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終章 【透過などさせるわけも無く】

 ――ここでは高校卒業後の話をしようと思う。相模原怜という俺という人間が、あの最寄駅から約二十分程を歩いて辿り着く高等学校を卒業し、第一志望の大学に入学してから現在までの。


 大学は、やはりというか高校とは雲泥の差だった。自由度が高く、その分、自分の持つ責任感も大きい。周囲の人間は大人で、高校や、それこそ中学の時のように騒ぐ存在はいなかった。(もしかしたら単に俺が目にしていないだけなのかもしれないが。)


 毎日は充実していた。それなりに忙しく、それなりに時間があった。高校では禁止されていたアルバイトを始め、自分の小遣い程度は捻出が出来るようになった。叔父に掛ける負担が僅かだが減らせるようになり、少しだけ、ほんの少しだけだがホッとした部分がある。そして、自分で得た金を遣って片桐と出掛けられるようになったことが嬉しかった。


 俺は、俺が卒業した後、片桐が意気消沈するのではないかと、かなり心配していた。自惚れと笑われても構わない。


 片桐は、その表面に見える三百ワットの電球のような明るさや、遠くへ弾んで行きそうなまるい声とは裏腹に、ひどく脆いところがあると俺は思っていた。それが悪いとか言うつもりは無い。誰にだってあるだろう一面だ。ただ、片桐はその程度が少しばかり高いような気がした。喩えるなら、春風に吹かれて旅立ちそうに揺れるタンポポの綿毛のような、限界まで張り詰めた風船のような。そういう時があるように感じた。


 俺が高校を卒業したからといって、俺と片桐の関係が終わりになるわけでは無い。いつか自身が片桐にそう伝えたように、俺達はしばらくうまくやっていた。休みの日には片桐の好きなアイスクリームを食べに行ったり、紅茶専門店に行って紅茶を買ったり、話題の映画を観に行ったり、カラオケに行ったり花屋に行ったりショッピングモールに行ったり。それらはとても楽しく、きっと片桐もそう思ってくれていたと信じている。


 だが、いつからか、片桐からメールの返事がなかなか来なくなった。電話をしても繋がらない時がちらほらと生まれ始め、そして掛け直して来る回数も緩やかに減って行った。単純に、忙しかったり疲れていたりするのだろうと俺は思っていた。だから、その辺りを尋ねてみたり無理をしないよう言ってみたりした。悩んでいることがあるなら話してほしいとも。それでも返って来る返事はいつもどれも似たようで、「大丈夫、無理してないよ」に還る。その間も時々は二人で出掛けることはあった。片桐は特に沈み込んでいる風には見えず、俺は気になりながらも強くは聞くことが出来なかった。ただ、一人で考え込まないようにしてほしいということは何度か伝えた。そのたび、片桐は笑って「ありがとう」と言った。






 ――俺が大学二年生になる頃、つまり片桐が高校を卒業する頃。およそ一年ぶりに橘さんから一通のメールが届けられた。


 橘さんからの連絡は高校卒業時のメール以来で、俺は何処となく微かに緊張を覚えながら読んだことを覚えている。緊張はすぐに強くなり、携帯電話を持つ右手に力が込められた。そこには、片桐がひどく疲弊しているということ、俺と片桐が今も付き合っているのかどうかということ、今の片桐の状態を俺が知っているのかどうかということ、大きくその三点が簡潔に綴られていた。


 橘さんは大阪への出張が終わり、東京に戻って来ていた。以前、俺が訪れたことのある、あの立派な二十階建てのマンションに元の通りに住んでいるという。片桐について話したいことがあるという橘さんの申し出を受けて、俺はメールを貰った翌日の日曜日、橘さんのマンションへと向かった。春の陽光が柔らかく降る、暖かな日だった。


 ――橘さんはアイスコーヒーを出してくれたが、そのお礼を言うより早く、俺は片桐について橘さんが何を知っているのかを尋ねていた。今、思えば、問い詰めるような口調になっていたかもしれない。あの時の俺は何かに急かされるような焦りと苛立ちとを覚えていた。


 片桐が心配だった、それは正しい。だが、それ以外にも理由はある。俺と付き合っている片桐について俺の知らないことを橘さんは知っている、片桐が俺には話さなかったことを橘さんには話している。それらから来る苛立ちと、そして疎外感があったことを、俺はその日からかなり後になって自認した。


「メール読んだけど、相模原君は綾と付き合っているんだよね?」


「そうです」


 俺の詰問するような口調を受け流し、橘さんはそう問い掛けて来た。会話はここから始まった。


「綾から、何か聞いていない? 悩んでいるとか」


「……いえ」


「本当は俺の口から言うのは良くないと思う。だから綾にも今日、来るように言ったんだけど体調が悪いみたいでね」


 返事が、出来なかった。


 しんと静まり返った部屋全体に押し潰されるような錯覚が俺を包む。橘さんの次の言葉を俺は待った。


「綾の家庭環境について聞いたことは?」


「直接はありません。以前、橘さんからメールで少し。それだけです」


「そうか。綾の父親は数年前に亡くなっている。今は母親と綾の二人暮らしだ。詳細は省くけれど、前に伝えたように綾は母親とあまり折り合いが良くない。簡単に言えば、母親の求める子供の図が『勉強の出来る』という前提の元に成り立っているからだ。というのは、綾から聞いた話からの推測だけど」


 綾から聞いた話。その言葉が深く俺に刺さった。何故だろう、ひどく喉が渇く。それでも目の前に置かれたアイスコーヒーに手を伸ばす気にはなれなかった。


「綾は高校を卒業した。聞いた限り、悪い成績じゃないと思う。けれど、綾の母親は良く思わなかった。多分、進学先も関係しているんだろう」


「進学先?」


「ああ、綾は短大に進学が決まった。本当は就職したかったらしい。そして早く家を出たかったんだと思う。でも、母親は大学に行くことを望んだ。間を取って短大に決めたらしいよ」


 短大。本当は就職したかった。早く家を出たかった。橘さんの言葉がグルグルと俺の頭の中を回る。


「それは綾が心から望んだことじゃないし、綾の母親が望んだことでも無い。おそらくだけど、そこから以前以上に関係がうまく行かなくなったんじゃないかなと……相模原君?」


 不意に途切れた声、俺を呼ぶ声。いつの間にか俯いていた顔を上げると、橘さんと目が合った。ここに来てから初めて、俺は橘さんの顔をまともに見たような気がした。


「大丈夫? 何かおかしなこと言ったかな」


「いえ、おかしくないです。おかしくなんか」


 おかしいと言うなら俺だ。俺は今まで片桐の何を見ていた? あの明るさや弾むまるい声とは裏腹に、ひどく脆いところがあると知っていたはずだ。その片桐の進む先を俺は知らなかった。片桐の高校卒業後の進路を知らなかった。片桐は話してくれなかった。いや、俺が知ろうとしなかった?


「続き、話して良いかな」


 俺にコーヒーを勧めた後、そう言った橘さんの言葉に返事を返すと、橘さんはまた静かに話し始めた。


「俺がこっちに戻って来たのは今年に入ってからなんだ。綾とはほとんど連絡を取ることは無くなっていたんだけど、戻ったことは言っておこうと思ってメールした。それから、高校は卒業出来ること、短大に進むこととかを聞いた。そして、家のこと。気分転換になればと思って、翌週に喫茶店に誘った。出来れば詳しい話も聞きたかったし。しばらく話して分かったんだけど、思った通り、綾は凄く疲弊していた。それから何回か会って話をする内、綾はここに来ることが多くなったよ。相模原君と付き合う前のようにね」


 俺は、ごくりと唾を飲んだ。


「綾はまた、ここで眠ることが多くなった。眠る為のこの家で。あの部屋で」


「それは、どういうことですか」


「誤解しないでほしい。言葉通りの意味だよ。綾はここで眠ることが多くなった、それだけだ」


「それだけって、だってここは橘さんの家で、橘さんがいるじゃないですか!」


 思わず、語尾が強くなった。一瞬にして鋭くなった雰囲気の中、グラスに閉じ込められた氷がカランと溶ける音がする。それを合図にしたかのように橘さんは再び言葉を繋げた。


「落ち着いて。俺は相模原君と言い合いをしたいんじゃないんだ」


「それなら、どうしてあんな言い方をするんですか」


 怒りを抑えて尋ねると、予想外にも橘さんは謝罪を口にした。


「悪かった。棘のある言い方をしたのは謝るよ。ごめん」


「――いえ。その、俺も怒鳴ってすみません」


「綾はここで眠るようになった。けれど本当にそれだけだ。確かにここは俺の家だけど、相模原君が心配しているようなことは何も無い」


 そう言い切り、橘さんはアイスコーヒーを飲んだ。そして軽くストローでカラカラと中身を混ぜた後、ガラス製の四角いコースターの上にそれを戻す。


「立ち入ったことであることは承知で聞きたい。相模原君は綾をどう思っている?」


「どうって、好きです。だから付き合っているんです」


「そうだよね。でも俺が聞きたいのはそういうことじゃない。綾が短大に進学すること、家のことで悩んでいること、相模原君は知っていた?」


 心臓が一際、大きな音を立てた。そんな、気がした。


「……いえ、知りませんでした」


「相模原君が知らないことを俺が知っている。それも些細なことじゃない、大事なことだ。綾は泣いていた。早く自立した大人になって自分の力で生活出来るようになりたいと言って。付き合っているからといって全てを話す必要は無い。けれど、泣くほどの想いをどうして綾は恋人である相模原君に話さない?」


「俺が、頼り無いからでしょうか」


「そうかもしれないし違うかもしれない。その辺を綾本人から今日、聞きたかったんだけどね。良い機会だから相模原君に話してもほしかったし」


 はあ、と橘さんが溜め息を落とした。


 そして、ふと思い出したかのようにポンと付け足した。


「誤解の無いよう、言っておくけど。綾は確かに相模原君が好きだよ」


「は」


 唐突に告げられたその言葉に、間の抜けた一つの音が俺の口から勝手に飛び出した。


「いや、考え込んでるみたいだったから。それに、以前にも話したけど俺は綾に対して恋愛感情は持っていないから、敵視しないでくれるとありがたいんだけど」


「敵視、いえ、それは無いです」


「そう?」


「はい、本当に」


 言われて気が付いたのは敵視というより、羨望。羨望というより願望。


 橘さんはこの家に片桐を招き、片桐が安心して眠りに就ける環境を差し出すことが出来る。それが、俺はずっと引っ掛かっていた。俺にはそれが出来ないから。そして、ここに泊まることを良しとしない俺がいる限り、ここを失うことになるから。ガラス細工のような片桐綾という人間が。


「ま、ともかく。綾の現状はそういうことになってる。正直、相模原君と綾が今も変わらず付き合っていると聞いて俺はホッとしたんだ。変な話かもしれないけど、俺は相模原君に期待してる」


「期待?」


「そう、期待。さっきも言ったけど、俺は綾に恋愛感情は持っていない。ただ、綾が安心して立っていられる場所を見付けられることを心から願ってる」


「そこまでの気持ちがあって、恋愛感情が無いんですか」


「無い。それは綾も分かっているし、綾ももう俺を恋愛対象として見ていないよ」


 そうだろうか。いや、そうだとして。俺は片桐に何が出来た? それに、どうして片桐は俺に心の内を話さない? 橘さんに泣きながら話すことを何故、俺には話さないのだろうか。


 ――俺が、知ろうとしなかったからだろうか。俺は片桐を見ているつもりで、その実、何も見ていなかった……? そんなことは無い、そんなことは無いだろう。けれど、俺は自分の環境が変わったこと、変わって行く様に目を奪われて、隣にいたはずの片桐の心情を気遣うことが出来なかった。そう、思う。


「綾が俺を頼ったことの理由の一つは、おそらく、この家のこと。あの部屋があることだろうね」


 先程、俺の脳裏をよぎったことに近い内容を、遠い響きを持つ声で橘さんは言った。それは俺に向かって言ったというより、何処か独り言のような印象があった。


「ここに来れば、安堵出来る。安心して眠ることが出来る。だから俺を頼ったんだ」


「そうなんでしょうか」


「それが全てでは無いだろうけどね。誰だって良いという考え方をする子じゃないし。俺はそれで良いんだ。むしろ、綾を少しでも助けることが出来るなら俺も助かる。綾が困っているのを知って何も出来ないのは俺も苦しい。でも、相模原君」


 軽く息を吸い込み、橘さんは思い切ったように告げた。


「環境を提供出来ないからといって綾の力にならないわけじゃない。きっと綾は、ずっと相模原君に助けられて来たと思うよ。そこに自信を持って、もう一度、綾と話してみたらどうだろうか。相模原君を責めているわけじゃない。細かく聞いたわけでは無いから確実なことは言えないけれど、綾が相模原君に話すべきことを話せていないことにも問題はあると思う。すれ違っているだけだよ、二人は」


「……ありがとうございます」


 自然、そう言っていた。


「お礼を言われるようなことはしてないよ。立ち入ったことを聞いて悪かったね。どうしても心配だったんだ、二人のことが。たとえ、お節介と言われても」


「そんなこと無いです。俺、綾と話をしてみます」


「良かった」


 俺は未だ手を付けていなかったアイスコーヒーを飲み干して立ち上がると、


「ああ、あれ、綾に渡してくれないかな。きっともうここには必要無いだろうから」


 と、橘さんはリビングの片隅に視線を動かした。


 その視線の先には、春の日だまり。レースのカーテン越しに入り込む光の中、いつか見たベンジャミンと、その隣に寄り添うようにして赤いポインセチアが置かれていた。


「綾が持って来たんだ。こっちに来た時、家に置いたままだと気になるからって」


 ほんの数秒、時間が止まったかのような気がした。緑の葉を大きくし、真っ赤なほうを鮮やかに魅せているポインセチア。


「相模原君が贈ったらしいね」


 二年と少し前のクリスマス。片桐の誕生日にプレゼントしたポインセチア。


「はい、カゴ」


 手渡されたそれにポインセチアの鉢植えを慎重に移し、俺は橘さんにお礼を言った。


「ああ、カゴ? 返さなくても良いよ」


「いえ、それもですけど。その、色々。俺はまだ大学生で出来ることは少ないかもしれませんが、片桐を助けて行きたいと思ってます。それを伝えて、話をしてみます」


 何だか、自分がひどく小さな存在に思えた。俺は自分のことに精一杯で、まだ学生で。けれど、片桐のことを少なからず分かった気になっていた。それが恥ずかしく、情けない。


 だが、気付いたからには取り戻す。俺一人のことでは無いから、そううまくは事は運ばないかもしれない。けれど、ここで片桐を失うわけにはいかないのだ。もう、手を離せない。


「そう言って貰えて、俺も話をした甲斐があったよ。失礼なことを言ったかもしれないけど、すまなかった。気を付けて」


 こうして、俺は橘さんの住むマンションを後にした。その手には火のように赤いポインセチアを持って。






 ――片桐と会って話をする機会が持てたのは、俺が橘さんと会ってからちょうど一週間後の日曜日だった。その間、俺の自室ではポインセチアがその存在を誇張するかのように鮮やかな赤を輝かせ続けていた。自然、水遣りなどをしていたわけだが、そのたびに片桐を思い出す。その繰り返しに慣れた頃、今日という日が訪れた。自室の風景に馴染んだポインセチアをカゴに入れて、透明なビニールで上を閉じるようにして包んだ。


 家を出る時、


「お、その植物、どうするんだ?」


 と、叔父が声を掛けて来た。


「ああ、これはもともと友人のなんだ。ちょっと預かってただけなんだよ」


「そうか。消えない炎のようで好きだったんだがな」


「詩人だね」


「いやいや。気を付けてな」


 外は午後の陽気が緩く流れる晴天。緊張が少し柔らいだ気がした。


 待ち合わせ場所は、電車で二つ移動した駅前。そこから少し歩いたところに新しく出来た、ファミリーレストランに行くことになった。紅茶や緑茶などの味が結構しっかりしていて好きだからいつか怜君と行きたいなと思っていたんだと、六日前の月曜日、電話で片桐がそう言って教えてくれた。


 駅前に着くと、もう片桐が来ていた。長い黒髪を下ろし、自分のつま先を見るようにして柱に寄り掛かっている。近付くと片桐もこちらに気付いたようで、パッと顔を上げた。その表情は形容し難く、明るいとも暗いとも付かない。複雑に抱え込んだものがそのまま顔に表れている、そんな感じだった。


「久しぶりだね」


「そうだな」


「あれ、それ……」


「ああ、預かって来た、橘さんから」


 そこで会話は途切れる。昼間の喧騒の中に立っているというのに、ここだけが切り取られたかのように静かだった。


「じゃ、行くか」


「うん」


「昼飯、食べた?」


「まだ」


「そのレストラン、良く行くの?」


「今日で三回目」


「こっちの方まで来るんだな」


「紅茶がおいしいって本で読んだんだ、それで来てる」


 ――正直に言おう、非常に気まずい。


 まず、空気が重い。次に、声が重い。そして、足取りが重い。今、この空気をステンドグラスを打ち割るかの如く美しく、そして派手に打ち破る方法があるならば是非とも教えて頂きたい。誰とも無しに俺はそう思ってしまったほど、現状はとても強い重力を覚える。


 二人で淡々とした会話を少しばかりする内、目的のレストランが見えて来た。赤煉瓦仕立てで欧風の建物。本当にファミレスなのかと片桐に尋ねてみると、ホントにファミレスです、と少し笑った片桐が見られた。


 まだ出来たばかりだし人気のお店だから予約しておいたという片桐のおかげで、俺達はすぐにボックス席に座ることが出来た。店内の奥、端の席。昼時ということもあるのか賑わってはいたが、落ち着いて話が出来そうな席だった。


 本日のランチメニューというものが三種類あったが、偶然にも俺と片桐は同じ物を選択した。そしてドリンクバーを二つ頼むと、互いに手持ち無沙汰となってしまい、またもや重い沈黙が流れ始める。


 やがて、片桐はデザートメニューを真剣に見始めてしまった。俺はといえば、ふと隣に視線を移すと、レースのカーテン越しに降りて来る日光を受け止めているポインセチアが目に入る。片桐は、これを橘さんの家にまで持って行ってくれていた。その赤が、小さく炎を灯した。そんな気がした。


「あのさ、ここ最近、橘さんのところに行ってたんだって?」


 意を決して切り出した俺の言葉に反応し、片桐はメニューを静かに閉じた。


「実は先週の日曜日、橘さんに会って来たんだ。こっちに戻ってたんだね」


「……うん」


「ごめん。色々、気が付かなくて」


「え?」


 そこで初めて片桐は顔を上げた。そこには疑問の色を濃く宿した表情があった。


「進路のこと。家のこと。片桐が悩んでいたこと。相談に乗れなくて、ごめん」


「えっ……」


 疑問と困惑と動揺。それらが入り混じった表情が生まれる。何かを言おうとしたのか微かに開かれた片桐の唇が、何も言わないまま元のように閉じられる。


「自分のことを追い掛けてばかりで、ごめん。大学に進学して、環境が変わって、それが凄く面白くてさ。確かに今までより忙しくなったし、勉強しないとならないことも増えた。でも、だからって片桐のことを気遣えなかった理由にはならない」


「あ、あの」


 遠慮がちに紡がれた少しの言葉が、俺の意識を引っ張る。


「そんなこと、無いよ。怜君は、悩んでいることがあったら話してって言ってくれたし、それで話さなかったのは私だし。その、うまく言えないんだけど、これは私のことだから私一人で何とかしなくちゃって思ったっていうか」


「でも、橘さんには」


「あれは違うの」


「違う?」


 そこまで話した時、料理が運ばれて来た。


 熱いのでお気を付け下さい、と置かれた二つのシーフードグラタンと二つのサラダ。グラタンは、まだチーズが踊っていてジュウジュウと音を立てていた。


「とりあえず、食べるか」


「うん。あ、飲み物持って来るよ。何が良い?」


「悪いな。じゃ、お茶の冷たい方」


「分かった」


 片桐が戻って来るまで待とうと、俺は持っていたスプーンを置いた。その時、俺は自分の心臓の音がいつもより良く聞こえることに気が付いた。緊張しているのだろうか。


「お待たせ」


「サンキュ」


 片桐が席に着くのを待って食べ始めると、待っててくれたんだ、と片桐がお礼を言う。それに返事をして、俺はさっきの話の続きが気になりつつ、三分の一程、グラタンを食べてサラダを少し食べた。そして、さっきの続きだけど、と言って片桐の言葉を待った。


「あ、えっと。もしかしたら怜君に相談しないのに芳久に相談したって思ってるかもしれないんだけどね」


 片桐は一度、言葉を切って続けた。


「芳久に相談したわけじゃないの」


「え? でも、橘さんは片桐が短大に行くことを知ってたし、家のことで悩んでいることだって知ってたし」


「それは、芳久がこっちに戻って来たってことでメールが来て、メールの時とか、芳久の家に行ったりしていた時に聞かれたから答えたというか……。さっきも話したけど、私は自分の力で何とかしないといけないと思ったから。相談っていうのは解決する為のものでしょ。解決は自分でしないとならない、だから私は誰にも相談してないよ。その、芳久には話したのに怜君に話してないっていうのは申し訳無かったけど……」


「ちょっと混乱して来た……ような?」


 とりあえず、グラタンを食べてみる。チーズに焦げ目が付いていておいしい。いや、今、考えることはそうでは無くてだな。


「えーと。自分で解決しないとならないことっていうのは、進路? 家のこと?」


「両方かな。でも、もう短大に行くことは決めたし決まったから、残っているのは家かな」


「少しだけ、橘さんから聞いたんだけど。あんまり家、折り合いが良くないって。あ、橘さんは片桐のいないところで勝手に話して良いとは思ってなかったんだけどさ」


「うん、平気。怜君だし。聞いた通り、折り合いは非常に良くないです」


 非常に、を強調して片桐は言った。


「でも、もうそれは仕方無いと思う。極論で言えば、世界中の誰もから好かれることは不可能でしょ? そういうことなんだって割り切ることにした。そうしないと無理だから」


「それで……橘さんのところに?」


「そう。月並みな言い方だけど、どうしても耐え切れなくなって……ごめんね」


「え?」


「怜君と付き合ってるのに、無神経なことして。何もしてないよ、キスとか」


 その言葉に俺は、危うく飲み掛けていた烏龍茶を吹き出すところだった。


「だ、大丈夫?」


「ああ」


「えと……その、ホントうまく言えないんだけど、怜君は何も悪くないよ。ただ、私が話さなかっただけだから」


 そこで一度、会話は区切りを迎えた。


 しばらくの間、俺達は陽の光がゆったりと降るその席でグラタンとサラダを食べ、二回程、片桐はドリンクバーに立った。そのたび、俺の分も持って来てくれた。


 食事を終えた俺達がセイロンのアイスティーを味わっている時、不意に片桐は思いも寄らないことを口にした。


「私達、別れない?」


 と。


 まるで日常の些細な会話の如く、ごく自然に。さらりと吹き抜けて行く風のように。


「……何で?」


 情けないと言われようと、そう口にすることがその時の俺の精一杯だった。平静を装い、そう尋ねることだけが。


「このままだと、同じことになるような気がするんだ。私は芳久に寄り掛かって過ごしてた。付き合っている時も、別れてからも。そして、今も。もう、それは終わりにするけれど」


 一拍置いて、片桐は続けた。


「私は怜君が好き。でも、私は自分のことは自分で解決して行きたいの。今はまだ出来なくても、そう出来るようにしたいの。だから本当は就職して自立する準備を始めたかったんだけど……」


「いや、その考えは凄く偉いと思うよ。だからって俺達が別れる必要は」


「でも、このままだと多分、怜君は私のこと面倒だなって思うようになるよ」


「ならない!」


 思わず、少し大きな声になってしまった。


「あ、ごめん」


「ううん」


 間を置き、先に片桐が口を開いた。


「凄く、嬉しい。でも、私はもう頼ることをやめたいの。依存することをしたくないの。もう高校生も終わり、いつまでも子供じゃいられないから。ちゃんと、自分で」


 考えながら話しているような、そんな印象を受けた。 だからなのか、そこには強い意志が込められているようで、それを引っ繰り返すことは最早出来ないような気がしてならなかった。それでも。


「でも、俺は片桐が……綾が好きなんだ。力になりたい。そんなに自分を追い詰めなくて良いと思う。頼ることは悪いことじゃないんだ。俺が今の綾に出来ることって少ないかもしれないけど、それでも力になりたいんだ」


 率直な、正直な想いだった。ここで片桐を――綾を離してしまえば、もう二度と出会えないような、そんな焦燥すら覚えて俺は言った。


 ――だが、結論から言えば俺達の会話は平行の一途を辿った。綾の想いもまた同様に率直で正直で、そして真剣なものだった。話していて分かったのだが、綾は橘さんに頼って過ごしていた自分自身を悔いていた。だからこその想いだった。それが理解出来ないわけでは無い。そこから生じた自立意識が悪いわけも無い。だが、俺は別れることには納得出来なかった。


「本当にありがとう……。そこまで言ってくれて」


 いや、この流れは良くない。そんなに言ってくれてありがとう、でも別れましょう、こうなることが手に取るように目に見える。どうしたら良い?


「でも」


「綾の考えは良く分かった。ここで一つ、提案がある」


 綾の言葉を遮って俺は少しばかり早口に言った。何が何でもこの流れを変えたい、その一心からだった。


「一人で考えてやって行く、その期間を設けるっていうのが良いと思う」


「期間?」


「そう、期間。まさか未来永劫、誰にも頼らず頑張るってわけじゃないだろう?」


「そうだね、確かに」


「だから、期間を決めて自分を試してみれば良いんじゃないかと思ったんだけど」


「なるほどー」


 いつかのように瞳がまるくなり、少し考え込む風を見せた綾。そして、言った。


「じゃあ、一年くらい」


「一年!?」


「あれ、ダメ?」


「いや、ちょっと長すぎる気が」


「でも、短大が二年間だから、せめてその半分でも自分の力でやって行けたらちょっとは自信が付くかなーと」


 ね? と、同意を求められたのだが俺は頷けなかった。


 しかし、既に綾の中では答えが決まってしまったらしく、じゃあそうするね、と追撃されてしまい、もうこれ以上の反論は無意味という空気がゆるりと流れてしまった。別れるということは回避出来たのだから上出来なのかもしれないが……俺は手放しでは喜べなかった。






 ――その日、綾は夕方を過ぎた頃、ポインセチアを持って電車に乗って帰って行った。途中まで同じ電車に乗ってはいたが、お互いに何故か口を開かなかった。しかし、それは今日に何度か感じたような重い空気の中では無く、夕日に照らされた落ち着いた空気の中でのことで、俺は苦痛では無かった。


 綾は、車窓から見える橙色の景色を見たりポインセチアを見たりする合間、何処か遠慮したように俺を見上げていた。目が合うと、控え目に笑う。


 やがて俺が降りる駅が近付いた時、電車の走行音に掻き消されて聞き取れないくらいの小さな声で、ありがとう、と綾が囁いた。不意に胸が締め付けられる気がした。それを誤魔化すかのように俺は綾の頭に片手を置いて撫でてみた。心の底から愛しかった。






 ――それから、一年の時が流れた。


 なんて言うのは簡単至極、実際の一年は長い。環境や心情、人それぞれに違う中、時間の感じ方も人それぞれだろう。俺の場合、この一年は非常に長く感じられた。


 片桐さんと仲良くしてる? というメールが顔文字付きで響野から送られて来た時は、その約半年を過ぎようとしている時だった。こうこうこういうことで一年間くらいは距離を置くことになったと返信をしたら、すぐに電話が掛かって来て、そして第一声が、ホントかよ! だった。とても、うるさかった。


「一年って三百六十五日だぞ、え、ホントにお前はそれで良いの?」


「半年は過ぎた。もしかしたら別れるところだったからな、回避出来ただけ良いと思う」


「別れる!?」


「さっきから声がでかい」


「あー……そうかー。そっか、頑張れよ。俺は応援しているからな!」


「それはどうも」


 響野が何をどう理解し、どう納得したのかは分からなかったが、頑張れよという何気ない言葉が何処か印象的で、俺は自分で思っていたよりもこの状況に少なからず衝撃を受けていたことを再認識した――綾と距離を置くという状況に。


 別に、一年の間、片桐と全くの音信不通だったわけでは無い。時々、メールはしていた。それより更に時々にはなるが、電話もしていた。だが、会うという話は出なかった。俺からそれを言うことは違うように思えたし、一年後を想像するに留めた。が、不安もあった。心は変化する。一年が経った後、綾はどんな気持ちになっているだろう。そして、俺も。などと、考えてみても何も始まらないことは分かっていたので、綾が自分を確立させる為に努力していることを思い、俺も自分自身を前進させることに時間を遣った。主に勉強に。結局、学生としてすることは他になかなか見当たらなかった。高校生の時とあまり変わらない。あとは、読書などで知識を蓄え、友人と付き合う中で視野を広げることを意識した。急速に変化することは難しいだろう。ただ、急速に俺の意識は何処かへと向かい始めている、そんな気がしていた。


 俺は、綾の力になりたい。それを実際に可能にしたい。綾は、橘さんに頼って過ごした自分を悔やんでいた。俺は、橘さんのように綾の選択肢に成り得なかったことを悔いていた。次に会う時、俺はもうそういう思いは抱えたくなかったし、綾だけが先へと進み、成長している姿を見るのは望ましく無いと思っていた。変わるなら、二人共にが良い。






 ――そして今日、ついに俺達は再会する。と言うと大袈裟に響くかもしれないが、決して大袈裟などでは無いのだ、俺にとっては。


 大学三年生になった俺と、短大二年生になった綾。春の風が少し強く吹く、暖かな日。何故かケーキバイキングにて、俺達は再会を果たしたわけだ。


「久しぶり! 予約しておいたから。さっ、行こう」


 綾は俺にそう言い、再会してすぐに歩き出した。


 うわ、軽い。内心、俺はそう思い、戸惑いを禁じ得なかった。そもそも、一年ぶりの再会がケーキバイキングってどうなんだろうとも思った。ケーキは嫌いでは無い。嫌いでは無いが、バイキングは大抵、時間制になっている。そんな中、ケーキと来れば、綾の性格から考えるに食べることに夢中で、ゆっくり話をするという雰囲気にはならない気がしているのだが……。


「おいしい!」


 ――予感、的中。


 綾は席に着くや否や早速、真っ白な皿にちまちまとしたケーキを所狭しと盛り付けて帰って来た。そしてすぐに飲み物を取りに行く。俺の分のアイスコーヒーも持って来てくれた。その後、いただきますと告げて小さなケーキ達をもぐもぐと食べ始めた。合間にオレンジジュースを飲んでいる。


 もぐもぐもぐもぐ。あっという間に食べ終えた綾は、取って来るねと笑顔で言って、二皿目を持って来た。これまた小さなケーキが所狭しと。そして、もぐもぐもぐもぐ。つられるようにして俺も抹茶ケーキを食べてはいるのだが、話が出来ない。やっぱり、と思うしか他に無い。


「久しぶりだな」


 と、綾がフォークを置いてオレンジジュースに口を付けた時、俺はそう言ってみる。情けないかもしれないが、僅かに緊張していた。


「うん、久しぶり! 約一年ぶりだもんね、会うの。元気だった?」


 カタ、とグラスを置いてこちらを改めて見た綾は、輝くばかりのという形容が正しいと信じられるくらいにパッと光る笑顔を見せ、懐かしく思える弾むようなまるい声で言った。


「ああ、綾は元気だった?」


「とても! 頑張ったよー、毎日。時々だけど、怜君とメールしたり電話したりしてたでしょ? 凄く助かったよ」


「助かった?」


「うん。頑張ろうって思えた。それで、一年後に一緒にここのケーキバイキングに行くんだって計画を練ったり、ちゃんと伝えるんだって決意を新たにしたり、勉強したり、とにかく色々、沢山助けられたんだ。ありがとう! あ、ケーキだけど、九十分しかいられないからどんどん食べた方が良いよ。ケーキ嫌いだった?」


「いや、好きだけどさ。久しぶりで、ちょっと緊張が」


「私も。緊張しますよねー。あ、オレンジジュース取って来るけど、何かおかわり飲む?」


「いや。ありがとな」


 歩いて行く綾の背中では長い髪がゆらゆら遊ぶように揺れていた。いつの間に伸びたのだろう。ああ、この一年か。そんなことをぼんやりと思い、アイスコーヒーを飲む。


「怜君も緊張するんだね」


 オレンジジュース片手に戻って来た綾は、少し意外そうな様子でそう言った。


 そして、


「怜君って、風のようっていうか。飄々としているところがあるような気がするから、私と会うのに緊張なんてしないと思ってた」


 と、続けた。


「一年ぶりだし、多少、緊張はするよ」


「だよね、私も」


「さっきも思ったけど、綾は緊張ってしてる? とてもそうは見えないんだけど」


「してますよー。何て失敬なことを言うのでしょう」


 むす、というオノマトペが飾られそうな口調で綾は言ったが、その表情は穏やかだった。


「髪、伸びたね」


「伸ばしてみたんだ」


「短大、どう?」


「もう折り返し地点かと思うと早い。勉強はそんなに好きじゃないけど、頑張ってるよ」


「ここのケーキバイキングって来たことあるの?」


「ううん。今日が初めて」


「元気そうだね」


「元気! って、さっきも聞いたよ」


 その間も、もぐもぐと綾はケーキを食べていた。


 そういえば、いつかのパン食べ放題の時も、せっせとパンを食べていたことを思い出す。まるでハムスターのようだと思ったあの日が、小さな光の粒のように遠く感じられた。


「紅茶のシフォン、おいしいよ」


「嬉しそうだな。何か和む」


「和む? それより怜君もどんどん食べた方が良いよ?」


「ああ」


 俺は、核心に触れられずにいた。触れた途端、一瞬にして壊れてしまうかもしれない。臆病と笑われようと構わない。一秒でも長く、俺はこの空気の中にいたかった。だから、先延ばしにしたって良いじゃないか。綾が今、何を思っているかを尋ねることを。


 ――九十分のケーキバイキングは、意外にもあっという間に思える速さで過ぎ去った。ケーキを食べて、飲み物を飲んで、会話をして。そうしたら、九十分は本当にあっという間で。


 その後、桜が綺麗に咲いているから一緒に見ようと綾に誘われ、俺達は近くにあった小さな公園へと来ている。久しく目にしていなかった、滑り台やジャングルジムという懐かしい遊具を遠巻きに囲むようにして桜の木が植えられていて、先程よりも弱くなったとはいえ風のある今、その花びらはひらひらと風に舞い、宙を流れている。しばらくの間、木製のベンチに座って俺達はその様子を見上げていた。


「綺麗だねー」


「ああ」


「散っちゃうの、勿体無いね」


「毎年、桜の花が咲くたびに風や雨で散らされている気がするんだよな」


「確かに! せっかく咲いたのに、何てことをするんでしょう。自分の意思で散るまで、そっとしておいてほしい。そういえば、小さい時に桜の木にあった実がさくらんぼだと思って食べたことがあるんだ」


「え、おいしいの?」


「おいしいのもあった! でも、何か苦いのもあった」


「子供の時って、実とかが魅力的に見えるんだよな」


「見える! つい、取りたくなる。そして食べたくなる」


「食べるかどうかはまた別の話だな」


「そうかなー。収穫したら食べたくなりますよ?」


「収穫って」


 桜舞う、午後。春の日差し。その柔らかく穏やかな時間が、思考にヴェールを掛ける。 公園の片隅では、二人の子供がキャッチボールをしていた。何気無く、行き来するボールを見ていたら、その動きが自分の心の動きと不意に重なって見えた。


「ねえ。怜君は今、何を考えてる?」


 その声が、何処か今までよりも大きく耳に響いた気がした。


 振り向くと、こちらを見ている綾と目が合う。吸い込まれそうな黒い、まるい瞳。それがが震えたように思えた。


「私が今、何を考えていると思う?」


 ほんの少し、傾けた首に誘われて綾の黒髪がさらりと流れた。


 まるで、時が止まったような気がした。唐突に覚えた緊張が指先までをも強張らせる。いや、緊張ならさっきからずっとしている。綾に会った時から。それよりも前、綾と今日、会う約束をした時から。


「怜君、緊張してるって言ってたよね」


「ああ、してる」


「私も、そうだよ。ちゃんと自分を築きたくて、一年っていう時間を言ったのは私だけど。でも、不安だった。一年後、怜君が会ってくれなかったらどうしようって。だから今日、こうやって会ってくれて凄く嬉しいんだ」


「俺も、会えて嬉しいよ」


 にこ、と綾が笑った。


 それでも俺の緊張は和らぐどころか、ますます高まるばかりで。綾は何を言おうとしているのだろうと、そればかりが頭の中をグルグルと巡る。俺も伝えたいことはある。だが、今は綾の言葉を待った。


「私、怜君が好き。もう一度、私とお付き合いしてくれませんか?」


 ああ。もう、全てが春の嵐に掻っ攫われた。そんな気がした。


 ――俺は、あとになって何度もこの瞬間を思い出す。雪のように舞う桜の花びらが綾の真剣な表情に降り注ぐイメージと共に、何度も思い返す。この時、俺はどんな顔をしていただろう? 何を思っていただろう。ただ、言葉にし難い感情が全身を満たしていたことだけは強く覚えている。


「俺も。俺も綾が好きだ。付き合ってほしい」


 俺がそう告げると、


「良かったあ……」


 と、綾が顔を覆って俯いた。


「綾」


「ダメって言われたらどうしようかと……」


 考えるより先に伸びた手が綾の黒髪に触れた。さらさらしていた。そのまま撫でるように手を滑らせると、綾が顔を上げて覗き込むようにして俺を見た。その瞳がほんのり潤んでいて、目が離せなくなる。


「もう、お前なんか知らないって言われたらどうしようって」


「そんなこと言うわけないだろう」


「だって、私の勝手だったから。一年っていう時間を作ったのは、私の都合で我が儘で。その間に、怜君が他の誰かを好きになることだってあるかもしれなくて。それは……私にも言えることで。本当は怖かった。怜君と離れるの、とても怖かった。今日だって、怖かった。それでも会いたくて。ちゃんと私の気持ちを伝えたくて。それで……」


 途切れた言葉の先は、涙になっていた。


 髪に触れていた手に、不意に力が込もる。そのまま、抱き締めるようにすると、綾が驚いたように少し体を固くしたことが分かった。だが、やがてそれは解 《ほど》ける。強く打つ心臓の音が聞こえてしまいそうな気がして、俺は自分の心臓に苛立ちを覚える。それでも綾を離すことは出来なかった。もう二度と、離すことは出来ないと知った。


 こんなに近い距離でも耳を澄まさなければ分からないくらいの小さな声で、綾が泣いていた。それが、こんなにも胸を締め付ける。


 ややあって、ふるりと身を動かせた綾がそっと俺を押し戻す。片側の髪を照れたように耳に掛ける綾は、もう泣いてはいなかった。僅かに伏せられた目が、何かを探すように左右に揺れて、そして遠慮がちに俺を見上げた。


「もう一度っていうかさ。俺達って別れてはいなかったよな?」


「あ、うん。でも、それに等しい感じがしてたから。改めてよろしくってお願いしたかったの」


 泣いたことを誤魔化すかのように、へへ、と笑いながら綾は言った。


 俺は、安堵していた。綾とこれからも共にいられることだけでは無い――綾も、不安だったということに。変わらないものなどもしかしたら無く、その中でも最も不確かと言えるかもしれない、心。俺達は同じ不安を抱えて、この時間をお互いに過ごしていた。その事実が、小さな棘となって俺の心に落ちて刺さった。


 変わらないものが存在しないとしたら、これからも変わらない保証など、何処にも無いのだ。いつでも何かの影響を受け、いつでも揺れている心。だが、春が終わって夏がやって来て秋になり冬が訪れても、片桐の手を離さないことが俺の心からの想いだ。それが、一方通行にならなくて本当に良かったと思う。


 奇跡的なことだ、互いが互いを同じ響きで呼び合うことは。俺はその幸福を知った以上、ずっと繋ぎ留めておきたいと願う。綾の力に、これからもなりたいと思う。


「えっと。ずっと、よろしくね」


「こちらこそ」


 桜舞う、午後。春の日差し。その柔らかく穏やかな時間が、思考を緩やかに包み込む。文字にすれば短い「これから」が、長く二人の時間としてありますようにと。






 ――数年後には、学生という限られた時間を抜け出し、俺達は今まで以上に互いを必要とする。変化して行くささやかで儚い日常は、互いの存在が形作るのだ。ただ、頼りきることの無いように。ただ、手を離さないように。祈るように。相模原怜という人間と、片桐綾という人間が共にいられる幸福に、俺と綾は出会えた。


 制服姿の写真の二人が懐かしく思える頃も、俺達の手は繋がれたままだった。きっと、これからも。


 


 


 


 〈了〉

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