。やがて、町中に平和の歌が再び響き渡った。
信じられない光景だった。中立地区のほとんど全ての人が、同時に歌っている。
バスの運転手も、乗客も、道を歩く人も、新聞を販売する人も、声を合わせて歌っていた。洗濯しながら歌う女性や、料理をつくりながら歌う調理師もいる。もちろん注文したお客も一緒に歌っている。
「ルルルルー ルルルルー ルルルルー ルルルルー」
優しさに満ちた歌声だった。この歌には、玲子への感謝が込められている。みんなの平和の願いが込められている。
スラノバ国では、もう二度と戦争は起きないだろう。
玲子とマリアが乗った車が動き出した。
道の両脇に並ぶ人たちは、歌いながら手を振っている。実に多くの人たちが玲子たちを見送っていた。
平和の歌が響き渡る中、車は中立地区を離れた。
まもなく、東島の勇者がスラノバ国から立ち去る。
玲子のスラノバ国での滞在期間は二十五日間だった。短い期間だった。だが、その期間で、スラノバ国が大きく変化した。
国民の心には、いつまでも玲子が生き続けるだろう。つらいとき、困難なことに出会ったとき、彼らはきっと、玲子の姿を思いだす。そして、前向きにあがき続けるだろう。
あがき続ける姿がどんなにみっともなくとも、一歩ずつ前に進む努力を続けるだろう。
いま、玲子とマリアの旅が終わった。そして、これから新たな旅が始まる。
おそらく、その旅でも、さまざまな困難に遭遇するだろう。だが二人は決して諦めない。二人が一緒ならば、どんな困難も乗り越えるだろう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この話の続きは「ピアニスト玲子の奇跡(2)」で新たな展開となりますが、その前に箸休めとして「ピアニスト玲子の奇跡(外伝)」を読んでいただければと思います。
また、ここまでの感想を書いていただければ幸いです。




