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ブラックオパール

 王宮の通用門内に立ち、能天気に笑う父は、お気楽な口調でこういった。


「なんだって? すぐに家に帰りたいって? 

 折角の機会なのにもったいないことを言うじゃないか。

 娘を宮殿に連れて入るなんて、滅多にあることじゃないぞ」


 父は娘の手を取り、ちょっとお茶でも飲んで行きなさい、という調子で宮殿へと連れ込もうとする。

 ドロテアは、父に悪気がないこともわかってたし、立派な職場を見せる機会に浮かれていることも察していたが、自分まで宮殿へ足を踏み入れることには恐れを抱いた。

 父が忘れた弁当を届けに、化粧だけして普段着のまま駆けつけたのだ。

 道中の辻馬車で風に乱れた髪をなでつけ、町娘そのままの幾度も水をくぐった服で勇気を振り絞って通用門にたどり着いていた。

 そこからさらに宮殿へ上がるなど、お叱りを受けそうなものだ。

 どうにか断りの文句を言って、逃げ出そうと思ったところ。

 若い武官が口を開いた。


「ドロテア嬢、お手をこちらへ」


 青年はそれだけ言って、掌を上にし、ドロテアの眼前へと差し出した。

 人の良いドロテアは、青年の大きな掌の上に、


 ぽん


 と手を重ねていた。それは無意識のことで、深い意味はなかった。

 例えるならば、前世──日本──の家族に、


「醤油とって」


 と言われてテーブルの反対側から差し出すときのようなもの。


 ともあれ、ふたりの手は重ねられていた。

 その次の瞬間には青年によってふわりと、それでいてしっかりと、握り込まれていた。

 そして、青年は宮殿へと歩きはじめ、手を引かれる格好で、トトト、と覚束ない足取りのドロテアも続くことになった。


 戸惑うドロテアも遅れて顔を上げ、先を向く精悍な顔立ちの青年へ毅然と抗議した。


「困ります。わたしなんかが勝手に宮殿に入ってしまっては……」


「なにも問題ありませんよ」


 青年の答えに続いて、後ろを歩く父が、


「ドリーよ。そのおかたは近衛騎士だぞ。

 宮殿の人の出入りは、そちらのおかたのさじ加減でどうにでもなる」


 近衛騎士といえば、大身の貴族子弟が王家へ奉公する際の身分だった。

 その若君に手を取られ、宮殿を歩いている非現実的な状況に、ドロテアはぽかんと心を虚ろにして、思考を諦めた。


 ○


 茫然自失としている間もドロテアの足は動き続けていたらしい。

 気づいた時には宮殿の中、品の良い調度が彩る部屋にあり、ソファに腰掛けていた。

 天鵞絨(ビロード)地が張られたふかふかの大きなソファには、糸くず一本もない。

 冷静であったなら、腰掛けることも臆したはずだ。


 ドロテアを連れ込んだ近衛騎士にして青年武官は対面に腰掛けた。

 そうして初めて彼の瞳を正面からまともに見た。

 それは、不思議な色味の、宝石のような輝きを帯びた虹彩をしていた。


『まるで、黒蛋白石(ブラックオパール)のよう……』


 ドロテアの第一印象はそのようなものだ。

 前世で日本を生き、21世紀から異世界へ生まれ変わったドロテア。

 彼女は2倍の人生を生きている。

 だから、人様よりもさまざまなものを見聞きする機会を得た。

 そのうえで、


『今生の人生には不思議なものが多いなぁ』


 と思い知っていた。

 目の前の宝石のような瞳をした青年武官も、ドロテアに言わせればそのひとつ。

 宮殿に訪れることも今日が最初で最後なら、目の前の青年武官を身近に眺めるのもたった一度きりの機会だろう。そう察していたドロテアは、精一杯の眼福に与ることに決めた。失礼にならない姿勢と表情を保ちながら、美術品を愛でる気持ちでじっと見入った。


 ドロテアに用件があるといって連れ込んだ彼が、本題に入るまでの短い時間の楽しみ。

 彼が口を開くまでこちらも黙って賞玩(しょうがん)する。

 彼は父よりも頭ふたつぶんも長身で、砂色のふわりとした髪をしている。

 精悍な顔立ちに、角度によって色を複雑に変えるブラックオパールの瞳。

 あと少し、もうちょっとだけ……


 なんだかおかしい、とドロテアが思ったのは、しばらく経った時のこと。

 対面に座した青年武官が腕組みをし、喉で唸るような声を小さく漏らしながら、言葉を発することもなく無為に時が過ぎていく。彼は何事か思案しているのかもしれない。

 それはいい。宮殿内にあるこの部屋が彼の執務室なら、そこで思い悩むのも仕事のうちかもしれない。


 けれど、どうしてもドロテアの気になるところがあった。

 彼の視線が、明らかにドロテアの顔へ向けられたまま留まりつづけていた。

 老け顔のコンプレックスをクリームファンデで補っているドロテアは落ち着かない。

 まさか、


『顔を偽ったものが宮殿に入り込むなどけしからん』


 などと無茶を言い出さないだろうか、ヤキモキさせられた。

 心配し始めると、途端に背中へ嫌な汗が浮かび、流れる。

 同じ室内には父メランも同席している。困惑の表情で助けを求めてみたが、父は持ち前のマイペースっぷりを遺憾なく発揮して、隣のテーブルで弁当を広げ、近衛騎士の前もお構いなく猛然とかき込んでいる。


『失礼だし、勝手過ぎるし!』


 内心で憤ったが家の中でするように言葉に出して家族喧嘩を宮殿で繰り広げられようか。

 だが、このまま待ち続けても(らち)が明かない。

 仕方なくドロテアは、


 えへん


 と咳払いをひとつ落としてみた。

 すると、これが思いのほか効果を見せた。


 青年武官はドロテアの咳払いに、ハッと我に返った様子を見せ、


「失礼しました。ドロテア嬢の美しさに思わず言葉を忘れてしまったようです」


 と、歯の浮くような世辞まで付けてみせた。

 身分の高い相手に黙り続けるのも難しく、ドロテアも気を使って、


「わたしも騎士様の素敵な瞳に驚かされました」


 と答えた──それは事実でもある──が、青年武官はドロテアの称賛には価値を見いださなかったか、これといった反応を見せなかった。

 そして、ふたりがふたたびきまりの悪い空気に飲まれそうなところへ、昼食を終えた父が言葉を投げた。


「それで、我が娘でお役に立ちましょうかな、フォルカー卿」


 父の問いに、青年武官は即答した。


「疑いはありません。ドロテア嬢にご助勢を願いたいと思います」


「ご助勢って、お手伝いってことですか?」


 青年武官の不思議な瞳が一度は父へと向けられてドロテアから外れ、すぐまたドロテアへと戻った。


「その通りです。どうか任務のため、王家のためにお力添えを願います」


「王家のための任務、ですか。ええと、フォルカー、卿」


「おっと、まだ名乗っていませんでしたね。重ね重ね失礼しました。

 私は王太子殿下付きの近衛騎士フォルカー。以後お見知り置き願います。

 ああ、そうそう。近衛騎士も色々と役職がありまして。

 王太子殿下の陰供(かげとも)を務めることもあるので、家名はお許し願います」


 陰供、というのは身を隠して警護をする仕事のことだった。

 日本にいた頃には聞いたこともない言葉だけれど、こちらの世界の物語でも身分ある人々の周辺を描く話は人気のある、それでいて数少ない娯楽だった。隠密警護の役割をそのように呼ぶことも、市井の娘に過ぎないドロテアですら知識として知っていた。

 フォルカー卿はさらに言葉を続ける。


「ドロテア嬢が13歳でありながら、これほど賢く大人びているとは素晴らしい。

 ここまでもひとりで参ったということですが、まことのことでしょうか?」


「はい。辻馬車を使ってここまで参りました」


「普段から、街の諸々へ出歩くので?」


「我が家は使用人もない家庭ですから、必要があれば出向きます」


 うんうんと頷いたフォルカー卿は、


「ならば、私を案内して王都を歩くことなど容易いことでしょうね?」


 と訊いてきた。


 近衛騎士を市井の娘が案内するなど、一体どこへ行こうというのか。

 それになぜ私が案内しなければならないのか。

 そのあたりがわからず、思い切って疑問をぶつけてみた。


 すると、フォルカー卿はこのように答えた。


「まず、なぜドロテア嬢、あなたなのか、というところからお答えしましょう。

 それはもう情けないことなのですがね。

 あなたと宮廷の醜悪な連中には縁がないこと。これに尽きます。

 宮廷に関わりのあるものは、誰かしらの息がかかっているものでしてね。

 まだ参内するようになって間もないあなたのお父君は安心できる人材です。

 その縁者であるドロテア嬢、あなたも、貴族とはこれまで無関係でしょう?

 しかも、年齢が13歳ときました。

 まさか、13歳の娘に陰謀の片棒を担がせようという貴族はいないはずですから。

 だからあなたに手助けしてもらいたいと考えました。

 そして、あなたに手助けしてもらいたい仕事の内容なのですがね。

 私が街をぶらぶら歩く必要があるのです。

 民たちが出歩く範囲にとどまるので、難しくないと思うのですが」


「普通の場所なら、大丈夫だとは思いますけど」


 たぶん、大丈夫だと思うけれど。その程度の考えで軽く答えたドロテアに、近衛騎士のフォルカー卿は笑みを向けてきた。その表情はとても無邪気に見え、心底からの安堵を表したように見える。よほど大事な用事なのだろう。

 早まったかも知れない、とドロテアはわずかに悔いた。

 だが、吐いた言葉は戻すこと叶わず、フォルカー卿が話を進めていく。


「なら決まりです。

 これでようやく任務の内容を具体的に伝えられます。

 実は、近いうちに王太子殿下が王都のなかをご行幸なさることが内々で決まりました。

 陰供を務めるべき私も、あらかじめ下調べしなければなりません。

 そこであなたに案内を頼みたいってことなのですよ。

 陰供とはいえ、私も貴族の端くれ。自慢になりませんが世間知らずの自覚はあります。

 見聞を広める必要が出てきたわけですが、市井で騒ぎなど起こせば本末転倒でしょう。

 だからといって、宮廷に出入りする市井の者に案内を頼むのも難しい。

 さっきも言いましたが、宮廷出入りは貴族の誰かと繋がりがあるものばかりです。

 陰供は、秘密で動く仕事なのですから、宮廷の誰かに情報を漏らしたくありません。

 そこで困っていたところ、君の父君、絵師メランどのから提案がありました」


「うちの娘なら心配ない、と?」


「そのとおり」

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