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ピアニスト玲子の奇跡  作者: でこぽん
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10.玲子の戦い

  10.玲子の戦い


 中立地区にある近藤が院長を務める病院には、連日多くの患者が訪れる。

 近藤の病院では、医療費を払うお金が無い貧困者に対しても診察する。しかも近藤は、全ての患者を平等に扱う。そして一人一人に話しかけ、元気づける。また、病院へ行けない遠方の人たちのために、出張診療を定期的に実施し、農村や山奥の村で困っている病人を治療していた。


 そのため、多くの国民がドクター近藤こと近藤聡に感謝している。そして、そんな活動を一年近く続けているので、いまやドクター近藤は、スラノバ国でアフマド国王や革命軍ヒアム司令官に次いで人気がある。特に貧困層の人たちは、ドクター近藤を神様のように尊敬していた。


 彼の人気が高い理由は、もう一つある。それは、ドクター近藤が戦争に反対しているためだった。

 ドクター近藤は、王国軍の兵士も革命軍の兵士も平等に治療する。そして、全ての患者に対して、戦うことを()めて理解し合い愛し合うことを、粘り強くうったえている。


 スラノバ国では二十年もの間、内戦が続いている。内戦で親や兄弟、友達や恋人を亡くした人は結構多い。多くの人が辛く苦しい思いをしてきた。だから大多数の国民は、平和を望んでいた。

 だからこそ…、だからこそドクター近藤のうったえは、多くの人の心に響く。多くの人が、彼のうったえに共感する。


 しかし、ドクター近藤の人気を疎ましく思う(やから)もいる。その筆頭が革命軍だった。

 革命軍は、もともと人民の平等を旗印とし、腐敗した王国の政治を倒すためにつくられた。ここで戦争を放棄すれば、革命軍は解体し、しかも、今の腐敗した政治は変わらない。だから革命軍の軍師であるバラカトは、近藤の言動を制限したかった。近藤が革命群の要請を聞き入れない場合は、暗殺することもいとわない覚悟だった。


 昔のパラカトであれば、近藤に全面的に協力したであろう。なぜならば、昔のパラカトは正義の味方になることを望んでいた。貧困者を救うことを第一と考えていた。

 しかし、今のパラカトは、昔のような優しさは微塵も持っていない。レアル村での戦闘以来、まるで悪魔と契約をしたかのような残忍さが目立っていた。そして最近では、王国軍や近隣諸国に『氷の血の軍師』と呼ばれている。彼が計画する戦術は、いつも用意周到で漏れが無いが、冷酷極まる内容のためだった。


「ヒアム司令官、ドクター近藤の影響で、革命軍に集まる若者が減少しています。これは、革命軍にとってゆゆしきことです」

 バラカト軍師がヒアム司令官に相談した。


 実は、革命軍に入隊する若者が減少しているもうひとつの理由は、レアル村で革命軍が罪もない村民を殺戮し、村を焼いた噂が若者の間で伝わっているためである。

 もちろん、その噂をパラカトやヒアム司令官は、知っている。

 だが、二人は、そのことを話題にしない。二人とも、戦いに犠牲はつきものだと割りきっている。特にパラカトは、レアル村での戦い以降、冷酷な戦術をすることが多くなった。そして、今回も冷酷な戦術を計画していた。


「しかし、人民の平等を掲げている我々が、ドクター近藤を()ることはできない。ましてや、中立地区にある病院を、革命軍が襲撃することはあり得ない」

 ヒアム司令官は、バラカト軍師の抱く危惧(きぐ)を十分に理解していた。だが、そのための過激な行動は、革命軍の人気を下げるため、控えたかった。


「それならば病院を襲撃するのではなく、王国軍との戦闘が中立地区で行われるのであれば、問題無いのでは?」


「だが、どうやって王国軍を、中立地区に向かわせるつもりだ?」


「私に一案がございます」

 バラカト軍師は、ヒアム司令官の耳元に口を当て、小さい声で説明した。


「面白い。やってみよ」

 ヒアム司令官は、ニヤリと笑った。


 それからしばらくして、王国軍の間では、革命軍が医療器具を略奪しに中立地区に押し寄せる噂が広まった。

 逆に革命軍の間では、王国軍が医療器具を略奪しに中立地区に押し寄せる噂が広まった。


 それぞれの陣営に湧き上がった噂は、何の証拠も無いものであるが、多くの者がその噂を語った。複数の人間が同じことを語れば、たとえ根拠のない話でも、真実と見なされる。

 徐々に中立地区の南側に王国軍が、北側に革命軍が集まりだした。


 やがて、両陣営で『略奪の日は来週の日曜日』との噂が広まった。

 その頃から革命軍のバラカトは、秘密裏に中立地区の外側に狙撃兵を数名配置した。

 バラカトは狙撃兵に対し、

「ドクター近藤が中立地区を逃げ出したら狙撃するように」

 と、命令した。


「これでドクター近藤が逃げた場合は狙撃でき、逃げなかった場合は戦闘で始末できます」

 バラカトは、作戦の詳細をヒアム司令官に報告した。


「さすがは『氷の血の軍師』だ。漏れがない」

 ヒアム司令官は上機嫌である。


「いえ、この計画は、もう(ひと)ひねりしています」

 パラカトは、自信に満ちた顔をしている。


「そうなのか。それはどんな作戦だ?」

 するとパラカトは、またもやヒアム司令官の耳元に口を当て、小声で説明した。


 それを聞いたヒアム司令官は驚き、

「まさに災い転じて福となす作戦だな。これで革命軍に多くの若者が(つど)うだろう。パラカトの作戦は、一滴の水も漏れる隙間がない」

 と、軍師を褒め称えた。



 中立地区の住民に動揺がおこった。

 玲子が滞在しているホテルでは、支配人のサムが「来週の日曜日に中立地区で戦闘があるので避難するように」と、玲子に告げた。


 だが、サムの説明に玲子は疑問を持った。

(王国軍が医療器具を略奪するわけはない。中立地区の病院は、王国が国連に依頼し、医師を派遣してもらっている。これはデマだわ)

 玲子は確信した。

 しかし、玲子はこうも考えた。

(中立地区の病院は、王国軍も革命軍も分け隔てなく負傷者を治療している。革命軍が医療器具を略奪するのもおかしい)

 誰かが意図的に流言を広めている。

 そいつの狙いは医療器具でも病院でもない。

(では、目的は何なの?)


 玲子は考えた。何度も考えた。

 すると、玲子の頭の中に、先日のムハマドの説明が思い起こされた。

『ドクター近藤は、今ではアフマド国王や革命軍司令官ヒアムと同じほど、この国で人気がある』

 その説明が玲子の頭から離れなかった。何故(なぜ)だかわからないが、妙に気になった。

 すると…、玲子の頭の中に閃くものがあった。


「わかったわ。目的は近藤君の命。近藤君の人気を妬ましく思っている者がいるのよ」

 玲子は確信した。そして、すぐさま行動した。


「急いで伝えなければ、この噂がデマであることを。守らなければ、近藤君の命を」


 玲子は、大急ぎで病院に向かった。タクシーを探すが、昨日からタクシーは戦闘に巻き込まれないよう中立地区から離れている。仕方がないので走って行くことにした。

 玲子は体力に自信がない。だが、そんなことを気にする余裕は無かった。全力疾走で病院へ向かって駆け出した。

 しかし、ハイヒールだと走りづらい。途中から玲子はハイヒールを手に持ち、裸足で走った。周囲の目など気にせず、なりふり構わず走った。


 大勢の人でにぎわっている市場を裸足で駆け抜けた。多くの人が玲子の裸足で走る姿に驚いた。市場を過ぎると舗装されていないデコボコ道だった。小石が足裏に当たり、足裏が傷ついた。だが、今の玲子には、その痛みを気にする余裕も無かった。


「今、この国で戦争を終結するたった一つの希望は、中立地区の拡大だわ。近藤君の命がなくなれば、病院も機能しなくなり、中立地区も無くなるにちがいない」

 玲子は走りながら呟いた。


 玲子は病院へ着くと、ゼイゼイと荒い息継ぎをしているにもかかわらず、あわただしく治療室に行き、勢いよくドアを開けた。

「ハッ、ハッ、ハッ、近藤君、ハッ、逃げて。ハッ、あなたの命が…、ハッ、狙われている!」


 患者を治療中の近藤は、玲子が突然入ってきて、しかも荒い呼吸でうったえたため、思わず驚いた。

 だが、玲子のただ事で無い様子を察すると、近藤は直ちに、控え室に玲子を案内した。そしてマテ茶を注いだ。

 湯気と共にマテ茶の苦い香りが天井へと漂う。


 マテ茶を飲み、少し落ち着いた玲子は事情を説明した。そして近藤に逃げるように強くうったえた。


「そうか。だから白井は僕のことを気づかってホテルから走ってきたのだね。足の裏がこんなに傷ついている。結構痛かったはずだよ。ありがとう」

 玲子の足裏を消毒しながら、近藤が感謝した。


 消毒液が傷口に沁み込むときの痛さに、思わず玲子は顔をしかめた。そして、今になって玲子は、ようやく足裏の傷がひどいことに気づいた。

 痛みをこらえながら、玲子が尋ねた。

「それじゃあ、今すぐ逃げてくれる?」


「いや、逃げるわけにはいかない」

 玲子の足裏の消毒を終えた近藤は、内ポケットから一通の手紙を取り出して、玲子に見せた。


「これは?」

 手紙はアラビア語で書かれており、玲子には読めない。


「革命軍から僕への手紙だよ。今朝届いた。中立地区での戦闘に巻き込まれないように、国外へ避難するよう強く勧めている。避難するのであれば、国外まで革命軍が護衛してくれるそうだ」


 そして近藤は、意外なことをいった。

「白井の言うとおり、確かに噂はデマだろう。しかも、その噂を流したのは、どうやら革命軍のようだ」


「どうして革命軍だとわかるの?」


「この手紙さ。僕が革命軍の護衛で国外に避難すれば、僕を助けたことで革命軍の人気が高まり、革命軍に加わる若者が増える。しかも、僕が国外に避難するので、戦争に反対を唱えるものが病院からいなくなる。革命軍にとっては一石二鳥だよ」


「あっ…」

 玲子は、近藤の洞察力におそれいった。


「そして僕が避難しない場合は、白井の予想どおり中立地区で戦闘を発生させ、僕の命を狙う。なかなか手の込んだ作戦のようだ」


「それじゃあ、革命軍の案内なしで別の場所に避難したら? たとえば王宮にかくまってもらうとか…」


「この手紙の差出人は、その場合も考慮しているはずだ。おそらく、中立地区の外側に狙撃兵が待ち構えているだろう。僕が中立地区の外側に出た途端、ズドンだよ」

 近藤は、両手でライフルを撃つマネをした。


「そんな…」

 玲子は溜息をつき、しばらく別の案を考えた。


「それじゃあ、王国軍にガードしてもらい、装甲車で王宮まで連れて行ってもらったら?」


「それこそ革命軍の思うつぼだよ。『王国軍が医療器具を略奪しに来た』と宣伝し、中立地区へなだれ込む絶好の機会を与えてしまう」

 近藤が間髪入れずに答えた。


「それじゃあ、どうすれば良いの? 革命軍の護衛で国外へ避難するしかないの?」

 玲子は困り果てた。


 仮に革命軍に護衛を頼んだとしても、近藤の命が助かる保証が無い。何をやっても近藤を助けることができないように思えた。


「一つだけ明確なことがある。僕が避難すると、この病院は機能しなくなる。そうなれば、誰も患者の治療をする者がいなくなる。それは、スラノバ国で死者が増えることを意味する。不幸な人が増えることになる」


 近藤の説明は、彼の覚悟を表していた。近藤は、病院で患者の治療を続けるつもりだ。たとえ戦闘に巻き込まれても、彼は命の続く限り患者を治療する覚悟だった。


 近藤の説明に対し、今度は玲子が驚いた。

「近藤君。私は、あなたの死ぬところを見たくない。お願いだから命を大切にして」

 玲子は懸命にうったえた。だが、玲子自身も、どうすれば近藤の命が助かるのかが分からない。


「白井、ありがとう。君の気持は嬉しい。だが、僕はここを離れない」

 近藤は病院の患者と共に最期までいる覚悟を決めている。


 その後、玲子がいくら説得しても、近藤は自分の意思を変えなかった。玲子自身も、どうすれば近藤の命を助けることができるのか、その見込みがなかった。

 これ以上の説得は無駄だった。


 玲子は、寂しく病院を後にした。

(だが、近藤君の命を守りたい)

 玲子は歩きながら考えた。何か良い方法は無いかと、何度も何度も考えた。

「…近藤君を死なせやしない」

 そう呟いたとき、玲子は閃いた。

(近藤君が逃げないのなら、王国軍か革命軍が逃げればいいのよ。そうすれば戦闘は起きないわ)


 玲子は大急ぎで王宮へ行った。先日の伝手(つて)を頼りにアマル王妃に会った。その後、状況を説明し、王国軍を中立地区から撤退するよう依頼した。


 アマル王妃は玲子に同情的だった。

「しかし、私の力では王国軍の撤退は困難です。その計画は、諦めたほうが良いでしょう」

 アマル王妃は、残念そうに答えた。


 中東の諸国と同様に、スラノバ国は男中心の社会となっている。王妃といえども、王国軍を指図する権限は無い。


「それでは、アフマド国王に頼んでいただけないでしょうか?」

 玲子は頭を下げてお願いした。


「頼んでみますが、アフマド国王は王国軍のことを全て部下に任せており、部下のやることに口を挟まないのを信条としています。期待はできないでしょう」


「えっ、そんな……」

 アマル王妃の話を聞くにつれ、玲子は絶望的になった。

(国王に指揮権が無い王国軍とは、いったいなんなのだろう?)

 玲子は怒りが(つの)った。

 しかし、どうすることもできない。


 玲子は得るものが無く、空しくホテルに戻った。


 部屋へ入ると、マリアに相談した。

「マリア、どうしたらいいと思う? このままだと、中立地区で戦闘が起こる。近藤君が死んでしまう…」


 マリアは、王宮でのアマル王妃とのやり取りを玲子から聞いた。そして、しばらく考えた後、

「玲子姉さん。私が思うに、玲子姉さんは男のやり方で戦闘を止めようとしている。玲子姉さんは女だから、女のやり方があると思う」

 と、マリアなりの考えを告げた。


 マリアの意見は実に的確だった。妙を得ていた。

(確かにそうだった。この国では女性の権利が少ない。女性の私が男性のやり方をしても無理がある)

「マリア、ありがとう」

 直ぐに玲子は、女のやり方で今後のことを考えた。


 次の日、玲子はテレビのインタビューで時間をもらい、静かにピアノを弾きながら、語りだした。まるで歌うような話し方だった。


「この国の女性の方へ、お願いがあります。

 まもなく中立地区で、戦闘が始まろうとしています。

 中立地区の病院は、王国軍であれ、革命軍であれ、誰でも平等に治療してくれます。

 しかし、中立地区の病院が破壊されると、あなたたちの愛する人を治療してくれるところがなくなります。

 それは、愛する人の命が危うくなることを意味しています。

 そして病院が無くなると、中立地区すら無くなってしまいます。

 市場や学校にも、銃弾が飛び交うようになります。」


 次に玲子は、元気よくピアノを奏でだした。


「愛する人の命を守るために、病院を守りましょう。

 来週の日曜日、女性の力で人間の(くさり)をつくりましょう。

 武器ではなく、人間の鎖で病院を守りましょう。

 愛する人を守りましょう。中立地区を守りましょう。

 今まで愛する人から守られてきた女性の方、今度は、あなたたちが愛する人を守る番です。

 一緒に病院を守りましょう。」


 玲子のうったえは、歌のように聴く者の胸に響いた。

 その後、玲子はピアノの曲を穏やかに演奏し、テレビカメラに向かって再び歌うように話し出した。ピアノの調べが心に沁みてくる。


「今、王国軍の間では、革命軍が医療器具を略奪する噂があります。

 また、革命軍の間でも、王国軍が医療器具を略奪する噂があります。

 これは、明らかに誰かが仕組んだデマです。

 中立地区の病院は、王国が国連に依頼し、医師を派遣してもらっています。

 王国軍が医療器具を略奪するはずがありません。

 そして、中立地区の病院は、王国軍兵士も革命軍兵士も平等に治療してくれます。

 革命軍が医療器具を略奪するはずもありません。」


 玲子は熱く語り、噂がデマであることを説明した。

 そして再びピアノを力強く弾き、

 

「武器で病院は守れません。

 来週の日曜日、愛する人を守るために人間の鎖をつくりましょう。」


 と、再び力強くうったえた。

 テレビを見ていた多くの者の胸に、玲子のピアノの調べと玲子のうったえが伝わった。


 その日、玲子は再びアマル王妃に会いに行き、女性の力で人間の鎖をつくるための協力を求めた。頭を何度も下げて、玲子は必死に頼み込んだ。


「戦闘が始まれば、被害を受けるのは中立地区の住民だけではありません。王国軍兵士の家族も不幸になります」

 兵士が戦闘で亡くなったときに彼らの家族が悲しむ様子や、一家の大黒柱を失った後での家族の困窮の様子を、玲子は丁寧に説明した。


 玲子の熱意に、アマル王妃もついに折れた。

「玲子、それならば、私の力でも可能です。王宮の女性や王国軍の兵士の妻たちに話してみます」

 アマル王妃は胸に手を当て、協力を約束した。


「ところで、マリアちゃんも人間の鎖に加わるのですか?」

 唐突なアマル王妃の質問だった。


「はい。マリアには歌唱指導をしてもらいます」


「そうですか。マリアちゃんが参加するならば、必ずモナも人間の鎖に参加するはずです。そして、モナが参加するのであれば、私も参加します」

 アマル王妃は頬笑んでいた。


 なんと、王妃と王女が人間の鎖に参加することになった。そうなれば、王国軍側の多くの女性も参加するだろう。これは大きな前進だった。


 玲子は希望をもった。だが、参加者が王国軍の家族だけでは戦闘を防げないことも分かっていた。

(革命軍の家族も集めなければ…)

 だが玲子には革命軍との伝手(つて)が無かった。



 翌日、玲子はリサイタル会場でも、会場の観客に協力を依頼した。ピアノ演奏の合間には、必ず平和の大切さをうったえた。


 リサイタル終了後、玲子はマリアにステージでの後片付けを頼んだ。

 すると、マリアが控室を出ていった直後、数名の来客が控室に現れた。


「あなたたちは、どなたですか? ここは関係者しか立ち入れません」

 サイルが来客に告げた。


 しかし、来客はサイルを無視し、玲子に向かって、

「私は、革命軍司令官ヒアムの第一夫人サラ」

 と告げ、護衛の兵士二人と側近を伴い、控室にずかずか押し入った。

 そして続けて、

「革命軍の存在に反対するわけではないが、病院を守る玲子の考えには賛成だ。条件次第で協力してもいい」

 信じられないサラの意見だった。玲子は思わず我が耳を疑った。


 サラの意見は、玲子にとって非常に魅力的だ。革命軍司令官の妻が協力してくれるのは、大変心強い。


 玲子はサイルの抗議を押しとどめ、

「サラさん、ぜひ協力をお願いします。『条件次第』とのことですが、どのような条件でしょうか?」

 玲子は丁寧に尋ねた。


 しかし、サラは玲子の質問には答えず、

「ところで、私たちが人間の鎖をつくるとき、あなたはどこにいるつもり?」

 サラは腕を組み、玲子を軽蔑した眼差しで見ながら、

「まさか、日本人が得意とする、お金だけだして安全な場所から指示するつもり?」

 サラは人差し指で玲子の額を軽く押した。


「サラさん、そんなことはありません。私も人間の鎖に加わります」


「それじゃダメね。あなたは鎖の中心、病院の屋上にいてくれなきゃ。三百六十度どこからでも狙撃が可能な場所だ」

 そしてサラは、玲子を脅すようにいった。

「玲子、あなたはそこでピアノを弾ける?」


 屋上は、最も危険な場所だった。いつ銃弾が跳んでくるか分からない。流れ弾もあるだろう。


「玲子さん、その要求は受けてはならない!」

 サイルは、玲子に拒否するようにうったえた。


 しかし、ここで拒否したのでは、サラの協力は期待できない。革命軍兵士たちを説得するためには、なんとしてもサラの協力が必要だった。

 そのとき、玲子は、中学の頃に好きだった友達が話してくれた『チャンスの神様』を思いだした。


「サイルさん。チャンスの神様は、後頭部が()げているって知っていますか?」

 突然の玲子の質問に、サイルは戸惑った。


「玲子さん、どうしたのですか? それと今の状況と、何か関係があるのですか?」

 サイルには、玲子の質問の意図がわからなかった。


「ギリシャ神話に出てくるチャンスの神様カイロスは、前髪が長く、頭の後ろは剥げているそうよ…」

 玲子は説明を続けた。

「チャンスをつかむためには、カイロスを捕まえる必要があるの。だけど、カイロスは、ほとんど裸に近く、全身汗まみれでツルツルしている。だから、カイロスを捕まえるには、正面から前髪を掴むしかないの」


 サイルは息を飲んで玲子の説明を聞いていた。

 不思議なことに、サラも大人しく玲子の説明を聞いていた。


 玲子は、さらに説明を続けた。

「それに、カイロスには翼が生えていて、すごい速さで正面からやってきて、後方に過ぎ去って行くそうよ。だから、正面からやってくるカイロスの前髪を、両手でがっちりつかんだ人だけが、チャンスをものにできると言われている。通り過ぎたカイロスを、後ろから追いかけて掴もうとしても、後ろ髪が無いから捕まえことはできない。しかも、後で今度こそは捕まえようと思っても、二度とカイロスは姿を現さない」


 玲子がここまで説明すると、サイルにも、その意図が伝わった。


「そして、今、目の前にチャンスの神様カイロスが現れたわ。ここで、このチャンスを逃したら、二度とチャンスは訪れない」


 玲子は眼を閉じ、大きく息を吸い込んだ後、大きく目を開き、サラに向かって返事した。

「わかりました。屋上でピアノを弾きます」

 玲子の声は、大きかった。サラを納得させた。


 だが、玲子は、先日の市場での出来事で、銃弾が飛び交う際の恐怖を知っている。あの日の恐怖が心の中によみがえってきた。そして玲子は、先ほどの宣言で、自分自身の胸が締めつけられた。急に息苦しくなった。さっきまでの(から)元気は直ぐに弱弱しくなり、苦悶の表情に変わっていった。心臓が激しく響き、呼吸も荒くなってきた。

 そんな玲子の心の葛藤を、サラは察したようだ。


「それでは、玲子の言葉が真実かどうか確かめる儀式を、今からさせてもらう。それに合格しないと、私は玲子の言葉が信じられない」


 サラは、玲子をまだ信じていない。

 当然である。実は玲子自身も、病院を救う気持ちと逃げ出したい気持ちとが、胸の中で渦巻いていた。銃弾が飛び交う光景を思い出すと、胸が苦しくなった。息をするのもやっとだった。


(逃げちゃだめ。頑張れ。頑張るのよ。どんなにみっともなくとも、あがき続けなきゃ。中学の頃に好きだったあの人も、あがき続けたじゃない。私も…)

 玲子は心の中で必死に叫んだ。

 そしてサラに向かい、平常心を装いながら尋ねた。

「わかりました…。儀式は…、どのようにするのでしょうか?」


「簡単なことだ」

 サラは側近からオレンジを受け取り、

「このオレンジを頭の上にのせて。私がナイフを投げるあいだ目を閉じないでいたら、儀式は終了する」


 サラは、側近からナイフも受け取った。果物ナイフではない。戦闘用のナイフだ。刃渡り二十センチはあると思われる。

 これが頭や顔に刺さったら、間違いなく脳まで達するだろう。


「一瞬でも目を閉じたら不合格だからな。あっ、そうだ。私は三回に一回はナイフ投げを失敗する」

 サラは冷ややかに笑い、

「失敗して顔に刺さったとき、玲子が目を閉じなかったら、そのときも合格だ。合格の可能性が増えただろう?」

 サラは、明らかに玲子を脅した。


「玲子さん、いけない。やめるんだ!」

 サイルが大声で叫び、玲子からオレンジを奪おうとした。


 しかし、サラの護衛の兵士たちがサイルの前面に立ち、サイルの行動を阻止する。


「どうするの? やるの? やらないの?」

 サラの威嚇の声だった。励ましの声とは到底思えない。


 玲子は無言でオレンジを受け取ると、頭にのせて壁の前に立った。

(頑張れ私。やせ我慢でも構わない。あがき続けるのよ!)

 玲子は心の中で必死に叫んだ。

 いつの間にか玲子の足が、ガクガク震えだした。震えはだんだん大きくなり、ついには体も揺れ出した。


「そんなに足が震えていたら、オレンジに当てづらい。逃げるなら今のうちだ」

 ついにサラが玲子の心配を表明した。


「に…逃げません。あ…足の震えは、私には止めることができません。構わずに早く…、早くナイフを投げて下さい!」

 玲子は、震える声で必死にうったえた。


「玲子さんに何かあったら、お前を殺す!」

 サイルが大声でサラに宣言した。


 サイルの目が血走っていた。こんな目をしたサイルを、玲子は初めて見た。

 サイルの殺気をサラは感じたようだ。サラは真剣な表情に変わった。額から汗がにじみ出ている。

 サラが精神を集中した。


 サラは元々、ナイフ投げの名人だ。通常だと十回投げて十回とも成功する自信がある。

 但し、それは相手が平常心で立っていた場合だった。だが、今、相手である玲子の足はガクガク震えている。オレンジが上下左右に5センチ以上も揺れ動いていた。しかも、その揺れは、時間と共に少しずつ大きくなっている。


 サラは玲子を凝視した後、眼を閉じ、全神経を集中した。何も聞こえなかった。玲子の残像以外は、何も見えなかった。

「よし!」

 そして大きく目を開けると、気合とともにナイフを投げた。閃光(せんこう)が走る。まるで真横から襲ってくる稲妻のようだった。


 次の瞬間、ナイフは玲子の頭の上にあるオレンジに刺さっていた。

 玲子は緊張が解けると、足腰の力が抜け、思わずしゃがみ込んだ。頭の上からオレンジの汁が流れ落ちてくる。そして、気づいたときには、顔から服、スカートにかけて、オレンジの汁で汚れていた。腕もガクガクと震えていた。


(とても恥ずかしい)

 玲子は、立ち上がろうとした。

 しかし、立てない。まさに腰が抜けた状態だった。足の震えも、まだおさまらない。いつの間にか、涙が頬に流れていた。


「こいつ腰が抜けて泣いているぞ。それにオレンジの汁がスカートに沁み込んで、まるで失禁しているように見える」

 サラの護衛兵士が玲子をバカにした。嘲笑ちょうしょうが聞こえた。


「黙れ!」

 するとサラが、いきなり護衛兵士を平手打ちし、

「玲子は持てる勇気を振り絞って戦った。玲子を侮辱することは許さん」

 と、護衛兵を叱った。


 サイルがすかさず懐から二丁の拳銃を取り出し、銃をそれぞれの護衛兵士の口の中に突っ込んだ。

「玲子さんに謝れ! さもないと、俺がお前たちを殺す!」


 王室秘書のサイルは、常に銃を所持していた。サイルの表情がいつもと違う。殺人を何とも感じない暗殺者の表情である。

 サイルのすさまじい殺気に圧倒され、サラの護衛兵士たちは、玲子に詫びた。


 玲子は、まだ震えて立つことができない。


 サラは玲子を抱き締めた。そして、

「勇気を試したりしてすまなかった。だが、ああでもしなければ、玲子は屋上でピアノを弾けないと感じていた」

 と、儀式の真の目的を伝えた。さらに、

「あなたは東島(あずまじま)の勇者だ。精一杯協力する」

 サラは玲子に協力を誓った。


 抱きしめられた腕の中で、サラの心のぬくもりを、玲子は感じた。



 サラは、最初から玲子を応援していた。

 だが、今のままでは病院が守れないと感じていた。玲子に勇気が足りないと感じていた。

 だからこそ…、だからこそ、あえて悪役を演じることで、玲子が勇気を持つように仕組んだ。


 玲子も、サラの意図を最初から理解していた。だから、サラの期待に応えようと懸命に頑張った。弱い心に鞭打って、足を震わせながらも、必死にあがきつづけた。


 玲子もサラも、お互いの熱意に感謝した。どちらかが一方でも逃げていたら、間違いなくチャンスの神様は通り過ぎてしまっていた。

 今、玲子もサラも、チャンスの神様をしっかりと掴んでいた。それは、スラノバ国の平和へ向けた一筋の希望だった。



 その後、サラの側近が玲子へ着替えを渡し、玲子はオレンジの汁で汚れた服からスラノバ国の民族衣装に着替えた。


 マリアがステージの後片付けを終えて控室に戻って来たとき、玲子が民族衣装を着ていたので、マリアが驚いた。

「玲子姉さん、どうして着替えたの?」

 マリアは不思議そうな目で尋ねた。


「マリアちゃん、玲子さんはファンの方から民族衣装をプレゼントされたのだよ。だから玲子さんは着替えてファンの方と一緒に記念撮影した。ファンの方は喜んで先ほど帰られたよ」


 サイルは、いつもと変わらない優しい顔で、マリアの頭を撫でながら答えた。先ほどの冷血な表情が嘘のようだった。

玲子の覚悟のほどはいかがだったでしょうか?


次回は前半部最大のヤマです。玲子が戦場の真っただ中でピアノを演奏します。

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