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第五章【糖分と塩分】

 ――高校というか学校という場は、相変わらず俺にとって退屈なところに変わりは無かった。が、ひとえに片桐綾という存在のおかげと言っても過言では無いほど、何となくではあるが登校が面倒には思わなくなって来た相模原怜という存在がここにいる。


 今までは高校における片桐との接点は帰りの時間くらいだった。教室の後ろ扉を開けると、日によっては片桐が壁に寄り掛かって立っている。最近は携帯を出していることは無くなった。特に約束をしているわけでも無いのだが、そうやって週に三回か四回くらいの割合で俺達は駅までの道を一緒に辿る。話題は、高校の教師やクラスメイトや勉強、紅茶、本、鉱石、暇な時間の過ごし方、趣味、睡眠時間など、多岐に渡った。


 そんなある日の昼休み、食堂に行こうと俺が教室を出ると、片桐がそこに立っていた。放課後以外、校内で片桐を見ることはほとんど無かったこともあり、俺は軽く驚いた。その手には大きな手提げ袋を持っている。


「やっほう。お昼ご飯、食べに行くの?」


 俺が肯定すると、


「一緒に食べて良い?」


 と、片桐は期待に溢れている目を向けた。


 それに答えようとした時、


「何してんの、サガミ」


 と、後方から響野が声を掛けて来た。


 何となく嫌な予感がした。そしてその予感は的中し、俺と片桐と響野は食堂にて一緒に昼飯を食べることになった。


 食堂までの僅かな道のり、互いに顔を合わせるのは初めてにも関わらず、片桐と響野は楽しそうに話をしていた。それは良い。それは良いのだが、俺はどうも響野が余計なことを言うような気がしてならない。そのせいで、どうにも落ち着けない。


 俺が食券を買おうと自販機に向かった時、


「あ、相模原君。良かったらお弁当食べない?」


 と、さっきから持っていた手提げを軽く掲げて、片桐が俺に尋ねた。


「それは片桐のだろ?」


「超いっぱいあるの、お弁当。良かったら響野さんもどうですか?」


「是非とも頂きます」


 響野の周囲には八分音符がルンルンと飛び交っている。俺にはそんな幻影が見えた。


 窓側の席、真ん中辺りに座って俺達三人は弁当を囲む。


「さあ、どうぞー!」


 片桐が手提げ袋から取り出し、広げた弁当。その量は明らかに多く、俺を圧倒した。見ると、響野も同様のようだ。


「片桐って、いつもこんなに食べてるのか?」


「いやいや、まさか。さすがの私もこんなには食べませんよ。あっ、遠慮しないで食べて下さいね」


 おそらくは驚愕から固まっていた響野を、遠慮をしていると取ったのだろう、片桐は非常ににこやかな様子で響野に弁当を勧めた。


「あっ、頂きます」


 まだ何処か驚きの残滓ざんしを残したまま、響野がおにぎりに手を伸ばす。


 弁当のケースは三つ。しかも、大きいものばかりだ。おにぎり一つにしたって全部で十個もある。遠足にでも行くのかという勢いだ。


「相模原君も遠慮しないで食べてね。おにぎりはね、ツナ、鮭、昆布があるよ。あれ、でもどれがどれだったか分かんなくなった。ツナ食べたいんだけど……」


 途中からは俺では無く、綺麗に並べられた九個のおにぎりに片桐の視線が移動して行った。そして真剣そのものといった顔付きで、おにぎりを見て悩んでいる。


「あ、これ鮭だ。うまい」


 至って平和な声で響野が言う。


 勢い良く広げられた量に面食らって忘れていたが、今の俺の空腹度は高い。頂きます、と断って、おにぎりを一つ手に取った。片桐はまだ悩んでいる。響野はテーブル上に置かれた割り箸を手に、卵焼きやら唐揚げやらも食べ始めていた。


「あ、ツナ」


 俺が見えた具材をそう口にすると、


「えっ! ってことは、あと一個しかツナ無いってことだ。どうしよう!」


 と、心から困った様子で片桐が言った。


 顔を上げて俺を見た後、すぐに弁当箱の中のおにぎりに目を戻した片桐。


「サガミ。何、笑ってんの?」


「笑ってない」


「そうか? にしても、うまいよなー。これって片桐さんが作ったの?」


 ようやく一つのおにぎりを選択した片桐は、それを片手に響野の質問に答えた。それがまた俺を驚かせる。


「ううん、芳久が作った。みんなで食べたらって」


 俺は飲み込んだツナのおにぎりが喉のところで引っ掛かった。水が飲みたい。


「えっ、誰それ」


「えーと、家庭教師的人物」


「家庭教師?」


「に、近い人です」


 片桐は以前、俺に言ったのと同じように響野に告げていた。


「その人が作ったの? こんなに?」


「みんなで食べたらって、いきなり。私もびっくりしたんだけどおいしそうだったし、相模原君と食べようかなーと思って持って来てみました」


「あ、邪魔だったかな」


「いえ、そんなこと無いですよー! むしろ楽しくて嬉しいです」


 繰り広げられる会話が一段落したところで、俺は水を取りに席を立った。喉の奥辺りに、ご飯の塊が張り付いている。


「あれ、サガミ何処行くの?」


「水を持って来る」


「じゃあ俺のも」


「自分の水は自分で」


 そう言うと響野も席を立った。片桐は黙々とポテトサラダをおにぎり片手に食べている。


 いるかいらないか分からなかったので、俺は一応、片桐の分も水を持った。


「片桐さんには持って行くのか」


 と、響野がボソリと言った。


 返答せずにいると、響野が続けた。


「さっきの芳久って人は?」


「片桐の家庭教師だった人で、付き合ってた人」


「えっ、誰と」


「片桐と」


 何故、響野がそこまで驚くのかは分からない。が、俺は響野とは別の理由で驚いていた。あの大量の弁当を作ったのが、橘さんだという事実に。


 まだ何か言いたそうな響野を放ったらかして席に戻り、コップを置くと、


「あっ、ありがとう。ちょうどお水ほしかったところなんだ」


 と、片桐が水をゴクゴクと一気に半分くらい飲んだ。


 椅子に座って俺も水を飲む。存在を主張していた白米の集合体が喉を滑って胃へと団体移動して行った。ふと弁当箱に目をやると、おにぎりの残りが四個になっていて少し驚いた。片桐といると俺は何かしら驚いてばかりのような気がする。


 水を飲んで一息ついたのも束の間、俺より少し遅れて席に着いた響野がミニトマトを食べた後に、


「そういえば片桐さんって好きな人いる?」


 などと言うものだから、また喉に何かがつっかえた気がしてしまった。


 もぐもぐ。と無心な様子で未だポテトサラダを食べていた片桐は、響野のその言葉に顔を上げ、一瞬、考えるような素振りをした後、


「いないよ?」


 と、まるで興味無さそうに言った。


 俺は卵焼きやアスパラの炒め物に箸を進めながらも、二人の会話が気になってしまった。食堂のざわめきの中で、その応酬だけがまるでそこから切り取られたかのように感じていた。


「そうなんだ。恋愛願望は?」


「願望? そんなに無い……かな? 多分」


「付き合って下さいとか言われたりするんじゃないかなーと思ってさ。片桐さん可愛いし」


「いやいやいや、可愛く無いですよ」


 ふと片桐を見ると、ミニトマトを口に運ぼうとしているところだった。


「響野さんこそ言われないんですか、告白とか」


「実は一回あったんだけどねー」


「えっ、いつ頃のお話ですか?」


「つい、この間」


 そんなことがあったとは知らなかった。普段、恋愛恋愛言っているくせに実際のところ恋愛とは無縁そうだよなと思っていたが。


 別に響野のそれに興味があるわけでは無いので、この辺りからは俺はあまり話に耳を傾けてはいなかった。ただ、何となく弁当を食べながら、何となく片桐を見ていた。くるくると変わる表情、まるく弾む声。ミニトマトを持つ指先、微かに揺れ動く黒髪。さっきの、片桐と響野の会話を思い出す。可愛く無い……そんなことは無いよな。


「あれ、何かさっきから無言っぽいね、相模原君。お腹壊した?」


「いや、壊してない」


 気付けば沈黙を通していた俺を、不思議そうに片桐が覗き込んで見ていた。その瞳は何処までもまるく、そして底が見えない。そんな気がした。


 昼休み終了の十分前、俺達三人は立ち上がり食堂を後にした。大量と思われた弁当は綺麗に無くなり、弁当箱を仕舞う片桐は何処か嬉しそうに見えた。


 食堂を出て、自販機に寄る響野を待つ間、俺と片桐は食堂の入口付近に二人並んで立っていた。その前を、校内へと戻って行く沢山の生徒達が通り過ぎて行く。中には、チラリとこちらに視線を向ける者もいた。


「そういえばー」


 と、そんな周囲のことなど全く気にしていないような様子で片桐が口を開いた。


「相模原君は恋愛って興味ある?」


「無いわけじゃ無いけど」


「お付き合いしている人、いる?」


「いや」


「じゃあ、好きな人は?」


 視線を下げると、こちらを見上げる片桐とカチリと目が合った。


「いない」


 答えつつ、俺は何故そんなことを突然に尋ねて来るのかが気になっていた。さっきの響野の話の影響だろうか。


 程無くして、烏龍茶のペットボトルを片手に戻って来た響野を加えて俺達は教室へと向かう。その途中、またも片桐は俺と、おそらくは響野にも質問を放った。


「高校生の恋愛って、偽物なのかな?」


 と。


 対して響野が、


「いや、絶対にそんなことは無いよ。年齢とか学生だからとかで、その恋愛が本物か偽物かは決まらないと思うし」


 などと熱弁している内に俺達は階段のところまで来てしまい、軽やかにそれを上がって行ってしまった片桐に、俺は発言する隙間を見出だせなかったわけだが。


 ――俺は気が付いてしまった。片桐がそういう質問をして来た、そこに秘められた想いに。本人に聞いたわけでは無いのだから予測の域を出ないのは当たり前だが、あながち間違いとも言えない気がする。


 片桐は、今も橘さんを好きなのではないだろうか。別れを切り出した橘さんという存在を、まだ受け入れていないのではないだろうか。片桐の中では未だ、行き場を失った恋心が彷徨っているのではないだろうか?


 全て憶測に過ぎない。それでも俺は、浮かんだ考えを消すことは出来なかった。






 ――その日は珍しく頭痛がひどく、正直なところ休みたいと思った。熱は計っていなかったがどうもぼんやりとしてしまい、気を抜くと眩暈に支配されそうな予感すらした。それでも登校する意思を掲げていたのは今日が学年末考査であり、更に言うならば四日目、最終日だからである。休むわけにはいかない。


「大丈夫か?」


 と、家を出る瞬間まで心配をしてくれた叔父に礼を言い、大丈夫と告げて玄関扉を開ける。二月の下旬の冷たい空気の中、いつも通りに俺は駅へと向かった。


 否、いつも通りとはいかなかった。頭痛が本当にひどい。ここまでのはなかなか無いと思うぐらいに、それは猛威を振るっていた。電車の走行や停止に伴う振動ですら頭に響く。別に睡眠不足というわけでも無いので、やはり風邪を引いたという判断が有力そうだった。


 今回、俺は通学バスに迷わず乗り込んだ。しかし席に座れなかった為に、電車よりも強いその振動に立って耐え、そして何とか高校へと辿り着いた。この時、頭の内部の中心を抉るようにして痛みを与え続ける何者かの存在感は、ますます以て俺の中で顕著になっていた。


 そのまま試験を受けることになった俺は、自分の体調管理の甘さと不運を嘆いた。学年末考査と言えば一年間のまとめだ。成績にしっかりと反映されるだろう。大学進学を考えている俺としては、ここで点を落とすわけにはいかない。という半ば意地のようなもので、一時限目の数学Bから三時限目の古典までの本日の試験を乗り切った俺は、四時限目は保健室に行くことにした。残り、三×五十分間の授業に耐えられるとは思えない。早退も考えたが、内申のことを思うとその選択は却下だ。四時限目と昼休みを保健室のベッドで過ごせば、多少は頭痛もマシになるだろう。


 四時限目開始早々、教師に告げて教室を出た俺は、久し振りに保健室への廊下を歩く。静まり返った廊下は授業中だから当たり前だったかもしれないが、保健室の中まで静まり返っていたのはどういうわけだろう。


「無人か」


 思わず洩れた声。養護教諭の姿も無く、極僅かなエアコンの音と壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、そこに置き去りにされたかのように響いていた。


 程良く暖かい室内は、試験で疲れた頭を芯から柔らかく包んでくれるような効果があった。だが、その芯は未だに突貫工事でもしているのかと聞きたくなるくらいの痛みが支配している。勝手にベッドを使わせて貰うことにした。横になり、カーテンを閉める。しかし、せっかくの誰もいない空間だというのに眠るに眠れない。ベッドの上で右を向いていた体勢を反対にしてみても、何も考えないようにしてみても、仰向けになってただぼんやりと天井の一点を見つめてみても、眠れない。頭痛がひどすぎる。


「ダメだ」


 腹立たしさから体に反動を付けて起き上がってしまったせいで、それがまた頭の中央にダイレクトに響き伝わった。これは頭痛薬を飲むしか無い、勝手に探させて貰うしか無い。そう考えてベッドを取り囲む真っ白のカーテンに手を掛けた、その時。


「失礼しまーす」


 コンコン、という控え目なノックの後に聞こえて来た声があった。カーテンを引こうとしていた手が反射的に止まる。


「あれ、誰もいないっぽいね」


「ホントだ」


「でも別に良いや、寝たかっただけだし」


「寝不足になるほど試験勉強?」


「ううん、単に眠たいだけ」


 声は二つ。女子生徒。その内の一つは明らかに聞き覚えがある。


「四時限目だけだよね? 昼休み終わったら帰って来るよね?」


 聞き覚えの無い方の声が憂いを含んで尋ねる。


「うん。どうかした?」


 答える声は、あっけらかんとしたもので。


「だって、この間もそう言って家に帰っちゃったでしょ。五時限目に来ないから保健室に行ってみたら、片桐さんなら帰りましたよ、って言われて。私、本当にびっくりしたんだけど」


「あー、ごめん。何だか面倒になって帰っちゃった」


「鞄も持たずに」


「定期と携帯さえあれば困らない」


 最後の「困らない」の後には音符マークが付いていそうな感じだった。


「じゃあ、今回はちゃんと戻って来てよ」


「分かった」


 会話が終わり、扉の閉まる音が生まれる。


 そうして再び静かになった後、


「あー……ねむーい」


 という、くつろぎ切った声が室内に響いた。


 今、出て行くと会話を盗み聞きしたようで嫌だなと思った。が、俺の頭の中で行われている痛みという名のオーケストラは、いよいよクライマックスに差し掛かったようで、とても耐え切れるものでは無い。頭痛薬というものに今すぐ出会いたい。そういうわけで、俺は意を決してカーテンを開けた。


「あら、相模原君」


 そこには予想通り、片桐が立っていた。


「何してるの?」


「頭が痛くてさ」


 声を掛けられたものの、俺は今、あまり余裕が無い。とにかく頭痛薬を探すという選択肢しか存在しない。養護教諭不在の保健室、ガラス戸棚の中に整列している薬瓶やら何やらに視線を次々と注ぐものの、どれがそれなのか分からない。ハッキリと分かりやすく「頭痛薬」とラベリングしておいてくれないだろうか。


「ね、何を探してるの? 体温計? それとも風邪薬?」


「頭痛薬」


 端的にそう返すと、つつつ、と片桐は俺の後ろを通って一番右のガラス戸棚をカタンと開けた。


「はい、お探しの頭痛薬。一つで良いの?」


 差し出された左の手、バファリンがあった。顆粒タイプ。


「ありがとう」


 受け取り、保健室内にある小さな台所みたいなところの蛇口を捻ると、


「大丈夫?」


 と、背中越しに片桐が言う。


 俺はサラサラと薬を含み、水で一息に流し込んだ。キュ、と水道を止めて振り返ると片桐と目が合う。


「風邪?」


「多分。あんまり近寄らない方が良いぞ。片桐は?」


 尋ねてから、ああ眠たいからここに来たのだったか、と先程の会話を思い出した。


「眠りに来た」


 大きく伸びをしながら片桐は悪びれた風も無く言うと、何故かその場で小さく跳ねて見せた。絶対に体調不良で眠りたいわけでは無いな、と思う。


「あー、それよりも。今回の試験、どうだった?」


 頭の痛みを堪え、壁に寄り掛かりながら俺は尋ねた。早く薬が効いてくれることを祈る。ダメなら帰宅後、病院に行った方が良いかもしれない。ちなみに風邪薬を避けたのは午後の授業で眠たくなったら困るからだ。


「まあまあ?」


 片桐が答える。何故に疑問形なのだろう。


「まあまあって、具体的にどれくらい取れそうなんだ?」


「んー……良く分からない」


「出来た、って手応えはある?」


「まあまあ?」


 会話が初めに戻ってしまった。片桐は話にあまり興味が無さそうに、また一つ大きく伸びをした。


「何だか凄く不安になるな、片桐見てると」


「えっ、何が?」


「うまく言えないけど、大丈夫かなって思うんだよ」


 具体的根拠があるわけでは無かった。ただ、俺の思ったことは、ぽつりと雨が落ちるかのように口から零れ落ちていた。


 片桐は、風船のようだった。ふわふわと自由に、そして頼り無く空を漂う風船。鳥につつかれる危険性や雨に打たれる可能性の中、まるでそれらを知らないが如くに、ただ自由に果てしない空をふんわりと飛んで行く。敢えて言うならば、それが根拠だろうか。俺はふとそんなことを思い、その情景が目に浮かんだ。


「何だか芳久と相模原君って似てるね」


 パチン、と風船の割れる音が聞こえた、ような気がした。この場合の風船は片桐では無く、俺の心の中にある何かを指す。


「どの辺りが?」


 平静を装い、俺がそう尋ねると、


「何かね、言うことが似てる。進路ちゃんと考えてるかとか試験どうとか、見てると大丈夫かなって思うとか、そういうのが」


 と、特に感情の込められていないような淡々とした調子で片桐は返して来た。


 実は今回の学年末考査、俺は片桐のことがどうにも心配になり、試験前に勉強を見ていた。何しろ単位を落とすかもしれないという情報を城井から聞いていた為、もしも一学年最後の試験の成績が悪かったら……と、最悪のケースを想像してしまっていた。


 試験前の短縮授業後を使い、全教科とは言わずとも苦手教科だけでも思い、理数系を教えていたのだが。どうやら片桐には応用力が不足しているようだった。記憶力は良いみたいなのだが形をそのまま覚えるだけらしく、ちょっと複雑な問題にぶつかると、クエスチョンマーク多発になってしまうようだった。確か、それを指摘した時にも告げられた。「芳久みたいな言い方をするね」と。


 何となく、心の内側がざわめく。澄んだ青空に僅かにノイズを含んだ黒い一本線が走るような、そんな感覚。理由は分からない。とりあえず頭痛が未だに続いているので、俺はベッドに座った。立っているよりは幾らかマシなような気がする。


「頭、痛いんだったよね。寝る?」


「そのつもりで来たんだけど、ひどすぎて眠れないな」


「そんなに?」


「そんなに」


 ここまでの頭痛は本当に珍しい。一刻も早く薬効やっこうが表れることを祈る。


「そういえば、片桐も眠りに来たって言ってたけど。授業は大丈夫か?」


 試験結果に問題が無くても、授業の出席数が足りなければ単位は取得出来ない。そんな俺の心配などは何処吹く風といった様子で、片桐はアッサリとした声で告げる。


「大丈夫大丈夫、今は漢文だから」


「何で漢文だと大丈夫なんだ?」


「漢文は割と真面目に出てるんだ、授業。成績も良いし。漢文って良く分からないけど、問題文そのものとか返り点の位置とか覚えちゃえば、出来るんだよね」


「確かに」


 それは共感出来る。俺は漢文が苦手なので、試験前はとにかく試験範囲の問題文暗記に努めた記憶がある。範囲には無い問題が毎回一つは必ず出題されるので、その問いの点数獲得率はあまり良くなかったが。


 ――結局、俺と片桐はどちらも眠ることはせず、延々と会話を続けていた。良く、こんなに話すことがあるものだと、俺は自分にも片桐にも思う。そして、ちょうどサンドイッチの中身は何が好きかという話にピリオドが打たれたところで、四時限目終了を知らせる鐘の音を模した音が鳴った。


「あら、チャイム。そういえば頭痛の方はどう?」


「ちょっとはマシになったかな」


「良かったー! ところで、お昼ご飯はどうするの?」


「パンを買うか、食券を買うかだな」


「一緒に食堂でサンドイッチ食べない?」


 ああ、それでさっきサンドイッチの話題になったのか。と思うと同時に、そこでふと俺は疑問を覚える。


「そのサンドイッチ、誰が作った?」


「芳久」


 正直に言おう。片桐も良く分からない部分が多いが、橘さんも良く分からない。


 ――結果から言うと、橘さん作のサンドイッチは非常に美味だった。特にツナサンド。ただのツナサンドが何故こうもおいしいのか、不思議だ。コンビニで購入するものとは雲泥の差である。しかし、そのサンドイッチの味を遥かに凌ぐ発言が片桐の唇から紡ぎ出されたのだ。


「相模原君は好きな人、いないんだよね?」


 その瞬間、俺は喉を通過途中のツナサンドが危うく逆走しそうな予感を感じた。いきなり何を言い出すのだろう。本当に片桐には驚かされてばかりだ。


「ああ、いない」


 動揺していない振りをして、ツナサンドに正しい進路を教えた後に俺がそう告げると、


「私といると、相模原君は疲れる? それとも楽しい?」


 と、更に片桐は問いを重ねた。


 意図が分からなかったが、


「楽しい」


 と、俺は答えた。


 すると、間、髪を入れずに片桐は歌うように続けたのだ。


「良かったら私とお付き合いしませんか?」


 と。


 自然、俺の両目が軽く見開かれたのを感じた。何と言うか、唐突過ぎて。今しがたに話していたのは、どんなパンが好きかということだった。それが終わって少しの沈黙の後に、好きな人はいないんだよねと聞かれ。そして、この流れだ。


「ダメ?」


 卵とレタスのサンドイッチを持ちながら、日常会話のような普通の調子で尋ねて来る片桐。いや、ちょっと待ってくれと言いたい。何がどうなって、こうなると言うのだ。


「ダメなら仕方無いから諦めるんだけど」


 もぐもぐ。と、片桐は食べ掛けのサンドイッチの続きに走り、コップの水に手を伸ばし、飲む。そして再度、俺を見た。


 訪れる静かな空気。昼休みの食堂という喧噪に包まれた空間にいながらにして、俺達の周囲だけは静まり返っているような、そんな錯覚が瞬時にして流れていた。


 俺が黙っていると片桐は再び俺から視線を外し、弁当箱の中に並ぶサンドイッチに目を落とす。そして、ハムとトマトのサンドイッチを取り、食べ始める。その様子を見るとは無しに見ながら、俺は俺の思考回路を整理しようとしていた。しかし自分自身が、俺は何処か遠くに感じられていた。


 俺が思考を働かせている間も、目の前に座る片桐は、せっせとサンドイッチを食べて行く。まだ昼休みは十五分程しか過ぎていない。そんなに急いで食べなくとも良さそうなものだ。


 ――いや、俺が考えたいのはそんなことでは無い。断じて違う。そう思った時、先程の片桐の言葉が片桐の声で、俺の脳の中で再生された。お付き合い?


 確かに片桐はそう言った。いや、しかし。しかし? しかし何だと言うのだろう。逆接の接続詞の後に俺は何と続けようとしているのだろうか。俺は俺の思考回路が分からない。何かの歌にあったようにショート寸前なのだろうか。ニューロンとシナプスは情報伝達物質とやらを、きちんと運んでくれているのだろうか?


「相模原君、もう食べないの? 無くなっちゃうよ」


 もぐもぐもぐ。片桐はハムスターのように、せっせとサンドイッチを食べ続けていた。まるで先程の言葉など忘れてしまったかのように。


「ツナサンド、最後の一つなんだけど私が食べて良い? ジャンケンする?」


「いや、片桐が食べて良いよ」


 かろうじて俺はそう答えたが、サンドイッチのことなど頭には入って来なかった。


「さっきの」


「ん?」


「さっきのは本気で?」


「私はいつでも本気ですよ、百パーセント! 濃縮還元じゃないよ」


 俺の問い掛けに、そう答える片桐。それにしてはどうもアッサリしている気がして仕方が無い。あれを世間一般で言うところのいわゆる「告白」と捉えるとして、告白後、こんなに緊張も無くサンドイッチを次々と頬張れるものだろうか?


「お返事、ダメですか? 私といて楽しいって思ってくれているなら、きっとこれからも楽しいよ。フレッシュな毎日が送れるはずです。まだ短い時間だけど、相模原君といて私は楽しかったし、これからもそれが良いなあって思ったんだ」


 手元のコップを傾けて一息に水を飲み干した後、片桐は真剣な目を向けて言った。黒く、まるい二つの瞳が、じっと俺を見つめていた。


 俺が言葉を発しないでいると片桐も沈黙を守ったままだった。サンドイッチを食べるのも水を飲むのもやめて、俺の言葉を待つようにただ俺を見ていた。その瞳から俺は目を逸らせない。


 いや、目を逸らしたいわけでは無い。ただ、俺は未だ言うべき言葉を探していた。思考も整頓されていないままだった。その為の時間稼ぎがしたかったに過ぎない。


「片桐は」


「なーに?」


「片桐は、俺が好きなのか」


「好き」


 即答。そこに迷いも偽りも無いようだった。少なくとも俺はそう感じた。


 俺は、考えた挙句にひどくつまらないというか、何というか、小さな人間像を露呈するかのような質問をしてしまったようで後悔に似た思いを自身の発言後、すぐに悟ったのだが、無意識的にそこに二つの意が込められていたことに同時に気が付いた。しかし、渦巻いた複雑なようで単純な、或いは単純なようで複雑な心情は、片桐が発した、たった二つの音、たった一つの言葉で急速に霧散むさんして行った。


「あれ、まさか疑っているとか。本当だよ? 嘘じゃないよ」


「いや、疑っているとかそういうことじゃなく」


「そういうことじゃなく?」


「唐突で驚いた。今まで、そういう感じがしなかった気がして」


 俺がそう言うと、ああ、と片桐は納得したように頷いて両の手のひらを合わせた。


「確かに! 恋愛のお話とかしなかったし、好きですアピールもしなかったし。うん、確かに相模原君からしたら突然の出来事という感じだよね。でも、私は結構惹かれていましたよ? 分かりづらかったかもだけど」


 片桐が、にこ、と笑ってサラリとそんなことを言うものだから、俺は不覚にもグラリと揺れた。心の内側が。


 うまく言えない。非常にうまくは言えないが。俺も片桐同様、結構惹かれていたのだろう。その事実と現実に今、俺は他ならぬ片桐綾本人によって気付かされていた。そしてそれを、悪くないと受け止めている自分がいた。


 ふと、食堂全体に広がっている喧騒が耳に入って来た。まるで止まっていた時間が動き出したかのように。


 何となく、テーブルの上のサンドイッチに視線を落とす。大きな弁当箱二つにぎっしりと詰められていたサンドイッチは、あと三割程になっていた。


「あっ、サンドイッチを食べる前にですね」


 別に食べようと思って見ていたわけでは無いのだが、少しだけ焦ったかのような声の片桐へと視線を戻すと、


「お返事、聞かせてほしいな」


 そう、コトリと何処かに置くような、柔らかな調子で片桐が言った。


「勿論、お付き合いしませんよってお返事だからと言ってサンドイッチはもう食べないで下さいとかは言わないから安心してね」


 付け足された言葉は笑いを誘ったが、ここで笑っている場合では無い。


「お付き合い、よろしくお願いします」


「やった!」


 パチン、と合わせていた手のひら同士を一回鳴らすと同時に、片桐はやや大きな声でそう言って微笑んだ。


「ああ、良かったー! すっごく緊張した。心臓破けるかと思った。あっ、サンドイッチ、どうぞどうぞ」


 二つの弁当箱を、つ、とこちらに差し出して来る片桐。その後で、また一つポテトサラダサンドを手にして食べ始めている。どれほど食べれば満足するのだろう。そんな疑問が俺の脳裏を掠めた。


 とりあえず俺もポテトサラダサンドを手に取り、一口食べた。うまい。先日と言い、橘さんは料理上手のようだ。そう思った瞬間、先程に無意識に考えてしまったことが心中を再び満たして行く。それを片桐に尋ねてみたい気もした。しかしながら、簡単に口にしてはならない気もした。口にすればほぼ間違い無く、今、目の前でサンドイッチを食べながら嬉しそうに笑っている片桐はいなくなってしまうだろう。何より、俺の推測に過ぎないのだ。胸中に渦を巻いている不透明な想いなど。疑問など。


 別に聞かずに済むなら、それで良い。それが良い。単なる杞憂だと、向かいに座り笑顔で語る片桐が告げているような気がして、俺はその心を閉じ込めた。


 その日、俺は帰宅早々に風邪薬を飲み、夜の十時という眠るには早い時間にベッドに入った。今朝方よりも遥かにマシになりつつあった頭痛だが、未だに痛みは頭を支配している。一応と思い熱を計ってみたところ、平熱よりも二度高い、三十八度五分という数値を目にした。やはり風邪のような気がした。


 幸い、明日は土曜日で三時間の授業である。そして、その翌日は日曜日だ。学校を休むという選択肢は余程のことでないと俺の中には存在しない為、土日で完治することを祈るのみである。明日、起きて悪化していたら帰宅後に病院に行くことにしよう。確か、あの病院は土曜日も開いていたはずである。そう思いながら、おそらくは風邪薬のせいで生じているとろとろとした眠気に俺は身を委ね、目を閉じた。






 ――翌朝、いつもの時間通りに目を覚ました俺は頭痛の大きさがかなり小さくなっていることに気が付き、安堵した。床に置いていた携帯電話を拾い上げると、メールの着信に気が付く。




 -----------------------------


 From:片桐綾


 Sub:おはよーう!


 Text:頭痛、治った?

無理しないでね。学校に来るなら今日は雨だから傘をお忘れ無く。午前中は晴れだけれど、午後は降水確率七十パーセントですよ。


 気象予報士の片桐さんより


 -----------------------------




 微かに笑いが洩れた。受信時刻は今朝の午前六時十五分。朝からテンションが高いなと思った。


 その助言通りに俺は傘を持ち、家を出た。朝の空は、うっすらと青く白く。雨が降るとは思えない静かな空だった。


 電車に揺られて高校の最寄り駅に着くと、驚いたことに片桐がいた。駅前のコンビニの壁に体を寄り掛からせて、携帯電話を持っている。またか、と思った。


「だから学校付近で携帯はやめろって」


「あ、おはよう」


 近付き、半ば呆れたようにそう言うと、片桐はまるで罪の無い笑顔で俺を見上げた。


「最近、校内での使用は控え目にしているんだよ?」


「校外でも、学校に近い場所ではやめて下さい」


「ところで、相模原君はクッキー好き?」


「甘すぎなければ」


 唐突に振られた話題に返事をしつつ、俺は前を行く片桐を追った。


「今度ね、ウチでお茶会するんだ。良かったら相模原君も来ない?」


「お茶会?」


 聞き慣れない単語が片桐の口から飛び出し、俺は思わず聞き返していた。


「そう、お茶会。と言っても、友達同士でお菓子食べたり、お茶飲んだりして話すだけなんだけど。一度、やってみたら意外に楽しくてね。それ以来、時々実行しているのです」


「片桐の家でやるのか?」


「うん。来週の土曜日を予定しています。いつもはかえでと二人でやるんだけど、相模原君もどうかなーって思って。男の子一人だと来づらかったら、響野さんも一緒に。あ、でも響野さんはクッキーとかスコーンとか、お菓子は好きかな?」


「好きだとは思うけど。スコーンって何?」


「んーと、小麦粉とかベーキングパウダーとかを混ぜて作った生地をオーブンで焼いた、まるいパンみたいな」


 いつもは結構退屈な、この高校までの長い道のりが片桐の話を聞いているおかげで退屈せずに済んでいる。とてもありがたい。


「行って良いなら行こうかな。でも、片桐の友人も来るんだろ? 俺や響野って初対面になるし、大丈夫か?」


「平気平気。楓はそういうの気にしないし、二人だけじゃなくて、もーちょっと人数がいるともっと楽しいかもって言ったのは楓だから」


 問題ナッシングです、と付け加え、


「じゃあ、来週の土曜日の午後二時くらいに来てね。あ、私の家の場所知らないか。高校から三つ下った駅なんだ。駅で待っていてくれれば迎えに行くけど、それでオッケーかな?」


 と、片桐は一息に告げた。


「ああ、よろしく」


「やったー! 楽しみすぎる! その前にテスト返却っていう地獄があるんだけどね」


「地獄って。まあまあ出来たんだろ?」


「多分」


 その返事にはお世辞にも自信が込められているとは言い難く、俺は背筋を這うような冷たい不安を覚えた。


 何しろ、片桐には単位が危うい科目があるのである。学年最後の試験で挽回出来ないような点数を取られたとしたら、目も当てられない。とは言え、試験は終わってしまっているのだから、あとは試験結果を待つしか無いのだ。


「そうだ、頭痛は大丈夫なの?」


 思い出したかのように片桐が尋ねて来た。


「薬を飲んだら結構良くなった。風邪っぽかったみたいだな」


「今日、休むかなと思ったんだけど一応メールしてみたんだ。お返事見てびっくりしちゃった。休むよーっていう返信かなあと思ってたから」


「俺は、滅多には休まない」


「そうなの? 偉いね」


 そう言いつつも、至極不思議そうに俺を見上げる片桐と目が合った。


「別に偉くは無いな。単に内申の為だから」


 答えた瞬間、片桐の内申書は大丈夫だろうかと疑問に思った。


 そもそも、単位が危ういということは授業の出席日数がギリギリだという可能性が高い。とりあえず卒業出来れば良いという考えなら、ギリギリだろうが構わないかもしれないが。


「そういえば、文系と理系、どっちに進むかアンケート取られた?」


「うん。どっちも向かない気はするんだけど、前に相模原君が言った文系に希望出してみたよ」


 あまり興味は無さそうに、舗道にあった小さな石をコツンと蹴飛ばし、片桐はそう言った。そしてまた、その小石を蹴飛ばす。


「相模原君は大学に行くの?」


「今のところは、そう考えてる。片桐は?」


「正直、考えたこと無いんだよね、大学とか。メンドい。昨日も芳久に同じこと聞かれてねー、メンドいって言ったら怒られた」


 芳久。その名前を聞いた俺の内側が、ザワリと騒いだ。そんな気がした。


「でも、まだ考えなくて良いよね?」


「大学に行くとしたら、あまり欠席をしない方が良い。あとは試験。点数が悪いと成績が悪くなって推薦が貰えない場合もあるし。だから進学するかしないかは今から考えておいた方が有利だと思うよ」


 俺が言うと、そっかー、と言いながら、またさっきと同じ小石をコンと蹴飛ばし、その飛んで行く先を片桐は見ていた。


「ま、私にはリセットが付いているから何かあったら押しちゃえば良いだけのお話なんだけどね。相模原君といると、それを忘れてしまうけど」


 そこから片桐の声は先程よりも明るさを含んだものになり、気のせいか足取りまで軽くなったように見えた。小石を蹴飛ばすことを止め、右手に持つ鞄を持ち直して片桐は続ける。


「私ね、今までかなりの頻度でリセットを押してたんだけど。相模原君と会ってから、その回数がとても減ったの。これって凄いことなんだよ」


「そうか?」


「そう! なかなかいないよ、そんな人。だから相模原君って凄いなーって思ってた。多分、そういう気持ちから相模原君を好きになっていったんだと思うよ、きっと」


 突然に告げられたその言葉に俺は少し動揺した。よって、すぐに返答が出来ず、俺はさっきの片桐のように目に入った石を軽く蹴飛ばした。


 黙った俺を気にする風も無く、片桐はリセットについての話を続けて行った。リセットをしたくなる瞬間、リセットの回数、リセットの頻度、そういうことについて、まるでそよそよと流れる春風のように、ごく自然に話し続けた。それらはひどく俺の興味を誘った。時折、相づちを打ちながら俺は耳を傾けていた。


 やがて正門に差し掛かり、俺は階段を上がった先の二階の玄関、片桐はその階段の裏側にある一階の玄関へと分かれた。


 靴箱の前に響野がいたので、


「お前ってクッキーとか好きだっけ」


 と聞いてみたところ、


「好きだ。くれるなら貰う」


 という返答が為されたので、俺はさっそく片桐の言っていたお茶会とやらについての話をしてみたのだが、


「片桐さんの家に行くのか! 凄く仲良くなってるんだな。ホント、それで付き合っていないっていうのが不思議だよな」


 と、本筋とは別のところに食い付かれてしまった。


 嘘をつくのもどうかと思ったので俺は正直に片桐と付き合い始めたことを告げてみたのだが、あれほど付き合わないのか付き合わないのかと聞いて来ていたにも関わらず、響野はオーバーだろうと言うくらいに驚愕していた。


 そして、ひとしきり驚いた後は、


「え、え、え?」


 と、納得していません的な音を三度発した後、これ見よがしに首を捻って見せて来た。何とも失礼な奴だ。


「そうかー、ついに付き合い始めたのか。友人として、おめでとうと言わせてくれ」


「ありがとう」


「何の感情も込められずに言われてもな」


 ――その日の帰りのホームルーム後、即行で帰ろうとした俺を響野が呼び止めた。珍しく駅まで一緒に行こうと言われ、あまり良い予感はしないなと思いながら俺は頷いた。結果は片桐とのことを色々と聞かれるに至った。やはり自分の勘というものは信じた方が良いかもしれない。


「どっちから告白した?」


「片桐」


「片桐さんの家って行ったことある?」


「無い」


 響野は質問を他に五つくらいした後、ようやく黙ったかと思えば、


「片桐さんって、家庭教師と付き合ってたんだよな。ちょっと気にならない?」


 と、更に無遠慮に質問を投げ掛けて来た。


「気にならないと言えば嘘になる」


「だよなー、気になるよな。片桐さんってあんなに明るくて良い子なのに。何で別れたんだろうな」


「さあな」


「恋愛は複雑怪奇なジャンルだからなあ」


 訳知り顔で言う響野は鞄から烏龍茶のペットボトルを取り出し、カラカラとそのキャップを開けた。


「あ、お茶会って何か持って行った方が良いのか? お菓子とかさ」


「いや、特に言って無かったけど。聞いておくよ」


 その時、鞄の中で携帯電話の振動する音がした。メールが着信したらしい。辺りに教師がいないか見回してから、俺は携帯を出して開く。


「メール?」


 響野の言葉に肯定の意を返しながら、俺はディスプレイから目を離せずにいた。短い本文。しかしながら破壊力は大きかった。




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 From:片桐綾


 Sub:お茶会


 Text:当日、楓(私のクラスメイト)と芳久が来るのでよろしくね。響野さんは来る?


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 携帯電話を持つ俺の手がピキリと音を立てて固まったような気がしてならなかった。


「どうした、何か固まってるぞ」


 そう言う響野の声が少しばかり遠くに感じられてしまうほどに、俺は衝撃を受けたようだった。






 ――学年末考査の結果が出揃った。かなり良い結果だ。勿論、赤点などは無い。当たり前だ。まさか二学年最後の試験で悪い結果など残せるはずも無い。残したくも無い。そんな気分も上々の帰り道、俺は緊張に包まれながら片桐に尋ねた。


「結果、どうだった?」


 嫌な感じの間が流れる。何故だろう。その答えは一つしか無いのでは無かろうか。という非常に避けたい結論に俺が達し掛けたその時、


「いやー、それが不思議なことに結構良かったんだよね」


 という、暗雲回避の兆しとも言える言葉が片桐の口から飛び出した。


「本当に不思議だ。不思議すぎる。まさかこんなに良い感じになるとは全然思ってなかった」


 不思議。その単語をしきりに繰り返している片桐の様子を目にしながら、まあまあ出来たと言っていなかっただろうかと、俺は俺の記憶の正しさを確かめていた。


「やっぱり相模原君と芳久に勉強を見て貰ったおかげかな?」


「お役に立てたなら良かったよ」


「でも、まさかの数学七十五点、化学七十八点だよ? ミラクルすぎて本当にびっくりした。ありがとうね」


 見上げて来る片桐の瞳には感謝の色。見間違いや思い違いで無ければ感動も映り込んでいた。


 詳しく聞いてみると他教科も七十点から八十点くらいは取れたようで、俺は心の内でホッと胸を撫で下ろした。これで、おそらくは単位を落とすという事態にはならないだろう。残りの授業を欠席しなければ。


「よっぽど体調が悪い時以外、せめて一学年中はなるべく休まないでくれよ」


 そう俺が念押しすると、


「うわー、芳久が言いそうなセリフ。多分、今日、試験結果を報告したら言われる気がする」


 と、特別に意味などないというような、あっさりとした調子の声が片桐から返って来た。


 ――確かに。確かに、だ。橘さんも片桐の勉強を見ていたらしいし、元・家庭教師だ。試験の結果について報告するのは何の問題も無いというか、当たり前のような気さえする。しかし、俺の中で何かが引っ掛かる。この感覚は何なのだろう。


「あ、明日。二時に待ってるからね。忘れないで来てね? 間違ってもリセットしてはダメですよ」


 俺の胸中など知らずといった感じで、ルンルンという擬態語を背負った片桐が言う。しかし、その「明日」というキーワードが更に引っ掛かりの深度を深くした。


「明日ってさ、橘さんも来るんだよね?」


「うん」


 それがどうかした? と片桐は透明感溢れる様子で尋ねて来る。どうかしたというわけでは無いのだが……うまく言えない何かが存在するのは確かだ。


「お茶会、って言うんだっけ。時々やっているって言ってたけど、橘さんはいつも来てるのか?」


「ううん、今回初です。お菓子のレシピとか調べてたらね、お茶会の準備? って聞かれて。で、相模原君とか呼んだんだーって言ったら、俺も参加したいなって言うから、良いよってお返事しました」


「俺が来るから橘さんも来るってこと?」


「それっぽい」


 謎だ。いや、片桐の持って来た弁当が橘さん製と知った時にもそう思ったが、今、ますます謎が深まったのを改めて感じた。


 響野は、橘さんがどんな人か見てみたい、と明日を楽しみにしているが、俺は何となく何かが気になって仕方無い。その何かが何なのか分からないから、何だか心臓の辺りが気持ち悪い。どうしたら良いのだろうか。


 結局、その「何か」は駅で片桐と別れた後も正体不明のままで。電車に揺られながらぼんやりと考え続けてはいたのだが、さっぱり分からなかった。人の感情というものは自分で思うよりも遥かに複雑に出来ているらしい。


 家に帰って、お茶会って何か特別なものが必要かな、と叔父に尋ねると非常に驚かれた。お茶会に行くのか、と。いや、そんな大袈裟なものでは無くて高校の友達が自宅でやるっていうから呼ばれただけで。


 俺はそう説明したのだが、叔父は慌ただしく冷蔵庫を開けて、


「何も無いぞ……」


 と、軽く絶望を滲ませた声音で言った。


「お菓子とかは向こうが用意するからいらないらしいんだけどさ。何か他に必要なのかと思って」


「お茶会なんて行ったことは無いからな。どうなんだろうな?」


 男二人、揃って首を傾げる結果になってしまった。そして、まあ行けば分かるだろうという結論を出すに至った。百聞は一見に如かず、だ。






 ――そして迎えた土曜日、お茶会当日。片桐、響野、俺の三人は片桐の家へ向かってぞろぞろと歩いていた。


「そういえば、片桐のクラスメイトが一人来るんじゃなかったのか?」


「あ、楓はもう来ていてね。家で準備してくれてるんだ」


「お菓子ってどんなのがあるんだろうなー、楽しみだな」


 二月下旬。冬の寒さは少しずつ去りつつあり、午後の太陽はいつもより若干キラキラとしているような気がした。俺はあまり冬という季節は好きでは無いので、春の訪れが待ち遠しい今日この頃である。


 駅から十分程歩いたところに片桐の家はあった。一軒家だ。小さな庭もあり、玄関横のプランターには主に白く染まっている葉牡丹が植えられていた。小学生の頃、あれを見るたびにキャベツだと思っていたことを俺は思い出した。


「はい、どうぞー」


 片桐が扉を開けてくれ、俺と響野は礼を言って中に入った。


「上がって上がって」


 楽しそうにそう言い、俺達の後から入った片桐は素早く靴を脱ぐ。そして、居間と思われる部屋に続く扉を開いた。途端、甘い香りが届く。


「甘い匂いがする」


 と、響野は期待を滲ませる声で言い、まるで遠慮など知らないかのように出されたスリッパを履いてスラリと居間へと流れ込んで行った。


「あっ、お帰り」


 靴を揃えて立ち上がると、パタパタというスリッパの音と一緒に聞き慣れない声が耳に飛び込んで来た。


 開かれた扉の向こうは甘い香りがふんわりと漂った空間だった。そこにいるのは、テーブルの上に並べられたクッキーなどを見ている響野、ジャムと思しき容器を持って俺達を出迎えたエプロン姿の女の子、それに答える片桐、そして俺の四人。


「ただいま帰りました。あ、こちら、私と同じクラスの(かえで)ちゃんです」


九条楓くじょうかえでです、よろしく!」


 くじょうかえで。そう名乗った女の子は、ぴょこんと一つお辞儀をして笑った。


 それにつられるようにして俺と響野が互いに自己紹介をした後、


「綾、苺ジャムの蓋が開かないの」


 と、手に持っていたそれを片桐に手渡し、九条さんはキッチンに向かって行った。


 紅茶、大丈夫ですか? と片桐が響野に確認した後、九条さんと片桐は四人分の紅茶を用意し、席に着いた。


「はい、お茶会始まりでーす」


 スーパーボールのようにポンポンと弾んで何処かへ飛んで行きそうな声で片桐が言うと、それぞれが目の前に並べられたお菓子に思い思いに手を伸ばす。俺はテーブル中央に小さな山を作っている、まるいパンのようなものを手に取った。


「それ、スコーンだよ。お好みでジャムを付けてもおいしいよ。頑張って焼きました」


「片桐が作ったのか?」


「うん、楓も一緒に」


 ね、と顔を見合わせて片桐と九条さんは頷いている。


「このクッキー、凄くうまい」


 俺の左隣では、響野が夢中になってクッキーを次々と口に放り込んでいる。


「チョコチップクッキーです。簡単なんだよ」


「もしかして、ここにあるのは全部、片桐達が作ったのか?」


「大正解です。せっせっせと作りました。オーブンも大活躍!」


「凄いな」


 俺はスコーンというものに苺ジャムを塗って一口、食べてみた。苺ジャムの甘さとふっくらとした生地のスコーンが良く合う。素朴な、シンプルなパンのような感じだった。


「おいしい? マズい?」


「おいしい」


 驚きながら俺がそう言うと、良かった! と、心から嬉しそうな様子で片桐が笑った。こういうのを作れるというのは本当に凄いなと感心し、俺はしげしげと食べ掛けのスコーンを見つめた。と、スコーンの向こう側からの視線を感じ、そちらを見ると九条さんと目が合った。


「あっ、ごめんなさい。じーっと見ちゃって」


「いや、気にしてない」


 言ってスコーンを再び齧ると、


「綾と付き合ってるんですよねー」


 と、俺の気のせいで無ければどこか感嘆を含んだ響きで九条さんは告げた。俺がそれを肯定しようとした瞬間、隣の響野が口を挟んで来た。


「全く、いつの間にやらって感じで俺もびっくりしちゃってさ。全然そういう話、してなかったのに」


 もぐもぐもぐ。続いたものは声では無くチョコチップクッキーを咀嚼する音だった。そして、それに重なるようにして更に九条さんが言葉を放つ。


「綾って、とても楽しいけど振り回されませんか?」


 その言葉に否定的な意は含まれず、友達が友達をからかう時のような響きだった。それに答えようとした時、今度は片桐が口を挟んだ。


「振り回されるって、そんな! そんなこと無いですよ。ね?」


 そして同意を求めて来る。まるい瞳が俺を見ていた。


「でも、橘さんは明らかに振り回されてたと思うけどなあ」


 俺の返事を待たず、九条さんが邪気の無い様子で言う。そこに存在した人名に、知らず俺の心臓が一際、大きく打った。そんな気がした。


 そこから始まった、橘さんの話題。意識せずとも流れるように耳に入り込んで来る会話。再び浮かび上がる疑問。一つ空いた席。何故か落ち着かない心。


 ふと届いた紅茶の香りに惹かれるようにして、俺は真っ白なティーカップを持ち上げ、一口飲む。アールグレイだった。それをソーサーに戻すと、紅茶がゆらゆらと揺れる。その水面みなもが穏やかさを取り戻し掛けたその時、ピンポン、と可愛らしいチャイムの音が一つ鳴った。


 芳久かも、と告げて片桐は席を立ち、スリッパの音を立てながら居間を出て行った。残された俺を含む三人は、さっきまでの歓談ぶりがまるで嘘のように黙り込む。示し合わせたわけでも無いのに、誰一人、口を開こうとはしなかった。


 響野はスコーンに苺ジャムを塗りたくり、九条さんはバタークッキーを摘まみ、俺は再びアールグレイを味わった。皆が一様に無言のまま。


 玄関の方から、片桐と橘さんの話し声が微かに聞こえて来ていた。それを聞くとは無しに聞いていると、


「あのー。非常に気になったのですが」


 と、何故か改まった様子の響野が遠慮がちに口を開いた。


「片桐さんって橘さんのことが好きなのかな」


 それは俺が聞きたい。そして、聞けずにいたことでもあった。引っ掛かってはいた。確信は無い、ただの推測というか、それよりももっと輪郭のおぼろげなものではあったが。


「実は私も、ちょっとそう思った」


 ぽとり、と控え目に落とされた九条さんの声。それは水面に確かに辿り着き、まるく広がる波紋となって存在感を主張し続けた。





 ――予想に反して橘さんは、ものの二十分程で帰ってしまった。持参した手作りのカップケーキを十個差し出し、スコーンとバタークッキーを食べ、紅茶を飲み。そして俺達四人とそれぞれに少し言葉を交わして。


「えー、もう帰るの? 何しに来たの?」


「だから、お茶会に来たんだって」


「でも、こんなに早く帰るなんて聞いてないよ」


「ちょっと友人に呼ばれててさ。悪い。スコーン、特においしかった」


 名残惜しそうにする片桐の頭にポンと手を置き、橘さんは居間を出て行く。その後を、ととと、と片桐が付いて行く。


「何か、すげー親しくない?」


「もともと、仲は良いみたいなんですけど。でも確かにとても親しそうですね。親愛の情溢れる、って言うんでしょうか」


「何で別れたんだろう、あの二人」


「私も良くは知らないんですが、気は合うけど彼氏彼女には向かないとか言われたらしく」


「橘さんから別れたってこと?」


「みたいです」


 声を潜めるようにして、響野と九条さんがポソポソと話していた。その間も玄関先からは橘さんと片桐の話し声がしている。


 アールグレイを飲み干し、俺は何となく宙に視線を泳がせた。アールグレイはストレートで飲んだが、ジャムに含まれるであろう糖分は脳味噌に行き渡ったはずである。しかし、考えはまとまらない。糖分が真に頭に回るまでには時間が掛かるのだろうか。


 他者の心の中なんて一生を懸けても分かるはずが無い。自分の心の中だって本当に分かっているとは言い難いものだ。片桐が本当に何を思っているかだって、俺に理解出来るわけが無い。知ることは出来ても、だ。


 カチャン、と玄関の扉が閉まる音がして、それを合図にしたかのように響野と九条さんが会話を止めた。再び室内を静寂が支配する。


「あれ、無言?」


 戻って来た片桐が不思議そうに言い、俺のティーカップに視線を落とした。


「お代わり、淹れようか」


「ああ、ありがとう」


 注がれる、紅茶。穏やかな時間が流れて行く。しかし、その裏側には多種多様な想いが見え隠れしている。俺はそんな気がした。






 三時間程でお茶会は終わりを迎え、俺達はお土産の金平糖を貰い、帰路に着いた。色とりどりの小さな星のような粒を目にするのは久しぶりだった。袋の中でチカチカとひしめき合っているそれを、俺は家に帰ってから一粒、口に入れてみた。甘い。


 ベッドに横になりながら、その袋を蛍光灯に翳してみる。黄色、白、水色、桃色。それぞれがそれぞれを支え合うように、それらは透明なフィルムの向こうで黙りこくっている。


「喋ったら怖いよな」


 金平糖は何も語らない。しかし、片桐と俺は言葉を交わすことが出来る。


 ――気になるなら聞けば良い。そんな声が何処かから俺の中に響いた。全く以てその通りだ。正論だ。では、何と尋ねる? 片桐は橘さんが好きですか? と?


 じわじわと口内に広がる金平糖の甘さと連動するように、じわじわと湧き上がった疑惑のような焦燥のような想いが消化不良のまま体内に溜まる。体に悪そうだ。


 恋愛は複雑怪奇なジャンル。どうしてか響野の言葉が思い出された。その通りかもしれない。自分自身の気持ちも自分以外の気持ちも分からない人間が、互いを知ろうと寄り添うのだ。難しく無いわけが無い。


 カシャリと金平糖を噛み砕く。シャリシャリと音を立てて細かくなったそれは糖分の残滓を散らして溶け消えた。口の中には甘さの余韻が漂う。


 ――尋ねるというのも一つの方法だ。だが、それをせずに察するというのも一つの方法に違い無い。これから片桐と過ごして行けば俺の知りたいことは自然と見えて来るのでは無いだろうか。何も焦ることなど無いような気がする。しかし今日のお茶会での片桐の様子から浮き上がった疑問の置き場所はどうしたら良いのだろう。


 俺はどうするべきだろう。自問した結果、今は干渉しない、という答えが割とすぐに導き出された。糖分効果だろうか。俺は金平糖に感謝した。


 もうすぐ春休みが来る。それが過ぎれば三年生になる。俺は思考を切り替え、机へと向かった。






 学年末考査という苦難が終わり、そして近付いている春休みを前にして、校内は何処となく浮き足立っていた。


 確かに連続した休暇というものは素晴らしい。何より、退屈な学校という場に来なくて済むという点においては特に素晴らしい。その考えは以前と変わらず俺の中に存在しているのだが、


「やっほーう」


 こうして帰りのホームルーム後に廊下に立つ片桐が見られなくなるのは、少し物足りないなと思う。


 付き合い始めて数日経った時、


「これから毎日一緒に帰りませんか?」


 と片桐が言った。


 断る理由も無く俺が頷くと、パッと花開いたように片桐は笑った。あの笑顔が忘れられない。


「春休み、何処か行ったりするの?」


 その声で俺は我に返った。


「特に予定は無いな」


「私も。多分ダラダラして終わる」


「勉強もしろよ」


「分かってますー」


 ちょっとだけ不満そうに語尾を伸ばし、片桐は一瞬だけ片頬をプッと膨らませた。すぐに元通りになる。面白い。


 公共のバス乗り場を通り過ぎ、そこから五分程を歩いた辺りで、まるで思い出したかのような、素っ気ないような口調で片桐が口を開いた。それが、おそらくは照れ隠しのようなものだったことに俺が気が付いたのは、それから更に五分、あとのことだった。


「私達さ、付き合ってるよね」


「ああ」


 唐突な話題に少しばかり驚きながらも俺は答えた。


「つまり、お互いがお互いを好きってことだよね」


「ああ、そうだな」


「それ、相模原君はちゃんと分かってくれているよね?」


「どういうことだ?」


 見ると、隣を歩く片桐が、微風に遊ばれるように揺れる自身の黒髪を撫で付けていた。その顔は俯き加減で表情が見えなかった。


 俺の問い掛けに片桐は黙ったまま、髪を撫で付けたまま、下を向いたまま、てくてくと歩き続けて行く。


「今日ね、楓とちょっと話したんだけど。恋愛について」


 楓。ああ、お茶会に来た九条さんのことかと、俺が結び付けた後、更に片桐が話を続けた。


「もしかしたら、誤解してるんじゃないかと思って。私が好きなのは相模原君なの」


 それをね、分かってくれているか不安になって。そう付け足して、片桐は黙った。


「いや、誤解はしてない」


 沈黙を破るべく、俺は言葉を発した。しかし、その中身を信じていないかのように片桐は小さく呟くように尋ねる。


「ホント?」


「ああ」


 俺は短く肯定の意を返した後、それに繋げるべき言葉を探したのだが、なかなか見付からない。語彙力不足だろうか。


 俺が不可抗力で口を閉ざしたままでいると、片桐も同じように言葉を紡がないままだった。静かな時間が気まずい。


 長い道のりを、二人共に言葉を無くしたようにして歩き続けた。やがていつもの本屋が見え、それを通り過ぎる。このまま行くと、すぐにコンビニが見えて、そして駅に着くだろう。そして互いに別の電車に乗るのだ。それは避けたい気がした。


 俺と片桐の周囲を、微風が踊るようにして通り抜けて行く。そのせいか、片桐は何度も左手で髪を押さえていた。


 やがて、当たり前のように傍らにコンビニエンスストアが姿を見せる。そこでようやく俺は言葉を口にすることが出来た。無意識に立ち止まっていたのは、きっと時間稼ぎの為だろう。


「片桐。時間あるなら、そこの喫茶店に寄らないか」


 俺と同じように足を止めていた片桐は、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。二粒のまるい目が、不安に包まれ揺れているように見えて仕方無かった。


「怒るなら、行かない」


 その少し拗ねたような口調が、俺にいつも通りの平常心を取り戻させた。焦燥感に囲まれていた心が次第に落ち着いて行くのを感じる。理由は分からない。


「怒るわけ無いだろ。ケーキとか奢るから」


 ケーキという単語に、僅かに片桐の両目が輝いた気がした。片桐が返事を返すのに、さして時間は掛からなかった。





 以前に橘さんと来た喫茶店。あの時と同じように店内にはクラシックが控え目な音量で流れ、落ち着ける空間を作り出していた。


 窓側のボックス席に座り、注文をした後、俺は手持ち無沙汰に水を飲んだ。片桐は、ぼんやりとした様子で窓の外を見ている。それに倣うようにして俺も外へと視線を向けると、遠くの方に駅へと向かう生徒の姿がパラパラと見えた。以前よりも日が落ちるのが遅くなって来たのか、時刻が夕方になり掛けている現在、まだ空は明るいままだった。


「お待たせしました」


 運ばれて来たコーヒーと紅茶、チョコレートケーキにシフォンケーキ。それらがテーブルの上に置かれて行くと、ウェイトレスの声がした時点で振り返っていた片桐の纏う空気がキラキラと光り始めたようだった。


 ウェイトレスが去ると、早速、片桐はフォークを手に持って紅茶のシフォンケーキを一切れ、口に運ぶ。やはり、その所作は流水のように綺麗だった。


「おいしい!」


 そう言って、笑う片桐。やっぱり片桐は笑っている方が良いな、と俺は自然に考えてしまった。以前までは、片桐に対してここまで明確に自分の感情を自覚することは無かったように思う。


 俺はコーヒーを飲んでからビターチョコレートケーキを食べた。程良い苦味の効いたそれは、好みの味だった。そして再び、コーヒーを飲む。クラシックが廻る。喫茶店内を包み込むクラシックは、フレデリック・ショパンの「夜想曲 第二番 変ホ長調 作品九-二」だった。


 カチャ、と僅かに音を立ててティーカップを手に取った後、片桐はゆったりとそれに口を付けた。そして、また僅かな音と共にティーカップを置く。そこで口を開いた片桐の声と向けられた眼差しは、疑いに満ちたものだった。


「ね、本当ーに誤解してない?」


「してないって」


 疑問には思っていたが。が、まだ「誤解」のレベルには達していなかったのだ。嘘は言っていない。


 じ、と俺を見つめたまま視線を逸らそうとしない片桐。疑っています、と言わんばかりだ。しばらくその均衡状態が続いた。何か言うべきかと言葉を探していた俺を遮るように、不意に片桐が一つ、ため息をついた。そして目線を手元のティーカップへと注ぐ。


「私、話してなかったよね。芳久とお付き合いしていたってこと」


 確認を求めるように、間が空く。俺が短く肯定すると、片桐はスティックシュガーの袋をピリリと破り、サラサラと中身をカップの中に入れた。それを銀色のティースプーンでゆっくりと混ぜながら、続きを同じようにゆっくりと話し始めた。


「中学三年生の時、家庭教師として芳久と会ったの。高校受験に備えての勉強をする為とか言って、母が勝手に頼んだんだ。勉強にそんなに興味は無かったから面倒だと思ったけど、塾よりは日数が少なくて済むし、どっちか絶対なら家庭教師かなってことで」


 手元から視線を離さないまま、片桐は言葉を続けて行く。


「細かいところは飛ばすけれど、だんだん私は芳久を好きになっていってね。勉強だけじゃなくて学校とか家の話を聞いてくれたし、おいしいパン屋さんに連れて行ってくれることもあった。告白は私から。ダメだと思ってた。年齢も離れているし、生徒の一人ぐらいにしか思われてないだろうって。それでも伝えずにはいられなかったから。ただ、ダメでも良いっていう覚悟みたいなのはしてた」


 片桐はそこで言葉を切り、スプーンを動かす手を止めた。少ししたあとで、それを静かにティーカップから引き上げ、ソーサーにそっと横たえる。視線は未だ上げられないままだった。


「でも、芳久も私と同じ気持ちになっていたって知って。凄く嬉しかった。本当に。こんなに嬉しいことは、もうきっと二度と無いと思うくらいに。だけど、だけど私達は別れたの。私が高校に上がって二ヵ月くらい経った時、芳久の方から」


 止まった言葉。上がらない視線。語る片桐の言葉は淡々としているようで、当たり前のように陰があった。聞いているこちらが苦しくなるほどに。


 ――芳久の方から。その後に続けられた言葉は、以前に橘さんから聞いた話の通りだった。恋人同士にならなくとも、俺達は一緒にいられるのだから、と。そして、俺の感情と綾の感情には差異がある、と告げられたということだった。


「差異?」


 聞き返すと、こくりと片桐は頷いた。僅かに黒髪が揺れる。


「私が芳久を好きっていう気持ちと、芳久が私を好きっていう気持ちは違うんだって。良く分からないけど。そういう話を何度かして、別れることになったの」


 膝上に乗せられていた手の片方をそっとテーブルの上に出し、片桐はティーカップに指を添えた。しかし、それ以上動かすことは無いままで、まるで時間が止まったかのように静止していた。


 俺は、何とも言えない複雑な心情でコーヒーを口に入れた。


 三度か、四度目になるだろうか、店内を流れるクラシックが変わった。その溶けるようにゆらりと柔らかなメロディーが、俺の脳味噌をゆらりと包み込む。考えなければならないことがあり、言わなければならないことがある。それなのに、そう思っている自分自身が何故か遠くに感じられるのだ。思考する場所、脳に被膜が張られたように。


 目の前に座る片桐は、今もティーカップに指先を添えたまま悲しげに俯いていた。それが俺には不自然に映る。何故だろう。片桐は、身動きすら許されないとでも言うかのようにピクリとも動かない。それを何とか和らげてやりたいのだが、どうしたら良いか分からない。


 コーヒーにミルクが混ざる時のような、ゆったりとした自分の思考回路に嫌気が差す。その遅すぎる情報伝達の理由を先に考えてみたところ、意外にもそれはすぐに回答が弾き出された。


 ――現実感が無いのだ。目の前に座る、今の片桐に。


 現実感が無い代わりに強く違和感を覚えた。その理由はすぐに分かった。俺はここまで悲しそうな片桐を見たことが無いからだ。明日、いや今にも世界が終わってしまうとでも言うかのような。


 言うべき言葉が見付からない。見付けられないと言うべきか。その中で一つ俺が掴んだ単語は「差異」というもの。先程に片桐の唇から紡ぎ出された言葉だ。


「さっき、差異があるって言ってたけど」


 首だけを小さく縦に動かし、頷く片桐。


「自分と自分以外の人で、気持ちに違いがあるのって当たり前じゃないのか? 俺はそう思うんだけど」


「え?」


 おずおずといった感じで、片桐がやっと顔を上げた。その事実に俺は少なからずホッとする。


「自分と他人は別の人間だろ。違うことを思っていて当然じゃないのか? 逆に自分と全く同じことを思っている人に出会ったら俺は怖い、かなり」


 目の前の片桐の表情が変わったことに気が付く。何と言うか、呆気に取られたように見えるのだが。俺は何かおかしなことを言っただろうか。


 内心、チラリと焦りが生じたその時、


「あ……そうだよね」


 と、片桐がやはり何処かポカンとしたような様子で言った。


「おかしいこと言ったかな」


「ううん、おかしくない。全然。その通り!」


 片桐のその言葉の最後には、エクスクラメーションマークが見えた。僅かに明かりが灯された言葉のようにも思える。


 片桐はしばらく、そっかー、とか、確かに、とか小さく口の中で呟いていた。そして紅茶を飲むと、半分以上残っていたシフォンケーキにフォークを差し込み、それをもぐもぐと食べ始めた。つられるように俺もチョコレートケーキの続きに取り掛かる。


 それからあまり間を空けず、片桐が俺の名前を呼んだ。フォークを置いてそちらを見ると、先程よりは緩やかな顔をした片桐とカチリと視線がぶつかった。


「えっと、まとめ。そんなこんなで私と芳久はお別れしましたが、友達関係は続いているんだ。それがもしかしたら相模原君に誤解を与えたかもしれないと……って、これは楓に言われて気付いたことなんだけど」


「うん」


「もし、そうだとしたらごめん。私が好きなのは相模原君です」


「うん」


 そのまま俺が黙っていると、片桐もそれきり黙ったままだった。片桐は残されていた最後のシフォンケーキの一切れを惜しむように口に運び、紅茶を飲む。そのティーカップは空っぽになり、白い底が見えていた。


 ――また、クラシックが変わった。窓の外に目を遣ると、少しずつ夕暮れ時を迎えようとしている景色が目に映り込む。ちらほらと数人の生徒の姿が見えた。部活動の帰りだろうか。


 ここに流れる時間はとても緩やかだった。静かに流れ行く川の水のような、コーヒーに溶けて行くミルクのような、日だまりの中でまどろむような時間だった。店内にいる人は先程よりも減っていた。


 俺は残りのチョコレートケーキとコーヒーを味わい、カップを置いて顔を上げた。その時の、衝撃を。何と言ったら良いのだろう。その時に目にした片桐の表情を。


「ん?」


 驚きが顔に出ていたのか、片桐は不思議そうに首を傾げて見せた。この時にはもう、数秒前の鮮烈な表情は消えてしまっていた。しかし、確かに何かが残されたのだ。俺の中に。


「おいしかったね!」


「ああ、そうだな」


「また来たいなー」


「また来ようか」


 何処にでもあるような会話だった。他愛のない話だった。それでも、俺がそう言った後に笑った片桐は、冬に咲く向日葵を思わせる程に太陽に似ていた。


 良く、今までの世界はモノクロだったけれど君と出会って世界はカラフルになった、というような歌詞を耳にするが、あれは嘘では無かったのだなと、微笑む片桐を見ながら俺は思った。世界に色が付く、その表現は決して大袈裟では無いと知った。





 ――電車に乗り、手を振る片桐が徐々に遠ざかる。それを見送ってすぐに俺の乗る電車がホームにやって来た。発車後、スピードを上げつつガタガタと走行する電車に揺られながら、まるでそのリズムに呼応するかのように俺の思考は始まった。


 別に俺は自分の日常に不満を持っていなかった。勉強も嫌いでは無かったし、特に楽しさなど感じない高校という場に軽い退屈は覚えても、大嫌いと言うほどでは無かったし、読書やコーヒーなどの日々の楽しみもあった。明日が待ち遠しいほどの希望は無くとも、明日が来なければ良いと思うほどの絶望も無かった。輝かしい日常では無くとも、うまくやっている自信のような満足のようなものがあった。俺はそれで充分だった。


 だが、片桐を知り始めてからだんだんとその日常が変化していた。その事実に俺はハッキリと気が付いていたわけでは無かったが、退屈する回数が減っていたことは確かだった。


 片桐のいる毎日が嫌いでは無かった。少しずつ少しずつ、半紙に水が染み込んで広がって行くように、一滴一滴コップに雫が落ちて行くように、決まり切った輪郭しか持たなかった連続する毎日の中に片桐はゆっくりと自然に浸透し、蓄積されて行った。そのスピードは遅いような速いような、良く分からない不思議なものだった。ただ、俺に気付かせないほどの自然さを持っていた。


 片桐に惹かれていたと自覚したのは、片桐が俺にそう言ってくれた、あの日。それからの数日で、浸透するスピードは格段に速まったように思えた。いや、もしかしたらスピードは以前から大して変わっていないのかもしれないし、以前と同じなのかもしれない。変わったのは、俺の意識一つだけで。


 正直、片桐と付き合うことは予想していなかった。片桐がそう言ってくれるまでは。けれども今、俺が持つこの感情は明らかに好意から来るもので、反対の電車に乗って行く片桐を今日ほどに惜しんだことは無い。


 ――車窓から見える後ろへと流れ行く景色が、俺の目の中に入り込んでは瞬く間に去って行く。それと同じように心情が次々と浮かんでは何処かへ流れ、そして蓄積されて行くのを感じていた。


 駅に着き、定期券を改札機に通す。カシャン、と乾いた音が響いた。出て来た定期券を何気無く見ると、有効期限が迫っていることに気が付いた。それをパスケースに仕舞いながら、ああ、そういえば片桐が定期券を拾ってくれたんだなと思い出した。


 駅から家までの僅かな距離をスタスタと歩きながら、俺はぼんやりとその時のことを頭に思い描く。定期券を持って来た時の片桐の様子は本当に面白かった。ダダダダというような勢いで話をした片桐。思い出し、知らず小さな笑いが洩れた。


 時間は午後六時半を過ぎていたが、そんなには寒くなかった。きっともうコートはいらないのだろう。前ボタンを全て開けて着てはいるが、明日からは必要無い気がした。ようやくこれを脱ぐことが出来る、そう思うと解放感が生まれた。このセンスのかけらすら無い、ペラペラの、片桐曰く、魔女が大きな壷で煮込んだような色をしたコート。明日からは気持ちも身も軽く登下校出来そうだ。


 見上げた空には幾つかの星がチカチカと光を放っていて、何故だかそれがひどく綺麗だと思えた。コートに別れを告げることの出来る安堵のせいだろうか。或いは、数日後から春休みが始まるという現実から生じる解放感からだろうか。両方かもしれない。


 春休みが終われば三年生になる。三年生が終われば高校は卒業、今の意思のまま進めば卒業後は大学進学、大学が終われば就職か大学院か。そうやって確実に一日が積み重なり、一年が過ぎ、ゆるゆると時間が流れて大人になって行くのだろう。それは当たり前で、揺るがしようの無いことで。そこに何も引っ掛かりなど感じなかった。今までは。


 だが、今は違う。時間が流れることは全てに共通する当たり前のことだが、その流れの中に何も引っ掛かりを感じないことなど、もう無かった。次々と生まれ去って行く一日の積み重ね、それが動かしようの無いことなら、楽しい方が良い。片桐の声のように弾む毎日が良い。


 ――いつもいつでも明るく楽しく。片桐の声が、言葉が、頭の奥に響く。俺はそこまではまだ思えないが、少しだけそれを見習いたいと思った。それが、片桐が俺にもたらした変化だった。






 待ちに待った、とまではいかないが三月下旬に訪れた春休みは、あっという間に終わってしまった。その間、全く高校へ行かなかったかというとそんなことは無く、自由参加の春期講習を幾つか受講していたので、約二週間程の休みの内の半分ぐらいは高校に足を運んでいた。我ながらご苦労なことだ。


 高校と公共のバス停の間の道は双方を小高い山のようなものが囲んでおり、そこに根付く沢山の木々には柔らかな緑が見られるようになっていた。その小さな山と山の中央を舗道が走るわけなのだが、そういった理由から、春めいた日にあまり道の端を歩くと頭上から毛虫という名の悪魔が落下して来ることもある。もしくは既に落下済みで、道の上でもぞもぞとしている場合もある。決して踏ん付けたりなどはしたくないものだ。


 春休みは暇です、と言っていた片桐を誘って何処か手近な所にでも出掛けようかと思っていたのだが、春休み始めにメールをしてみたら、体調が悪いという返信があった。それからずっと体調不良が続いたらしく、俺と片桐は一度も会わないまま春休み終了を迎えた。


 ――四月初旬、始業式の日。久しぶりに片桐の姿を見た。しかし、何処と無く元気が無かった。まだ体調が悪いのかと思い、そう尋ねてみたのだが、何故か誤魔化すような曖昧な返事がふわんふわんと返って来るだけだった。


 始業式含め、それから一週間程、俺は片桐と一緒に下校していたがやはり元気が無かった。春を彩る桜の花開く姿とは対照的な片桐のその様子に、何かあったのかと心配になった。折に触れて尋ねてはみるのだが、そのたびに始業式の日同様のハッキリしない返答が漂うだけだった。


 進級して二週間が経つ頃になっても、それは変わらなかった。相変わらず何処か元気の無い、ぼんやりとした片桐。気に掛かり、尋ねる俺。生まれる質問、かわされる質問。その繰り返しの日々だった。言いたくないことというものは誰にでもあるだろうがさすがに俺は心配になり、その日、明日辺りは何とか理由を聞き出したいなと考えて片桐と別れて電車に乗った。


 翌日、帰りのホームルームが終わって廊下に出ると、そこに片桐の姿は無かった。片桐の方が俺より遅くなることはあるので、その時はあまり気に留めなかった。が、十分が経ち、二十分が経ち、三十分が経っても片桐は現れなかった。付き合ってしばらくした頃に一緒に帰ろうと言われてから、こんなことは一度も無かった。


 立ち所にして俺は嫌な予感に包まれた。始業式からずっと元気が無かった片桐。体調を崩して学校を休んだのかもしれないし、早退したのかもしれないし、先に帰ったのかもしれない。それならまだ良いのだが、何となく生じた不安が拭えない。腕時計を見ると、更に十分が過ぎていた。廊下にいた生徒は既にほとんど居なくなっている。皆、部活に行ったか帰り道を歩いているか。目の前の一組の教室は、とっくに空っぽになっていた。


 ふと、片桐のクラスに行ってみようかと思った。けれども俺は片桐が何組なのか知らないことに気が付く。思えば、片桐が一年の時も何組か聞いたことは無かった。今回の進級にあたり片桐は文系クラスになったはずだが、俺が分かるのはそこまでだった。


 俺は教室に入り、その片隅で素早く携帯電話を取り出してメール作成画面を開いた。片桐に短いメールを送信してみたが十五分程経過しても返信は無く、そして依然として片桐は現れなかった。


 もやもやとする晴れない心情を抱えて俺は学校を出た。ひらひらと僅かに花びらが舞い散る桜咲く道を、落ち着かない心持ちで歩く。春になって若干は日脚ひあしが延びたのか、夕刻、冬よりも高い位置で太陽が光を放っていた。その夕日影は、樹脂光沢を持つ真っ赤な琥珀を飴色に溶かし込んだ色のようだった。何処か切ない光の色合いが更に俺を落ち着かなくさせた。未だメールの返信の無い片桐に電話をしてみようかと思ったが、高校付近の帰り道を歩きながらというのは気が引ける。その時、ちょうど公共のバス停にバスが停車しているのが目に入り、珍しく俺はそれに乗った。ゆったりと発車するバスに揺られながら、早く駅に到着することを願った。


 家に着いたのは夕方五時半前。部屋に入ってすぐに携帯を取り出し開いてみたが、やはりメールは届いていなかった。俺はメールがすぐに返って来ないとイライラするとか気になるとか不安になるとか、そういったことは無い。急用では無い場合は、返せる時に返せばそれで良いと思う。しかし、漂う一抹の不安がどうしても消えない。片桐は今、何をしているのだろう。体調が悪くて寝ているのかもしれないし、単にメールに気が付いていないだけかもしれない。そう思ってみるも、やはり不安を消すことは出来なかった。


 俺は電話帳を呼び出し、思い切って片桐に電話を掛けてみた。途端、お決まりのガイダンスが無機質な声で流れ始める。お掛けになった電話は現在電波の届かない所にあるか電源が入っていない為……というやつだ。胸が冷える思いがした。


 仕方無しに電話を切り、パチリと閉じる。数十秒、俺は部屋の真ん中に立ち尽くしたままだった。


 ――いや、別にここまで不安になることなど無いのかもしれない。病院に行っていて携帯の電源を切ったのかもしれない。電車か車に乗っていて電波の入りが良くないのかもしれない。単純に電池が切れているのかもしれない。そうだ、だからこんなに落ち着かない気分になることなど無いのかもしれない。そう思い、俺は携帯をベッドの上に放り、制服を脱いだ。とりあえず、あとでまたメールを送ってみよう。それで良い。


 夕食出来てるぞ、と叔父が俺を呼ぶ声がした。今行く、と返事をしてから一度ベッドを振り返る。携帯はチラとも光らなかった。






 その日の夜九時、俺はまた短いメールを片桐に書いてみたが、日付が変わる頃になっても返事は返って来なかった。そして翌日の放課後も廊下に片桐の姿は無く、そのまま一時間待ってみてもそれは同じだった。


 帰宅後にメールを書いてみる。返信が無い。電話をしてみる。お決まりのガイダンスが流れる。翌日の放課後、片桐は来ない。それを三日繰り返した後、俺は考えた末に橘さんにメールを書いた。


 橘さんからはすぐに返信があった。片桐は俺の家にいる、と。そして、状態があまり良くないので都合が付くようなら様子を見に来て貰えないか、と続けられていた。俺が行って大丈夫かと尋ねてみたら、多分大丈夫という返事が来た。


 ――そして翌日の夕方、俺は橘さんの家のマンション下に立っていた。部屋番号を覚えていないので橘さんにメールで尋ねると、返信後、間を開けずに施錠されたエントランスの扉が静かな音を立てて開かれた。それを、やや緊張気味に通り抜け、エレベーターで九階まで上がる。玄関扉の前に立った時、何故か心臓が嫌な音でドクリと鳴った。そんな気がした。


 少し躊躇いつつインターホンを押すと、ピンポーンというゆったりとした音が響いた。やがて鍵の開く音がし、橘さんが顔を出す。


「こんにちは」


 扉を広く開けながら落ち着いたアルトで橘さんがそう言い、慌てて俺も挨拶をする。


「あ、こんにちは。お久しぶりです」


 玄関は以前来た時と変わらず、とても綺麗だった。靴を揃え、お邪魔します、と言って上がる。出されたスリッパを履き、木目の美しい廊下を橘さんに続いて歩く。リビングに出ると、ソファを勧められた。


「コーヒーは好き? 他に紅茶もあるよ」


「コーヒーで大丈夫です」


 カチャカチャという食器がぶつかる小さな音がした後、橘さんは俺の前に座って軽く髪を掻き上げた。


「今、コーヒー淹れてるから」


「ありがとうございます」


 広いリビングは、しんとしていた。その静まり返ったリビングで、俺と橘さんは黙ったまま向かい合っていた。


 そういえば、片桐は何処にいるのだろう。別の部屋だろうか。開かれたままのリビングと廊下を繋ぐ扉、その奥に見える扉に目を遣った時、俺の疑問を察したかのように橘さんが口を開いた。


「今、綾は寝てるんだ」


「あ、そうなんですか」


 そして再び沈黙が俺達を押し包む。その重苦しい雰囲気が、もしや事態は思ったより深刻なのでは無いだろうかと、俺の奥底で警鐘が鳴った。


 コポコポと、コーヒーの出来て行く音がする。静かな部屋に、その音は意外にも大きく聞こえた。


 ゆっくりと立ち上がった橘さんが、一つ大きく伸びをしてからキッチンの方へと歩いて行く。やがて、二客のコーヒーカップと砂糖とミルクをお盆に載せて橘さんは戻って来た。チューリップのような形をした真っ白なコーヒーカップ。その中でコーヒーが良い香りを立て、揺らめいていた。


「綾なんだけど。二日前にウチに来てね」


「はい」


「明らかに何かあったとは思うんだけど、聞いても言わないんだ。何度、尋ねてみても言わない。仕方無いからそのままなんだけど、今日で三日、学校を休んでる。相模原君は何か聞いてる?」


「いえ、何も」


 お互い、コーヒーに少しの砂糖を入れてミルクを落としながら話した。ポチャン、とミルクがコーヒーの中に落ちると、ゆらゆらと溶けながらそれは、ぽうぽう、とカップの底から浮かび上がって来る。


「まだ三日、とも取れるんだけど、もう三日、とも取れるんだよね。綾は時々、こうやって学校を休む。それが一日の場合もあるし、一週間の場合もある」


 カップとスプーンがぶつかり合う小さな音が響く。そうしてミルクは完全にコーヒーに溶け、セピア色とカラメル色を足して二で割ったような温かい色味になった。


「知ってるかもしれないけれど、綾は一年の時、単位が危ない教科があった。試験の点数と言うより、授業の出席日数がギリギリだったせいで。だから心配になってね」


 一口、橘さんがコーヒーを飲んだ。俺も倣うようにしてコーヒーを飲む。深い香りと味が駆け抜けて行った。


「三日休んで単位が危なくなるなんてことは無いだろうけど、授業内容は飛ぶだろうし、提出物だってあるかもしれない。それに進級早々にこうなって、これを今後も繰り返してしまうと」


 橘さんはカップを置き、そこで言葉を切った。


 皆まで聞かずとも、言いたいことは良く分かった。片桐が今までどれくらいの頻度で欠席を繰り返して来たかは分からないが、喩えば三日単位の欠席を頻繁にしてしまったら。当然の如く、授業の出席日数は削られて行くだろう。そして、また。


 はあ、と橘さんが溜め息をついた。


「休むな、とは言わないんだけど。休みすぎだと思うんだよね。何せ単位が危うくなるくらいだから。勿論、それだけの何かがあったんだとは思うんだけどさ」


「いつも、橘さんにも理由は話してくれないんですか?」


「話す時もあるし話さない時もある。そして今回は今のところ、沈黙」


「そうですか……」


 再びコーヒーを飲んだ後、橘さんは続けた。


「相模原君にも言ってないんだろう? 困ったな。明日辺りは学校に行くかな。ほとんど寝てばかりなんだよね。熱は無いし風邪とかでは無いみたいなんだけど」


 しかし、その言葉は俺に聞かせると言うよりも独り言めいた印象を受けた。心配と、憂いと、困惑が強く滲んだ言葉。そこに愛情はあるのかと、俺はふと思ってしまった。


 橘さんと片桐が付き合っていなくとも、俺は二人の間に強く結び付く何かを感じていた。友人や恋人とも違う、言い表し難い何か。橘さんや片桐が発する言葉の端々から、俺はそれを感じていた。それを不快だとは言わない。ただ、それを感じ取るたびに心の何処かがざわめきを生み出し、俺を落ち着かない気分にさせる。


「実は俺、今日から出張に行かないとならないんだよね。二週間程」


「は?」


 唐突に変わった話題に、俺は間の抜けた声が出てしまった。しかし気にした風も無く、橘さんは話を続ける。


「そろそろ空港に行かないと間に合わなくてさ。ああ、相模原君は一人暮らし?」


「いえ、違います」


「そうだよね。じゃあ都合の付く時だけで構わないからさ、時折、綾を見に来てやってくれない?」


「え?」


 不思議そうな目をしていたのだろう、それを受けた橘さんが補足するように言を継ぐ。


「俺もメールとかはするつもりなんだけど、電源切っているみたいだから返事があるか分からないし。あの様子の綾を放っておくのは結構心配なんだよね。で、相模原君にお願い出来たらと。聞いたんだけど、綾と付き合っているんだよね?」


「はい。そうですけど」


 半ば緊張気味に俺は肯定した。


「それなら綾も嫌がらないだろうし。ダメかな?」


「いえ、そんなことは無いですけど。でも、様子を見るって」


 俺がここに来るということだろうか? しかし今、橘さんは出張に行くと言わなかっただろうか。その疑問をまたも察したように、橘さんは口を開く。


「鍵は綾が持ってるから。あ、でも寝てると開けない場合もあるのか」


 一人納得したように言って橘さんはソファから立ち上がる。リビングを出て、廊下の左側にある扉の先へと入った後、すぐに橘さんは戻って来た。そして再度ソファに座り、その手に持っているものを目の前のガラステーブルの上にパチリと置く。俺は目を見開いた。何処をどう見ても、これは鍵だ。しかも話の流れから言えば、もしかしなくとも。


「これが家の鍵。綾が開けなかったら、これで入って」


「え、あの」


「大丈夫、俺は別に持っているから困らないし」


「いえ、そういうことでは無くて」


 俺は、眼前に座る人と置かれた鍵を見比べてしまった。いや、誰だって驚くだろう。驚かないのか? これは普通の流れか? 


 橘さんは、どうかした? とでも言うように、にこにこと微笑んでいる。


 いや、ちょっと待って下さいと俺は言いたい。俺と橘さんはここまで親しかっただろうか。橘さんの不在中に自宅の鍵を預かる程に? 喩え名目が片桐の様子を見る為だとして、この展開には何処かおかしな点があるのでは無いだろうか。いや、ある。


 変わらずに金属の光沢を示す鍵から目を離し、俺は橘さんに尋ねた。出来るだけ丁重に。


「あの、これはここの家の鍵ですよね」


「そうだよ?」


「それを俺に貸してくれるということでしょうか」


「そうそう」


「その心は、一体」


「えっ、だから綾の様子を見るのにドアが開かなかったら困るからって。まさかドアを破壊して中に入るつもりじゃないよね?」


 どうも俺の意図するところがうまく伝わっていないようだ。俺は微かな目眩を覚えた。


「いえ、そういうことでは無くてですね」


 何とか俺は自分の思う所を伝えようと口を開いたのだが、それは橘さんの明るい声によって遮られる。


「ああ、俺は相模原君のことは信用しているから大丈夫。何しろ綾と付き合っている人だからね。悪用なんかするわけ無い」


 そう言い切り、そしておもむろにコーヒーカップを持って立ち上がると、


「申し訳無いんだけど、そろそろ行かないとならなくてね。慌ただしくてごめんね」


 と、謝罪を口にした。


 キッチンに足を向け、おそらくはカップをシンクに置き、すぐに戻って来た橘さんはリビングの片隅、観葉植物の隣に置いてあった深い藍色のスーツケースに手を掛けた。


 橘さんはそれを持ち、


「また機会があったら話したいな。俺は行くけど、ゆっくりして行ってくれて構わないよ。何なら泊まって行ってね」


 と、爽やかに言って玄関先へとスタスタ歩いて行った。


 慌てて俺は立ち上がり、後を追い掛けると、既に橘さんは靴を履き終えてドアノブに手を伸ばしていた所だった。そして俺に気が付き、振り返った橘さんは突き抜ける青空のような清々しい笑顔だった。


「それじゃ、綾をよろしくね。俺もメールとかはしてみるから」


 言い残し、橘さんは扉を開けて行ってしまった。カチャン、という扉の閉まる控え目な音が消えた後には、呆気に取られた俺が一人、玄関先に残された。






 良く回らない頭で、とりあえず俺は鍵を閉めた。最近は物騒だからな。泥棒が入って来たら困る。


 ……いや、考えるべきはそんなことでは無くてだな。鈍く回転を続ける脳を抱えて俺は廊下を戻った。先程まで俺を含む二人の人間がいたリビングは、まるでその事実を無きものとしたかのようにひっそりとしていた。


 ガラステーブルの上には飲み掛けのコーヒーと、そしてこの家の鍵が置かれている。俺は意識的にそこから目を逸らし、少し前と同様にソファに座った。何となく首を捻ると、窓の側に佇む植物が目に入る。絡み合うように伸びる枝の上、光沢のある深緑の葉がまるく集まっていた。


 ――この展開は一体、何事だ。そんな独白が脳味噌にポッと生まれた。そしてそれはグルグルと脳内を廻り出す。まるで俺をここに縛り付けるかのように。


 二匹の蛇が互いに体を絡め合わせたような観葉植物の枝を見ながら、俺は思考を整頓しようと試みた。が、それはすぐに遮断されることとなる。カチャリ、という金属音が静かな空間に響いたかと思うと、パタンパタンという足音がゆっくりと繰り返され、そしてその持ち主がリビングに現れた。


「あれ……相模原君? 何してるの?」


 何処かぼんやりとした夢心地な声が、ふわんと室内に広がって消えた。何してるの。それはまさしく俺が俺に問いたい言葉だ。俺はここで何をしているのだろう。


 いや、片桐の様子を見に来たのだ。橘さんの許可を貰って。ただ、その橘さんは出張だとかで既に居なく、テーブルの上には家の鍵。これを俺はどうしたら良いのだろうか。


 確かに片桐のことは気に掛かる。心配だ。だが、家主が留守の家に合鍵を使って上がり込み、そこにいる片桐の様子を窺うというのは何処かおかしな気がするのだ。


 などと俺が考えている内に片桐はキッチンの方へと歩き、そして何やら冷蔵庫を開けたような音が聞こえた。その後、カチャカチャという食器の音とシューっという液体の沸騰音が聞こえ、やがてマグカップ片手に片桐がリビングに戻って来た。片桐は慣れた様子でソファに座り、マグの中に、フーッと息を吹き掛ける。ほわほわとした湯気が立ち上っていた。


「あ、相模原君も飲みたかった?」


「それ、何?」


「ホットミルク、砂糖入り。飲む?」


「いや、いい」


 片桐は両手でマグカップを持ち、フーフーと冷ましている。そして少しだけそれを飲んだ。熱い、と小さく言い、マグカップをテーブルに置く。マグカップには赤いリボンを片耳に結んだピンクのうさぎが描かれていた。


「あれ、芳久いないの?」


 キョロ、と辺りを見回し、ぼうっとした声音で片桐が尋ねた。俺が、出張らしいと答えると、ああ、そういえばそんなこと言ってた、と片桐は思い出したように呟く。


 以前に来た時にも思ったが、この家は本当に静かだ。隣室などからの生活音がまるで聞こえて来ない。この空間だけが現実から切り離されているという錯覚すら覚えるほどに。


「何これ」


 再びマグカップを持とうとした片桐が、テーブル上に視線を縫い留めた。それは俺が今、問題としている鍵を捉えている。


「まさか、鍵忘れて行っちゃった?」


「いや、持って行ったと思うよ」


「じゃあ何でここに置いてあるんだろう。仕舞い忘れかな」


 片桐のその言葉に俺は沈黙する。どう言うべきか分からなかったからだ。しかし片桐はすぐに鍵から視線を剥がし、マグカップにそれを戻す。そしてホットミルクを愛おしそうに飲んだ。


「あ。今、何時だろう」


 独り言のように言い、リビングの奥の隅にあるカラーボックス上を片桐は見上げる。そこには白い枠のまるい時計が掛けられていた。


 俺は初めて、この部屋に時計があったことに気が付く。静寂に加担するかのように秒針の音が無いせいだろう、今までその存在に全く気付かなかった。時計は、夕方六時を指そうとしているところだった。


 片桐はホットミルクを少しずつ飲んでいる。それを俺は、何処か現実離れした頭で眺めていた。


「そういえば。相模原君は何してるの?」


 ここで。言外にそう告げて、片桐は最初の質問を繰り返した。確かに、思えば俺はその問いに答えていなかった。片桐が再度、尋ねて来るのは至極当然のことだ。しかし。


「特に何もしていないな。敢えて言うならコーヒーを飲んで、橘さんと話してた」


 自分の言葉で飲み掛けのコーヒーのことを思い出し、俺は目の前のチューリップのような形状のコーヒーカップを手にした。コーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。


「芳久と、どんな話したの?」


 無邪気な様子で片桐が問い掛ける。


「片桐について」


「私について?」


 端的に返した言葉。そのまま疑問とされた言葉。


 俺は思い切って切り出した。


「最近、学校休んでるだろ」


 途端に表情の曇る片桐。俺は、そうなることが分かっていた。それでも聞かずにはいられない。


「メール見た?」


「ごめん、電源切りっ放しだ」


「放課後、居ないから心配してた」


「うん。ごめん」


 途切れる会話。片桐がホットミルクを飲む。俺はコーヒーを飲む。それらが互いに二度、繰り返された後、この雰囲気には不似合いな欠伸あくびが片桐から生まれて消えた。


「寝ようかな」


 ポツリ、落とされた言葉はすぐに部屋の静穏に吸い込まれて行く。消え去って行く。その寂しげな物言いが、柔らかな棘のように俺の胸を刺した。


「寝るって、今から? 今まで寝てたんじゃないのか?」


「うん」


 おそらくは二つの意味合いで片桐が頷く。


「ホットミルクって睡眠を誘うよね」


「ああ、トリプトファンがセロトニンを作る材料に……いや、そんなことを話したいんじゃなくてだな。体調、悪いのか?」


「体調……風邪とかじゃないけど。眠たい。凄く」


 凄く、にアクセントを置いて告げた後、また一つ片桐は欠伸をした。確かにひどく眠たそうだ。見ているこちらの睡眠欲まで引き出しそうなくらいに。


「昨日、寝なかったのか?」


「多分、眠ったとは思うけど。睡眠過多で日付の感覚がぼやけてる。良く分かんない」


 片桐はどうでも良さそうに言って両手を前方へ伸ばし、眠たい、と小さく呟く。


「何か、あった?」


 ついに俺は核心を尋ねた。と言うのも、このままだと片桐は本当に夢の世界へと飛んで行きそうだったからだ。早く原因を聞き出し、出来るなら解決策か、準じる何かを示したい。その焦りから生じた問いだった。


「何か……」


 乾いた声で言い、そして考え込むように片桐は黙り込む。半分程、残ったホットミルクに注がれていた目線が、一瞬、揺らいだ。それを俺は見逃さなかった。


 しかし、俺は片桐の次の言葉を待った。無理矢理に聞き出したくは無かった。仮に言いたくないならそれで良いとも思う。だが、このまま片桐が学校を休むことは回避したい。その一心で片桐から紡がれる言葉を俺は待っていた。


 沈黙が続いた。リビングは本当に静かだった。何処か見知らぬ土地に一人放り出されたような、頼り無さのようなものを感じるほどに。


「ごめん。寝る」


「え?」


 今までのぼんやりとした、夢に片足を入れているような声とは相反する、キッパリとした口調で片桐は言い放った。そして残っていたホットミルクを一気に飲み干すとスパリと立ち上がり、リビングを出て行こうとした。


「いや、ちょっと待って」


「眠たすぎて無理です」


 その声には拒絶の色が濃く滲み出ていた。もしかしたら今まで聞いたことの無いものだったかもしれない。驚きは覚えたのだが、それよりも俺は気になることがあり、そこに構っている暇など無かった。


 片桐はスタスタとリビングを出て、廊下の右にある扉を開く。予想に反して扉は閉められなかった。しかしながら中に入って良いものか躊躇いを覚え、四十度ぐらいの開かれた隙間から俺は様子を窺った。


 室内は意外に広く、目に付いたのはベッドと小さな机だった。そのベッドの上に沈み込むように座った片桐はスリッパをポンポンと脱ぎ捨て、俯き加減で片足をゆらゆらと動かしていた。


「あのさ……言いたくないなら言わなくて良いんだけどさ。あんまり学校を休むと授業に遅れが出るし」


 ここまで言い、何だか教師みたいで嫌だなと俺は自分で自分に嫌気が差した。


 どうやら片桐も同じことを思ったらしく、


「先生みたいで嫌な感じ」


 と、言った。


 そして、ベッドから跳ねるようにして下り、机の横に立つと何やら手元に視線を落とした。ややあって、カチッという音がした後、片桐の手元が僅かに明るくなる。そしてそれは机の上を中心に広がった。キャンドルだった。その灯りを背に、片桐は真っ直ぐに俺の方へ向かって歩いて来る。何だろうと思っていたら、扉付近の照明スイッチが目的だったようだ。片桐がスイッチを押して明るさを落とすと、元々、少し暗めだった室内は更に暗くなる。キャンドルの火が存在を主張するかのように明々《あかあか》と燃えていた。俺は「銀河鉄道の夜」のさそりの火を思い出していた。


 室内の照明を絞った後、すぐにクルリときびすを返した片桐を俺は思わず呼び留めた。と、同時に俺は片桐の腕を掴んでいた。そう認識したのは行動よりも多分は五秒ぐらい遅れてのことだった。片桐が少し驚いたように俺を振り返る。そこで初めて俺は気付いたのだ。気付かされた、と言うべきか。俺の右手は片桐の右手首の辺りをしっかりと掴んでいた。


 何? と言いたそうに見上げて来る片桐の両目が俺とぶつかった。それに対する答えを持っているような、いないような――正直なところ、自分でも良く分からない心情で俺は片桐を見ていた。戸惑いを含んだ片桐のまるい瞳が揺れる。俺は何を言いたいのだろう。


「私、疲れてるから座りたい」


 そこには、先程のような拒絶めいた響きは無かった。


「ああ、悪い」


 反射的に俺が手を離すと、片桐はふらりとベッドへ戻って行った。その揺らめく炎のような震えるような動きが、まるで水槽の中を泳ぐ熱帯魚のようだった。ポスリとベッドに腰掛け、また片足をつまらなさそうに揺らす片桐。眠たいと言っていた割には、ベッドに潜る気配が無かった。


 それを俺が不思議に思った頃、


「相模原君も座ったら?」


 と、静かな、それでいて柔らかな片桐の声が降るように注がれた。


「それとも、もう帰る? 家の人、待ってるよね。ご飯とか」


「いや、言って来たから大丈夫」


 俺は静かに片桐の隣に座った。すると、何か良い香りが鼻先を走って行く。どうやら机上で燃えているキャンドルからの香りのようだ。アロマキャンドルという奴だろうか。


 片桐は未だ片足を揺らしていた。その横顔を、皓々《こうこう》と橙色の光が照らす。ああ、ラベンダーの香りだと、漂う香りの正体に俺が思い当たったその時、やっと片桐が核心を口にした。


「家に、居たくなくて」


 その、たった一言に想いは凝縮されていた。


 胸が締め付けられるようだった。それくらい、片桐が発した言葉は悲しく、深い響きを持っていた。


 キャンドルの炎が揺れる。机の周りを照らす、まるい光が揺れる。薄暗い室内に生まれたコントラストは、とても幻想的に空間を包んでいた。その幻想めいた部屋で、片桐はポツポツと言葉を繋げた。それは俺に話していると言うよりも誰も居ない場所で一人、静かに囁いているような印象をもたらした。キャンドルの炎から広がる橙の灯りが片桐の目の表面に映り、ゆうらりと揺れる。俺の目も、片桐から見ればそう映るのだろうか。しかし片桐は顔を上げないまま、水滴が落下するように静かにポツポツと、消え入りそうな声で話すだけだった。


 ――時間にしてみれば三十分には満たないものだったかもしれない。けれどもその短い時間は、まるで時の止まった海底で水に揺れていたような、そんな不確かさを与えて来るものだった。部屋の雰囲気のせいかもしれない。


 何となく片桐の家の様子が良好では無さそうなことは、今日を除いても今までの会話の端々から窺えた。別に良好か否かを問題にするつもりは無い。問題は、片桐の心が受ける重みだと俺は思っていた。だが、まさかここまで片桐が疲弊しているとは知らず、また気付かずにいた自分を思うと居た堪れなくなった。それでも、片桐と同じ高校生、片桐より一学年上というだけの俺に、具体的解決策を示すことは出来なかった。それがとても悔しい。


 俺がそう言うと、俯いていた顔をゆるりと上げて、感情の宿らないように見えた表情を一転、意外にも片桐は笑って見せた。不意に目に飛び込んだその笑顔に、俺は不覚にもドキリとした。だが、その笑顔には陰があった。決して震える炎のせいでは無いだろう。そこには何かを諦めたような受け入れているような、寂しい表情があった。俺は何を言うべきか迷っていた。視界の片隅でチラチラと光る炎がこちらを窺っているような、そんな気がしていた。


 けれど、俺が何を言わずとも、片桐の中で既に結論は出ていることを知った。やがてまた、途切れ途切れにポツポツと片桐が話してくれたからだ。先程よりも幾分かは光の灯された声で。


 両手の指先を合わせて語る片桐。その声には少しずつ芯が通り始めていた。それなのに俺は見ていて息苦しさを感じていた。まるで水の中にいる時のように。或いは、呼吸の仕方を忘れたかのように。


 そんな俺の心情など知らず、片桐は淡々と話し続けた。俺の発した言葉はごく僅かで、その多くが、うん、とか、ああ、とかだった。それでも特に不満そうな様子など見せず、片桐は話して行く。俺は話を聞いている心の片隅で、炎に照らされた黒髪が綺麗だと思った。


 やがて話し終えた片桐は、いつしか交差していた自身の指先を解き、両手をそっと膝の上に置いた。片桐の声が広がらなくなった室内は、途端に静けさが支配する。


 俺は、自分の手を見ながら言葉を選んでいた。いや、探していたと言うべきか。片桐に何かを言いたかった。伝えたかった。しかし、俺は今、片桐に何を伝えようとしているのだろう。そんな根本的なところから俺は自身の思考を始めなければならず、その事実をもどかしく思った。


 ジジ、とキャンドルの芯が燃える音がした。しんとした室内にそれは意外に良く通った。


「良い香りでしょ。ラベンダーなの」


 不意に片桐が言い、そちらを向くと自分のつま先を見つめている片桐が視界に入った。


「アロマキャンドル。ラベンダーの香りは良く眠れるんだって」


「聞いたことはあるな」


 会話は途切れ、そしてまた静寂。物音一つせず、薄暗い室内を照らす炎のせいなのか、時間の流れがうまく把握出来ない。


「ここは、眠る為の部屋なの」


 また不意に片桐が言った。


「眠る為?」


「そう、眠る為」


 俺の聞き返しをそのまま肯定し、片桐は頷いた。


 その声には悲しみこそ無かったが、何処か俺を落ち着かなくさせた。うまく言えないが、遠い、知らないところへ片桐がヒュウと吸い込まれていなくなってしまいそうな。そんな、気がした。


 片桐は、あまり間を空けずに次の言葉を続けた。


「眠る前には、こうやってラベンダーのアロマキャンドルを点けるの。ホットミルクを飲んだり。ホットミルクには、ちょっとお砂糖を入れるのが好き。枕の中にはラベンダーのポプリが入っているし、ベッドサイドにも置いてある。オルゴールもあるよ」


 立ち上がり、ベッドサイドに置かれた小さな木製の小箱を持って片桐は再びベッドの上にポンと座った。キリキリキリと、螺子を巻く。すると、何処かで聴いたことのあるメロディーがオルゴール特有の少しの悲しさを伴って流れ始めた。


 これは小物入れにもなっているんだと告げて、片桐はその小さな正方形の蓋を開ける。薄暗い室内でハッキリとは分からなかったが、そこには以前に見た石が一つ、ポツンと置かれていた。確か水晶と言っただろうか。


「これ、相模原君が拾ってくれたよね」


「ああ、そうだな」


「あの時、本当に嬉しかった。ありがとう」


「いや」


 水晶がキャンドルの光を受けて神秘的に煌めく。「銀河鉄道の夜」に、水晶の中で小さな火が燃えているという描写があったことを思い出した。


「あのさ」


 俺は何かに後押しされるようにして言葉を発した。片桐が、こちらを見上げる。


「俺が片桐に、実質的にしてやれることって少ないのかもしれないけど。もしかしたら無いのかもしれないけどさ。でも前にも話したように、何かあった時は言ってほしい。それで俺に出来ることがあればしたいし、もしも無くても、それでもやっぱり話してほしい。俺は、片桐が悩んでいることを知らずにいたくない。勿論、話してくれなくとも察したいとは思う」


 オルゴールの音色が次第にゆっくりとしたものになって行く。


「俺は、片桐がそんな風に泣くのを我慢しているような顔でいられると、辛い。片桐が嫌じゃなかったら、さっきみたいに色々なことを話してほしい。それが明るい話じゃなくても構わない。絶対に真剣に聞くから」


 やがてオルゴールの音が、ふつりと止まった。





 ――俺が大人だったら。片桐を前にして、俺はそう思わずにはいられなかった。


 片桐が橘さんの家に泊まりに行く理由を、俺はおぼろげながらに理解し始めていた。片桐はただ、安心して過ごせる場所を求めているだけだ。安心して眠りに就ける場所を。


 あの日、「ここは眠る為の部屋」と言った片桐の言葉に嘘は無かった。しかし俺は誤解していたようで、あの言葉が指すのは寝室だけだと思っていたが、どうやら違ったようだ。片桐は、この家全体を指して言ったようだった。


 結局、橘さんが出張に出ている間の二週間、俺はこのマンションに来続けた。そこにある事情はたった一つ、片桐がここにいるからだ。


 片桐は、学校を休みたがった。しかし、俺は何とか学校へ行くよう説得し、結果、成功した。説得と言うほど大した話はしていないのだが、学校を休むことや欠席日数が増えて行くデメリット等について切々と話してみたところ、意外にも片桐は真面目に聞いてくれた。また、欠席より遅刻や早退の方がまだマシだということも伝えておいた。遅刻や早退は二回で欠席一回分になる。遅刻二回イコール欠席一回、早退二回イコール欠席一回、遅刻一回と早退一回で欠席一回という案配だ。担任の城井から聞いた話だから間違い無い。なるべくなら多くは休んでほしくは無いし、遅刻や早退も少ない方が良い。俺がそう言うと片桐は少し考えるように黙り込んだ後、分かった、とポソリと言った。その時は若干、不満そうな様子であったが、翌日から片桐は学校に来ている。


 放課後、教室の後ろ扉を開けると壁に寄り掛かって立っている片桐がいる。まさかそれがこんなにも安堵することだとは、俺は思いも寄っていなかった。だが、俺は安堵すると同時に無力感を覚えずにはいられない。片桐が抱えているものを取り除くことが出来ない。橘さんは、それは出来ないまでも片桐に空間を提供することが出来た。片桐が安心して眠ることの出来る場所を。


 俺に出来ることは限られていた。話を聞く、メールをする、電話をする、一緒に帰路を歩く。冷静に考えてみて、たったそれだけかと俺は落胆した。他に何か無いものだろうか。片桐を前にすると良くそれについて考えるのだが、他に浮かばないのだから本当に困った。


 だが、あれから片桐が少し変わった気がして、それだけが救いと言えなくも無い。元々、色々な話をくるくると良く話してくれてはいたが、そこに日常でぶつかる小さな不満や悩みなども織り交ぜられるようになったのだ。もしかしたら今まで、片桐は意識して明るさのある話だけを俺にしていたのだろうか。


「今日ねー、楓に言われたんだけど。橘さんの家に泊まりに行くのっておかしくない? だって。おかしい?」


 唐突に告げられた言葉に俺は口に含んだばかりのコーヒーが空間に飛んで行く予感を覚え、慌ててそれを飲み込んだ。味わう暇などありはしない。


「おかしいと言うか……気にはなっていた」


 そう、気にはなっていた。今は橘さんは不在だが、普段はおそらく居るのだろう。ここは紛れも無く橘さんの家だからだ。


「私ね、あんまりおかしいと思ったこと無かったんだけど。私が来たいと思って芳久が良いと言ってくれる、だから何も問題無いと」


「確かに、二人の間ではそういうことになるのかもしれないんだけどさ」


「だけど?」


 先を促され、俺は言葉に詰まった。チューリップのようなコーヒーカップを置くと同時、なみなみとオレンジジュースが注がれたグラスを持って片桐が俺の前に座った。そして、じいっと俺を見ている。


「楓が言うには、付き合っているならまだしも別れたのにそれはマズいって。どうマズいのって聞いたら、相模原君は何も言わないのって逆に聞かれた。何も言わないよって言ったら、一度、話をしてみることを勧めます、なんて真顔で言って来るものだからさ」


 で、相模原君はこれについてどう思う? そう問い掛けて、片桐は一気にグラスの半分くらいまでをゴクゴクと飲んだ。そして満足そうにグラスをテーブルに置き、俺の回答を罪の無い笑顔で待っている。


 何がおかしくて何が普通かなど、誰にも分かりはしないだろう。判断基準は人によって異なるし価値観も違う。たとえ常識と呼ばれるものですら、それが全ての人間に適用されるかと聞かれれば明確に答えることは出来ない。少なくとも俺は。


 だが、今の状況は何処かおかしいような気がする。ガラスのテーブルの上には所狭しと数々の料理が並べられ、俺はコーヒー、片桐はオレンジジュースを手に寛いでいる。俺の誕生日を祝う為、ということで片桐が大きなマカロニの入ったグラタンやら、ツナとコーンとアスパラのサラダやら、目玉焼きの載ったハンバーグやらを学校から帰って早々に作ってくれたのだが。


 今日、学校が終わった後に俺と片桐は真っ直ぐここに来た。そして片桐が料理をし、俺の誕生日を祝う。寛ぐ。橘さんの家で。しかし橘さんは居ない。確かに橘さんは自分が居なくてもここに来て構わないと丁寧にも鍵を貸してくれはした。だが。


 俺は改めて料理の並んだテーブルの上を眺める。やはり、何かおかしい気がしてならない。


「グラタン、おいしく出来たよ?」


 食べないの? と言わんばかりに、片桐はマカロニに銀色のフォークをプスリと刺しながら俺に問う。


「うん、うまい」


 俺がそう言うと片桐はにこにこと笑った。ホワイトソースまで手作りという、チーズたっぷりで程良く表面に焦げ目が付いたグラタンを食べると、思わず素直な感想が洩れた。確かに、うまい。ハンバーグやサラダも美味だ。けれど。


「この状況は違和感あるよな」


「違和感?」


「ここは橘さんの家なのに橘さんが居ない間に上がり込んで、しかもこんな寛いでさ。おかしいだろ、これ」


「でも、私はいつもこんな感じだけど。芳久だって相模原君が来て良いと思ったから鍵を渡したんでしょ?」


 その、まるで何がおかしいの? と言うかのような口調に俺がおかしいのかと錯覚させられてしまいそうになる。


 いや、この際、何がおかしいとかおかしく無いとかは関係無いとしておくことにしよう。とにかく今現在、俺が覚えている違和感へ焦点を当てることに努める。そして、初めに片桐が言った質問について。とは思うものの、結論めいたものは既に俺の中で形を取りつつあった。俺には、片桐から奪う権利など無い。片桐が安心して眠ることの出来る、この場所を。俺がそれに代わるものを与えることが出来るなら、まだ許されるのかもしれないが。生憎、一介の高校生にそんな力は備わっていない。


「片桐が、ここに来たいと思うなら。それならそれで良いと思う」


「そう?」


「けど、気になる」


「何が?」


「片桐がここに来ているということが」


「ん?」


 軽く首を傾げた片桐。自分でも的を射ない言い方をしている自覚があるので、片桐のそれは不思議では無かった。


 しかしどう伝えるべきか悩んでいた所、前触れも無く片桐が納得顔で、


「分かった!」


 と、心なしか目を輝かせて言ったので、瞬間、ドキリと緊張が走った。


「もしかしなくとも、相模原君が気にしているのは男女のそれ?」


 そんな無邪気に口にされても対応に困る。


「それなら問題無いよ、何も無いから。寝る部屋は別だし、芳久は帰りが遅い日の方が圧倒的に多いから私が一人の時間だらけだし。それに、毎日ここに来ているわけじゃないし」


「仕事、忙しいのかな」


「あんまり詳しく聞いたこと無いけど、多分。船がどうのこうのとか言ってた気がするから貿易関係かも?」


 その時、俺は橘さんの職業よりも気になったことがあった。


「じゃあ片桐って、一人でここに居ることもあるのか?」


「ていうか、ほぼ一人。泊まって朝早くに起きると芳久が居ることが多いけど、泊まった日は大抵、起きるのがお昼とか夕方だし。土曜日とか日曜日なら、夕方でも居るかな。夜は居ないことが多いよ」


 説明口調で淡々と述べる片桐。そこからは何の感情も読み取れ無かった。


 ただ、俺の頭の中には映像が浮かんだ。夜にホットミルクを作り、そこに少しの砂糖を溶かして。アロマキャンドルとポプリから生まれるラベンダーの香りに包まれ、オルゴールのメロディーに包まれ、一人で眠りに手を伸ばす片桐が。


「そんなわけなので、安心して頂いて大丈夫ですよ」


 そう言って、相変わらず流麗な仕草でグラタンやサラダを食べて行く片桐。そこには何の淀みも無いように思えた。


「ああ、楓が言ってたのはそういうことだったのかな。何となく分かったような気がする。ごめんね、配慮不足だったかもしれない」


 しかし突然、カチリとフォークを置き、片桐が真剣な瞳で俺を見た。思わず俺はカップをソーサーに置き、そんなことは無いと片桐の言葉に否定を返した。あまりにも片桐の様子が真摯だった為に、どこか焦燥感すら覚えたほどだ。


「ごめん」


「いや、謝らなくて良いよ」


「相模原君が嫌なら、もうここへは来ない」


 言い切る片桐の声は静かで、とても落ち着いていた。俺を責める響きなどかけらも持たず、不愉快そうな響きも無かった。


 正直、俺は返答を迷った。確かに気になることは事実だ。片桐が橘さんの家に行っている、そして時々は泊まっているということは。しかし、ここで平穏を手にしている片桐が居ることも事実。それを取り上げる権利など俺には無い。


 複雑な心境だった。本当に。するとそれを察したのか、俺を見つめる片桐の瞳に困惑が滲み、揺れた。そして伏せられる。


「やっぱり無神経だったかな」


「そんなこと無いよ、気にしなくて良いし落ち込むことじゃない。片桐がそうしたいなら、それで良いんだ」


 それは俺の真実だった。


「じゃあ、せめて回数を減らそうかな……」


「その辺は任すよ。俺はさっきの話を聞いて事情は分かったから」


「あ、男女の?」


「そんなところ」


 上げられた片桐の目には困惑が浮かんだままだったが、少しだけ安心したようにも見えた。


 ――その後、料理の全てを綺麗に食べ終えた俺達は少しの間、話をした。それは高校のことだったり、好きな食べ物のことだったり、鉱石についてだったり。


 俺が橘さんの家を後にする頃、時間は夜の九時に届こうとしていた。見送ってくれた片桐は笑顔で手を振ってくれ、俺はそれに喜びよりも安堵感を強く覚えて手を振り返した。


 帰り道、星の綺麗な夜だった。メレダイヤのように小さな白い光をチカチカと放つ星々と、冴え冴えと太陽光に似た光を放つ半月が、ただ静かに物言わず、行く道を照らした。


 夜の街並みに足音が響く。街路灯に照らし出された、駅前近くに僅かに植えられている桜の木は少しばかりの花を残し、その枝々のほとんどを緑の葉で埋め尽くしていた。毎年、桜の花は散ることが早いなということを思わせられる。


 歩いている人はまばらだ。踏切を渡り、夜独特のしっとりとした雰囲気の中を歩いていると、何度も目にして来た片桐の笑顔と数回だけ目にした涙が、幾重にも重なる花びらのようにして、ふと心の奥にひらりひらりと咲いて行くのを感じた。その感覚は、ひどく不思議な感覚だった。どう言えば良いのだろう。今まで一度たりとも感じたことの無いそれに、俺は言い表し難い感情と言うか感覚と言うか……何かを掴み掛けては突き放されるような、困惑や戸惑いのようなものを確かに内側に覚えていた。それは、あの時に見た、水晶の中でちりちりと揺らめき燃えていた赤と橙の混ざり合った火のようで。そして緩く、鈍く、しかし確実に息づき俺の内を焦がしていた。


 穏やかな夜の空気とは相反する、何処か落ち着かない、そわそわとした心を抱えて俺は帰路を歩いた。一歩一歩、足を進め、やがて家が見える頃、俺はその炎の正体を掴んだ。ああ、片桐だ、と。ゆらゆらと掴みどころの無い姿で、明るく、暗く、小さく、大きく揺れる炎は片桐だった。


 夜気を含んだ春の暖かい風が空気を動かし、通り抜けて行く。そこには微かに木々の香りも包み込まれていた。


 ――俺が高校生では無く、大学生だったら。大学生では無く、社会人だったら。俺は、もっと実質的なことを片桐にしてやれるのだろうか。


 今日も片桐は、あの部屋で眠るのだろう。キャンドルを灯し、穏やかなラベンダーの香りにくるまれて。もしかしたらホットミルクを飲むかもしれない、オルゴールの螺子を回すかもしれない。


 胸がキシリと音を立て、痛んだ。

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