18.蘇生
18.蘇生
近藤が王宮の治療室にあわただしく運ばれたため、本来、厳正であるべき王宮の中が、にわかに騒がしくなった。
王宮の医師や看護士は、声をかけ合い、治療をしている。
治療室には医師や看護士のほかに玲子とマリアが既にいる。そこにムハマドも一緒に付き添い、入って来た。しばらくすると、モナ王女も様子を見に来た。みんな近藤のことが心配だった。
毒蛇に咬まれて既に五時間経過しているため、近藤の心拍は極めて弱い。このままだとせっかく注射した血清が、全身へ行き渡らない。
医師が強心剤を注射した。
しかし、効き目が無い。近藤の体力は、既に限界を超えていた。
心臓の鼓動は、さらに弱くなり、やがて停止してしまった。
「近藤君、死なないで。あなたには、やり残したことがあるでしょう。あなたを待っている人が、この国には沢山いるのよ」
玲子の声が治療室に大きく響いた。
医師がAEDを用い、心臓マッサージを開始した。
しかし、懸命の手当てにもかかわらず、心臓は動かない。
心臓が止まって一分が経過した。わずかながらあった脳波も、ついに途切れてしまった。
医師が近藤の瞳孔の空き具合を見て、近藤の死を宣言した。
モナ王女やマリア、ムハマドは、驚きのあまり声がでない。そんな中、玲子だけが、
「そんなことない。まだ可能性がある」
と、近藤の死を認めない。
「ムハマド、心臓マッサージをして。肋骨が何本折れても構わない。心臓を動かすのよ。血液を全身に循環させて」
玲子はムハマドに指示し、さらに、
「マリア、近藤君の口に息を吹き込んで」
そう叫ぶと玲子自身は何を思ったのか、突然、グランドピアノの前に座った。
医師がムハマドたちを止めようとしたが、モナ王女が、医師たちを制止した。
「玲子の納得いくまでやらせてほしい」
モナ王女は、玲子が起こす奇跡を信じたかった。
ムハマドは、力いっぱい心臓マッサージをしている。心臓は自発的には動かないが、ムハマドの心臓マッサージで、血は全身を流れている。
マリアはマウツーマウスで近藤の口に規則的に息を吹き込み続けている。
その間、玲子はピアノの前で精神を集中させた。
(昔、私の友人が、『白井のピアノは聴く者すべてを別の世界へ誘う。神々の世界へ誘うことも可能だ』と言っていた。それならば、私のピアノで、神の世界に行こうとしている近藤君を呼び戻すことができるかもしれない)
玲子はさらに、
「神様、私に力をください」
と、胸の前で十字を切った後、渾身の力を込めて、ピアノを弾きだした。
治療室に玲子のピアノの旋律が激しく響く。
「ここは病室だ」
王宮の医師がピアノの旋律に驚き、演奏をやめさせようとした。
しかし、モナ王女が、それも制止した。
「玲子のピアノならば、奇跡を起こすかもしれない。彼女の納得するまでやらせてあげたい」
玲子は精神を集中し、ピアノを演奏している。モナ王女と医師とのやりとりに、全く気付いていないようだ。いつの間にか玲子の額には、大粒の汗が滲み出てきた。
ムハマドも、力いっぱい心臓マッサージを続けている。
あまりにも力を入れすぎたため、近藤の肋骨が数本折れた。
だが、心臓が停止した際は、たとえ肋骨が折れてでも心臓マッサージを続けるべきである。骨折は後で治療できる。しかし、心臓が停止すると、脳細胞に酸素が行き渡らなくなる。すると脳細胞が死んでしまう。一度死んだ脳細胞は、二度とは甦らない。そのことを知っているムハマドは、なおも懸命に心臓マッサージを続けた。
ムハマドの額からも、大粒の汗が落ちてきた。
マリアは、規則的に近藤の口に息を吹き込み続けている。
国営テレビでは、ドクター近藤の心臓が停止したことを一旦は放送したが、『東島の勇者』玲子を中心に、ドクター近藤の蘇生を懸命に試みていると放送された。
多くの国民がテレビやラジオの前でドクター近藤の蘇生を祈った。さらに沢山の人たちがモスクや教会に集まり、お祈りを始めた。お祈りをしている人たちは、王国軍も革命軍も関係ない。一様にドクター近藤の蘇生を祈っていた。
玲子は汗まみれだ。それでも一心不乱にピアノを演奏している。鋭い旋律が規則的に王宮に響き渡る。
(お願い、近藤君。このピアノの旋律に気づいて! 帰ってきて!)
玲子は何度も何度も、鋭い旋律を繰り返し奏でた。まるで母猫が迷子の子猫に帰る方向を教えるような響きだった。
やがて、三十分が経過した。
それでも玲子やムハマド、マリアは、作業を止めない。
そんな中、近藤の魂は暗闇にいた。
辺り一面、真っ暗な世界だった。
「ここは、どこだ?」
近藤には、ここがどこだか、わからない。
しかし、暗闇に目がだんだんと慣れてきた。
舟に乗っているようだ。船頭がいた。船頭が漕ぐリズムに合わせて舟が揺れていた。大きな川を渡っているようだ。しかし、周りは暗闇なので、川の水は見えない。
舟の上には十人ほどの人が乗っている。
「まもなく向こう岸に着きます」
船頭が告げた。
「向こう岸に着くと、もう皆さまには苦痛や苦労はありません。永遠の幸せが待っています」
(そうか。僕は死んだのか)
近藤は悟った。
「悔いは無いか?」
自問自答した。
「精一杯生きた。悔いは無い。だが、なにかを忘れているような気がする。でも、それが何なのかを思い出せない」
ふと耳を澄ますと、風に乗ってピアノの旋律が、かすかに聞こえた。
「誰が演奏しているのだろうか」
近藤は、薄れゆく意識の中で考えた。
すると、突然、閃くものがあった。
「白井だ。白井玲子が僕を呼んでいる」
近藤は、やり残したことを、とっさに思い出した。
「船頭さん、僕にはまだ、やるべきことが残っている。あのピアノの旋律の場所に戻りたい」
近藤は船頭に船を引き返すよう、懸命に頼んだ。
「あなた、あのピアノの旋律が聞こえるのですか。困りましたね」
船頭は困った表情で右手を伸ばし、掌を近藤の胸に当てた。
次の瞬間、鋭い衝撃波が胸に当たり、近藤は舟からはじき飛ばされた。
気がつくと、近藤は真っ暗な闇の中にいた。
前も後ろも上も下も暗闇だ。だが、ピアノの旋律は聞こえる。しかも、さっきより大きく響いている。わずかだがピアノに近づいたようだ。
近藤は闇の中を手探りで、ピアノの旋律の方向に歩いて行った。
(たとえ暗闇でも、ピアノの旋律に向かって進めば、白井に会える)
近藤は確信した。疲れた体に鞭打って、一歩一歩、歩き続けた。
やがて、ピアノの旋律がだんだん大きく響いてきた。
玲子がピアノ演奏を始めて、まもなく一時間が経過しようとしていた。
モナ王女がピアノの鍵盤を見ると、赤く染まっていた。
よく見ると、玲子の指先から血が出ている。激しい旋律の連続のため、玲子の指の皮膚が破け、血が飛び散っていた。
それでも、玲子はピアノ演奏を止めようとはしない。
「脳波が復活した!」
突然、医師が叫んだ。
「心臓の鼓動も復活しました。ゆっくりですが、力強く動いています」
今度は看護師が叫んだ。
やがて、近藤がゆっくりと目を開き、
「白井…」
と、つぶやいた。
「近藤君、帰ってきたのね!」
玲子は喜び、思わず近藤の首に抱きついた。
「舟に乗っていたら…、白井のピアノの音が…聞こえた。その方向に…歩き続けた」
近藤が、たどたどしく語った。
「よかった」
玲子は嬉し涙を流した。
このとき近藤のうなじに『ビチャッ』と液体のようなものが付いた感覚がした。首の後ろに手を当て、その手を見ると血が付いていた。
「この血は?」
玲子の手を見ると、両手の指先から真っ赤な血が流れていた。
「そうか…、僕に呼びかけるため、そこまでしてピアノを演奏してくれたのか」
近藤は玲子を抱きしめた。
「ありがとう、白井」
玲子を抱きしめたとき、近藤は胸が痛むのを感じた。苦しい。思わず胸に手を当てた。
「ドクター近藤、すまない。心臓マッサージをしていたときに、何本か肋骨が折れたようだ」
ムハマドが神妙な顔で謝った。
ムハマドの額からは大粒の汗が流れている。
「ムハマド…、そんなになるまで心臓マッサージを続けてくれたのか…。ありがとう」
直ちに医師たちが近藤の肋骨の手当をした。ギブスが装着された。
治療室にいる全員が、近藤が蘇った奇跡に、喜びをかみしめた。
ムハマドは、治療室の外で祈り続けているサイルたちや国営テレビのカメラマンに、近藤の回復を連絡した。
すると直ちにスラノバ国の国営テレビとラジオで、ドクター近藤が意識を取り戻したと放送された。
ドクター近藤の蘇生の知らせに、スラノバ国の国民は、王国軍も革命軍も関係なく、みんなで喜び合った。モスクや教会で、近藤の回復を祈り続けていた人たちが涙を流しながら抱き合っていた。酒場でも、人々が握手をし、近藤が助かったことに乾杯した。
内戦で多くの命が奪われていったスラノバ国で、たった一人の命を救うために、これほど多くの国民が力を合わせたのは、初めてのことだった。国民は、命の大切さを改めて知った。
さらに国営テレビでは、王国軍と革命軍とが一緒にナイガル橋の修理をしている映像を、放送した。
映像では、民間のイルート族や王国の人民も加わり、みんなで協力し作業している姿も映された。
信じられない光景だった。誰もが、我が目を疑った。
王国軍と革命軍とが一緒に作業をしている。しかも、作業終了後には、お互い握手をし、笑い合っていた。武器と武器で戦うので無く、お互いの手を握りしめ、心を通わせていた。
この映像を見たスラノバ国の人たちは、誰もが大いに驚いた。そして、内戦の終了がもうすぐであることを予感した。
「まもなく内戦が終了する」
スラノバ国のいたるところで、そんな噂が流れだした。酒場や食堂では、そんな話が持ちきりだった。中立地区の市場では、気の早い店主たちが内戦終了を願ってのバーゲンセールを始めた。
それから三時間後、王宮の治療室では、ドクター近藤の体に溜まっていた毒が、血清により中和されたことが確認された。近藤は、ときおり笑顔をみせることができるまでに回復していた。
すると、マリアが近藤の耳元に近寄り、小さな声で囁いた。
「私、近藤さんの人工呼吸をずっとしていたのよ」
「マリアちゃん、ありがとう」
近藤はマリアの頭を撫でた。
「私のファーストキスだったのよ。責任とってね」
マリアは甘えた表情を、近藤にみせている。
「えっ?」
近藤は慌てた。冷や汗が流れたように感じた。
「玲子、強力なライバルが現れたな」
ムハマドが玲子に笑いながら囁いた。
「えっ?…、き…きにしていないよ…。ぜ…全然へいき…」
玲子は顔を赤くしている。声も上ずっている。言葉とは裏腹に、明らかに玲子は動揺していた。
近藤が思わず笑った。
「白井のそんな戸惑っている表情、久しぶりに見た」
「そうか…、玲子姉さんも近藤さんのことが好きだったのね」
そんな玲子の表情を見たマリアは、近藤に向かい、
「近藤さん、玲子姉さんと結婚するのなら、私は諦めるわ」
と告げると、玲子の背中を押し、
「さ、行って、行って」
玲子を近藤の枕元へ導いた。
近藤は、照れてどうしたらよいか分からない。
すると、すかさず玲子が近藤の口にキスをした。
「遅ればせながら、人工呼吸よ。これで私もファーストキスを捧げたことになるわ。責任とってよね!」
「えっ?」
近藤は、信じられない顔をしている。
玲子は顔を真っ赤にしている。おそらく、あれは、玲子のありったけの勇気を奮い起こした行動だったのだろう。どうやら玲子は、マリアに嫉妬していたようだ。
ムハマドとマリアが笑った。王宮の医師たちも笑っていた。
治療室は和やかな雰囲気に包まれた。
その後マリアは、一人でモナ王女の部屋に行った。
今日は2時間ほど過ごした部屋だった。
広い部屋の中にはモナ王女しかいない。側近のサーニアは、どこかへ行っているようだ。
「サマル、今日は私の代わりをしてくれて、ありがとう」
モナ王女が笑顔を見せた。優しい笑顔だった。
だが、マリアはモナ王女には返事せずに、
「お姉様。これ返すね」
と、手紙をモナ王女に渡した。
革命軍との交渉が失敗したときのために、モナ王女が書いた手紙だった。
「サマル、これを読んだの?」
モナ王女は驚いた様子だった。だがマリアは、モナ王女の問いかけには答えず、
「私は…、私は、お父様やお母様を恨んでいない!」
マリアは大きく目を見開き、叫んだ。
「私は、お父様やお母様、それにお姉様から愛されている。私は寂しくない」
そう叫ぶやいなや、マリアはモナ王女にしがみついた。
「だから…、罪を償うとか、死ぬとか…言わないで…。お姉様が死んだら、私…私…」
そこから先は言葉にならなかった。マリアの嗚咽だけが聞こえてきた。マリアの目からは、大粒の涙がこぼれ落ちている。
モナ王女は、マリアを抱きしめた。
「ごめん、サマル。私が悪かった。許して」
モナ王女は、マリアの頭を優しく撫でた。
「もう二度と死ぬなどと言わないわ。大切な妹を残して死ぬことはしない」
モナ王女とマリアは、八年ぶりにお互いの温もりを感じていた。それは肌の温もりだけで無く、二人の心の温もりだった。お互いを大切にし合う温もりだった。
ようやくマリアは、パンドラの箱の底に残っていた希望を、見つけることができた。
この希望を見つけるまでに、マリアは相当苦労した。もちろん玲子に出会わなければ、今の状況はありえない。
マリアは、心の中で玲子に感謝した。
近藤が助かって良かったですね。
玲子の最後の勇気も見事でした。
次回はいよいよフィナーレです。




