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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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1.未来が見える少女

  1.未来が見える少女


 オーストリアは、ヨーロッパのほぼ中央に位置している。そして周りには八つの国がある。


 隣接する国は、北はドイツとチェコ、西はリヒテンシュタイン、スイス、南はイタリア、スロベニア、東はハンガリー、スロバキアであり、各国から多くの人がやって来る。また、オーストリアの広さはおよそ八万四千平方キロメートル。北海道がおよそ八万三千平方キロメートルなので、北海道とほぼ同じ広さである。そして、そのオーストリアの北東部の端に首都ウィーンがある。


 音楽の都として世界で最も有名な都市、それがウィーン。過去にはモーツァルトやシューベルト、ハイドンなど、著名な作曲家が多数活躍した。そして現在も、多くの国から腕自慢の音楽家がウィーンに集まってくる。そして多くの音楽家が、ウィーンから世界中へと巣立ってゆく。

 ウィーンはまさに、世界の音楽の中心地として今も鳴り響いている。


 スラノバ歴304年八月の下旬、ウィーン郊外にある小さな音楽ホールで、一人の女性がピアノを演奏していた。


 この音楽ホールは約五十年前に建てられており、古びたつくりだった。空調設備は扇風機しか無く、室内は暑さがこもるために人気が無い。

 そんな音楽ホールの舞台で、女性は汗まみれになりながら演奏を続けている。

 演奏曲は、モーツアルトのトルコ行進曲だった。この曲は、世界中で多くの人から愛されており、モーツアルトの代表曲として有名である。そしてこの曲は、イ短調の旋回音型にて特徴づけられた旋律に始まり、ハ長調による三度の重音による順次上行と順次下行の組み合わせを経て、さらにイ長調で軍楽行進曲の様相を(かも)し出している。


 演奏している女性は、若い日本人だった。彼女の名前は、白井玲子。年齢は十八歳。中学二年の終了時に日本からウィーンにやってきた。それから四年間、彼女はウィーンに住んでいる。

 通常、十八歳だとまだ学生である。だが彼女は、留学してから一年と経たずに音楽ホールでリサイタルを開催した。

 もちろん彼女は、オーストリアドイツ語が堪能なわけではない。日本語でさえ、あまり話さない。彼女は、どちらかといえば無口な性格だった。

 しかし、音楽は世界共通の言語である。人種や文化の違いに関係ない。ましてや学歴や職業にも関係ない。その世界共通の言語である音楽で、彼女は観客の心を虜にし、ファンを少しずつ獲得してきた。


 リサイタル会場での白井玲子の服装は、常に白いブラウスを身に着け、黒いロングスカートを穿()いている。すらりと伸びた手足、セミロングの髪型をしており、常に落ち着いた表情をしている。切れ長の目が美しく、演奏中に見せる優しい笑顔が魅力的である。

 多くの人が、彼女の笑顔を『女神の笑顔』と噂する。

 しかし、それよりも、玲子の最大の魅力は、ピアノの演奏力である。いや、『演奏力』というのは不適切かもしれない。『演奏による観客の心の響き方』が、他の演奏者の場合と明らかに違う。これが、彼女のピアノ演奏の最大の武器であり魅力だった。


 彼女が奏でるピアノの旋律は、観客の心をいろんな世界へと(いざな)う。『魂を誘う』と言っても良いかもしれない。世界旅行はもちろんのこと、宇宙旅行や神々の世界、さらには、時空を越えた世界へと観客の心を導く。観客は、リサイタル会場に居ながらにして、いろんな世界を旅行する。もちろん、実際に旅行するわけではないが、誰もがあたかも旅をしているように錯覚する。そして、その旅で、観客は至福の時間を過ごす。

 だから、リサイタル会場の観客は、玲子のピアノ演奏がいつまでも続くことを願っている。演奏が終了すると、観客の心が現実世界へと舞い戻ってくるためである。

 

 トルコ行進曲を聴いているリサイタル会場の観客の心は、玲子の演奏により、時空を越えた十八世紀のコンスタンティノーブルへと旅していた。目を閉じると、オスマン帝国の軍楽隊が演奏しながら行進している姿が目に浮かぶ。しかも、行進している姿だけではなく。当時のコンスタンティノーブルの街並みや風景も、はっきりと観客には見えている。巨大な城壁や、レンガ造りの建物、大通りの両脇に並び建つ市場などが、当時の情景として目の前に出現する。観客の魂は、本当に時空を旅しているのかもしれない。皆が目を閉じて心地よい表情をしていた。


 やがて、玲子のトルコ行進曲のピアノ演奏が終了する。だが、会場は静まりかえっている。誰も拍手をしない。それは、玲子の曲がつまらないためではない。観客の心が、まだ時空を超えた旅から戻って来ないためだった。


 やがて、一人、二人と、現実の世界へ戻って来た観客が拍手をする。その音で他の観客の心も現実の世界へと戻ってくる。その後、盛大な拍手となる。このように玲子のリサイタルでの拍手は、他の演奏者のときの拍手とはタイミングが微妙に異なっていた。


 この日のリサイタルは、収容人数が五百人の音楽ホールだった。だが、古びた会場にもかかわらず、客席は観客で埋め尽くされており、空席は一つも無かった。

 一度でも玲子のピアノ演奏を聴いた(もの)は、再び玲子のピアノ演奏を聴きたくなる。演奏を聴きながら、いろんな旅をしたくなる。

 その魅力こそが、玲子をウィーンでピアノ演奏家として成功させた最大の要因だった。


 

 リサイタルの翌日、玲子は自宅近くのリヒテンタール教会の礼拝堂で、チャリティ・リサイタルを開催した。

 リヒテンタール教会は、偉大な音楽家であるシューベルトにゆかりのある教会だった。シューベルトが生まれた翌日に洗礼を受けた場所であり、ここでシューベルトは宮廷礼拝堂コーラス隊(今のウィーン少年合唱団の前身)に十五歳まで在籍し、十七歳のときには、この教会でミサ曲の指揮をしていた。


 今日は晴天に恵まれたため、チャリティ・リサイタルには二百人ほどの観客が集まった。

 礼拝堂の天井には、壮大な中世の絵が描かれている。光に導かれた天使の絵だった。その絵を見ると、ここが歴史的にも重要な場所であることが誰にでもわかる。観客は、まずこの礼拝堂の雰囲気に圧倒されてしまう。

 そして玲子のピアノ演奏が始まると、観客の心は時空を超えて旅をする。今回の旅は、西暦1814年の同じ場所。すなわちリヒテンタール教会だった。そこで彼らが見たものは、なんと、十七歳のシューベルトがミサ曲の指揮をする情景だった。


 全身汗まみれになりながら指揮棒を振り、合唱団を指揮しているシューベルトを見ると、誰もが興奮してしまう。誰もが、いつまでもこの光景を見ていたいと願ってしまう。

 シューベルトが指揮するミサ曲と玲子のピアノ演奏とが、見事に調和していた。まさに音楽は世界共通の言語であり、時代が経ても変わらない感動を観客に与えてくれる。


 やがて、玲子のピアノ演奏が終了すると、観客の心は皆、現実世界へと戻って来る。そして観客の誰もが、驚きの言葉を口々に発する。

 なんと、ほとんどの観客が、若き日のシューベルトを見たと口ずさんでいるではないか。しかも、多くの観客が語る若き日のシューベルトの服装や指揮棒の振り方は、全て同じだった。これは信じられないことである。


 そんな騒ぎの中で、玲子は大きな声で寄付金を募った。玲子の呼びかけで、観客は口ずさむのを止め、ほぼ全員が、玲子に多額の寄付をした。しかも、寄付した観客の多くが、玲子のリサイタルに必ず行くと告げた。どうやら、多くの観客が玲子の演奏のファンになってしまったようである。

 玲子は、その寄付金の箱を、そのまま児童施設へ毎回寄付している。交通費などの自分の必要経費すら、差し引くことはしない。

(観客は私のピアノ演奏を聴いてくれた。それだけでも、私は充分に幸せよ。交通費などは関係ない。ピアノを演奏できれば、後は何もいらないわ)

 それが玲子の考えだった。



 寄付金を教会の事務員へ渡したとき、

「グレイ神父が玲子さんに相談があるとのことです」

 と事務員が説明し、玲子をグレイ神父の部屋へ案内した。


 渡り廊下を歩いて行くと、そこは教会の離れにある建物だった。その建物の隅にグレイ神父の部屋があった。八畳ほどの小部屋で、しかも、部屋には高価なものは何一つない。部屋にあるものといえば、聖書以外は日曜大工道具や電気機器修理用のドライバーなど、どちらかといえば、現実的な備品だけが置いてある。それでも部屋は掃除が行き届いており、清潔だった。


「ようこそ玲子さん、お待ちしていました」

 神父は挨拶をすると、ウィンナーコーヒーを玲子へ渡した。ウィンナーコーヒーの湯気が揺らめき、室内に甘い香りを放つ。

 ちなみに、沖縄で沖縄そばのことをただの『そば』と言うように、ウィーンではウィンナーコーヒーのことをただの『コーヒー』と呼ぶ。


「初めまして。グレイ神父」

 玲子が挨拶をし、コーヒーを受け取った。

 中年のグレイ神父は、優しく穏やかな表情をしていたが、鳶色(とびいろ)の大きな瞳が意思の強さを感じさせた。


 玲子がコーヒーを半分ほど飲んだところで、グレイ神父が本題に移った。

「玲子さんに、お願いがあります」


「どういったお願いでしょうか? 私にできることでしたら良いのですが」

 玲子は、チャリティ・リサイタルの相談だと予想していた。なぜならば、月に一度はこの教会で、玲子はチャリティ・リサイタルを開催している。だが、チャリティ・リサイタルの話ではなかった。グレイ神父は驚くべきことを告げた。


「あなたのピアノ演奏で、ある少女の記憶を取り戻したいのですが…」

 不可解な相談だった。通常のピアニストに期待する内容とは、明らかに異なっていた。少女の記憶を取り戻したいのであれば、医者へ相談すべきである。誰もがそう思う。


 思わず玲子は、コーヒーカップを持ったまま戸惑った。

「えっ…。私のピアノ演奏には…、そんな力はありません。それに…、記憶を取り戻すためならば、病院で治療を受けるのが効果的だと思いますが…」

 そう言いながら玲子は、コーヒーカップをテーブルに置いた。


 誰もがそう答えるはずである。だが、玲子の返事を予想していたかのように、グレイ神父は理由を説明した。

「既に病院で何度も治療を受けたのです。しかし、どうしても、少女の…マリアの記憶は戻りません。先ほどあなたのピアノ演奏を聴いたとき、私は別の世界へ(いざな)われるのを感じました。あなたならば、マリアの魂を過去の世界へ導くことができます。そして、マリアの過去の記憶を呼び戻すことができると信じています」


 グレイ神父の説明は、さらに玲子を戸惑わせた。

 神父は玲子に、少女の魂を過去へ連れて行き、記憶を呼び戻した後で現実世界へ戻すように頼んでいる。まるでSFの世界だ。しかも、心霊現象も絡んでいる。常識ではありえない。


「確かに今まで多くの観客からは、私のピアノ演奏を聴くと『いろんな場所へ旅行した気分になれる』と、お聞きしたことがあります。でも、それで記憶喪失である少女の記憶が戻るという保証はありません…」

 玲子は、当惑の色を隠せないでいる。


「わかっています。玲子さんの演奏で記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも、私は玲子さんのピアノ演奏が起こす奇跡に賭けてみたいのです。可能性がわずかでもあれば、私は挑戦してみたいのです」


 グレイ神父は、わずかでも可能性があれば、なりふり構わず行動するタイプだった。信者の前で綺麗な説教を唱える一般的な神父とは、明らかに異なっていた。理論よりも実践(じっせん)に重きをなしており、一筋の希望にすがる思いで、玲子に期待していた。


 玲子は、グレイ神父の表情や態度から真剣さを感じた。この部屋の備品と整理された状況をみても、グレイ神父が通常の神父と異なり、実践を重視していることがわかる。それと共に、玲子は昔を思い出した。


 中学生の頃だった。今のグレイ神父と同様に、なりふり構わず前向きに生きている友達がいた。その友達、佐藤涼は、玲子が中学の頃に好きだった男の子だった。


「私が中学生だった頃、大変諦(あきら)めの悪い人がいました。誰もが無理だろうと諦めるところを、その人は諦めない。しつこいくらい諦めが悪い。ちょうど今のグレイ神父と同じように…」

 はにかみながら玲子がいった。


「そうですか。玲子さんはその人をどう感じていましたか?」


「不思議なことに、その人と一緒にいると、諦めの悪さが伝染するのです。『きっと何とかなる』と、私も前向きに希望を感じていました」

 玲子は、昔好きだった人を思い出しながら、目を閉じてコーヒーを口にした。甘く、ほのかな苦みが感じられる。中学の頃のホロ苦い味のようだった。


「それじゃあ、手伝っていただけるのでしょうか?」


「グレイ神父の諦めの悪さが、私にも伝染したようです」

 玲子は笑顔を見せた。女神のような優しい笑顔である。そして続けた。

「わかりました。私にできるかどうかわかりませんが、精一杯ご協力します」


「ありがとう。玲子さん」

 グレイ神父は喜びをあらわにし、玲子の両肩を軽く叩くと、直ちにマリアを呼びに行った。


 しばらくして、少女を伴った中年の修道女が部屋へ入って来た。

 少女の身長は玲子より五センチほど低かった。二重瞼で目鼻立ちがしっかりしており、紫髪のウェブがかかったロングヘアーだった。手足もスラリとしており、少女というよりも美少女と言ったほうが良いかもしれない。


 玲子が立って修道女に挨拶しようとすると、少女がいきなり玲子に歩み寄った。

「初めまして玲子姉さん。私の名前はマリア・フランク。十四歳です。マリアと呼んでください」

 挨拶すると直ちに、白い歯と可愛い笑顔をみせ、マリアはいきなり玲子に抱きついた。


 マリアはオーストリアの民族ではない。中東または西アジア民族の顔立ちをしている。だが、髪の色が異なる。マリアの髪の色は紫であり、どの民族にも属さない。

 突然抱きつかれたため、玲子は動揺した。しかも、初対面にもかかわらず、マリアは親しみを込めて『玲子姉さん』と呼んでいる。


「マ…マリアちゃんは、いつもこんなに人見知りをしないのですか?」

 狼狽(ろうばい)しつつ、玲子が修道女に尋ねると、

「い…いえ、人一倍人見知りをします。こんなマリアを見るのは初めてなので、私も驚いているのです」

 修道女も当惑していた。

「あっ、挨拶が遅れてすみません。私は修道女のメグと申します。八年前からマリアの世話をしています」

 そう言うとメグは、マリアに玲子から離れるように注意した。


 だが、マリアはメグの言うことに従わない。玲子に抱きついたまま、幸せそうな顔をしている。

 メグは、マリアが幼い頃から世話をしていた。普通、メグが注意するとマリアは素直に従う。マリアは元々素直な少女である。だが、今だけは何故かメグの指示に従わなかった。


 マリアは、玲子の存在を特別に感じていた。マリアにとって玲子は、自分の運命を大きく変える人だと確信している。礼拝堂で玲子を初めて見たとき、玲子と二人で外国を旅している様子がマリアの頭の中に、一瞬だけよぎった。マリアは、それを予知夢だと感じた。そのときから、マリアにとって玲子は特別な存在へと変わった。


「マリア、初対面のお客様に対して失礼ですよ」

 グレイ神父が大声でマリアを叱ると、

「あっ。ごめんなさい。でも、あんなに素敵な演奏をした玲子姉さんとお話しできるのが嬉しくて、つい…」

 マリアは照れ笑いをし、玲子に抱きついた手を放した。


 マリアは、自分の予知夢のことは誰にも言わなかった。マリアの予知夢など誰も信じてくれない。マリアには、それがわかっていた。今まで教会の中で、マリアの予知夢を信じてくれた人は一人もいなかった。そしてそれは、マリアにとって辛いことだった。


「玲子さん、すみませんね。リサイタルのとき、マリアもピアノ演奏を聴いていて、すっかり玲子さんのファンになったようです」

 メグが謝ると、玲子もメグの説明に納得した。


 今でもマリアは、玲子と一緒にいるのが嬉しくて仕方ない様子である。マリアの視線やしぐさが、それを語っていた。


 やがて、全員が椅子に腰かけると、皆へコーヒーを注ぎながら、グレイ神父がマリアの過去を話し始めた。


「マリアは六歳のときに遊園地で保護されたのです。そのとき片言のドイツ語は話せたのですが、過去の記憶が全くありませんでした。当時は新聞やテレビでマリアの情報提供を募ったのですが、誰もマリアを知っている人はいませんでした」

 グレイ神父は、ポツリポツリと、過去の状況を説明した。


「グレイ神父、『マリア』という名前は、誰がつけたのでしょうか?」


「名前を尋ねたとき、マリアが自分自身でいったのです。だから名前は間違いないと思います。しかし、ファーストネームは思い出しませんでした。だから、教会で決めたファーストネームをつけました」


「名前以外の手掛かりは、何かあるのでしょうか?」

 玲子は、マリアの過去の記憶の手掛かりを、少しでも知りたかった。


 するとメグが、申し訳なさそうな表情をした。

「手がかりは、マリアが首に下げているペンダントと、マリアが当時着ていた服だけです。このペンダントは残念ながら古く、どこで作られたものかわかりませんでした。着ていた服は高級品でしたが、その服は世界中で販売されていました。そして、その服を調べても、手掛かりはつかめませんでした」


 玲子はマリアの胸元を見た。古めかしいペンダントが首にかけられている。


「マリアちゃん、首に下げているペンダントを、お姉さんに見せてくれる?」

 玲子が笑顔で頼むと、

「これは大切だから、普通は誰にも見せないけど、玲子姉さんになら見せてもいいよ」

 マリアがペンダントを首から外し、玲子に渡した。


 ペンダントはおそらく象牙のようなものでできており、左右が非対称となっている。文字も何も彫られていない。これでは調べようがない。

 やはり、手掛かりはなかった。


(マリアの記憶を呼び戻すためには、どの曲を演奏すれば良いかしら?)

 ペンダントをマリアに返し、玲子は考えた。

「今から教会のピアノを使ってもよろしいでしょうか?」

 玲子が尋ねると、グレイ神父が許可してくれた。


 みんなで礼拝堂へ行き、玲子はピアノの前に座った。マリアは玲子のピアノ演奏に胸がワクワクしている。瞳が輝いていた。

 玲子は、とりあえずオーストリアの子守歌を数曲演奏してみた。

 すると、マリアは幸せそうな表情で、玲子の曲を聴いている。ピアノの拍子に合わせ、顔を上下に動かし、リズムをとっている。


「何か思い出せそう?」

 玲子が尋ねると、

「ううん。思い出せない。でも、曲を聴いていると、とても幸せな気分になるの」

 マリアは安らかな表情をしている。まるで母親の傍にいるときのような表情だった。


 マリアが言った『幸せな気分』とは、昔のことなのか。それとも、いつもリサイタル会場の観客が感じることなのか。玲子には判断がつかない。

 数曲を演奏してみたが、結果は変わらなかった。今日のところは、これ以上は手がかりがつかめなかった。次に玲子の時間がとれる日は来週になる。


「今日はこれ以上は無理みたいです。来週また来ますね」

玲子は、次回までにいろいろ準備しようと思っていた。


「えっ。また来ていただけるのですか? ありがとうございます」

メグが感謝すると、

「グレイ神父の諦めの悪さが、私に伝染したようです。私も、マリアちゃんの記憶を取り戻したいと思っています。だから、来週もう一度挑戦させてください」

 と、玲子もマリアに興味をもった。


「ありがとうございます。それでは来週は、玲子さんのお家にこちらから伺います。そうさせてください」

 そう言うとメグは、来週の待ち合わせ時間を玲子と調整した。二人が玲子の家に来てくれるのは、多忙な玲子としてはありがたい。


 玲子が帰るとき、マリアが玲子の腕に寄り添った。玲子の腕にしがみついていると言った方が正しいかもしれない。

「玲子姉さんと一緒にいると、マリアすごく安心するの。来週が凄く待ち遠しいわ」

 マリアは、目にうっすら涙を浮かべている。


 人間にとって過去の記憶を失うことは、人生の半分を失っているようなものである。

 ましてや父や母の思い出が無いのは、愛情をもらえていないことと等しかった。そのため、マリアは愛情に飢えていた。しかも、マリアにとって玲子は、自分の運命を変える人である。だから親しみも、より一層深かった。


 玲子も、マリアの頭に頬を寄せた。

「マリアちゃん。また来週会いましょう。私も、マリアちゃんと会うのを楽しみにしているわ」

 玲子は、マリアの頭を優しく撫でた。


 玲子の両親は日本に住んでおり、近くに玲子の親戚はいない。それに、玲子には妹がいない。だから、玲子にとってマリアは、まるで妹のようだった。とても他人のようには思えなかった。

 教会を後にしたとき、マリアは玲子の姿が見えなくなるまで、ずっと涙をためて手を振り続けていた。



 リヒテンタール教会と玲子の家とは、五キロメートルほど離れている。

 協会からの帰宅途中、玲子は本屋へ立ち寄り『世界の子守歌』というCD付きの本を買った。

(マリアの出身国はオーストリアではない。となれば、中東、西アジア、北アフリカのいずれかの国の可能性が高いわ)

 玲子は来週までに、これらの子守歌を演奏できるように練習しようと考えていた。この中のどれかの曲をマリアが覚えていたら、マリアの記憶が戻るかもしれない。玲子は、その可能性にかけていた。


 玲子は、郊外にある一軒家に住んでいる。

 玲子はまだ独身なので、居住者は玲子と住み込みの家政婦の二人だけである。半年前に玲子は、ピアノをいつでも演奏できるように防音装置付きの部屋を備えている家を、四十年ローンで購入した。

 その家に帰宅すると、さっそく家政婦のビビが出迎えてくれた。


「おかえり、玲子。日本にいる母親から電話があったわよ」

 二十五歳のビビは、いつも明るく話す。家政婦というよりも、友達のような話し方だった。

「お母さんからの伝言は、何だったの?」

「いつものように『はやく結婚するように伝えてほしい』といっていたわ。それにお見合い候補の写真を送るそうよ」

 母親の用件は、近頃こればかりである。まだ玲子は18歳である。だが、母親は、どうしても玲子を結婚させ、玲子を日本に呼び戻したいと考えていた。どちらかというと日本に呼び戻したい。それが主な理由だった。それがわかっている玲子は、少しうんざりしていた。


「ありがとう。でも今度電話が来たら、適当にはぐらかしておいて」


「玲子、もったいないよ。お見合い相手は、医者や弁護士、政治家のお金持ちばかりよ」


「それならビビ、あなたが代わりに日本に行って、見合いをしてきてちょうだい。私は当分、誰とも結婚する気が無いわ」


「じゃあ、今度電話があったら、そういっておくね。見合いのときは玲子のドレスを借りるわよ」

 ビビは陽気に歌を歌いながら、玲子のドレスから自分の好みを選び始めた。ビビは、本気で日本に行こうとしているのかもしれない。


 ビビが日本へ行って玲子の代わりに見合いをしている姿を想像し、玲子は思わず笑いを吹き出しそうになった。

(お母さん、きっと驚くだろうな)

 玲子は仕事の都合上、地方での演奏があり、家を留守にすることが多い。そのためビビは、留守番を兼ねて住み込みで家政婦をしている。ビビの陽気な性格のおかげで、玲子は気分が安らいだ。


 その日の夜、玲子は買ってきた『世界の子守歌』を聴き、ピアノの練習をした。

 プロのピアニストが子守唄の曲の練習をするのは、誰もが不思議に思うかもしれない。すぐに演奏できそうなものだと、誰もが思うだろう。

 だが、玲子は、一つ一つの子守歌の特長を確かめながら、着実に自分のピアノ演奏曲としてアレンジした。マリアの記憶が戻ることを願いながら、マリアの目の輝きを思い出しながら、熱心に練習した。


 この夜、玲子の家の明かりは午前一時まで灯っていた。

 玲子の家の庭では、シクラメンがピンク色の花を開き、かすかに響く玲子のピアノ曲を聴いているかのようだった。


 

 それから一週間後、メグ修道女と一緒にマリアが、玲子の自宅を訪れた。


 マリアは、またしても玲子に抱きついた。まるで、本当の姉に再会したかのように幸せな顔をしている。

「玲子姉さんに会いたかった。今日をずっと楽しみにしていたの」


「マリアちゃん、いらっしゃい。マリアちゃんの記憶を取り戻せるように、お姉さん頑張るね」

 玲子はマリアから抱きつかれて悪い気はしなかった。むしろ、妹から抱きつかれたかのように嬉しかった。いつの間にか玲子は、マリアの笑顔をいとしく感じていた。


「すみません。本当にマリアは、いつもは人見知りが激しく、このように抱きつく人は、私の知る限り玲子さんだけです」

 メグが申し訳なさそうに謝るが、マリアは意に介さない。


 マリアが玲子に抱きついている姿を見て、ビビが驚いた。

「あらま。玲子、あなたたち姉妹みたいよ」


 確かに(はた)から見れば、マリアの態度は姉へ接するかのようである。ビビから「姉妹みたいよ」と言われたことが、玲子には嬉しかった。

「マリアちゃん、演奏室に行こう」

 玲子は、演奏室にマリアを連れて行った。


 マリアは、玲子の言うことには素直に従った。


 玲子の家には防音装置付きの演奏室がある。ピアノの練習をする際は、いつもこの部屋を用いている。

 演奏室に入ると、玲子はマリアとメグに椅子を提供した。そして、世界の子守歌を次々と奏でた。

 まるで、母親に抱かれて聴いているような、安心感に満ちた曲ばかりだった。


 マリアは玲子のピアノ演奏を聴き、幸せそうな表情をしていた。だが、だんだん目に涙が溜まってきた。

(あれ? なぜだろう?)

 マリア自身も、何故(なぜ)涙が目に溜まるのかが分からない。


 三十分後、玲子がピアノ演奏を終えたとき、マリアの目には大粒の涙があふれていた。

 マリアは、目に涙が溜まる理由がようやく分かった。玲子のピアノ曲を聴きながら、おぼろげに分かったのである。


「マリアちゃん。どうしたの?」

 マリアの涙に驚いて、玲子が尋ねると、

「お母さんが…ピアノを弾いていた…。私に…子守歌や、いろんな曲を聞かせてくれていた…。まるで、今の玲子姉さんのように…」

 涙声で途切れ途切れに、マリアがいった。


「昔を思い出したの?」


「少しだけ…、ほんの少しだけ…」


 マリアの記憶が少しだけ(よみがえ)った。

 今まで何度も病院で治療してきたが、無理だった。それが玲子のピアノ演奏で、少しだが、確かに甦った。過去を思い出したのである。

 まさに奇跡だった。


 玲子は嬉しさのあまり、思わずマリアを抱きしめた。マリアも玲子にすがるように玲子にしがみついた。


「玲子姉さん、ありがとう。ほんのわずかだけど、記憶が戻ったわ。お母さんの顔や声はまだ思い出せないけど、お母さんが奏でているピアノの曲は、かすかに聞こえた気がする」

 マリアは、涙を流しながらも笑顔だった。


 母親がマリアのためにピアノを弾いていた。ただそれだけのことだった。だが、今まで親の愛情を受けた記憶がないマリアにとって、その記憶は、大変な喜びであり、貴重なものだった。

 マリアは、喜びをかみしめていた。かすかな記憶ではあるが、マリアは母親の愛情を確認した。


(私は、母親に愛されていた)

 マリアは、それがわかっただけでも、嬉しかった。


 今まで父や母の記憶が無かったマリアは、孤独だった。自分が親から愛された記憶が無かった。

 子供にとって親から愛情をもらえないのは、辛く悲しい。孤独である。だが、今日、マリアは孤独から解放された。


「マリアちゃん、私と一緒にいれば、もっと記憶が甦るかもしれない。私も時間が空いたら、マリアちゃんと一緒にいるようにしてみるわ」

 マリアの長い髪を撫でながら、玲子がいった。


 思いもよらぬ玲子の言葉に、マリアは喜んだ。

「玲子姉さん、ありがとう。とても嬉しいわ」

 と、満面の笑顔を向け、

「でも、私は中学生だから、『マリアちゃん』だと恥ずかしい。『マリア』と呼んでほしいの」

 マリアは顔を赤らめて玲子に頼み、玲子の胸に顔を埋めた。


「わかったわ、マリア。マリアも時間があれば、私の家に来てね。いつ家に来ても大丈夫なように、ビビに伝えておくわ」

 玲子は、力を込めてマリアを抱きしめた。その抱擁に、マリアは自分の居場所が初めて見つかったかのような安心感を覚えた。


 マリアが玲子に親しみを感じた理由の一つは、マリアの母がピアノをいつも演奏していたためである。

『母親がピアノを演奏する外国の女性』

 それがマリアの過去の手掛かりに加わった。


 マリアの過去は、まだわからない。

 しかし、いつかは過去が明らかになるだろう。


(希望を持とう。希望に向かって進んで行けば、いつかは願いが叶うはずだわ)

 玲子はそう信じ、

(中学のときの友達は、どんな困難なことがあっても、決してあきらめなかったわ。私もそうありたい)

 と、心の中で誓った。



 マリアと出会ったことで、玲子の運命が大きく変わろうとしていた。

 今まで鳴りを潜めていた運命の歯車が、静かに動き出した。やがて、その歯車の動きは、少しずつ激しさを増すことになる。だが、玲子はその運命をまだ知らない。


 平和が当たり前の世界で生きてきた白井玲子が、やがて戦乱の真っ只中に巻き込まれ、しかも、勇者として(あが)められることになろうとは、このとき誰も予想だにしなかった。


 庭に植えているネムノキに咲いた紅色の花が、いつの間にか散ってしまっていた。季節は、まもなく秋を迎えようとしていた。

白井玲子がマリアと出会ったことで、今後、様々な出来事に遭遇します。


次回は、またスラノバ国の内戦の状況です。

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