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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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13.神の沼

  13.神の沼


 人間の鎖で中立地区を守った翌朝、玲子は、ホテルの支配人サムに深々と謝っていた。


「すみません。お借りしたピアノに傷をつけてしまいました」


 昨日、ピアノをクレーンで上げ下げした際に、ピアノの側面に傷がついてしまった。ピアノに傷がつくと、ピアノの値打ちは大きく下がる。ましてや、このピアノはホテルのロビーに置かれていた。ロビーにあるピアノの傷は、ホテルの顔に傷をつけたようなものである。玲子は、多額の賠償金を覚悟した。


「玲子さん、気にすることはありません。このピアノは今後もロビーに置きます。『東島(あずまじま)の勇者』玲子が演奏したピアノとして、ホテルの宣伝に使います。きっと、世界中から大勢の人が、このピアノを見るためにホテルに訪れるでしょう」


 不思議と支配人サムは上機嫌だった。玲子は弁償を免れたため、胸をなでおろした。


「内戦が停戦となったので、外国から大勢の観光客が、このホテルにやってきます。さっそく今朝から、予約の電話で大忙しです」


 お客が増えた最大の功労者は玲子である。彼女の勇気が中立地区に平和をもたらした。

 支配人サムは、そう感じていた。だから彼は、玲子たちの部屋をスィートルームに無償で変更した。それは、サムの玲子に対する感謝のしるしだった。


 玲子は今朝、近藤と会う約束をしている。

 ホテルから病院へ行く途中、すれ違うほとんどの人が、玲子のことを『東島の勇者』と呼び、挨拶をした。

 昨日までとは全く異なっていた。一躍スターになったような感覚だった。

『東島の勇者様、おはようございます』との挨拶はもちろんのこと、

『東島の勇者、どちらへ行かれるのですか?』など、数多くの見知らぬ人から声をかけられた。


 小さな子供たちに至っては、

『あーっ、東島の勇者様だ!』と玲子を指さし、笑顔で駆け寄って来るではないか。握手をせがむ子供や、抱っこしてほしいとねだる子供たちもいた。

 この地区で、玲子のことを知らない人は、いなかった。いや、おそらく、スラノバ国すべての人が、東島の勇者の顔を覚えたに違いない。


 玲子は恥ずかしかった。この四日間、玲子は、ただ夢中で行動しただけだった。みんなから尊敬されようとか、人気を得ようとか、そんな思いで動いたつもりは全くなかった。ただ単に、近藤の命を守りたい、あのときの行動の原点は、ただそれだけだった。

 玲子は顔を赤くして、それでも挨拶してくれた一人一人に丁寧に応対した。


(私を『東島の勇者』と呼んでくれる人は、平和を願っている。その人たちの気持ちを大切にしなきゃ)

 それは玲子の素直な気持ちだった。


 通常、ホテルから病院までは十五分で着く。しかし、今朝は一時間以上かけて、やっとのことで病院へたどり着いた。診察室で近藤と会ったときには、玲子は疲れ果てていた。

 ムハマドからマテ茶をもらい、玲子はやっと人心地(ひとごこち)ついた。部屋には玲子、マリア、近藤、ムハマドの四人がいる。


「白井、改めてありがとう。白井のおかげで、病院が守られた。内戦が停戦になった。僕の命も救われた」

 そう言いながら、近藤が玲子に新聞を見せた。

 玲子が新聞記事を読むと、一面に大きく昨日の中立地区での出来事が掲載されていた。そして二面には、確かに『停戦』と書かれていた。ホテル支配人のサムが言っていたことは、本当だった。


 スラノバ国に平和が訪れつつある。今朝挨拶したみんなの笑顔は、内戦の停戦を喜んだものだった。

 しばらく新聞を眺めていたが、新聞に掲載された写真を見て、玲子は思わず笑った。


「この新聞の写真、マリアとモナ王女を間違えて説明しているわ。これを書いた新聞記者は、後で上司から大目玉を食うはずよ」


 昨日もモナ王女は、頭部を隠す『ニカーブ』と全身を覆う『アバヤ』を身に着けていた。だから、おそらく新聞記者は、マリアとモナ王女を間違えたのだろう。

 玲子は、ただ単にそう感じて、無邪気に笑っている。


 近藤も、玲子に(うなが)されるように新聞の写真と説明を見比べて、

「本当だ。間違えている」と、頬笑んだ。


 室内に笑い声がこだまする。

 玲子は、みんなも笑っているものだと思っていた。だが、実際には、マリアとムハマドは笑っていない。静かにしている。


 玲子は笑いながら、

「いくらモナ王女の目元とマリアの目元が似ていると言ったって…」

 と、話したところで、ふと何かに気づいた。

 新聞の写真に違和感があった。アマル王妃とモナ王女が手をつないでいない。二人ともマリアと手をつないでいる。

 思わず振り返り、マリアを見た。マリアは相変わらず下を向いて黙っている。こんなときのマリアは決まって何かを隠している。最近マリアと一緒に過ごすことで、玲子はマリアの癖がわかるようになった。


 玲子はマリアの目元を観察した。目元が似ているなんてレベルでは無かった。目元がモナ王女とそっくり、いや、目元がモナ王女とうりふたつだった。


『私が幼かった頃、私の遊び相手は、もう一人の私だったの』

 スラノバ国に来る前にマリアが言ったことを、玲子は思い出した。

(まさか…)

 ついに玲子も気づいた。


「マリア! いつからなの? いつ気づいたの?」

 思わず大声で叫んだ。


 玲子のあまりの声の大きさに近藤が驚き、

「白井。どうしたんだ?」

 と尋ねると、すかさずムハマドが、

「別の部屋へ行こう」

 そう言って玲子たちを、病院奥の物置に無理やり連れて行った。


「ちょっとムハマドさん、乱暴にしないで」

 玲子が苦言を言ったが、ムハマドは玲子の言葉を無視するように三人を物置に入れると、扉を閉め、内鍵をかけた。


「ムハマド、どうしたんだ」

 近藤にはムハマドの突然の行動が理解できない。ムハマドは理由も無く乱暴をはたらく男ではない。何か理由があるはずだ。


「この話は誰にも知られてはいけない話だ。知られると王国が崩壊する。小さな声で話してほしい」

 ムハマドが皆を諭すように小さな声でいった。

 すると、マリアが小さな声で、つぶやいた。

「玲子姉さん…、王宮に招かれたときに気づいたの。モナ王女は私のお姉様…」


 マリアの返事は衝撃的だった。


 玲子は、王宮に招かれたときのサイルの言葉を思い出した。

『もちろんマリアちゃんも同伴で構いません』

 あのときサイルは『マリアちゃんも同伴で』と、いった。確かに言った。

(しかし、本当は、王宮に招かれたのはマリアだった。私はマリアの単なる同伴者だった)

 玲子は、王宮に招かれた自分が有頂天だったことを思い出し、恥ずかしさとショックで目の前が暗くなった。


 マリアが泣き始めた。大粒の涙が頬をつたいこぼれている。

 玲子はまだ視点が定まっておらず、マリアの涙に気づかない。

 それを見て思わず近藤が、

「白井! マリアちゃんを慰めることができるのは白井だけだ。何をしている!」

 と、玲子を叱った。


 近藤の叫び声で、思わず玲子は我に返った。

(そうだわ。今、一番悲しいのはマリアよ。私はマリアといつも一緒にいると約束した。つまらない私の悩みより、マリアの悲しみの方がずっと大きい)

 思わずマリアを抱きしめた。


「マリア。ごめんね。マリアの悲しみに気づいてあげられなくて、ごめん。お姉さん失格だね」

 玲子はマリアを抱きしめながら泣いた。


「玲子姉さん。玲子姉さんは私の大切なお姉さんだよ。『お姉さん失格』なんて言わないで。どこにも行かないで」

 マリアも玲子にしがみつき、泣き続けた。


 マリアの悲しみが、ようやく玲子に理解してもらえた。この間の苦しみを吐き出すかのように、玲子の胸に顔を(うず)め、マリアは声をあげて泣き続けた。


 しばらくして、近藤がムハマドに尋ねた。

「マリアちゃんがモナ王女の妹だということはわかった。しかし、それならなぜ、国王たちはマリアちゃんを引き取ろうとしないのか?」


「理由がある。だが、俺の口からは言えない」

 ムハマドは、さらに小さな声で、

「この理由を国民が知れば、王国が崩壊する」

 と、つぶやいた。


「マリアは、その理由を知っているの?」

 玲子が尋ねると、

「知らないけど、何となく感じるの。私のことが知れ渡ったら、みんなが不幸になる」

 マリアも、ムハマドと同じ気持ちだった。


「ムハマド、僕たちだけにでも、その理由を話してくれないか?」


「話せない。話せば俺も玲子もドクター近藤も、サイルに殺される。サイルは王国軍にいたとき、暗殺のエキスパートだった。軍人や民間人を問わず、彼は十人以上の重要人物を、王室の命令のもとに暗殺してきた」

 ムハマドの話を聞いた刹那(せつな)、玲子はサラと最初に会った日のサイルの目を思い出した。

 確かに、あのときのサイルは、殺人を何とも感じない冷酷な目をしていた。

 玲子は、ムハマドの話に嘘が無いと感じた。


 その日は、これ以上の会話が続かなかった。

 停戦になって玲子たちは喜ぶはずだった。だが、新たな問題で、玲子たちは重苦しい雰囲気に包まれた。



 その日の夜、玲子の携帯電話に、日本の篠原真美から電話がかかってきた。


「玲子、新聞見たわよ」

 篠原真美は興奮ぎみだった。声の調子が上ずっていた。

「内戦を停戦させるなんて凄いわね。みんながびっくりしているよ」


「真美、私は屋上でピアノを演奏しただけよ。一万人の参加者が内戦を停戦させたのよ」

 玲子はクールに答えた。


「そんなことないよ。新聞では『ピアニスト玲子の奇跡 スラノバ国内戦を停戦に導く』と、写真付きで大々的に載っているよ」


「そうなの? でも本当に私は、ピアノを演奏しただけだわ」

 玲子は、アマル王妃やサラをはじめとした一万人の協力者がいたからこそ、停戦が実現できたと感じている。自分一人の力では、到底実現できなかった。


 しかし、篠原真美は、玲子の言葉を謙遜(けんそん)だと思った。昔から玲子は、人の上に立とうとしない性格だった。そのことを、篠原真美は知っている。


「ところで、玲子は、みんなから『天空の勇者』と呼ばれているの?」


「それは古いテレビゲーム。真美、あなたは古いテレビゲームを、今もやっているでしょう?」


「えっ。よく知っているね。まるで地球の裏側から私の行動を透視しているみたい」


 篠原真美は、玲子の洞察力に驚いた。

 しかし、篠原真美の行動は、友達なら誰でも当てることができると思う。彼女の言動や行動は素直すぎる。単純といっても良い。


「ここでは『東島の勇者』と呼ばれているわ」


東島(あずまじま)、東の島…、『東の国』ではないのね」


「アフリカ大陸の広さに比べると、日本は『島』なのよ」


「確かにそうだね。『小島』と言っても良いかもしれない」

 真美は玲子の説明に納得した。


「ところで、流れ弾が当たるかもしれないのに怖くなかったの?」

 真美は玲子の性格を知っていた。自分の意思はそれなりに述べる性格だが、勇者と呼べるほどの勇気は持ち合わせていなかったと記憶している。


「前もって儀式を受けたから大丈夫だったわ」


「儀式で防御力強化の呪文でも教わったの?」

 まだ篠原真美は、古いテレビゲームの世界から抜け出せないようである。


「そうじゃなくて、度胸をつける儀式よ」


「ふーん。私もその儀式を受けたいなぁ」


「どうして?」

 玲子が尋ねると、篠原真美は物欲しそうな声で、

「そうすれば服のバーゲンセールで、人が選ぼうとした服を素早く手繰り寄せることができそう」と、いった。


(バーゲンセールのために、あの儀式を受ける人はいないはず…)

 玲子は確信している。

 玲子は、バーゲンセールのために、あの儀式を篠原真美が受けるのを想像して、思わず笑いを抑えることができなかった。


 玲子の含み笑いを察して、篠原真美が尋ねた。

「どうしたの? 何かおかしいことでもあったの?」


「いや、今度日本へ帰ったときに、真美に私が受けた儀式の説明をするわ」

 そう言って玲子は、笑いを抑えた。


「ところで、玲子。いつからスラノバ国王室の家族になったの? 新聞の写真説明には、モナ王女の姉と書いてあるわよ」

「それは新聞の記載ミス。紫色の髪をしたロングヘアーの女の子でしょう?」


「うん。そうだけど」


「その子はマリア。私の妹みたいなものよ」


「えっ。玲子のお父さんは、海外に隠し子がいたの?」

 篠原真美は、またもや早とちりしている。


 玲子は焦った。このままだと、人間スピーカーの篠原真美が、実家の近所であらぬ噂をたてる姿が想像できた。

(このままだと、真美の誤解で私の両親が離婚の危機に陥るかもしれない。何としても誤解を解かなければ…)


「真美、そうじゃなくて…」

 玲子がなんとか説明し、やっと篠原真美に理解してもらえた。


「玲子、大事なこと尋ねるのを忘れていた。あなた、近藤君と付き合っているの?」


「どうして?」


「新聞には二人の写真が大きく掲載されていたわよ。タイトルには『スラノバ国を救った二人の日本人』と書かれていて、まるで二人のお見合い写真のようだった」


「どうしてお見合い写真なの?」


「だって玲子、和服で写っていたよ」


 どうやら玲子の母親が、お見合い用の写真を新聞社に提供したようだ。玲子は思わず額に手をあて、目を閉じてしまった。

(母の性格を考えると、このままでは済みそうにないわ)

 玲子は、日本に帰った後での母からのお見合いの勧めを想像して、頭が痛くなった。

 玲子は、とりあえず近藤との関係を説明した。

「付き合っていないわよ。ここでは毎日話しているけどね」


「付き合っていないけど毎日話しているのね。怪しいなぁ」

 篠原真美は、声に薄ら笑いをつけ加えて、玲子と近藤の関係を疑っている。

 だが、篠原真美は、近藤とのこと以外にも、いろいろと玲子に尋ねたいことがあった。

「ところで玲子、『神の沼』の観光地に行ったの?」


「それ何?」


「スラノバ国で有名な観光地よ。玲子は知らないの?」


「知らない」

 玲子はぶっきらぼうに答えた。

 確かに玲子は、スラノバ国の観光地に関する情報は何一つ持っていなかった。

(内戦の国に観光する人はいないはずだわ)

 玲子は、昨日までは、そう思っていた。


「せっかくスラノバ国に来たのに、しかも内戦が停戦になったのだから、観光しないと損するよ」


「そうかなぁ?」


「そうよ。私だったらピアノ・リサイタルをさぼっても観光するよ。あ、そろそろ授業が始まるから、元気でね」

 篠原真美は、あわただしく電話を切った。彼女は有名な体育大学の学生である。おそらく大学の部室にある電話を使っていたのだろう。


 玲子は、さっきまでとは別の次元の悩みができた。

(母は、私のお見合いをあきらめていない。日本へ帰ったら、必ずお見合いをさせられるわ)

 そのことを考えると、玲子は憂鬱(ゆううつ)だった。


 しかし、篠原真美のおかげで、さっきまでの重苦しい悩みから、少し解放された気がした。

(気晴らしに、マリアと一緒に観光旅行でもしよう)

 玲子は決心した。


 次の日、玲子は、マリアを連れて『神の沼』へ行った。

 昨夜、サイルに神の沼に行きたいと告げると、昨夜に限ってサイルは「行かない方が良い」といい、別の観光地を紹介した。

 サイルが玲子の行きたいところへ連れて行かないのは初めてだった。しかもサイルは、その理由を教えてくれなかった。

 そこで、サイルに内緒で行くことにした。


 神の沼は、沼の周りに緑の木々が沢山生い茂っている。ここは砂漠のオアシスだった。

 昔は多くの旅人が、ここで休憩し、疲れをいやしたことだろう。

 沼の近くには古い寺院が建てられており、寺院を中心に、民家が軒を並べていた。お土産屋はひとつも存在せず、観光地とは言い難い。


 もともと神の沼は、王国の雨乞い儀式を行う神聖な場所だった。しかも、この場所は、他国からの入国者は誰も立ち入れなかった。内部で何が行われているのか、スラノバ国以外の誰もが知ることができなかった。


 神の沼に入るには、入口にあるゲートを通過しなければならない。今回、玲子が神の沼へ入ることができたのは、ゲートの門衛が『東島の勇者』の顔を知っていたためだった。門衛は、東島の勇者を尊敬している。だから、玲子が入りたいのを察して、内緒で入れてくれたようだ。


 結局、神の沼は観光地ではなかった。どうやら篠原真美は、知り合いの外国人から伝え聞いた話を勘違いして、玲子に伝えたらしい。


 玲子たちが神の沼に着くと、沼の周りは多くの人で混雑していた。

 現地の人に混雑の理由を尋ねると、今日は一年に一度の生贄の儀式があるとのことだった。玲子は思わず幸運を感じた。


 玲子たちがしばらく歩くと、突然、近藤から声をかけられた。

「白井、マリアちゃん。偶然だね」


「近藤君こそ、どうして?」


「今日はここで出張診療をする。昨夜、車が故障したので、看護師のロバートと一緒にバイクで来たよ」

 近藤は、看護師のロバートを紹介した。


 ロバートも近藤も、運転用の手袋を付け、ヘルメットをかぶり、ゴーグルをかけていた。近藤はバイクの免許も持っていた。


「ムハマドさんは?」

 マリアが尋ねると、

「車が故障したので、彼は病院にいる」

 と、こたえ、

「ムハマドの奴、バイクで日焼けするからと、日焼け止めクリームを僕の顔中に塗りまくったよ」

 近藤は笑いながら、顔に塗ってあるクリームを玲子たちに見せた。


 玲子は、近藤の顔にたっぷりついた日焼け止めクリームを見て、思わず笑いを吹き出した。


「ところで近藤君、今日は生贄の儀式があると聞いたけど、何が生贄になるの?」


「雨乞いのための生贄だよ。去年はラクダの子供だった。一昨年はロバの子供、その前はヤギの子供とのことだった。生贄は毎年変わるようだ。今年は何かな?」

 近藤も、今年の生贄が何なのかを知らなかった。


 すると近くにいた中年の男性が、

「人間だよ。八年に一度、人間の子供を生贄にするのさ。かわいそうに、向こう岸にいる母親が必死に叫んでいる」

 と、向こう岸を指さした。


 近藤は、思わず我が耳を疑った。とても信じることができなかった。

「中世じゃあるまいし、いまどき、人間を生贄にする国など、世界中どこを探しても無いはずだ」

 思わず中年の男性に向かい、

「国王がそんなことを許すはずない」

 と、近藤が詰め寄った。


「これは三百年以上続いている王国の神聖な儀式だよ。しかも国王は、八年前に自分の子供を生贄に捧げた。それで雨を降らせて国民の信頼をつかんだのさ」


「…そんな…、それなら人民の平等を掲げている革命軍が、この儀式に反対するはずだ! この儀式は革命軍の理念に反している」

 近藤が改めて問うと、

「反対しないね。日照りが続き、みんなが飢えるよりも、八年に一人の生贄をささげる方を、革命軍も賛成している。生贄を捧げると、不思議と雨が降るんだよ」

 今度は正面にいる中年の女性がこたえた。

「なんということだ。子供の命を大切にしない政治など、あってたまるか! 人民の平等を掲げているのに、生贄を認める革命軍もおかしい!」

 近藤は大声で叫んだ。

 

 すると、太鼓や銅鑼(どら)の音が盛大に鳴り響き、向こう岸で儀式が始まった。

 沼に大きな桶が浮かんでいる。桶には小さな子供が乗っていた。五、六歳だろう。子供は桶の中で横たわっていた。おそらく睡眠薬でも飲まされたのだろう。その桶を、近くの舟から神官が細長い棒で押し、少しずつ沼の中央に向かって進んでいる。

 沼の向こう岸で、子供の母親らしき女性が大声で泣き叫んでいた。その母親を、王国軍の兵士が押さえつけている。

 信じられない光景だった。


「王国軍は国民のための軍隊ではないのか?」

 そう叫び、続けて、

「こんなこと、断じて許すわけにはいかない!」

 そういうと近藤は、迷わず沼に飛び込んだ。ヘルメットやゴーグルをつけたまま、子供が乗った桶に向かい泳ぎだした。


 近藤の行動は、常に人の命を助けることを最優先としている。そのためならば、苦労をいとわない。地位や立場がどうなっても構わない。まさに近藤の心は、慈愛に満ちていた。

 近藤の行動に、沼の周りにいる人たちが驚いた。大きなざわめきが沼の周りで起こった。そのざわめきは、近藤の行動を称賛する声と驚く声が混ざっていた。


 しかし、儀式を執り行う神官や王国軍は、近藤の行動に嫌悪感をいだいた。

 近藤は懸命に泳ぎ、子供が乗った桶までたどり着いた。近藤が子供を抱えたとき、沼の周りにいる人たちの多くから、拍手や歓声がおこった。

 近藤は子供を抱きながら泳ぎ、舟着き場に到着すると、先に子供を陸に上げた。

 しかし、その後、近藤が陸に上がろうとすると、王国軍の兵士が、棒で近藤を沼に突き落とした。


「何をする!」

 近藤が叫ぶと、

「儀式の妨害をし、生贄の子を救いたいのなら、お前が代わりに生贄になるしかない」

 王国軍の兵士は、人差し指で沼の真ん中を指し示し、

「お前が代わりに生贄になるならば、沼の真ん中まで泳ぎ、ワニに食べられることだ。そうすれば、子供は助けよう。どちらを選ぶ?」

 と、冷酷な表情で告げた。


 沼の真ん中には杭が立っている。

 水に浮かびながら近藤は、王国軍兵士に向かって薄ら笑いをうかべた。


「どうした。頭がおかしくなったのか?」

 近藤の様子を不思議に思い、王国軍の兵士が尋ねた。


「あなたは今、『神』ではなく『ワニ』と言った。つまり、あなたは、この儀式が意味の無い儀式であることを知っている。知っていながら、子供の命を助けようともしなかった。つまり、あなたの行動は矛盾に満ちている。だから僕は笑った」


 近藤の説明に、王国軍の兵士は顔を赤らめたまま、反論ができずにいた。

 彼は心の中で恥じていた。確かに近藤の言うとおりだった。

 意味のない儀式のために子供の命を捧げる行為は、人間として許すべきでないことを彼は知っていた。だが、彼は王国軍の兵士だ。上官の命令には、絶対に従わなければならない。だから彼は、近藤に何も言い返すことができなかった。


 王国軍兵士が無言でいると、近藤は、沼の真ん中へ向かって泳ぎだした。


「近藤君、やめて!」

 玲子が大声で叫んだ。


 しかし、近藤は泳ぎ続け、沼の真ん中にある杭の上に乗った。

 杭の直径は15センチメートルほどで、近藤の片足しか乗らない。

 内ポケットに手を入れてみると、メスとピンセットがあった。昨夜、手術で使用したものだ。

 両手にメスとピンセットを持ち、杭の上に立った。


 水面には波一つ立っていなかった。辺りは静けさに包まれた。

 遠くで鳥の鳴く声がかすかに聞こえる。沼の周りの人たちは声を潜めた。

 沼のほとりに設けた儀式の場で、太鼓や銅鑼が打ち鳴らされた。太鼓や銅鑼の音が水面を伝わってゆく。

 しばらくすると、急に水面が盛り上がり、巨大なワニが水面に姿を現した。体長が九メートル以上はゆうにある。尾の長さまで合わせると十三メートルほどだろう。みんなが『沼の神』と呼んでいる巨大ワニだった。ワニと言うよりも恐竜といったほうが良いかもしれない。それほど巨大な生物だった。


「あああああああー。やめてーーーーーー」

 マリアが突然、両手で頭を抱え、大きな声で叫んだ。まるで気が狂ったような叫び声だ。

 マリアは何かを思い出そうとしていた。そのため、現実と過去の記憶とが混同し、大きな叫び声をあげている。


「マリア、どうしたの?」

 玲子がマリアのもとに駆け寄った。

 するとマリアは全身をガタガタと震わせ、両手でこめかみを抑え、叫び声を必死に抑えた。そして、絞り出すように、

「今はこの娘よりも…、あの男をたすけるのじゃ。舟が…舟があれば、あの男は助かる。早く!」

 マリアの声ではなかった。まるで老人の声だった。

 玲子はその不思議な声に驚いた。


 その後、再びマリアは「あああああああああああ」と、大きな叫び声をあげた。マリアの声だった。もはや自分を抑制できなくなったようだ。


 玲子は看護師のロバートにマリアをゆだね、急ぎ舟着き場へと向かった。

(さっきの声はマリアではなかったわ…。あれはいったい?)

 玲子は、疑問を感じながらも舟を探した。

 

 沼の中央では、ワニが大きな口を開けて、ゆっくりと近藤に近づいてきた。

 長年、沼の神として生きてきたワニは、獲物が上下左右どこに跳んでも、ひと咬みで獲物をしとめる自信があった。


 やがてワニは、近藤が立っている杭の目の前までやって来た。

 すると、上空にいた隼が、いきなり水面すれすれを飛行し、高速でワニの右側を通過しようとした。

 その瞬間、巨大ワニは信じられない瞬発力で、隼を一咬みで捕まえ、ムシャムシャと噛み砕くと、そのまま飲み込んだ。


 その光景を見た近藤は悟った。どんなに速く左右に逃げても、巨大ワニに咬み砕かれてしまう…。

 もはや、近藤に逃げ場所は無かった。だが近藤は諦めない。彼には、一つのかすかな望みがあった。

(あの方法しかない…)

 近藤は決心した。


 巨大ワニは、大きな口を開けて近藤に迫って来た。

 すると近藤は、足を勢いよく曲げ、迷わずワニの口の中に飛び込んだ。

 不意の行動にワニは驚き、咬むタイミングが一瞬遅れた。

 この一瞬の遅れが、近藤をワニの攻撃から救った。これは、近藤の勇気のたまものだった。


 跳び込むと同時に近藤は、自らワニの胃の中に入って行った。

 この方法しかなかった。口の中だと、どうしてもワニの歯で足が噛み砕かれてしまう。そしてワニの舌で押し戻され、体中が噛み砕かれてしまう。

 だが、胃の中だとワニも手出しができない。問題は、溶ける前に胃袋を切り裂くことができるかどうか。それは時間との戦いだった。

 息ができない。しかも、このままだと胃液で溶かされる。

 近藤は、ピンセットを胃袋の上部に深々と突き刺した。そして、ピンセットに掴まり、体を安定させた。それからメスを振り抜いた。すると胃袋上部の壁にメスが当たった。そこから切り込みを入れる。早くしないと溶けてしまうか窒息してしまう。


 胃袋の繊維に沿って切り込みを広げ、なんとか胃から抜け出すことができた。

 しかし、息ができない。

 近藤は最後の力を振り絞り、今度は腹に切り込みを入れた。ワニの筋肉の繊維に沿って、少しずつ切り込みを広げた。ワニの皮膚は固い。だが、筋肉の繊維に逆らわずに切り込みを入れると、メスでも切れることを近藤は知っていた。


 ワニが苦しがって体を回転する。近藤も回転する。

 何度も切り込みを入れ、ワニの腹に少しだけ穴をあけることができた。すると、穴から水しぶきが噴き出てきた。


 ワニの腹が水面からでたとき、近藤はすかさず穴に口をあて息をした。

「ハアハアハアハア」

 これで、もう少し戦える。


 徐々に腹の傷口を広げた。近藤は疲労困憊だった。しかも胃液が体中にまとわりついていた。近藤は、ワニの心臓をメスで突いた。血しぶきが飛び散り、ほんの少しだけ体中に付着した胃液を洗い流してくれた。腹の傷口を少しずつ広げて、ようやく近藤は、ワニの腹から体半分を抜け出すことができた。


 ワニは死んだが、近藤も力尽き、意識を失った。



 その少し前、玲子は現地の人から舟を借り、一緒に漕ぎ出した。

 沼の中央に漂うワニの死骸と、ワニの腹から体半分を出している近藤を見つけると、近藤をワニの腹から引きずり出して舟に乗せた。


 舟の提供者は、玲子の顔をテレビや新聞で知っており、『東島の勇者』である玲子の指示に素直に従った。

 玲子は、近藤の胸に耳を当てた。幸運なことに心臓がまだ動いている。

 玲子は近藤が身に着けていたヘルメットやゴーグル、手袋を外し、着ていた服を全て脱がした。そして、体中に水をかけた。ワニの胃液が体に付着しており、それを取り除くためである。


 ヘルメットにゴーグル、そして日焼け止めクリームのおかげで、近藤の顔の損傷は最小に抑えられている。それに手袋もつけていたため、指の損傷も最小限だった。これは奇跡だった。奇跡以外に考えられなかった。近藤は、たぐいまれなる運に守られているようだ。おそらく、その運は、多くの人に愛情を注いだことによる神様からのお礼かもしれない。

 玲子は、神様に、そして日焼け止めクリームを塗ってくれたムハマドに感謝した。


 舟着き場にいる人たちは、玲子が乗っている舟に注目した。

「おい、あれはドクター近藤じゃないか?」

 一人の男が舟を指さしながらいった。


「えっ?」

 周りの人たちが気絶している近藤を確かめるように見た。玲子がヘルメットを外したため、今は顔が良くわかる。


「あの横顔は、確かにドクター近藤だ。子供を助けた男は、ドクター近藤だ。それに、介抱している女性は、『東島の勇者』だぞ」


「ドクター近藤が命をかけて子供を救ったのか?」

 別の男が尋ねた。


「そうだ。本来ならば、俺たちが子供を守るべきだった。たとえ国王の命令だろうが、司令官の命令だろうが、体を張ってでも部族の子供を守るべきだった」

 答えた男の言葉には、後悔がにじんでいた。


「今度は俺たちの手で、ドクター近藤を助けよう。子供の命を救ってくれたドクター近藤を、今度はみんなで守ろう!」

 一人の男が大声で周りに呼びかけた。


「そうだ。ドクター近藤は、俺たちに命の大切さを気づかせてくれた。今こそ恩を返すときだ」


 周りの人たちがうなずいた。やがて、その掛け声は、神の沼を取り囲むように広がった。


 舟着き場に着くと、玲子は大急ぎで国連の看護士ロバートに治療を頼んだ。


 しかし、王国軍が気絶している近藤を連行しようとした。

「儀式を妨害し、沼の神であるワニを殺した罪で逮捕する」


 玲子は王国軍の前に立ち塞がり、

「彼は一度ワニに食べられたのよ。王国軍との約束を守ったわ。逮捕するいわれが無い」

 と、必死に訴えたが、王国軍は玲子の言葉を無視した。非力な玲子は、瞬く間に王国軍に払いのけられてしまった。


 しかし、舟着き場にいた多くの男たちが、玲子の味方をした。

「みんな、『東島の勇者』に協力しよう。生贄から子供の命を救ったドクター近藤を守ろう!」

 大勢の人たちが王国軍に抵抗し、近藤を守った。さらに、沼のいたるところで、人民が王国軍に抵抗を始めた。


 王国軍に抵抗する人民は、瞬く間に五百人を超えた。儀式の警護をする王国軍は四十人もいない。

 ついに王国軍を追い返し、近藤を治療することができた。

 しかし、王国軍は応援部隊を呼んでいる。このままだと、抵抗している人たちが射殺されるかもしれない。


(せっかく停戦になったばかりだというのに、これでは意味がない。また戦闘が始まるかもしれない)

 玲子は悩んだ。

 するとそこへ、どこからかサイルが現れた。


 不思議なことに、王国軍の兵士たちは皆、サイルを知っていた。そして、サイルを尊敬し、サイルを恐れていた。おそらく、サイルが王室直属の暗殺のエキスパートであることを、全ての王国軍兵士が知っているためだろう。


 サイルは、王国軍の隊長と話をし、近藤の治療が済むまでは拘束しないことを誓わせた。

 その後、サイルは、近藤の看護をしている玲子のもとへやって来た。


「玲子さん、中立地区から離れるときは、声をかけてくれなきゃ困ります。探すのに苦労しました」

 サイルは、玲子に苦言をいった。


「でも、サイルさんは、マリアをここに連れて来たくなかったのでしょう?」

 玲子は、近藤の手当をしながら、

「ここに来て、マリアの過去が全てわかりました。私を殺し、口を封じますか?」

 と、サイルに対して堂々とした態度で臨んだ。


「困りましたね…。私は…、あなたを殺したくない…」

 ためらいがちに、サイルは小さな声でつぶやいた。

 そのつぶやきは、サイルの優しさを表していた。だが、その言葉は、サイル自身が『自分は暗殺者である』とも宣言していた。


 サイルの本性が丸いメガネの優しい青年なのか、それとも人を殺すのに何のためらいもない目をした暗殺者なのか、玲子にはわからない。だが、玲子は、サイルの優しさを信じたい。


「ところで、マリアちゃんはどこですか?」


「えっ」

 玲子は驚いた。そういえば、近藤を助けるのに夢中で、マリアを見失ったことに初めて気づいた。

「マリア。どこ? マリア!」

 玲子は必死にマリアを探した。

 すると、王国軍兵士たちの後ろから、

「玲子姉さん、私はここよ」

 声が聞こえ、マリアが現れた。


「サイルさん、間もなくモナ王女の側近の方が、近藤さんを受け取りに来ます。さっきモナ王女と話して手配してもらいました」

 マリアが落ち着いた声で説明した。

 そして、マリアは続けて、

「私もここで、過去の全てを思い出しました」

 と、寂しく語った。


 まるでパンドラの箱を開けたみたいに、マリアの目には絶望感が漂っている。思い出したくもない辛い過去を思い出したような表情だった。


 だが、パンドラの箱の底には、希望もあるはずだ。

(近藤君の命が助かれば、マリアの未来にも明るい希望が持てるかもしれない)

 玲子は、密かにそう感じていた。直感だった。そしてそれは、か細い、一筋の希望への道だった。

 玲子は、近藤もマリアも救いたかった。

近藤の勇気とマリアの過去はいかがだったでしょうか?


次回は瀕死の重傷の近藤が大活躍します。

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