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第七章【流露と常盤】

 深まる秋は、まるで何かに背中をゆっくりと押されるように、何処か落ち着かない。何となく急かされているような気すらする。それはきっと俺が高校三年生、大学受験生ということもあるのだろう。


 早いものだ、と道の両端に積もった枯れ葉を目に入れながら思う。高校に入学してから、あと僅かで三年が過ぎようとしている。高校に受かって喜んだ日が本当に遠く感じられた。


「考え事してる?」

 

 あの時には全く想像など出来なかった。俺が片桐と出会い、同じ時間を少しずつ共有して行くことを。


「もうすぐ卒業だなと思ってさ」


「ああ、そっか。そうだね、怜君は三年生だもんね。勉強は順調?」


「まあまあ」


「ほうほう、余裕そうですね」

 

「そう言う片桐こそ、ちゃんと勉強してるんだろうな」

 

「怜君は結局、私のことを名字呼びしたままですねー」


 不意に話を逸らされる。俺が返答に詰まった一瞬、片桐はすぐに自分が言ったその話題から離れるように別の話をぽとりと落とす。


「私が怜君を気になったきっかけはね」


「突然だな、話が」

 

 俺の言葉に勢いを削がれることも無く、片桐は話を続けて行く。


「やっぱり水晶の時。雪まみれだった私に声を掛けて、一緒に探してくれて、見付けてくれた時。あの時だなあ」


 懐かしむように前方に視線を伸ばす片桐は、まるで両目にその時のことが映っているかのようで。つられて俺も前方を見遣るが、そこには当たり前のように駅までの長い道が伸びているだけだった。

 

「あの時、それはもう必死に探してたんだ。頭の中は水晶のことでいっぱい。しゃがんでいる私の横を沢山の人が通って行ったよ。沢山の足。軽く散る雪。私はそういうのはただ目に入っているっていうだけで気にしていなかったし、気にしていられなかった」


「うん」


「だんだん手が冷たくなっちゃって。手袋、してなかったし。水晶って透明でしょ。それが雪の中に落ちたから、まさか見付からないのかなって。どうしたら良いのか分からないまま、とにかく探してた」


 俺の脳裏に、あの日の片桐がよみがえる。


「そうしたら、怜君が声を掛けてくれた。私、あんまり顔とか態度に出ていなかったかもしれないけど、凄く嬉しかったんだよ?」


「うん」


 いや、かなり態度に出ていたな。そう思い出し、俺は少しだけ笑った。


「あれから、もうすぐ一年が経つんだね」


「そうだな。早いな」


「早すぎるね」


 そして、しばらく俺達は黙って、ただ駅への道を歩いた。歩き続けた。

 

 やがて駅が見え始めた頃、片桐は過ぎた時間を懐かしむような、これからの時間に想いを馳せているような、何処か遠い口振りでそっと言った。


「もう、怜君は卒業なんだね」


 そこに宿された気持ちを、何となくだが俺は察した。そしてすぐに、その推察が間違っていないことを知る。


「もう、こうやって一緒に歩くことも無くなっちゃうんだね」


 俺より少し前を行き、駅構内へと続く階段をタンタンと下りて行く片桐の後ろ姿。

 

「学年が一緒だったら良かったね。そしたら、あと一年間は同じでいられたのに」


 階段を下り切って振り向いた片桐は笑っていた。笑顔だった。それでも、俺にはそれが笑顔には見えなかった。


「俺が卒業したって、いつでもメールも電話も出来るし、出掛けることだって出来るだろ」


「うん」


「それに、まだ卒業じゃないし。こうやって帰れる」


「うん」


「だから、そんな泣きそうな顔するなよ」


「……うん」


 俺は片桐の隣に並び、自然に片桐の右手に自分の左手を伸ばしていた。繋いだ手から伝わる柔らかな体温が俺の心を締め付ける。


 手を繋いだまま、俺達は階段を上った。駅には、まだどちらのホームにも電車は来ていなかった。ベンチに座っても、俺は片桐の手を離さなかった。そろそろと夕暮れを迎える準備を始めた空を見ていると、お決まりのアナウンスが無機質に流れて静かな空間に亀裂を入れる。それは片桐の乗る電車の到着を知らせるものだった。


 きゅ、と片桐の指先に僅かに力が込められた。俺はその小さな力に、どうしようも無い息苦しさ、切なさのようなものを覚える。深い海の底で泡を吐くような。


「電車、見送ろうか」


 俺は言った。声にならない返事が片桐から聞こえた。


 ――学年が一緒だったら良かったね。


 片桐の言葉が耳から離れない。こうして隣に座る片桐の他愛も無い話を聞いている今も、まるで消えることが無い。


 紡がれて行く糸のようにくるくると回る、片桐の終わりの見えない話に耳を傾け、質問をしたり頷いたりしている間、何本もの電車が両側のホームに辿り着いては走り去って行く。夏よりも早く夕焼けに染められる空。ゆっくりと冷たくなって行く空気。遠くに、うっすらと細い月が見えた。

 

 これきり、というわけでは無いのだ。まだ十一月、俺が卒業するのは来年の三月。たとえ卒業したって、俺が高校という場所から抜け出るだけで、俺と片桐という関係から俺が抜け出るわけでは無いのだから。


 だから、もう二度と会えないかのようにこうして手を繋いだまま互いの電車を見送り続ける必要など、何処にも無い。それでも、俺は片桐のこの手を離すことが出来ない。電車に乗ろうと言い出すことが、立ち上がることが出来ない。そして互いの隠された気持ちを象徴するかのように片桐の話は尽きなかった。


 しかし、時間が止まることは無い。揺らめくロウソクの炎のように頼り無く染まりつつあった空は、既に一面が赤く染まっていた。そして、さっきよりもハッキリと、猫の目のような月の姿が浮かび上がっていた。


「夕焼け」


 続いていた話が不意に途切れ、片桐が言った。


「――帰ろうか。次の電車で」


「そうだな」


 両のホームからは電車が走り去ったばかりだった。とは言え、十分も経たない内に電車はやって来るだろう。そして互いを乗せて、それぞれ逆の方向へと進むのだ。


 さっきとは打って変わって黙りこくってしまった片桐がゆらゆらと右足を揺らしているのを見て、不安定に揺れ動く俺達のようだと、俺はふと思った。


「冬休み、何処か出掛けようか」


「怜君は受験生でしょ」


「大丈夫」


「自信家ですねー」


「行きたいところある?」


「アイスクリーム食べ放題とか」


「いや、それは無いだろ。冬に」


 そうだね。言って、笑って、足元から遠くを見遣った片桐は、沈み行く夕日をその目に捉えていた。


 ほぼ同時に上りと下りの電車のアナウンスが入り、間を空けずに電車がガタガタとうるさいぐらいの叫びを上げてやって来た。そこでようやくベンチから立ち上がった俺達は、繋いでいた手を離した。


「またね」


 ひらりと片手を振って見せた片桐の表情は明るかった。それに少しだけ安堵し、俺も答えて軽く手を振った。


 左右それぞれに動き出した電車。その、ほんの一瞬。片桐の顔に走った歪みが俺の全身を引き寄せるように掴んだ。思わず名前を呼びそうになったが、すぐに片桐の姿は飲み込まれるように電車が連れ去って行った。そして目に映り込むのはいつも通りの風景。聞こえるのはいつも通りの走行音。


 意識すること無く、俺はブレザーのポケットに手を入れた。そこにあるのは携帯電話。メールを書こうとしたのかもしれない。指先が携帯に触れた時に、他人事のように思った。だが、手がそれ以上に動くことは無かった。


 ――俺は今まで、片桐と学年が違うことをほとんど考えていなかった。俺が先に卒業することは、何か重大な意味があるのだろうか。


 いや、重大な意味など無い。浮かんだ疑問をすぐさま打ち消す。ただ、片桐があまりに泣きそうな顔をしていたから。だからきっと、同調してしまったのだと。


 だが、根拠も確信も経験も無いまま思う。高校は――学校という場は、一生の内から見れば霞むほどの短い時間で、その時には分からなくとも振り返り思い出すたびに、まるで何処か夢に近いような記憶として脳の中に淡く残されるのだろうと。その淡い時間から俺は片桐より先に抜け出す。俺を待っているのは大学という、やはり学校だ。それでも、そこに片桐はいない。シャボン玉のように不安定な力で結び付き浮かんでいた俺達は、高校という青空を無くしても変わること無くいられるのだろうか。


 もしも、俺と片桐が同じ学年で。同じ時に卒業を迎えるのなら。こんなにも足元が見えないような心情になることは無いのだろうか?


 考えても仕方の無いことだった。電車を降りた俺を、秋の冷えた空気が包んだ。






 十一月が終わる。クラスメイトの中には既に推薦で大学進学が決まった者がちらほらと出始めている。かく言う俺もその中に入るのだが、まさか響野もそうだとは思わなかった。


「馬鹿にしてるだろ」


「いや、ちょっと意外だったというか」


「推薦を貰えるとは思ってなかったってことだろ」


 響野のその言葉に対する返答を俺は濁し、もうすぐ冬休みだなと話を振ってみたら、明らかに話を逸らしただろうと言われてしまった。確かにその通りなのだが。


「冬休み、片桐さんと何処か行くんだろ?」


「そうしようかと思ってたんだけど、あんまり乗り気じゃなさそうなんだよな」


 何度か、俺はそういう話を片桐にしてはみたのだが、いつものようにルンルンとした感じで返事をしない。思い違いで無ければ、どこか軽く迷惑そうな気さえする。


「それは無いだろ。別れた彼氏が何回も誘って来るなら迷惑だろうけどさ。あれ、まさか別れた?」

 

「別れてない」


「そうか、良かった」


「本当にそう思ってるのかよ」


 思ってる思ってる、と言う響野ではあったがどうもそうは思えない。適当に言っているのではないだろうか。


「片桐さん、もう予定が入ってるのかな。家族旅行とか」


 それは無さそうな気がする。というのは失礼なのかもしれないのだが、今まで片桐本人と橘さんから聞いた断片的な話から想像するに、俺はそんな気がしてしまう。


 しかし、特別に予定が無いとしたら、どうして微妙な返事ばかりするのだろうという疑問が残る。

 

「だから本人に聞くのが一番良いし、一番早いって。前にも言った気がするよ、こういうセリフ」

 

「ああ、そうかもな」


「だろ?」


 それとなくは聞いてはみたのだ。だが、明確な答えが返って来ない。何か言いたくない事情でもあるのかもしれないと思い、その内にまた誘ってみるかなと考えてはいたのだが……。


「この間に駅で話していた時は、アイスクリーム食べ放題に行きたいって」


「真冬に?」


 驚いた様子で響野が聞き返す。


「この季節にアイスクリームか。暖房の効いた家でゆっくり食べるならまだしも、店で食べたら帰る時に寒さ爆発だろうな。しかも食べ放題って」

 

「俺も驚いたんだけど片桐は割と本気そうだったな」


「凄いな」


「な」


 会話が一区切り付いたところで壁に掛けられた時計を見上げると、昼休み終了の五分前だった。俺達はどちらからともなく立ち上がり、パンの袋やペットボトルをゴミ箱に入れる。


「片桐さんがどうしてもアイス食べ放題に行きたいって言うんなら、この際、それでも良いんじゃない。つーか、アイスの食べ放題って初めて聞いたんだけど。あるの?」


「さあ」


 などと響野と話しながら俺が食堂を出ると、後ろから「あ」という声が聞こえた。振り向いてみると、俺を見上げている一人と目が合った。何処かで見たことがある。名前が出て来ないが、確か。

 

「あっ、九条さんだ。九条楓さんでしょ?」


 ひょい、と俺の横から後ろを見た響野が何故か弾んだ声で彼女の名前を口にした。


 ああ、片桐の友人の。俺はお茶会に来ていた子だと思い出した。すると目の前の彼女――九条楓さんが、ぴょこと小さく会釈をした。


「お昼、食べてたの?」


「はい。あの……」


 響野の問い掛けに対する返事もそこそこに、九条さんは再び俺を見て、何か言いたそうに口を開いた。


 通路で立ち止まったままの俺達三人の左右を、慌てた様子で何人かがバタバタと走り抜けて行く。そういえば昼休みの終わりが間近だったと思い、響野と九条さんも時間に気付いたようだった。

 

「あ、あの。明日も食堂に来ますか?」


 焦った様子で尋ねて来る九条さんに俺が肯定の返事をすると、ホッとしたように僅かにその顔が緩んだ。


「じゃあ、明日。待ってますね」


 口早に言い残し、パタパタと九条さんは走って行ってしまった。


 その言葉が何を意味するのかを考えつつ、俺が歩き出すとすぐにチャイムが平常通りに鳴り響き、俺達も九条さんに倣うように廊下を走った。

 

 ――そして、午後の授業を終えて帰りのホームルームを終えた時、響野が話し掛けて来た。


「九条さんって何の用事なんだろうな?」


 と、何処か――いや、確実にワクワクという文字を背負ったその言葉をかわして俺が教室の後ろ扉を開けると、

 

「やっほー」


 そう言って、花のように笑う片桐が目に飛び込んで来た。


 そして、いつものように俺と片桐は帰路を辿る。その「いつも」が、いつまで続くのかとふと考えてしまった自分自身の脳味噌だけが「いつも」と違っていることに――違ってしまったことに気が付く。


「ん? また何か考え事?」


「いや、ちょっとボーっとしてただけ」


「そう?」


「ああ」


 ――そういえば。もう一度、片桐に聞いてみようか。冬休み、何処かへ行かないかと。別に大きな旅行をしようというわけでは無い。高校生にそんな金は無い。ただ、小さなことで良いのだ。本当にありふれたことで良い。それこそ買い物でもカラオケでも映画でもファミレスでも。せっかくの休み、何処かへ二人で出掛けたいというのはそんなに変わったことだろうか。


「あのさ」


「うん?」


「冬休み、忙しいか?」


「怜君の方が忙しいんじゃないの、勉強とか」


「もう大学決まったから、そんなに忙しくないんだ」


「えっ! 受かったの!」


「ああ、ちょっと前に。言ってなかったな」


「そうだよ、言ってないよ! おめでとうございまーす!」


「あ、ああ。ありがとう」


 と、こちらが気後れしてしまうくらいに片桐は素晴らしい勢いで祝いの言葉を口にした。


「こういう時、何て言うんだっけ。ええと、ちょっと待って。今、出て来るから。そうだ、コングラッチュレーションズ!」


「わ、分かった。ありがとう」


 正直に言おう、嬉しい。嬉しいが、また巧みに話が冬休みから逸らされている。


 また、という確信が生まれてしまうのはこういったことが今回で三回目だからである。覚えている限りではだが。俺が冬休みという単語を出すと、片桐は話の向かう先をそっとつついて方向転換させるのだ。さすがに三度も重なれば偶然とは言い難い。


 だが、だからと言って俺は何をどう告げれば、或いは尋ねれば良いのか分からない。こんなにも一生懸命に、良かったねと何度も繰り返す片桐を曇らせるようなことは言いたくないし、何かあるのだろうかなどと疑うようなことも思いたくない。


 しかしながら、やはり引っ掛かりを覚えざるを得ない。ここは聞くしかないだろう。響野の助言通りにするようで、それも多少の引っ掛かりを覚えるが。


「あのさ、忙しいならそれで良い。でも何か、俺と出掛けたくない理由があるなら言ってくれないか」


 ぴたり。俺の予想を現実にトレースしたように片桐は途端に黙ってしまった。

 

 ただ、片桐はすぐに言葉を放った。


「どっちでもないんだけど、その、うまく言えないんだけれども……」


 途切れた言葉の先は片桐にしか分からない。俺は続きを待った。

 

「いや、やっぱりうまく言えないね」

 

 語尾に星か八分音符の記号でも付いているのではないかと思う、そのぐらいの変に明るい調子で片桐は言った。


「それよりも」


「いや、ちょっとタイム」


 ここは話題転換のタイミングでは無いだろう、どう考えても。


「旅行とかじゃなくて、都内に買い物とかケーキのうまい喫茶店とかでも良いんだ。前に駅で言っていたアイスクリーム食べ放題でも良い。それとも他に理由があるならちゃんと話してほしい。出掛けられないことより、隠される方が俺は」


 そこまで言って、いつの間にか片桐が俯いていることに気が付き、俺は言葉を止めた。残ったのは何とも言い難い空気と足音。


「悪い、強く言い過ぎた」


 ふるりと横に振られた首と、舞った黒髪。


 それから駅に着くまで、俺達は互いに一言も発しないままだった。ようやく、と思ってしまうような、もう、と思ってしまうような道が終わって駅に着いた時、ぽつりと落とすように片桐が言った。それは感情の読み取れない声だった。


「冬休みが終わったら、きっとすぐに春になって卒業式だね」


 片桐の目は、ただ前を見ていた。






 ――そして迎えた翌日。俺の頭の中を駆け巡るのは昨日の帰りに片桐が言った言葉だった。

 

「サガミ、食堂行かないの?」


「その手に持った弁当は何だ」


「弁当」


「そこじゃないだろ。まさか、お前も行くのか」

 

「九条さんが帰れって行ったら退席しますよ」


「明らかに楽しんでるよな」


 今の俺とは真逆とも言える響野は、弁当の包みを片手に、早く行こうぜと俺を急かす。廊下をスタスタ歩く俺達の頭の中、恐らく考えていることに大差は無いだろう。

 

「あれは片桐さんのことだよな、絶対」


「何で分かる」


「サガミに向かって言ってたじゃん、明日も食堂来ますかって。サガミと九条さんの共通点って片桐さんだけだろ。となると片桐さんの話以外には無い」

 

「そこまで分かっていて、どうして付いて来るんだよ」


「興味本位」


「だろうな」


 それしか無いよな、それこそどう考えても。


 別に聞かれて問題のある話では無いだろうし(多分)、九条さんが構わなければ良いか。俺はそう諦めて食堂へ続く廊下を歩いた。


 食堂にはまだ僅かの生徒の姿しか無く、食券販売機の前もパン売り場の前も空いている。響野の急かすままに来たらこれだ。だが、パン売り場に人があまりいないのはありがたいので、俺は早速パンを買いに行く。三つのパンを持って戻ると、響野の隣に九条さんが座っているのが見えた。九条さんも早く来たなあなどと悠長なことを思っていたら、こっちこっちと響野が片手を上げていた。未だにさして混雑していない食堂、そんなことをしなくても分かる。


 俺が席に座ると昨日のように九条さんは、ぴょこと小さく頭を下げた。そして控え目な様子で「こんにちは」と。


「ああ、こんにちは」


「あの、急にすみません。ちょっと、お話したいことがあって」


「それは良いんだけど、コイツがいて大丈夫?」


 九条さんは響野を見た後、少しだけ戸惑った様子を見せたが、やがて小さく頷いた。

 

「あの、綾のことで相模原先輩に」


 ああ、やはりそうかと、俺は思った。


「最近、ちょっと元気無いんです、綾。元気無いっていうか……何て言えば良いのかな。ただ元気が無いっていうんじゃなくて、何処かに何かを落として来たみたいな。あれ、うまく言えない」


 小さな弁当箱の蓋を開け、それを片手に持ったまま九条さんは話し始めた。だが、何をどう話せば良いのか考えながらのようだった。


「そういえばさ、冬休みは片桐と何処か出掛けたりするの?」


 何か取っ掛かりになればとそう尋ねた俺に対し、ハッとしたように九条さんは顔を上げて俺を見た。置かれた弁当箱の蓋がカタンと音を立てる。


「冬休み、それです。そういうことを私も綾に聞いたんです。相模原先輩と出掛ける約束とかした? って。そうしたら最初は、大学決まったみたいだけどそれでもやることは沢山あるだろうし邪魔しても悪いから、みたいに言ってたんです。でも」


「でも?」


 言葉を切り、何処か躊躇うような様子を見せた九条さんへ先を促すように俺は聞いた。


「リセットした方が良いかな、なんて言ったんです」


「リセット?」


 そう聞き返したのは響野。俺は聞き返さずとも、その言葉が何を指すかが分かり掛けてしまっている。いや、もうハッキリと分かってしまっているのかもしれない。


「あ、えっと……リセットっていうのは時々、綾が口にするんですけど」


 そこで窺うように九条さんは俺を見て、そして目を伏せてしまった。


「え、サガミ分かってるの?」


 事情が掴めないのだろう、響野は俺に尋ねたが、俺は説明する気力が湧かなかった。

 

 ――リセット。そういえば、最近はあまり片桐の口から聞いていなかった気がする。だから僅かに新鮮な響きを持って今、俺に届く。しかし新鮮というよりは冷たく鋭い氷刃のようであった。

 

 以前、片桐はリセットについて何と言っていただろうか。いつか、リセットをしたくなる瞬間について話してくれたことがあったはずだ。手繰った糸の先、冷たく鋭い氷刃と感じた俺の感覚が間違いでは無かったことを証明する記憶が待っていた。


 ――相模原君は無いの? リセットしたいと思う瞬間。私はあるよ。何度だってある。そのたびに何度だってリセットボタンを押すの。そうしたらまた、ちゃんと頑張れる。頑張って行ける。それが私の強み。


 片桐の言葉が浮かび、巡り、そして消えた。やはり片桐は言っていた。ちゃんと頑張る為にリセットボタンを押す、と。それならば。


「あの、聞いても良いか分からないんですけれど。綾と相模原先輩は付き合っているんですよね」

 

「ああ」

 

「そうですよね」


 確かめるように尋ね、更に俺の答えを確認するように九条さんが頷く。おそらく、九条さんも俺と同じことを思っているのだろう。先程よりも幾分か、その表情が曇っていた。


 互いを映し合ったように黙ってしまった俺達を包む空気は、


「昼飯、食べないの?」


 という響野の一声によって確かに崩された。


 ああ、これがいわゆる空気を読まないということかと、何処か遠くで思考する俺を余所よそに、響野は持って来た弁当をもぐもぐと食べている。見ると、それはもう半分以下になっていた。

 

 目の前に座る九条さんは響野の言葉で思い出したように箸箱を開け、厚みのある卵焼きを一切れ、口に運んだ。俺も買ったばかりのパンの袋を一つ開けて食べ始めたが、味覚が自分から切り離されたかのような錯覚を覚えるくらいに、心此処に在らずだった。


 ――リセット。その単語が俺の頭の中をグルグルと何度も何度も廻るように現れる。


「マズそうだな」


「ああ」


「貰って良いか?」


「は?」


 響野の視線は俺が持つハムチーズパンを捉えていて、それはやがてテーブル上に置かれている残り二つのパンに流れた。


「パンかよ!」


「え、他に何かある?」


 もう良い、ちょっと黙ってくれと俺が言うと不思議そうな顔をしつつも響野は沈黙してくれた。しかしその時、九条さんが小さく笑い声を洩らしたので俺は気が抜けてしまった。


 思わずついた溜め息に、九条さんは慌てて「ごめんなさい」と言ったが九条さんは悪くない。悪いのは明らかに空気を読んでいない奴一人だ。


「あのさあ、さっきから重苦しい顔してるけど。そんなに非常な事態なのか? emergency?」


 何故か異様にネイティヴな発音でそう言った響野は、心から不思議そうな表情を強く滲ませる。

 

 ああ、俺はコイツに一から説明しなければならないのか? それを思うと非常に面倒だ。それに今、俺が感じている氷の温度と片桐についての感情を敢えて口にするなどということはしたくない。

 

 俺が黙って噛み千切ったパンを咀嚼していると、そういう俺の心情を知ってか知らずか、響野は更に言を重ねる。


「俺達がここで顔突き合わせて悩んでいたって片桐さんの考えていることは分からないんじゃないの?」


 その言葉は、先程に俺が感じたものとはまた違った意味で氷刃のようだった。九条さんも水に打たれたかのように顔を上げて響野を見ている。


「あれ、どうしたんだよ。そんな驚いた顔して。だって本人がいないと分からないだろ、本当のことは。サガミが片桐さんに聞かなきゃ分からない。そりゃ、聞いたって本当が分かるとは限らないけどさ。本人抜きで話しているよりは、ずっと分かるだろ」


 多分。最後に付け加えて響野は弁当の続きに手を伸ばした。


「あ……そうですよね。分からないですよね」


 半ばは独り言のように九条さんは言った。


 そうだ、聞いてみなければ分からない。この間だってそう気付かされたばかりではないか。ここで九条さんから片桐に関して聞けたことを、むしろ幸運と捉えるべきだ。やはり片桐は冬休みについて、ひいては俺について、何か思うところがあるのは違いないようだ。それならば、それを片桐本人の口から説明してもらうしかないだろう。


 このまま、理由も状況も心情も良く分からないまま、片桐と離れることは出来ない。こんな心のまま冬休みを迎えることも出来ない。もしも片桐の思っていることが俺の思うリセットだったとしても、話は本人から聞かなければ。


 意外にも響野の発言で空気が柔らかくなった昼食時。その終わり、九条さんは遠慮がちに「あの」と俺を見て口を開いた。


「綾は、本当は相模原先輩のことが好きなはずです。響野先輩の仰る通り、綾に聞かないと綾の気持ちは分からないですけれど、それでも。それでも私は綾を見ていて、そう思うんです。だから」


 綾のこと、よろしくお願いします。そう言った九条さんはとても真剣で、片桐は良い友人がいるなと俺は安堵を覚えた。


「ああ。話してくれてありがとう。これからも片桐をよろしくな」


「はい」


「良い感じにまとまったな」


 まとまったのは他ならぬ響野のおかげだと、俺は心密かに思った。空気が読めないというのは撤回しておこう、やはり心の中で。


 ――教室に戻る途中、廊下の窓から見える景色がすっかり冬に包み込まれていることに気が付く。


 去年の冬は、俺達の住む地域は太平洋側にも関わらず雪が降り、積もった。片桐の誕生日、十二月二十五日にも雪は舞い降り、それを片桐がひどく喜んでいたことをふと思い出す。水晶を雪の中に落とし、必死に探していた片桐も脳裏によみがえる。まるで昨日のことのように。


 もしもあの日、雪が降らなかったら。片桐は落とした水晶をきっとすぐに見付けることが出来ただろう。道にしゃがみ込んで冷たい雪の中に両手を入れている片桐を俺が目に留めることは無く、声を掛けることも無く。俺が定期券を落とすことも無く、それを片桐が拾うことも無く。学年の違う俺達は出会うことも無かったかもしれない。


 全ての偶然は全て必然である。誰かがそう言っていた。以前、俺にはその意味が分からなかった。だが、もしかしたらそうなのかもしれないと、今は思う俺が此処にいる。


 九条さんと片桐が友人でなければ。響野と俺が友人でなければ。橘さんと片桐が付き合わなければ。俺が響野が片桐が九条さんが、この高校に進学しなければ。どれが欠けても今は無い。そう考えると言いようの無い不可思議な感覚に襲われた。


 冬。この冬が終われば、きっと春はすぐそこだろう。それを喜んで良いのか俺には分からない。高校に特別深い思い出や思い入れ、感慨は無い。俺にとって此処は、ただ勉強の場でしかなかった。まだ大学に進学するかどうか決めていなかった一年生の時から、此処は次へのステップアップの場であり、今と先を繋ぐ橋ぐらいにしか思っていなかった。だから卒業すること、それ自体には悲しみも感動も無い。高校に通わせてくれた叔父に感謝の気持ちが深くなる、それだけだ。


 だが、と思う。今まで俺は、俺が片桐より一年早く卒業するということを意識していなくて。むしろ片桐に言われて気が付いたくらいで。気付いたところでそれはどうしようも無いことで。


 俺と片桐は変わらずにいられるだろうか? いや、変わらないことが正しいというわけでは無い。変わらないものなど本当の意味では世界の何処にも無いのかもしれない。俺が高校を卒業し、片桐が高校三年生になる。俺は大学一年生になる。これだけでも変化と呼べるだろう。時間は表面的にも内面的にも確実に流れ、過ぎて行く。


 もしも。もしも片桐が、その指をリセットボタンに伸ばそうとしているのならば俺はどうすれば良いだろう。俺は自分で思っているよりも混乱しているのかもしれない。それとも困惑だろうか。どちらにしろ、ざわざわと落ち着かない、落ち着けない心情になっていることは確かだ。


「おーい、何してるんだよ」


「ああ」


 俺はもう一度、冷たい窓から見える冬景色を目に映してからその場を離れた。


「何か面白いものでもあったのか?」


「いや。ただ、もうすぐこの風景も見納めになるんだなあと思って」


「あー、来年は卒業だもんな。入学してから早かったような遅かったような。何か不思議な感じだな。高校、面白かったか?」


「面白くは無かったな。面倒だった」


「確かに」


 そう、面倒だった。勉強もクラス委員も当たり障りの無い人付き合いも。それでも今、俺は此処から去ることを引き留められたい心持ちでいる。


 ――その日の帰り道。寒々しい枝々が伸ばされている道を歩きながら、俺は隣を歩く片桐の様子を窺っていた。しかし予想に反して片桐に変わったところは見られない。


「寒いねー。雪はまだですかね」


「雪が降ったらもっと寒くなるだろ」


「ただ寒いのは損した気分になるの。どうせ寒いならバッチリ雪を降らして頂いて、冬という試練の季節を楽しめるようにしてもらわなくちゃ」


「分かるような分からないような。片桐は雪が好きだよな」


「好き!」


 片桐の会話する声は明るく、表情も冬のひんやりとした空気に負けないくらいに熱を持ち、明るい。


 どう、切り出せば良いだろう。いや、そもそも俺は何を話そうと、或いは尋ねようとしているのだろうか。やはり混乱しているのかもしれない。


「そういえば今月、誕生日だよな」


「あ、うん。一応」


「何処か出掛けようか?」


「あー……」


 間が、空く。隣からの声がピタリと止んだ。


「片桐?」


「あっ、誕生日だよね。そう、誕生日」

 

「いや、だから何処か行くか聞いたんだけど」


「何処か……どうしよっか」


 そう言って笑った片桐は力無い様子で。俺はまた引っ掛かりを覚えることになる。


「いや、無理に出掛けなくても良いんだけどさ」


 沈黙。ひゅるり、と冷気をたっぷり含んだ細く鋭い風が俺と片桐の間を走り抜ける。俺のコートの裾がパタパタと音を立てて鳴いた。


「片桐、またコート着てないよな。寒くないのか?」


「ちょい寒い。しかしあのコートを着るわけにはいかないのです。買ってないしね」

 

 去年の冬の会話が脳裏によみがえる。暗い色でレインコートのようで、一万円もして可愛くなくて。そんな服を着たら明るくない日常になるような気がするから、だから着ないと。片桐は、そう言っていた。


 そうやって思い出せる去年の冬という季節。一年という時が巡ったことを証明するかのように、ささやかな思い出が俺の頭の中で小さく光る。


 俺は、リセットなど出来ない。リセットして、ゼロにして、無かったことにして? そして? 片桐には出会わなかった、付き合わなかったことにするというのだろうか。そんな馬鹿な話があってたまるか。


「なあ、片桐」


「ん?」


「片桐が今、考えていることをちゃんと話してくれないか。何を言われても最後まで聞くから」

 

「考えていること」


 その意味を一人確認するかのように、片桐は俺の言葉を繰り返す。


「前にも話したけど、俺はこれからも片桐と付き合って行きたいと思ってる。俺が卒業したってそれは変わらない。高校で会えなくなったって、いつだって何処でだって会える。電話もメールも。でも、片桐が思っていることをちゃんと話してくれないと俺の一方通行だろ」


「ん……」


「片桐が何を考えているのか知りたいんだ。冬休みとか誕生日に出掛けられない理由があるなら言ってほしい。責めているんじゃなくて。片桐の思っていることを話してくれないか」

 

「――怜君は」


 そこで片桐の言葉は途切れた。再び、二人の足音と風の駆けて行く音だけが辺りに広がる。耳に届く。


 知らず、歩調が緩やかになっていたのかもしれない。同じ制服を着た何人かが俺達を後ろから追い越して行った。ふと軽く辺りを見れば、制服姿は前方にちらほらとしか見当たらない。それでなくともこの道は人通りが多くないので、冬色に染められた景色と、色で喩えれば白を思わせる空気と相まり、周囲は何処か現実離れした雰囲気をかもし出していた。時折、右の車道を走り抜ける自動車の音が思考回路に柔らかな針を刺すように俺を現実に立ち返らせる。


「本当に、怜君は本当に」


 自動車の走行などよりも遥かに強く現実を見せ付ける片桐の声が不意に響く。いつものまるく弾むような声は、俺の思い違いで無ければその力を無くして微かに震えていた。


「怜君は本当に私を好きでいてくれる?」


 立ち止まり、見上げて来た片桐の目には雫がかろうじて落下しないように留まっていた。

 

「本当に好きでいてくれる? 大学に行っても、こうやって一緒に帰れなくなっても。もしもお互いが忙しくなって、なかなか会えなくなっても」


 ――それでも好きでいてくれる?


 言葉は風に攫われるように小さく儚くなる。しかし間違い無く俺には届いた。


 変わらないものなど無い。だが、進化も成長も変化だ。俺と片桐がこれからどうなるか、誰にも分からない。俺にも片桐にも分からないのだ。けれども、それを祈って努力して二人で歩いて行くことは出来るはずだ。


「好きだ」


 思っていることをちゃんと話してほしいと片桐には言いながら、俺は俺の思っていることの半分も言葉に出来ていない。


「でも!」


 言葉を続けようと俺が口を開き掛けた時、片桐が半ば強めに言い放つ。


「でも、私は芳久が好きだったのに、付き合ってたのに。それなのに別れて、怜君が好きになって。どっちも嘘じゃないのに。こんなに簡単に気持ちって変わるの? 変えようって思わなくてもこうなるんだったら、これからずっと一緒なんて」


 滲んだ声が消え、片桐の視線が下がる。


 先程よりも冷たくなった風が無感情に後ろから前へと素早く走り抜けた。そして一台の乗用車が走って行く。空は既に夕方の半分を過ぎようとしているのか、輝きを失い掛けた橙に変化している。


 はっくしょ。と、突然に小さな音が片桐から聞こえ、続いて、すん、と更に小さな音が聞こえた。

 

「寒いよな。とりあえず歩こう」


「うん」


「コート、着るか?」


「着ない」


 さっきまでの会話を反芻しながら、俺は前方と片桐とを交互に見遣りながら歩いた。てくてくてくスタスタスタ、そんなオノマトペが似合いそうな俺達は無言のまま駅への道を辿った。


 何となく、俺と片桐は似ているかもしれないと思う。変化しないものを無意識下で求めているのかもしれない。


 やがて見え始めたいつも通りの駅が、俺を焦らせる。何か言わなくてはと思う。聞きたいこともある。何度目になるだろう片桐の方を見ると、俯いてはいないものの、何処か虚ろな、ぼうっとした目をしていた。


 俺は、まるでそこに不意に発生した引力に引き寄せられるかのように、ポケットから左手を出して片桐の右手と繋いだ。片桐の手は雪のように冷たかった。


 ぼんやりと前を見つめていた片桐の両目が僅かに戸惑いを含んで俺を見た。そして一瞬、揺れた瞳はそっと緩く弧を見せる。まだ少しだけ透明な水を飾っていたそれは確かに俺を映し出し、笑った。

 

「片桐って手袋もしないの?」


「んー、持ってないだけでしないってわけじゃないよ。でもマフラーは嫌い。首が窮屈になるから。あ、あのね。良かったら喫茶店に行かないかなー、なんて」


 片桐は言って、空いている左手の人差し指で駅前の喫茶店を指す。


「ああ、行くか。時間は大丈夫?」


「うん」


 片桐は返事をし、そして俺と繋いでいる指先にきゅっと小さく力が込められた。そこからまるで片桐の何かしら決意めいたものが流れ込んで来る気がして、俺は応えるように手を握り返す。

 

「そういえば、片桐から貰ったコーヒーおいしかったよ。去年にくれたやつ」


「ホント! 良かった! あ、怜君からのポインセチア、元気だよ。真っ赤」


「ちゃんと世話してるんだ」


「してますよ。大切に育ててます」


「あれから一年が経つんだな」


「そうだね。びっくりだね」

 

「今年は雪が降るのかな」


「今のとこ、降る予定が無いっぽい」


「天気予報チェックしてるのか?」


「週間予報までバッチリ」


 へへ、と得意そうに俺を見上げて笑う片桐は少しだけ泣いた顔のせいか、とても小さく頼り無い。それは、次に風が吹いたらいなくなってしまうかもしれないと思わせるほどで。俺は思わず、繋いだ手に更に力を込めた。


 不思議そうに俺を見た片桐の両の目がくるりと動く。そのリスのような様子がおかしくて、俺は少しだけ笑った。


 ――ああ、このまま。このまま時間の流れが、俺達が歩くスピードくらいにまで緩やかに緩やかになれば良いと。俺は初めて、流れ行く時間を心から惜しんだ。


 その日、寄った駅前の小さな喫茶店で。片桐は、ぽつぽつと胸の内を明かした。そして俺の予測はあながち間違っていなかったことを知る。やはり片桐は――まだそうと決めていたわけでは無いようだったが――リセットしようかと揺らいでいたようだった。その原因は、俺がもうすぐ卒業してしまうこと。高校で会うことが無くなれば、俺との繋がりも無くなってしまうのではないかと不安だったこと。だから、俺と思い出を作ることに躊躇いを感じていたこと。


 店内を流れるクラシックのようにゆったりとしたスピードで、小さな囁くような声で、その目を伏せたり上げたりしながら片桐は話した。


 そんなに不安になる前にどうして話してくれなかったのかと聞けば、自分でも自分の気持ちが良く分からず、何をどう話したら良いかも分からなかったと。また、俺が卒業することも互いの学年が違うことも変えようの無いことだと。だからこそ、追い詰められるような息苦しいような心情でいたと、片桐は答えた。その顔付きは、ずっと言えなかった抱えて来たことをやっと話すことが出来たという安堵と喜びと、それでも未だ残る不安の入り混じった複雑なもので、今まで片桐が秘めていた心の重さを物語っていた。


 俺は今まで、片桐がそんなにも悩んでいたことに気が付かなかった自分自身を悔やむと同時に、これからはもっと色々なことを臆さずに話してほしい、伝えてほしいと片桐に伝えた。


 いつも楽しい話をしてくれる片桐。まるく弾む音のような声をしている片桐。勿論、そういう片桐が俺は――好きだ。俺に無いものを持っているような気がする。だが、そうでは無い片桐だって片桐だ。当たり前のように。


 だから、楽しい話ばかりでなくても良い。弾む声ばかりでなくても良い。こんなにも悩み、苦しくなる前に話してほしい。一緒に考えたいから、考えて行きたいから。


 そういうことを俺は片桐に話した。正直、うまく言葉にして表現出来ていたかは分からない。それでも目の前に座る片桐が笑ってくれたから。それで――それだけで俺は心が大きく呼吸するのを感じた。


 それじゃあまたね、と走り込んで来る電車を背に手を振る片桐は、まだ何処か元気が無さそうに見えた。その考えが伝わったのだろうか、大丈夫、無理してないよと片桐は笑って言った。少しだけ安心して俺は片桐を乗せた電車をいつものように見送った。


 やがて俺を乗せた電車が片桐とは反対の方向に走り出し、後ろへと流れ行く冬の景色が両目に映り始めた時、俺だって全く不安が無いわけでは無いと、小さく心の片隅で呟く自身の存在に気が付いた。こうして目に見える景色ですら、季節ですら移り変わって行く。それは誰にも止められない。片桐も言っていたように、人の気持ちも変わって行く。自分の知らないところでも。それを今、俺は少し怖く思っていた。


 ――その時、ブレザーのポケットの中で携帯が振動した。


 


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 From:片桐綾



 Sub:誕生日


 

 Text:怜君、お祝いしてくれる?



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 変わらないものなど無いのかもしれない。だが、それならそれで良いかもしれない。片桐が俺を気に掛けたのも、俺が片桐を気に掛けたのも、気持ちが変わったから起きたことだ。何も変わらない日常など退屈なだけだろう。


 これから先、何があるかは分からない。それでも――いや、だからこそ俺は片桐のことを大切にしようと、不思議なほどに静かな心の内側で思った。


 片桐の誕生日は勿論祝うよと俺がすぐに返信をすると、ありがとうの言葉に八分音符の記号が三つも添えられた返事が届いた。それを見て俺は、知らず小さく笑みが浮かんだ。






 ――しかし、やがて訪れた冬休み、約束の十二月二十五日の早朝には、片桐から体調を崩して出掛けることが出来ないというメールが届けられた。その日は前日よりもかなり冷え込んでいて、心配になった俺は見舞いに行くと言ったのだが、風邪を移したら悪いからと丁寧に断られた。しかし熱も高いようだし、飲み物なども買いに行けないのではと案じたのだが、薬を飲んだしすぐ治るから大丈夫の一点張りで片桐は譲らなかった。


 無理に行くのも気が引けたので、俺は部屋を暖かくしてとか水分を摂ってとか助言をしたものの、その日は片桐への心配に包まれて終わりを迎えた。


 ――片桐の誕生日の翌日、二十六日に片桐からメールが届き、せっかく約束してくれたのにごめんねと、昨日に聞いたものと同じような言葉が沢山、俺の手元に表示された。体調はどうか聞いてみると、まだあまり良くないとのことだった。でもミルクリゾットを作って食べたし治って来ているよ、と笑った顔文字付きの片桐からの一文を読んだ時、俺は僅かにホッとした反面、片桐が作ったということに微かな違和感を覚えた。家の人は誰もいないのだろうか?


 だが、その疑問を片桐に尋ねることは出来なかった。体調が悪いところに余計なことを考えさせたくなかったというのもあるし、断片的に聞いている事柄から察するに、あまり円満な家庭ではなさそうだと思っていたからだ。


 とにかく今日も寒いから冷やさないようにしてとか、無理せず横になっていてとか、やはりまたありきたりなアドバイスしか出来ない俺は、非常に焦れったい感情を持つに至った。見舞いに行こうかと昨日同様に尋ねてはみたのだが、やはりやんわりと断られてしまい、そうなると俺に出来ることは何も無い。それがとても俺を落ち着かなくさせる。何か出来ることは無いだろうかと思考し、何も無いという結論に辿り着き、落胆する。これのエンドレスリピートだった。


 ずっとメールをしているのも体に障るだろうからと終わりにした遣り取りの後、ふと窓の外へ目を向けると、冷たそうな寂しい冬景色が見えた。


 片桐は、もしかしたらたった一人でこんな景色を目に映しているのだろうか。風邪の時は、心が弱る。一人で大丈夫だろうかと、やはり俺は心配だった。せめてこの景色が片桐の好きな雪景色なら、片桐の気持ちが少しは和らいだかもしれない。俺に雪を降らせる力があったならなどとファンタジーな思考に取り付かれるほど、俺は片桐が気掛かりだった。


 ――結局、十二月の二十五日から年が明けて冬休みが終わるまで、片桐の体調が良くなることは無かった。冬休み終わり近くには大分回復はしていたみたいだったが、寒い日が続く中、無理をしてほしくなかった。それが風邪だったことが救いで、重い病気でなくて俺は安心したのだが、新学期に会った片桐は空気を無くした風船のように俺に「ごめんね」と、ぽつりと言った。






 短い冬休み明けの高校は何処か騒がしく、落ち着かない雰囲気だった。高校三年生の俺達は既に進学や就職が決まっている者もいれば、まだ決まっていない者もいる。それらが複雑に入り混じり、その熱の間を冬の冷気が走り抜けて行く。一月は、その慌ただしく緊張した空気のまま、あっと言う間に過ぎて行った。


 片桐の体調が良くなってからは、日曜日に都内に買い物に行ったり食事をしたり、お互いに楽しい時間を過ごしていた。その頃から、俺達は割と自然に手を繋いで歩くようになった。

 

 ただ、手袋を持っていない片桐の小さな手はいつもヒヤリと冷えていて俺はとても心配になった。なので、遅くなってしまったけれど渡せなかった誕生日プレゼントをと、二月の第一日曜日、俺は片桐に手袋を贈ることにした。


 最初はこちらが驚くくらいに遠慮していた片桐だったが、やがて照れたように小さな声で、ありがとうと言った。


「どういうのが好きなんだ?」


「もあもあしたのが好き」


「もあもあ?」


「ふさふさしたのが希望です」


 そんな会話の後、片桐が選んだのは雪のように真っ白で、うさぎのしっぽのようなまるい飾りが手の甲の側に付いたものだった。


 会計後、そのままして行きますと告げると店員はタグを切ってくれた。そのタグを何故か片桐は受け取ってチョコレート色のバッグに仕舞い、手袋を着けた。


「さっきのタグ、いるの?」


「うん」


 にこにこ、という文字を背負ったかのように笑顔の片桐は、


「プレゼントして貰った記念」


 と、付け足して俺を見上げて更に笑った。


 俺は不覚にも可愛いと思い、見とれた。が、そんな俺には気付かなかったのか、私も何かプレゼントしたいなー、と片桐は売り場をきょろきょろと見始めている。


 洋服、財布、手袋やマフラー、雑貨。幾つかの売り場を見た片桐が選んだのは写真立てだった。


「これ、好き」


「写真立てか」


「ねえ、これ二つ買って、写真入れておくっていうのはダメ?」


「良いよ。二人の写真?」


「うん」


 片桐がしている真っ白な手袋のような、何物にも染まることなど無いような白に、深い緑のつたと明るい黄緑の葉が飾られたフレーム。四隅には小さな鳩のような鳥が羽を広げて、それぞれくちばしを中央へと向けていた。


「そういえば、今は手袋取ったら?」


「確かに!」


 ハッとした様子で片桐は言い、わたわたと手袋を外してバッグに仕舞った。そして、でもちょっと着けてみたかったから、と小さな言葉を付け足した。


「あ、じゃあこれ、在庫あるか聞いて来るね。一つしか無かったらガッカリだし」


 あっという間に店員を目掛けてスタスタ歩き出した片桐は、その勢いのまますぐに戻って来て、

 

「二つあった!」


 と、語尾に括弧書きでルンルンとでも付いていそうな調子で俺に告げた。


 ――その後、デパートの中にあるパスタ専門店で夕食を取り、俺と片桐はそれぞれ一つずつ、同じ写真立てを手に帰路を辿った。


「私ね、どんな写真入れるかは決めてあるんだ」


「どういうの?」


「制服で撮るの」


「制服? 気に入ってるのか?」


「制服は嫌い。可愛くないし、みんながあれを着て校内をうろちょろしているのを見ると、自分を含めて量産型アンドロイドみたいな錯覚に陥るの。制服無理」

 

 ぴしゃりと言い放った片桐に少し驚きつつも、それならどうして制服で写真を撮るのか更に尋ねてみると、


「一枚の写真の中なら私と怜君だけだよ。制服、着てるの」


 と片桐は言い、大きく白い息を吐いた。


 そして、


「高校生の私達って、もうすぐいなくなっちゃうから」


 と、今までの片桐からは想像も付かないほど、まるで太陽のように自然な明るさを以て告げた。それは俺に言うというよりも、まるで自分に言い聞かせているような気がした。


 羽のような雪のような、買ったばかりの手袋をして片桐は暗く染まった夜の空を見上げていた。繋いだ手を離したらそのまま空に向かって飛んで行きそうなくらい、二つの目は熱心に宙を見上げている。空に何かあるのかと見ても、メレダイヤのような星が幾つか光っているだけで。


 何かを見ているのかと尋ねようとした時、急に片桐は俺へ視線を向けた。その突然さよりも、片桐の表情の方が俺に驚きを与えた。


「ありがとう」


「え?」


 唐突に言われた言葉に聞き返すと、片桐はもう一度、全く同じ言葉を繰り返した。先程と同じ、ひどく静かに咲く花のように。


「私を好きになってくれてありがとう。付き合ってくれて、ありがとう」


 言葉が、刺さる。刺さるという表現は違うのかもしれない。だが、他に思い浮かばない。ああ、この笑顔は、少し下を向いて儚く咲くスノードロップの花のようだと、俺は何処か遠い心で思った。

 

「お誕生日、お祝いしてくれてありがとう」


 ふと、俺の足が止まった。動かなくなった、というのが正しいのかもしれない。


「怜君?」


 そこで初めて、片桐の目がいつもの弾むようなまるさを取り戻し、スノードロップは姿を潜めた。

 

「どうかした? 私、変なこと言った?」


 俺が黙って首を振ると、それでも片桐は不思議に思ったままなのか、


「ちゃんと伝えておかなくちゃと思ったから。言わないと伝わらないことってあると思うし、何よりも私が怜君に話したかったから。何かダメだった?」


「いや、そんなことないよ。ありがとう」


 俺は、それだけを口にすることが精一杯だった。


 どう、言えば良いのだろう。この心情を。この感覚を。この、降り注ぐ感情を。何処か悲しみに似た喜びを。


 心配からだろうか不安からだろうか、繋いでいる片桐の手に僅かに力が込められたことが分かった。俺が歩き出すと片桐も歩き出す。だが、その目は不安感に揺れて俺を捉えたままだった。


「俺も、ありがとう」


「えっ?」


「付き合えたこと。ありがとう」

 

 瞬間に片桐は、今度は向日葵のように笑った。寒い冬の夜、街路灯より遥かに柔らかな光が見えた。




 


 ――時間は、ひどく早く過ぎた。既に卒業式の練習も二回目を終え、あと一回だけが終われば本番当日になるという。嘘のような早さだった。もうすぐ終わるのだ。高校生という時間の全てが。

 

 以前にも思ったことだが、俺は高校を卒業すること自体に特別な感慨は覚えない。俺にとって高校は勉学の場であり、次へのステップの一つに過ぎない。大学進学が決まった今となっては、より、その気持ちが強くなっている。だから、卒業を間近に控えた空気が冬の寒気に紛れて校舎を包んでも、校内を走り抜けても、それは俺にとって悲しみなどには繋がらない。いや、本当に悲しんでいる人間がいるかも疑わしい。皆、「卒業」の雰囲気に酔っているだけではないかとすら思う。

 

 だが、そんなことはどうでも良いことだった。今の俺が気になるのは片桐のことだ。俺は卒業し、大学へ。片桐は進級し、高校三年生へ。


 あれから片桐は、一言もそれに関する言葉を口にしない。俺に話したことで整理が付いたのかもしれないとも思う。しかし、少し不安を覚える自分自身が否定出来ない。


 俺がプレゼントした雪のような手袋をして、片桐は笑う。そこに偽りなど感じない。ただ、無理をしているのではないだろうかと、細い棘のような危惧が俺の胸を刺す。


 何でも話してほしいと片桐には言ったくせに、俺はその危惧を杞憂とすり替えて片桐に尋ねることはしなかった。尋ねられなかったのかもしれないし、違うかもしれない。


 もしも片桐の気持ちが固まっていたとしたら、俺が言うことで乱してしまったら嫌だから? 口にしたところで迫る現実は変わらないから? そもそも卒業など、そんなに重視するほどの出来事では無いから?


 どれも当て嵌まるようで、どれも当て嵌まらないような気がした。


 手袋をしなければ俺の指先を氷のように冷やして行く二月の寒気が脳味噌まで侵蝕し、思考能力を鈍らせているのかもしれない。俺は、そう思うことにした。


 数日前に届いた橘さんからのメールを再び眺めていた俺は振り切るように携帯電話を閉じ、家の扉を開けた。パチリという音とガチャリという音が乾いた空気のせいか、いやに強く耳に響いた。

 

 自室に鞄を置いてベッドに座ると、ふと動かした視線の先、あの日に片桐から貰った写真立てが目に入った。そこには既に、いつも通りの制服を着て高校の正門前で笑う俺達の写真が収められている。


 ――写真立てを買った翌日、月曜日の放課後。片桐は早速、写真を撮りたいと楽しそうに言った。

 

「正門前?」


「ダメ?」


「ダメってことは無いけど、他に人が通るだろうし、ちょっとな……」


「あ、だから日曜日に撮るの」

 

「え、日曜日に学校?」


「ダメ?」


「ダメじゃないです」


「じゃあ来週の日曜日のお昼、十二時に制服着て駅前で待ち合わせよう。で、帰りに何処かでお昼ご飯食べましょう。ねっ?」


 と片桐に言われ、頷いてしまった俺は翌週の日曜日に制服を着て電車に乗って学校へと向かった。


 普段と違ってガラガラに空いた電車に乗り、揺れる中。ふと、何をしているんだろう俺はと思ってしまったことは事実だが、駅前に制服を着て立っている片桐を見た時、そんな心情は吹っ飛んでしまった。一瞬で。


 その日、制服を着て歩いているのは俺達だけで。あまり人通りの多くないその長い道は冬場にしては珍しく、久しぶりに少しだけ勢いを持つ太陽に照らされていた。片桐の手袋も日光の恩恵にあずかり、僅かに温かくなっていた。


 写真が好きとか嫌いとか、道にほとんど人がいないとか、お昼ご飯は何が食べたいかとか。そういう他愛無い、ささやかな、しかし小さな光の粒のように思える会話を織りながら俺達はいつもの道を歩いた。学校のある日に歩いている時よりも車や人の姿があまり無く、俺はまるで何処か現実離れしたような不思議な感覚に包まれた。


「今日、ちょっとあったかいね」


「そうだな。最近は寒かったし珍しいよな」


 途切れた会話の後、


「……誰も、いないね」


 と囁くように言った片桐の声は、静かな空気に溶けた。


 そして、


「そういえばさ、写真、誰に撮って貰おう?」


 という片桐の言葉も、同様に静かな空気の中に溶けた。


 ――思い出し、苦笑が洩れた。写真を撮ろうと言った片桐も、叔父のデジカメを借りて来た俺も、誰が俺達を写すのかが全く頭に浮かんでいなかったのだから。


「いや、でも自分達でも撮れるよね? ほら、私達のどっちかがカメラ持ってさ、こうやって」


 言って、繋いでいない左手を前方に伸ばして見せた片桐の声も表情も慌てていて、それに少しだけ俺は笑ってしまった。


「いや、笑ってる場合じゃないんだよ。ホントどうしよう……。怜君には何か妙案があるの?」

 

「こうやって撮れば良いんじゃないの」


 俺が真似るように右手を伸ばすと、


「それで撮るしかないかなー。本当は真っ直ぐに二人並んでいる写真が良かったんだけどなあ」

 

 と、僅かに残念気味な片桐の語調が響いた。

 

「あー。何で忘れていたんだろ、撮る人のこと。今から友達呼ぶのは申し訳無いし」


 そうこう言っている間に俺達は高校の正門前に辿り着いてしまい、撮らずに帰るのは嫌だし、とりあえず撮ろうという片桐の自分を励ますかのような言葉を合図に、俺と片桐は並び立ち、写真を撮った。


「何で怜君がカメラ持つの? 私も持ちたい」


「腕が長い奴が持った方が被写体から距離が取れるから」


「腕の自慢ですか?」


「いや、違うから」


 そうやって撮影した写真には、少しだけ緊張を滲ませた片桐と俺が写っていた。


「何だか別人みたい。自分を自分で見るのって、うまく言えないけど不思議だね」

 

「確かに」


 その後、数枚を撮影した後にそれらを黙々と眺めていた片桐は急にバッと顔を上げ、理由を聞く前にデジカメを俺の手から持ち去り、


「すみません! 写真を撮って頂けませんか。あの、お急ぎじゃなかったら」


 と、正門の前の道を歩いて来た一組の老夫婦に声を掛けていた。


 あまりの早業に俺が面食らっていたら、それはもう輝くばかりの顔で片桐はこちらへ走って来て、

 

「撮ってくれるって!」


 と、エクスクラメーションマークが軽く十個は付き添って来そうな調子で言ったのだった。

 

 ――そうして、片桐が希望していた、高校の正門前に二人で並んだ真っ直ぐな写真が俺達の手元に残されることになった。撮影後にデジカメを覗き込んだ時、プリントアウトした写真を手渡した時、片桐は本当に嬉しそうで。それこそ、こちらが驚くくらいで。


 雪原のように白い写真立ての枠、細く絡む深緑のつた、数枚の黄緑の葉。そこに並ぶ二人は少しばかり緊張しているものの確かに俺と片桐なのに、何処か小さく、本当に小さくだが違和感を覚える。片桐の言っていた通り、自分で自分の姿を見るのは不思議な感じだ。


 考えてみたら俺達はプリクラも撮ったことが無いし、これが初めて二人で写った写真だった。少し照れくさいものの、俺はその写真立てを一旦手に取った後、再び元に戻し、部屋を出た。






 ――以降、その写真は写真立ての中にずっと静かに収められていた。日が経ち、月が終わり、年が過ぎ、季節が巡っても。写真の中の俺と片桐はいつまでも同じまま、高校の制服を着て二人並んで笑っていた。


 俺が片桐に関して繰り返し思い出すのは、その写真を撮った時のことが圧倒的に多い。机の上にあり、良く目に入るからなのかもしれない。


 あの頃、俺は――俺達は変わらないものをきっと求めていた。高校という、長い人生の時間の中では一瞬とも呼べる通過点に過ぎない儚い場所で、互いが互いを必死で繋ぎ留め続けていた。それは、変わらないものなど無く、また、俺達高校生が如何に小さく弱い存在かを、本当は何処かで分かっていたからかもしれない。それでも同じ時間を過ごすことが愚かだとは思わなかったし、手を繋ぐことが意味の無いこととは思わなかった。それは今も変わらない。ただ、俺がそうであっても相手もそうだとは限らない。そして、それが悪いこととは言えないだろう。高校という通過点を俺が通過し、それを後ろから眺めていたであろう片桐と少しずつ連絡を取り合う回数が減って行ったことも、きっと誰も悪くない。


 ――まるで一時的に加速したのかと思わせるほどに早く時は走り、二月は既に終わりを間近に迎えていた。残る行事が減り、授業内容が薄くなり、最後の卒業式予行を終え。ただ一心に全てが終わりへと向けて収束して行く。






 高校の卒業式を三日後に控えた今日。放課後、俺はいつものように教室の後ろ扉を開ける。そこに既に立っていた片桐は、手に一冊の本を持っていた。

 

「やっほー。ちょっと時間あったら図書室に寄ってから帰りたいんだけど良いかな?」


「ああ、良いよ。返すの?」


「そうそう。今日までなのです、期日」


 てってって、と心なしか少しばかり早足で僅かに前を歩く片桐の肩より下で、遊ぶように黒髪がゆらゆら揺れていた。


 俺はそれを見るとは無しに視界に入れながら、何の本を借りたのか尋ねてみると、音楽辞典と言葉が返って来る。


「何となく借りてみたんだけど、意外な面白さがあったよ。デクレッシェンドはだんだん弱くとか、レガートはなめらかにとか、そういうことが延々書かれているだけなんだけど」


 プレガンド、祈るように。アウスハルテン、音を十分に長く保持して。トロイメント、夢みるように。ノンシャラン、何気無く。リトミコ、リズミカルに。テンペストーサメンテ、嵐のように。シャンテ、歌うように。ペルデンド、だんだん遅くしながらだんだん弱く、消えるように。ディミヌエンド、だんだん弱く。キアラメンテ、明るく、はっきりと。


 少し前を歩く片桐は、パラパラとページをりながら淡々と言った。俺の耳に聞き慣れないそれらはまるで何かの呪文のようにも聞こえ、あまり人のいない廊下に静かに響いた。


「ね、知ってるのあった?」


 図書室前、不意に振り向いた片桐が本を片手にそう尋ねる。


「デクレッシェンドとレガートとディミヌエンドだけだな」


「おお、凄い! 私は一つとして知らなかったよ」


「音楽の授業で習わなかったか?」


「ハテナ」


 片桐に続いて図書室への扉をくぐると、そこは別世界のようにしんと静まり返っている。窓側は注ぐ夕焼け色を受けて赤い琥珀のように染まり、何処か荘厳な雰囲気をかもし出していた。


「誰もいないね」

 

「そうだな」


「本、どうしようかなー。今日までだし、カウンターに置いておけば良いかなあ」


 入口近くのカウンターに身を乗り出すようにして寄り掛かりながら、俺の方を向いて片桐が言った。


「何か一言、書いておいたら? その辺りにメモ用紙とかあるだろ」


「うん、ある。書いて置いて行こっと。えーと、音楽辞典を返しに来ました。二年三組、片桐綾」

 

 片桐は声に出して言い、本の上にメモを置いた後、何か載せるもの載せるもの……と、やはり声に出してきょろきょろと辺りを見回している。その様子が小動物のようで思わず俺は笑ってしまった。

 

「むっ、何ですか。急に笑って」


「いや、ごめん。ハムスターか何かみたいでちょっと面白かったからさ。上に置くならあれで良いんじゃないの」


 と、カウンター奥にあるガラスかアクリルのペーパーウェイトを俺が指差すと、


「あ、ホントだ。あれにしよう」

 

 と、片桐は先程よりも遥かに身を乗り出してそれを手にしようとした。普通に裏から回ってカウンター内に入った方が良いと思う。そう思い、危ないから、と俺は言い掛けて片桐に近付いた時、危惧通りに片桐は体を支えていた左手を滑らせ重心を崩した。


 静まり返っていた図書室内に、鞄が床に落ちる音と人間が倒れる音がして、ゴンという鈍い音が一つした。


「……ごめんなさい」


「いや、大丈夫か?」


 俺と片桐は倒れ込んでしまったが、間一髪、俺は片桐を支えることは出来た。


 立ち上がり、更に謝った片桐は、


「痛い。おでこ打った」


 と、自分の額を押さえている。


 その言葉で、俺はさっきの鈍い音の正体を知る。どれ、と片桐の手をどかして見てみたところ、少し赤くなってはいたが血は出ていなくてホッとした。


「少し赤くなってる。冷やすか?」


「ううん、大丈夫。でも、超痛かった。ダメだね、面倒がっては」


 ごめんね、と三度目になる言葉を唇に乗せて片桐は苦笑いを見せた。


 ――ふと、片桐と目が合う。気が付けば距離が近かった。片桐もそれに気付いたのか、少し戸惑った様子で俺のすぐ目の前に立っている。


「あ、えっと。大丈夫だから」


 それは暗に、離れてほしいという意思表示だったのかもしれない。だが、俺はその思考に至るより遥かに早く片桐の唇に自分のそれを重ねていた。


 時間にすれば、ほんの数秒だったのかもしれない。けれども、まるで時が凍り付いたかのような錯覚を知らず覚えていた。


 何かに引き戻されるかのように唇を離した時、やはり凍り付いたように身動きしない、目を閉じた片桐が視界いっぱいに広がり、今度は俺が戸惑いを感じる番だった。いや、片桐も同じだろうか。

 

 そしてまた、今のこの瞬間も溶けない氷のように感じられた。やがて片桐が両目を開けて見せた時、ああ、時間は止まってなどいないのだと。そんな至極当たり前のことを心の遠くの方で俺は思った。


 黙ったままの片桐に耐えかねて俺は、何か言葉を発したい、そう思ったのだが、こんな時に限って何も浮かんで来ない。俺のボキャブラリーとやらは一体、何処まで飛んで行ってしまったのだろうか。

 

「今のって」


「あ、ああ」


 少しばかり上擦った声がひどく情けない。


「初めてのキスという!」


 そう言って片桐は静止していたかのような黒い瞳をまるくさせ、続いて片方の手で自身の黒髪を何度も何度も撫で付けて、そして俯き。やがてまた沈黙が互いの間を流れ始めた。


「あっ、あの。嬉しい」


 びっくりする勢いで唐突に顔を上げ、その勢いのまま片桐は告げた。


 俺を驚かせたことに気付いたのか、


「あ、ごめん! でも、ちゃんと伝えないとと思って。誤解されちゃったら嫌だし。あの、嬉しかったです」


 と、薄く染まった頬と共に、片桐はそう言った。

 

 とても。と、溶け掛けの氷のかけらのように小さな囁きを付け加えて。


 静かな図書室の窓から音も無く降り注いでいる夕焼けは先程よりもその色を暗くし、赤く染まっていた窓ガラスもそれに倣い、鮮やかさを手放していた。


「……帰ろうか」


「あ、うん」


 思ったよりも俺達の声は室内に響き、そして、どちらの声にも何処か熱があった。少なくとも俺はそう思った。


 ――その日の帰り道、もう卒業になるけど高校は楽しかった? と、珍しく片桐の方から卒業についての話を振られた。声は明るく、無理をしているようには思えなかった。以前の帰り道、喫茶店に寄り、互いの心情について向き合って話をしたことが功を奏したのかもしれない。


 けれども、見落とさないようにしようと思った。片桐は、何処か自分を偽るところがある。そう、今まで片桐を見て来て思った。それは俺に嘘をついているとか、そういうことでは無い。勝手で根拠も無い憶測だが、片桐は片桐自身すら気付かない内に偽っているような気がしたのだ。だが、そんなことは多かれ少なかれ誰にだってあることだろう。きっと、俺も。


 ただ、片桐にはちゃんと気付きたかった。無理をして笑顔でいてほしくなかった。それは単に俺のエゴなのかもしれない。いっそ、それでも構わない。勿論全てとは言わないが思っていることは話してほしいし、笑えない時は笑わなくて良いから頼ってほしい。


 思えば、とても穏やかにゆっくりと進んで来た心は少しずつ片桐を知るにつれて、そのたび、少しずつ加速して行った。それを、悪くないと思っている自分がいる。至極、不思議な感覚だった。

 

「楽しかったよ」


 様々な想いが自然に込められて俺はそう言った。


 しかし、多少センチメンタルになっていたのかもしれない俺のその言葉と感情を、良くも悪くも片桐はすっぱりと遠くへ放り投げてしまった。


「そう? 怜君って、いつも退屈そうでだるそうだなあって思ってたんだけど。だから高校を終えることが出来て身軽になって良かった良かった……とかが本音かな、なんて」


 思わず苦笑が洩れた。


「いや、どういう目で俺を見てるんだよ」


「あっ、悪気は無いよ。ホント、全く。ただ、飄々としてるっていうか、颯爽としてるっていうか」

 

「飄々と颯爽はかなり意味が違うぞ」


「そうだっけ。えっと、とにかく。卒業おめでとう!」


「うまくまとめたな。でも、ありがとう」


 心から、俺はそう言った。


 細く駆け抜けて行く二月終わりの風は冷たく、コートを着ている俺ですらかなり寒さを感じるというのに、やはり今日も片桐はコートを着ていない。買っていないと言っていたから当たり前と言えば当たり前なのだが。ただ、今までと違うのは真っ白な手袋が装備されたところだ。


 俺が手袋を見ていることに気が付いたのだろう、


「とっても好き」


 と、ふわふわした羽のような手袋を片桐は掲げて見せた。

 

「良かった」


「うん」


「マフラーも嫌いなんだよな?」


「そう、首が絞まるから。あ、コートに関してはコートというもの全てが嫌いなんじゃないよ、この高校指定のコートが有り得ないだけで」

 

 と、その「有り得ない」俺のコートに視線を向けながら片桐は言う。


「でも、寒いだろ」


「まあまあ」


 実際、かなり寒いと思う。だが片桐は割と平気そうな顔でスタスタと歩き続ける。降り止んでいたとは言え、積もるほどの雪の日も制服だけで帰り道を辿っていた。振り返れば、あれから一年以上が過ぎようとしている。

 

「なあ、このコートあげようか」


「えっ?」


「いや、卒業したら使わなくなるし。男女でデザイン変わらないだろ。ああ、裾が長いから駄目か?」


「裾は、詰めれば……。で、でも怜君が困るんじゃ」


「いや、高校終わったら着ないって。もう春になっちゃうけどさ、今年の秋頃からまた着られるだろうし」


「それは嬉しいけど」


 遠慮からなのか少し戸惑った様子の片桐に、


「嬉しいのか、有り得ないコートなのに」


 と、からかうように俺が言うと、すぐにポップコーンのようなポンポンとした声で返事が返って来る。


「有り得なくてもコートはコートだし、暖が取れる布には変わりないし。それに、その」


 不意に言い淀んだ片桐にどうかしたのかと尋ねると、ほんの僅かの間ののち、続きを口にした。


「怜君の、コートだし」


 冷気を抱え込んだ風に遊ばれて頼り無く揺れる黒髪を押さえ、控えめな声で片桐は、ぽつと告げる。


 一瞬、心臓が強く掴まれたような錯覚を覚えた俺は、それを誤魔化すかのように言葉を紡いだ。

 

「じゃあ、卒業式の日に渡すよ」


 と。


 それを受けて片桐は、うん、と小さくもハッキリと答え、頷いたのだ。


 こんな風にささやかで温度のある会話が、高校生という時間の中ではもうすぐに出来なくなるという事実、現実が音も無く、しかし確実にそこまで迫っていた。その真実に俺は少しばかりの感傷と惜別を覚えながらも、大切にしていけるものがある幸福を思った。


 別れ際、片桐はひらりと春を舞う蝶のように片方の手を振り、いつものように電車に乗り込んで行った。軽く手を挙げて見送った後、数分後にやって来た電車に、やはり俺もいつものように乗った。片桐の乗ったそれとは反対方向へと動き出す。もう、こうして「いつものように」この電車に乗ることは無いのだ。後方へと流れ去る景色に流れ行く時間を重ね、終わりを迎えようとしている高校生の時間に軽く想いを馳せつつ、俺は帰路を辿った。


 ――部屋に着いてブレザーを脱ぎ、ベッドに寝転び、何とは無しにぼんやりとしていた時。しんとした室内に明るくメールの着信音が響く。携帯電話をブレザーのポケットに入れたままにしていたことに気が付き、俺は反動を付けて立ち上がって携帯を取り出す。

 

「あ」


 と、思わず声が出た。


 送り主は橘さんだった。その名前を目にするのは、ひどく久しぶりのように感じる。


 


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 From:橘芳久

 


 Sub:卒業おめでとう


 

 Text:もうすぐ卒業式かと思って。高校卒業、おめでとう。あまり多くは話す時間が持てなかったけれど、相模原君と知り合えて良かったよ。二十歳を迎えたら酒でも飲みながら色々楽しく話せたらと思ってる。

 

 俺の方の近況としては、大阪での任期が決まりつつあり、もしかしたら年内には都内へ戻ることになるかもしれない。

 

 ところで、綾は元気? あんまり連絡を取らなくなったので少し気掛かりで。相模原君とうまく付き合っていることは聞きました。正直、安心してる。俺が口出しすることじゃないだろうけど、これからもよろしくと言いたい。それと、ありがとう。


 相模原君が卒業することで、綾が落ち込まないように見ていてもらえたらもっと安心出来ます。それでは、また。

 


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 ふと、立ったまま読んでいたことに気が付く。俺は携帯を持ったまま、もう一度ベッドに座り、寝転んだ。しばし天井を見つめた後、開いた携帯の画面を視線の先へ持って行った。

 

「やっぱり、意外だな……」


 素直な心情が、するりと言葉になって生まれ、消えた。


 確かに、多くを話したわけでは無い。橘さんから直接、片桐とのことを聞いた機会はたった一回しか無い。それでも思う、橘さんは片桐を好きなのではないのかと。考えすぎなのだろうか。

 

 メールの文面からは、恋愛感情というよりも見守るというか、大切な友人以上恋人未満の片桐をどうかよろしくといった感じが読み取れた。そこに嘘は無いだろう。ただ、どうにも気に掛かるというか、腑に落ちないというか……。


「気にすることじゃないか」


 夕食が出来てるぞ、という叔父の言葉がドアの向こう側から聞こえたのを機に俺は思考の流れを止め、パチリと携帯を閉じた。窓の外は、もうすっかり暗闇が支配していた。






 ――夕食後、風呂に入り、部屋に戻り。何となくクローゼットから制服を出してみる。ふと、片桐の言った言葉が脳裏によみがえった。あれは当たりに限り無く近いと言っても過言では無い。

 

 まだ少し早いが、俺は高校を終えることが出来て身軽になれて良かったと思う。その心情は否定出来ない。つまらなくはなかった。しかし楽しくもなかった。もっと言うなら、入学時に期待していたよりはずっとつまらなかった。


 だが、片桐と出会った。たった一人、その一人と出会ったことで俺の考え方や日常は少し変わった。良く、その人と出会ったことが自分の人生を変えたとか、モノクロの世界がカラフルになったとか、退屈だった毎日が薔薇色になったとか、そういうことを耳にする。本で読んだりもした。正直、俺は信じていなかった。


 今、俺に起きている変化は、そこまで劇的なものでは無いだろう。少なくとも俺の日常に薔薇色などは見当たらない。ちょっと想像してみたが、凄く似合わないし気持ち悪い。だが、モノクロがカラフルになったという表現は少し分かる気がする。俺なりに表すならば、本当は最初から世界っていうのはカラフルで、そのことに気が付かないままだっただけで。気付かせてくれたのが俺の場合は片桐綾という一人の存在だった。


 俺は片桐に何が出来るだろうか。それを俺はこれから考えて行きたい。


 制服をクローゼットに仕舞いながら、隣に掛けているコートに視線を移す。仮にも人にあげるのにクリーニングをしていないのは問題だろうかと思ったが、まだ気温の低い日が続いている。おそらく明日も着て行くだろう。明日、着終わってから考えよう。


 思考を完結させ、その日、俺はいつものように眠りに就いた。まさか卒業式当日、片桐が来ないなどとは夢にも思わずに。






 ――卒業式、当日。二月末日。その日は良く晴れた。担任は朝のホームルームで「みんなの日頃の行いが良いからだろう」と、何処か誇らし気に言った。あまり興味は無かった。


 太陽は顔を見せていてもこちらに届けられる光は弱く、連日続いている気温の低さには変わり無かった。風が無いだけマシかもしれない。


 式は滞りなく行われた。滞りなくなどどいう表現を使うほどの重さは無いのかもしれない。たかが高校の卒業式だ。だが、高校にさして感慨も無かった俺ですら何か胸に込み上げるものがあることを否定出来なかった。


 体育館から退場する為に起立して歩き出した時、俺はさり気無く在校生の中に片桐の姿を探したが、如何せん、そんな短い時間で片桐を探し出せるはずも無く。思えば、どの辺りにいるのか聞いておけば良かったのかもしれない。でも、卒業に関する話題はしづらい雰囲気だったしな。と、一人自分を納得させ、俺は教室へと戻った。


 担任の城井は、やはりというか、お決まりの内容を長々と教壇に立って話した。しんと静まり返った教室内、城井のやや低い声だけが響く。


 やがてそれが終わった後、全員で「お世話になりました」と告げ、礼をする。語尾に付いたエクスクラメーションマークの数がやたらと多い気がして俺は少しだけ怖くなる。


 俺が鞄とコートを持って立ち上がると、


「お、もう帰るのか」


 と、響野が呼び留めた。


「ああ」


「お前、もっとこう、感傷に浸るとか無いの? もう、ここには二度と来ないんだぞ」

 

「二度とってことも無いだろ」


「分かってないな。高校生の俺として来るのは正真正銘、本日が最後なんですよ」


 その言い聞かせるような口調が面白くて、俺は思わず笑った。


「分かってるよ」


「ホントかよ。ま、別に良いけど。どうせ片桐さんと帰るんだろ? お幸せに」


 からかうように手をひらひらと振り、早く何処かに行けとでも言いたそうな響野に俺は一言だけ告げて、その場を後にした。


「お前といて面白かったよ」


 と。


 僅かの間の後、


「俺も! ていうか友達は今日で最後じゃないんだからな!」


 という言葉が俺の背中にぶつかった。

 

 それが俺には嬉しかった。






 ――俺は少しだけ浮かれていたかもしれない。高校を卒業すること自体は勿論、校内を静かに巡るように流れるパッヘルベルのカノン、熱を持った空気、何処かふわふわとした生徒達。それらが図ること無く相乗効果を生み出して行く。

 

 いつものように教室前にはいなかった片桐に、正門前で待ってるとメールをして。正門に辿り着くまで、酔うように耳から脳へと流し込まれるカノン、ざわめき、熱気。ああ、今日は本当に卒業式なんだと俺は実感する。


 しかし、その何処か心地好い熱も急激に一通のメールによって冷まされることになる。ブレザーのポケットで震えた携帯電話を取り出すと片桐綾という名前が目に入る。正門前だが、こんなに浮かれた空気の中では咎められることも無いだろうと、俺は堂々と携帯を開き、メールを読んだ。


 


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 From:片桐綾



 Sub:卒業おめでとう

 


 Text:ごめんね、行けなかった。本当にごめんなさい。

 


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 俺は目を疑った。それこそ、ギョッというオノマトペが相応しいだろう。いやいやいや、まさか。という、自分でも良く分からない言葉が急速に生まれて急速に消えた。この心情をどう表せば良いのだろう。


 俺は困惑する感情を抱えて正門を背に駅へと歩き出した。と同時に、メールの返事を書き始める。返信はすぐに来た。

 

 


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 From:片桐綾

 


 Sub:今日

 


 Text:これから?でも怜君が疲れない?


 

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 大丈夫ということを短く書いて送信すると、待ってる、という短い返信が届けられる。俺は携帯を閉じ、元通りブレザーのポケットに押し込んだ。


 片桐の家はお茶会で一度、行ったことがある。駅から下りの電車に乗って三つ目、そこから十分程、歩いたところだ。我ながら良く覚えている。


 俺は少しでも早く着けるように、ちょうど来ていた公共のバスに飛び乗る。文字通り飛び乗ってしまったらしく、ダン! という思ってもみなかった音が足元から生まれ、立っていた数人から振り返られてしまった。申し訳無い。しかし気にしていられなかった。

 

 今まで、短い時間だったかもしれないが片桐と一緒にいた。その俺が頭の中で警鐘を鳴らす。一秒でも早く片桐に会いたい。


 既に卒業式の余韻は全身から吹き飛ばされ、今は片桐がどうしているのかという一点に向けて全身の意識が走り出していた。


 ――駅まで迎えに行こうかというメールが届いたが、家までの道順は何となくだが覚えているし大丈夫だと断った。一回切りの道筋だったが俺の脳味噌はそれなりに記憶してくれていたらしく、ほとんど迷わず辿り着くことが出来た。庭先には、以前に来た時と同じように葉牡丹が植えられたプランターが置かれている。やはり何度見ても葉牡丹はキャベツに見える。

 

「あ」


 俺がインターホンを押してすぐに片桐はひょこりと顔を見せた。しかし、「あ」の一文字を発したまま何故か固まってしまっている。


「元気?」


 そう聞いてみれば、心なしか片桐の目が伏せられる。


「えと、良かったら上がる?」


「じゃ、お邪魔します」


 玄関の扉が閉まったところで、どうして今日来なかったのか、体調が悪いのかとかを尋ねようとした矢先、


「怜君」


 と、凄く静かに、だが芯の通った声で片桐は言い、不意に俺に抱き付いて来た。


 それはもう驚いた。驚いて声が出なくなるくらいに。しかし、その驚愕と困惑は瞬時に霧散する。

 

「怜君、卒業おめでとう」


 何処か、押し殺したような声。


「でも、悲しい……!」


 胸に刺さる、声。


「本当はこんなこと言うつもり無かった、今日だってちゃんと卒業式に行って、怜君おめでとう良かったねって、伝えるつもりだった! それでコート貰って、今までありがとうって、私を好きになってくれてありがとうって言いたかった! でも、こんなに寂しい……!」

 

 衣服に顔を押し付けているせいだろう、くぐもった声が静かな玄関に響く。


 やがて聞こえて来た、堪えるような小さな泣き声が俺を引き摺るように悲しみへと誘う。

 

 そうしたいと思うより早く、俺は片桐を抱き締めていた。ごめん、と呟いた自分の声がまるで他人のもののように遠くで聞こえた。


 ごめん。もう一度、同じ言葉を繰り返す俺。泣き止まない片桐。ごめん。三度目になるそれを言いながら、これは何に対する謝罪だろうかと、何処か別の場所にいる俺が考える。

 

 卒業してしまうこと? 片桐がここまで耐えていたことに気が付けなかったこと? それもある。だが、今、片桐の悲しみを取り除けないこと。この現実を動かせないこと。これが俺にとって一番のつらさであり、自分の無力さには怒りを覚えた。


 卒業する事実は動かせない。俺はこうして片桐を抱き締めて謝ることしか出来ない。本当に? 本当にそれしか俺に出来ることは無いのか。


「片桐。卒業したって俺達が別れるわけじゃない。それは前にも話しただろう」


 片桐の泣き声は止まらなかった。


「いつでも連絡取れるし、会える。俺が卒業したからって終わりってわけじゃない」


 そうだ、その通りだ。そこに偽りの心は無い。けれども言っている俺自身が良く分かっている。こんな言葉は気休めに過ぎないと。片桐が求めている言葉も現実も、こんなものなんかでは無いと。

 

「うん。私こそ、ごめんね」


 しがみ付くようにして泣いていた片桐が、不意に体を離してそう言った。

 

「ホント、ごめん。ちょっと、ぶわーっとなっちゃって」


 へへ、と涙を滲ませたまま緩く笑った片桐は無理をしているように見えて仕方無かった。


「無理しなくて良い」


「いやいや、無理っていうか……。しょうがないもんね、うん」


「片桐」


「平気! あっ、コート。本当に貰って良いんだよね?」


「それは良いんだけどさ」


 片桐の心情を捉え切れず、戸惑いながら俺はコートの入った紙袋を手渡した。


「あ、今で良いの?」


「ああ」


 俺からコートを受け取り、宙に広げて見せる片桐。


 コートが俺と片桐を遮り、向こうにいる片桐の表情が見えなくなる。そして俺が口を開くより早く、片桐が言葉を発した。


「私、思ったより怜君に頼ってたみたいだね。だから学校も前よりちゃんと行くようになったし、勉強も前よりちゃんとするようになった。一緒の帰り道が魔法みたいに楽しかった。大袈裟なんかじゃないよ。本当に、楽しかった」


「まさか、学校にもう行かないとか……」


「それは無い!」


 バッと急にコートを下げて、そう言った片桐の顔は思いの他、笑顔だった。

 

「せっかく怜君が勉強教えてくれたりしたのに無駄にしちゃったら申し訳無いもんね。頑張りますよ」


「そ、そうか。それは良かった」


「うん。でも、でも時々へこたれたら、怜君が私を励ましてくれたら嬉しいな」


「まかせとけ。ていうか、何かこれで終わりみたいな雰囲気流してるけど違うんだからな? これからだって遊びに行ったり出来るんだからな。春になるし、片桐の好きなアイスクリーム食べに行くとか」


「それは良いね! チョコミントが大好き!」






 片桐の部屋で、少しの間、俺達は他愛無い話をした。アイスクリームでどの味が好きかから始まり、シャーベットや、他に甘いものだと何が好きかとか。本当に他愛無い話だ。だが、俺はもう知っていた。こういう話が、こういう時間が、どれほどに大切なのかを。それは片桐から教えた貰ったことの一つだった。


「コート、ありがと。大切に着ますね」

 

「って言っても、もうあまり機会が無いだろうけどな」


「今年の冬があるし」


「ああ、そうだな」


 弱い陽光が降り注ぐ中、駅までの道を二人で歩いた。どちらからともなく繋いだ手がどうしてか心強かった。


 ――電車に乗り、扉が閉まった時。いつものように、ひらりと蝶が舞うように片桐が片手を振った。それに俺も手を上げて応えた。

 

 走り出した電車のせいで、片桐の姿が遠ざかり、小さくなり、やがて見えなくなった。

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