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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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16.絶体絶命

  16.絶体絶命


 話は今から一時間ほど前に(さかのぼ)る。


 モナ王女から救急車のルート変更指示を受けた玲子は、(ただ)ちに病院へ電話した。

 すぐに、看護師のロバートに電話がつながった。

 緊迫した空気のなか、玲子はあえてゆっくりと看護師ロバートへ説明を始めた。聞き洩らしや説明の漏れがあれば、その時点で近藤の助かる可能性が無くなる。それだけは絶対に避けたかった。


 玲子の説明を聞いたロバートは、すぐにルート9だと行けない理由を二つ告げた。

「玲子さん、一つ目の理由は、ルート9はイルート族の村を通過します。救急車が攻撃をうける危険があります。もう一つの理由は、ルート9の王宮近くを流れる川にナイガル橋が架かっていますが、その橋は壊れており、今は車が通れません」


「えっ?」

 予想もしない理由を告げられて、思わず玲子の額に汗がにじんだ。


「玲子さん、あなたはそのことを知らなかったのですか?」


「はい…、知りませんでした」

 玲子の正直な答えに、ロバートはあきれ返った。


 そのとき玲子は、モナ王女が言ったことを思いだした。

(おそらく、病院スタッフの人は、ルート9で行けない理由を、あれこれ言うと思います。でも…)


 まさに、モナ王女が予想したとおりだった。

 だから玲子は、モナ王女が何とかしてくれると考えた。すぐさま受話器に向かって大声でいった。

「しかし、モナ王女が全て解決すると言っていました。これしか近藤君を助ける方法はありません」

 改めて玲子は、看護士ロバートにルート9で行くようにと、説得を続けた。


 ルート9を通るしか近藤を救う方法がないことは、看護士ロバートも十分に理解していた。だが、それは、実現の可能性が殆ど無いことも、彼は知っていた。

(モナ王女に解決できるわけが無い)

 ロバートは、そう思っている。しかし、解決してもらわないとドクター近藤が助からないことも、彼は分かっていた。


 ロバートは「救命士に連絡してみる」といい、電話を切った。

 それから五分後、ロバートから玲子に電話があった。

 A国の救命士が、かたくなにルート9を拒否しているとのことだった。

 確かに普通の人間なら拒否するだろう。イルート族の村を通ることは、死の恐怖と戦いながら運転することになる。いかにモナ王女が解決すると言ったところで、相手はイルート族である。

 解決できるのであれば、内戦など発生していないと誰もが思う。


 看護士ロバートが玲子に、直接救命士を説得してほしいと頼んだ。

 電話番号を教えてもらい、玲子は直ちに電話した。

(今度の説得は絶対に失敗できないわ。慎重に話さなきゃ)

 玲子は、震える胸の高まりを落ち着かせて話し出した。

「ハロー、私の名前は白井玲子といいます。血清を運ぶルートでお話しがあります」


 すると、玲子からの電話に救命士のハリーが驚いた。

「あなたは『東島(あずまじま)の勇者』ですか?」

 予想もしない質問だった。


「はい…、そう呼ばれていますが…」

 とまどいつつ玲子は答え、救命士のハリーにルート9を通るしか間に合う方法がないことを告げた。そして懸命に頼んだ。


 ハリーはA国の国民だが、仕事柄、A国とスラノバ国の間を何度も行き来していた。

 ハリーが先日スラノバ国に行ったとき、彼は国営テレビで玲子の姿を見た。そして玲子を中心に人間の鎖をつくるスラノバ国国民の姿を、その目でしっかりと目撃した。その光景にハリーは感銘を受けた。

 そして、王国軍もイルート族も関係無く、多くの人たちが玲子を尊敬していることを、ハリーは知っている。


「イルート族に尊敬されている東島の勇者が指示するのなら、私も安心できます」

 救命士ハリーは、ようやくルート9で行くことを了解した。

 また、救命士ハリーは、「モナ王女やアフマド国王がイルート族を説得するのは無理だろう」とも告げた。そしてそれは、玲子も心配していたことだった。


 玲子は、モナ王女がどうやって解決するのかが気がかりだった。

 解決できない場合は、救命士の命が危険にさらされる。それは近藤の死を意味していた。


 玲子は、マリアを探した。モナ王女の解決方法を知るためである。

 しかし、どこにもマリアはいない。代わりにテーブルの上に書き置きがあった。

『モナ王女から王宮に呼ばれたので、行きます』

 書き置きを見ると、マリアは王宮へ向かったようだ。玲子は、マリアに電話してみた。

 しかし、聞こえてくるのは呼び出し音のみであり、マリアは電話にでない。


「まずいわ。このままでは救命士の命も危険になる」

 玲子は、打開策を考えた。そして一つの案を思いついた。そして、それを実行するために、急いで国営テレビ局へ向かった。



 四十分後、国営テレビ局へ行く途中で、玲子はマリアから電話を受けた。だが、マリアもモナ王女と連絡がとれなくなったとのことだった。

 玲子は、ますます不安が募った。

 だが、躊躇(ちゅうちょ)している余裕は無い。今は時間との闘いだ。間に合わなければ救命士が死に、近藤も命を落とす。


 やっとのことで、玲子は国営テレビ局に着いた。血清のタイムリミットは、あと四時間に迫っていた。

 玲子は、先日、中立地区を守るための運動で、国営テレビ局のワイズ氏と知り合った。その伝手(つて)を活用するつもりだった。


 すぐさま受付に駆け込み、ワイズ氏に面会を求めた。

「大至急お願いします!」


 受付の女性も、玲子の顔を見ると、『東島の勇者』だと分かったようだ。しかも、玲子の表情や息継ぎの荒さから、ただならぬ緊急性を感じた。

 受付の女性が急いでワイズ氏に連絡すると、すぐにワイズ氏がやって来た。


 部屋へ通される時間を惜しみ、玲子は受付の場所で事態を説明した。そして、緊急のテレビ放送とラジオ放送の依頼をした。

「ワイズさん。お願いします。このままでは救命士の命も危険です。それは、ドクター近藤の死を意味します」


 瞬く間にワイズ氏の表情が変わった。ワイズ氏も、短時間で玲子の話を理解したようだ。

 救命士の死は、ドクター近藤の死を招くことになる。そしてドクター近藤の死は、スラノバ国国民の不幸を招くことになる。

 まずは、何としてでも、救命士の安全を確保する必要があった。そのために緊急放送をする。


 現在の番組を中断し、緊急放送をするためには、本来ならば社長か専務に許可をもらう必要がある。だが、社長も専務も出張中だ。連絡がとれない。

 ワイズ氏は悩んだ。やがて、ワイズ氏の足が小刻みに震えだした。悩んだ末に、

「ええい!」

 と、ワイズ氏は大声で叫んだ。それから大股で力強く歩み出すと、ワイズ氏は親しい部下を数名連れて、玲子と一緒に第三スタジオに駆け込んだ。


 第三スタジオは、現在未使用で空いている。

 ワイズ氏は部下に命令した。

「五分以内にテレビとラジオを放送可能なようにしろ。撮影するのは玲子、『東島の勇者』だけでいい」


 それからワイズ氏は玲子に向かってうったえた。

「玲子さん、いや、『東島の勇者』よ。五分後に放送を始める。そこであなたは『東島の勇者』として、スラノバ国国民に向かってうったえてくれ」


 ワイズ氏は、玲子にそれだけ伝えると、急いで第一スタジオに駆け込んだ。おそらく、現在放送中の番組ディレクターと交渉するためだろう。


 玲子は、第三スタジオを見渡した。すると、

スタジオの隅に古ぼけたピアノがあった。玲子は、そのピアノに目を止めた。

 


   ******


 

 その頃、血清を積んだ救急車がイルート族の村を通ろうとしていた。

 山と山に囲まれた、静かで貧しい村だった。村人は皆、質素な暮らしをしていた。水道や電気や電話は、ほんの一部、村長の家にしかしか通ってない。その貴重な水道や電気や電話を、村人は共有していた。もちろん携帯電話の電波も届かない場所だった。


 村の入口でハリーは、イルート族の警備兵から停車を命じられた。警備兵は銃口を救急車に向けている。

 救命士のハリーは、怯えながらも懸命に説明した。

「救急車だよ。武器は積んでいない。『東島の勇者』に頼まれたんだ。それに俺はA国国民だ。王国軍の兵士じゃない」

 ハリーは両手を広げ、ジェスチャーをしながら何とか理解してもらおうとしている。

「人の命がかかっている。血清を運んでいる。毒蛇に咬まれた男がいる。早くしないと間に合わない。通してくれ。信用できないのなら、一緒に救急車に乗っても構わない」


 救命士ハリーは、毒蛇に咬まれた男がドクター近藤だとは知らなかった。これは玲子や看護師ロバートの致命的なミスだった。

 患者がドクター近藤であることを告げたら、イルート族の警備兵も対応が変わったかもしれない。

 この村には外部の車はめったに通らない。外部の車は、スパイか破壊活動をするための車だと、警備兵は上官から教わっていた。だから、珍しいA国の救急車を見ても、イルート族の警備兵は、救命士ハリーの言葉を信じなかった。


「嘘をつくな!」


「嘘じゃない。この携帯電話に『東島の勇者』から電話がかかってきた」

 ハリーはそう言って、携帯電話の着信履歴をみせた。


 着信電話番号で電話をしたが、電波が届かない。この辺りは携帯電話が使用できない場所であることを、ハリーは知らなかった。


「見え透いた嘘をつくんじゃない。それにどんなに急いでも、この先は橋が壊れており、通れない」

 警備兵は、救命士ハリーの携帯電話をとりあげた。


「目的は何だ。指令部に爆弾でも仕掛けるつもりか?」


「橋は王国軍が修理しているはずだ」

 ハリーがいった。


 しかし、ここで王国軍の名前を出したのは、さらに疑いを招くことになった。


「お前、王国軍の手先か? ますます怪しいやつだ。捕縛しろ!」

 警備隊長が部下に捕縛するよう命令した。


 ハリーは、銃口を向けられ、救急車から引きずりおろされた。そしてハリーは、恐怖に襲われた。生きた心地がしない。極度の緊張のため、喉が急に渇きだした。そして恐怖で手足が大きく震えだした。


 今まで人の命を助ける仕事をしてきたハリーにとって、戦争は自分とは別世界の出来事だと思っていた。銃口を向けられることなどまったく想像していなかった。

(やはりルート9を通るべきではなかった)

 ハリーは後悔した。

「お願いだ。『東島の勇者』よ、助けてくれ」

 ハリーは声を枯らし、大声で叫んだ。



   ******



 話はまた今から一時間ほど前に(さかのぼ)る。

 マリアは、モナ王女からの指示で王宮へ向かった。

 王宮に着くと、モナ王女から指定された側近のサーニアに会った。


 サーニアは、四年前からモナ王女の側近として日常の世話をしており、マリアのことを知らない。

 サーニアは、マリアの顔を見て驚いた。

「ありゃまぁ、モナ王女とそっくりだよ」


 マリアは、モナ王女の頼みが大体見当ついていた。

(おそらく、今日一日はモナ王女になりすごし、王宮にいるように見せるためだと思う。

 モナお姉様が何をしようとしているのかは知らないけど、私が協力しなければ成り立たない計画なのだわ)

 マリアは、姉の計画が成功することを願った。


 サーニアはマリアをモナ王女の部屋へ連れて行くと、モナ王女の服に着替えさせ、髪型を三つ編みにした。

 どこから見ても、モナ王女そっくりである。

 サーニアは、モナ王女から預かった手紙のうちの一通を、マリアに渡した。


 すかさず封を開け、マリアは手紙を読んだ。

「サマル、お願い。今日一日、モナ王女として王室にいてほしい。ドクター近藤を助けるため、私はイルート族のヒアム司令官に協力を求めに行く」

 モナ王女の筆跡だった。


「モナ王女はどこに行ったの?」

 マリアがサーニアに尋ねると、護衛のテーラーと一緒に、どこかへ出かけたとのことだった。

 マリアは不安を感じた。

「サーニアさん、モナ王女は何時に帰って来ると言っていましたか?」


「それが聞いていないんだよ」


「心配じゃないの?」


「そりゃ心配だよ。でもモナ王女の命令だから、断ることができなかったよ」


 サーニアも、モナ王女を心配していた。しかし、サーニアは、モナ王女がイルート族のヒアム司令官に会いに行くことを知らない。サーニアがそれを知ったら絶対に協力しないことを、モナ王女は知っていた。だから、サーニアには知らせなかったのだ。


 すぐさまマリアは、モナ王女に電話をした。だが、モナ王女は電話にでない。電話がつながらない。マリアも不安がつのった。

 携帯電話の受信履歴を見ると、玲子からの不在着信があった。

 急ぎ玲子に電話をして、サーニアには聞こえぬように状況を伝えた。


「玲子姉さん、モナお姉様は行方不明よ。電話をかけても通じない。『革命軍のヒアム司令官に会いに行く』と、私宛の手紙に書いてあったわ」

 マリアは焦った表情で、さらに続けた。

「私、とっても心配なの。ヒアム司令官は、話し合いが通じる相手ではないと思うの…」


 玲子も、マリアと同じ考えだった。

「マリアは今、王室で何をしているの?」


「モナ王女に扮しているわ。お姉様が王宮にいると見せかけるために」


 玲子は、国営テレビ局に向かっていることをマリアに告げた。

 救命士とドクター近藤の命を守るために、スラノバ国国民に向けて呼びかけるとのことだ。

「ところでマリア、ルート9に架かっている橋の修理に関して、何か情報を知っている?」


「ケント大佐たちが修理しているわ。さっき側近のサーニアさんから聞いたの…」

 マリアは、玲子にも情報を共有してもらうために、自分がサーニアから聞いた情報を、全て玲子に伝えた。

「修理にあたって、お姉様はケント大佐に二つの条件を出したそうよ。ひとつは四時間以内で終わらせること。もうひとつは武器を一切持って行かないことだそうよ」


 ケント大佐に指示をしてから、すでに四十分以上経過している。

(橋の修理は時間通りに終了するのかしら? それよりも、ヒアム司令官がそれを知ったら、襲撃するに決まっている。王国軍は、武器も持たずに作業している。丸腰で逃げ場のない橋の上にいる。まさに射撃の的よ)


 玲子は、ますます不安がつのった。


「玲子姉さん、テレビ局での用事が済んだら王宮へ来て。側近のサーニアさんに面会すれば、私と会うことができるわ。近藤さんも、やがて王宮に着くはずよ」

 マリアはそう告げて、電話を切った。



(玲子の計画が実行されるのであれば、間もなく緊急放送があるはずだわ)

 マリアは国営テレビを見たかった。

「サーニアさん、すみませんが国営テレビをつけて下さい」


「モナ王女、あなたは今、モナ王女なのだから、私に頼むときは『すみません』や『お願いします』を言ってはなりません」

 サーニアはマリアに向かって更に続けた。

「いいですか。『サーニア、国営テレビをつけよ』と、いうのです。わかりましたか?」


「わかりました」

 マリアがこたえた。


「それも『わかった』と言い直してください」


「わかり…わかった」

(王女とは、なんと窮屈な職業だろう)

 マリアは思った。


 サーニアがテレビをつけてくれたが、まだ緊急放送が始まっていない。

 気晴らしに本でも読もうと脚立(きゃたつ)を広げ、部屋に設置されている本棚の最上段にある本を取ろうとした。

 すると、サーニアがあわててやって来た。

「そのようなことは、おっしゃっていただければ私が取ります」


「それじゃあ、一番上にあるスラノバ国王室歴史書を、おね…いや、たのむ」


 サーニアは「わかりました」といい、脚立に乗ったが、バランスを崩して倒れた。どこかを打撲したようだ。サーニアは、直ぐには起き上がれなかった。


「サーニアさん大丈夫?」

 マリアはサーニアを助け起こした。


「いたたた…」


 サーニアはしたたかに腰を打ったようだ。腰のあたりに手をやっている。

 そのときサーニアの懐から手紙が床に落ちた。


「この手紙は?」

 マリアはサーニアに尋ねた。


 モナ王女からマリアへの手紙だった。


「これは明日マリアさんに読ませるようにと、モナ王女から頼まれたものです」


「明日読ませる…」

 マリアがつぶやいた。

 それがどんな意味をもつのか、マリアは瞬時に理解した。

「緊急事態です。今すぐ読みます」

 マリアは急いで手紙の封を開けた。


 手紙は次のような文で始まっている。

『私の大好きなサマルへ』

 マリアは手紙を読んだ。



 サマルがこの手紙を読んでいるということは、私の交渉が失敗し、私は既に死んでいるでしょう。

 私は、人質となり王室に迷惑をかけるくらいならば、舌を噛んで自殺するつもりです。

 しかしサマル、悲しまないでね。これも私の運命だったのでしょう。サマルのこの八年間の苦労に比べれば、たいしたことありません。


 サマルには、つらい思いをさせてきました。だから、私の死で償わせてください。父や母を許してください。

 母は、サマルがいなくなってから、大好きだったピアノを物置にしまい、それから一度も演奏していません。

 父は、サマルがいなくなった後、笑わなくなりました。この前、サマルと玲子さんを招いた王宮での夕食会のとき、父はサマルの顔を見て、八年ぶりに笑顔を見せました。


 サマルの苦悩に比べると、些細なことだと思います。でも、どうか父と母を許してあげてください。

 そして、今後は私の代わりに、モナ王女としてスラノバ国の未来のために生きてください。

 それが私の願いです。


 サマルをもう一度抱きしめたかった。

 サマルの笑顔を、もう一度見たかった。

 私は、サマルをいつまでも愛しています。

 私の魂は、いつまでもサマルの側にいます。


 

 手紙を読み終えると、マリアは大急ぎで玲子に電話した。

(大変、モナお姉様は死ぬ覚悟だわ。なんとかしなきゃ)

 マリアは焦った。

 しかし、玲子への電話は通じなかった。おそらく、スタジオで緊急放送の準備をするために、電源を切ったのだろう。

(父や母に相談しようか? でも、相談しても、今は王国軍を動かせないわ…)

 まだ、モナ王女とヒアム司令官との交渉が、終わったかどうかもわからない。仮に交渉が順調だった場合、王国軍を動かすと逆効果になる危険があった。


 マリアは、もう一度、モナ王女に電話した。

 しかし、電話がつながらない。

 今は待つことしかできなかった。

「今は何もできない。私は無力だ」

 マリアは涙がこぼれてきた。

(モナお姉様、死なないで)

 マリアは天に向かって祈った。



   *****



 ちょうどその頃、サイルはトンガル村へ車で向かっていた。

 ドクター近藤を王宮へ運ぶのが、サイルの使命だ。


 サイルは一時間前にトンガル村の村長と電話で連絡し、ドクター近藤を直ちに山のふもとまで運ぶように指示した。 また、ドクター近藤を救うには、王宮まで運び、そこで血清を打つしかないことを告げた。さらに、山のふもとからは王国軍の車で運ぶことも説明した。


 村長はサイルの依頼を了解し、直ちに屈強な男を集めた。

 男たちはドクター近藤を担架に乗せ、落ちないようにロープで縛り、山を下り始めた。

 一緒に出張診療に行った看護師助手のムハマドも、近藤に付き添っている。


 しかし、普通に歩いても三時間かかる道のりだ。ましてや担架に人をのせ、険しい斜面や岩場や崖横の細道を通るには、相当な時間がかかる。


 サイルは、村長に「三時間以内で山のふもとまで運ぶように」と伝えた。しかし、それは無茶な注文だった。村長をはじめトンガル村の男たちは、口にこそ出さないが、担架に乗せた病人を山のふもとまで運ぶには、四時間以上かかると感じていた。



 ドクター近藤を運び始めて、すでに一時間が経過した。だが、まだ四分の一の距離しか進んでいない。


(このままでは間に合わない)

 ムハマドも気づいた。


 村の男たちは、みんな一生懸命だ。誰一人として手抜きをしていない。

 しかし、このままでは、山のふもとまで四時間以上かかる。

 そこから車で王宮まで二時間かかるため、合計六時間以上だ。五時間以内に血清を打つ必要があるが、一時間以上遅れてしまう。


「このままでは間に合わない! ドクター近藤が死ぬ」

 ムハマドが大声で叫んだ。まるで、魔人の咆哮のような響きだった。

近藤の命は、今、風前の灯火です。


次回は、それでも希望を捨てないで頑張る人々を描いています。

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