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父の忘れ物

 偏食家の父が家に弁当を忘れた、と気づいたドロテアは酷く慌てた。

 父はいわゆる宮廷画家で、当然のことながら勤め先は王宮だ。

 忙しいながらも弁当を手作りした母は母で外へ働きに出ていたため、家にはドロテアひとりがいるばかりだった。

 宮廷画家と聞けば、王族をパトロンにつけて裕福な暮らしと思われがちだが、ドロテアの父が名声を得て王室出入りが許されるようになったのは最近のことだった。

 長い不遇の時代、母の給料を絵筆に変えてしまう穀潰しの父に、年齢不相応な知恵のある娘が手を貸したことで、一家の貧しい暮らしは変わり始めたばかりだ。まだまだ家に余裕などなく、王宮へ出向いた父が忘れ物をしたとて執事どころか下男も下女もない家では家族が届けるほかにない。

 では、家に残った家族とは?


「わたし!?」


 父の弁当を王宮まで届けることなどドロテアに出来るはずもない。

 可哀そうだが父には昼食抜きで頑張ってもらうことになる。

 そう考えて心の平穏を取り戻したドロテアだったが、父が王宮で腹の虫を鳴かせているところを想像して、頭を抱えた。

 父は好き嫌いの激しい偏食家と周囲に思われていた。しかし、ドロテアが見たところ食物アレルギーを持っているように思われた。幼い頃から新しい食材を口にするたびに体を壊し続け、心身に傷を負い、いつしか食べ慣れた食品ばかりに偏ってしまったらしいのである。

 長じて肖像画家と成り(おお)せた父であったが、王族の前に出て仕事をするさなか、お腹をぐうぐうと鳴らしてしまったならどうだろう。


「行儀知らずの卑しい男め、そなたなんぞ、宮廷画家にはふさわしくない」


 とか言われてクビになったり、


「あらあらお昼はどうなさったの?

 召し上がっていらっしゃらないの?

 それなら用意させますから食べていきなさいな」


 などと親切心から申し出られれば身分も立場も違うために容易に断ることも出来ない。

 すると、無理して食べることになるかもしれない。

 それで我慢して苦手な食事を無事に終えるならばいいけれど。

 もしも食物アレルギーの発作が出てしまったら大騒動になりかねない。

 王宮で食事をした者が激しい発作で倒れでもしたなら、毒物が持ち込まれたかと疑われ、関係者は取り調べられた上に、料理人が無実の罪で処刑されてしまうかも。


 そこまで想像をたくましくしたドロテアは、食卓の上に置かれた弁当を放置するわけにはいかなくなった。どうにかして届けなければ我が家の、そして、ひいては国家の一大事。王宮に騒乱の種を持ち込んではいけないのだ。

 決然と顔を上げたドロテアだったが、王宮に向かうには少しばかり差し支える事情があった。急ぎながらも最低限の身繕いをしつつ、鏡の前に立ってみずからの顔を見てみれば、やはり悩みのタネがそこにはあった。


「もう少し若く見えればなあ……」


 顔貌(かおかたち)も地味ではあったが、それよりも肌の色艶が悪かった。そのことが彼女の年齢を二十も三十も年上に見せていた。おそらくアレルギー体質の父からなんらかの影響を受けているものと思われた。

 もちろん、年上に見えるからといって命が失われるわけではない。が、少女ドロテアにとって不本意なことだ。健康的な肌ツヤだったならと深刻に悩んだこともあった。

 だがそれも過去のこと。

 克服するための手段をドロテアは手にしていた。


「ひさびさにコレを使うときが来たってわけね」


 ドロテアは油紙で封をした小壺を手に取ると、気持ちが()いたか指を突き込んで破り、中から淡いクリーム色の軟膏をすくい取った。

 指先から顔の数カ所へ、ポンポンと軟膏を塗りつけ、手で伸ばしていく。

 すると、鏡に映る彼女の印象が一変していた。

 地味な顔立ちばかりはどうにもならないが、肌の色艶は劇的によく見える。

 果たしてその軟膏は、クリームファンデーションだった。

 前世の記憶をもとに今生の世界の顔料を吟味し、苦心のすえに少女ドロテアみずからの手で生み出した汗と涙の結晶だった。

 前世になかった不思議な素材までを練り込んだ品の効果は抜群である。

 使用前、10代はじめの少女が40代に見えていたところ、使用後は人前に出て平気なほど。色の白いは七難隠す、との言葉通り、20代半ばほどまでに押し戻してみせた。

 ちなみに、開発と製造には「日本(ぜんせ)」になかった危険で不思議な顔料が必須で、顔料に詳しい父の協力あっての成果でもあった。さらにいえば、売れない画家だった父に、「女性が望む肖像画のデフォルメ」をアドバイスをしたのがドロテアで、肖像画家として名を成したのは、父娘の協力あってのこととも言える。


 身支度を終えたドロテアは父の弁当を持って家を飛び出し、風のように通りを駆けた。

 乙女がはしたないと言うなかれ。

 手の中の弁当ひとつで、お国の一大事が救われるのだ。


 辻馬車に乗り、王都の中心まで運ばれて、王宮の高い石塀を目にした時も、ドロテアは臆するところがなかった。

 通用門脇の門番所──正門は見るもので通るなんて欠片も考えず──で、立ち番をする兵士にも、堂々と名乗った。


「宮廷画家メランの娘ドロテアでございます。

 偏食家の父へ弁当を届けに参りました。

 兵士のかたにはお手間を取らせて大変申し訳ございませんが、父のメランをここまで呼んでいただけませんでしょうか」


「絵師どのの娘御か、そこで待たれよ。

 お父君は高貴なお方と同席されておるやもしれん。

 すぐに呼べるかは確約できんが、宮殿へお伺いをたてるでな」


 返答を寄越したのは、いかめしい表情をした父と同世代の門番だった。

 彼の口調は抑制され、職務に謹厳な性格が滲み出ていたものの、彼にも娘がいたものか、融通を利かせてくれた。すぐに若い軽輩を走らせ、国家権力の中枢へ向けて伝言ゲームが始まった。

 ドロテアは父から返答があるまでしばらく待たされるとわかっていても、その段階で安心しきっていた。なんといっても父の弁当が宮殿の通用門まで届いていると伝われば問題ない。

 お腹が空いてしかたないとなれば、なんとかして父も抜け出してくるだろうし、宮殿の中で食べ慣れない食事を口にすることもないはずだから。

 父が宮殿で無作法を咎められず、食物アレルギーで倒れることもなければ、我が家もお国もこれで安泰。ドロテアは良いことをしたと大満足で午後を過ごせる寸法だった。


 にもかかわらず。

 戻ってきた兵士の若者が、仲間の耳元へ何事か小声で伝えると、兵士たちの間に緊張が走った。彼らはドロテアを訝しげに見て、


「ドロテア嬢、失礼ですが年齢を教えていただけますかな?」


 と問いながら、取り囲むように散開した。

 齢を訊かれたドロテアは正直に、


「13歳です」


 実にシンプルな返答をしてみたものの、兵士らは余計に表情を固くする。


「本気でおっしゃっておられるのかな?

 我らからは、目の前の女がとても13には見えないが」


 コンプレックスとなっていた老け顔が、またも問題になっていた。

 ファンデーションのおかげで良い具合に改善されていたものの、地味な顔立ちにどう作用したものか、二十歳過ぎに見えてしまうらしい。

 つまり、老け顔の悩みはまだまだ尽きていなかったのだ。

 年かさの兵士がさらに言い募った。


「我々の立場になって考えてもみよ。

 そなたはどうみても妙齢の女に見える。

 行儀見習いに出るかどうかという13の小娘と言い張られてもな。

 はい、そうですか、と王宮に踏み入らせるわけにはいかないのだ」


「では、一体わたしはどうすればよろしいのでしょう。

 まさか、捕らわれるのですか?」


「手荒なことはせぬ。ついてまいれ」


 包囲されたドロテアは抵抗のしようもない。

 うながされるままに付いていくと、年かさの兵士は門番所のなかへ進み、水晶玉のようなものを突き出してきた。

 ドロテアは戸惑いながら、


「これが何か?」


「水晶玉にふれるだけで良い。

 これに触れたものが質問をされて嘘をついたなら、見分けることが出来る」


「魔法の道具でしょうか?」


「さよう。そなたが邪な考えの者かどうか、我らは見極める必要があるのだ。

 ここから先は、陛下の住まう宮殿なのだからな」


 年かさの兵士は、その水晶玉を『真実の眼』だと説明した。

 真実の眼は、触れたものが嘘をついているかどうか、明らかにできるという。

 触れたものが偽りを口にすれば黒く濁り、王宮を警備する兵士はその性質を利用して宮殿に出入りする身分不確かな者を必要に応じて調べているらしい。


「そなたはこれに触れ、我らの問いに答えるだけだ」


 ドロテアは差し出された水晶玉に触れた。

 指先から硬く冷たい感触が伝わったと同時に、ドロテアへ向けた問いが放たれた。


「そなたの年齢は?」


 年齢を不審に思われていたことはわかっている。

 ドロテアも覚悟し、備えを終えていた。


「絵師メランと教師ラナの間に生を受けたわたくしドロテア。

 ありがたくも王都にて生まれ、今年で13年を過ごしてございます」


 問いに比べて長く、回りくどい答えとなったのはわけがある。

 ドロテアは前世の記憶も受け継いでいた。

 魂に年齢があるのかわからないけれど、前世の人生まで合計したなら良い齢になる。

 13歳と答えつつ、真偽を見極めるという魔道具を納得させなければならなかった。


 そこでどうにかひねり出した答えが、


『この地で生まれてから13年』


 というものだった。

 そこに嘘はなく、はたして真実の眼は僅かにも濁ることなく、透明であり続けた。

 兵士たちはどよめいた。


「なんと、まことに13歳であったか。

 ドロテア嬢よ、礼を失したことを許されよ」


「宮殿をお守りする皆様のご懸念は理解しております。

 どうかわたしにお気遣いなく、父への用件をよしなにお願い申します」


「もちろん、そのように手配させていただこう。

 すぐにお父上をお呼びするでな。

 それにしても、大人びた顔立ちといい、受け答えの落ち着きといい。

 まったく大人のようで、我らの見立てが狂わされたわ」


 兵士がそのように告げてから、わずかな間で父は通用門へと駆け寄ってきた。

 宮廷画家として日の浅い父はまだひとりで宮殿を歩き回れるほど信用されていなかったか、若く見目の良い武官らしき人物と連れ立って現れた。


 ドロテアは弁当を忘れた偏食家の父が無事であることを喜んだ。

 倒れもしていないし、馘首(くび)になったわけでもなさそうに見える。

 弁当を押し付けてすぐに家へ帰ろうと思っていたところ、父が妙なことを言った。


「やあ、ドリー。わざわざ届けてくれたのか。すまなかったな。

 ところでこのあとはどんな予定だったかな?

 こちらのおかたがお前にご用がおありなんだ」


 父は、隣に立つ若い武官を仰ぎ見ながら言った。

 武官は無言のまま、興味津々といったていを隠しもせずに、ドロテアの顔を眺めている。

 彼の身分がそうさせるのか、不躾なほどに向けられた視線は、子供を見るものでも大人の女を見るものでもない。

 不思議な、ドロテアの知らない感情がこもった眼差しだった。

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