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第三章【目撃と訪問】

 片桐の誕生日を祝ってから後、残りの冬休みは特に何事も無く淡々とした日常として過ぎて行った。別に、そこに不満は無い。ただ、感動も無い。


 振り返ってみると、片桐の誕生日、クリスマスは意外に楽しかった。少しだけ積もった雪で若干歩きづらくはあったが、当日に片桐が喜んでいるのを見ると、まあ良いかという気分になった。食事も旨かったし、ケーキと紅茶のセットは無料だったし、カラオケも買い物も楽しかった。


 ぼんやりと窓から外を眺めつつ思い返していると、やがてコーヒーメーカーが静かになり、気付けばダイニングに香ばしい香りが広がっていた。


 俺はコーヒーが好きだが、種類とか淹れ方とかには全然詳しく無い。自販機やコンビニでは缶コーヒーの無糖か微糖、家ではインスタントを良く飲む、その程度だ。


 叔父がコーヒー好きなので影響されたのかもしれない。しかし、その叔父もコーヒーメーカーを使うことはほとんど無く、安いインスタントばかりを愛飲している。おかげで俺が初めてコーヒーメーカーを使おうとした先日、それには目に見えるほどにホコリが積もっていた。哀れである。


 片桐からコーヒー豆を貰い、生まれて初めて俺はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れてみたわけだが、それはインスタントの味や香りとは雲泥の差でひどく驚いた。コーヒーはこんなにうまいものだったのかと、衝撃を受けたほどだ。今までただ何となく飲んでいたコーヒーだったが、こんなにしっかりとした味を知ってしまうと、缶コーヒーの味が存在ごと薄れてしまう予感がした。現に俺の脳味噌の中では、今までの缶コーヒーの味と、このエスプレッソの味が別の記憶部屋に収まっている。


「こういう味は店でしか味わえないんだと思っていたんだよな」


 と、先日には独り言が生まれてしまったくらいに俺は驚いたのだ。驚きすぎだろうか。


 しかし長い人生、感動は多い方が良い。と、俺は思っている。それで無くとも日常という現実は淡々と過ぎて行くのだ。スパイスはあった方が良い。


 ――この緩やかな日々は学生の内だけかもしれないが。


 適度に暖房の効いたダイニングルームで熱いコーヒーを飲むと、体と心の芯がゆっくりと温まって行った。






  冬休みの最終日。片桐から貰ったコーヒー豆は、まだ半分以上残っていた。


 年末は、例年のように紅白歌合戦を観ながら年越し蕎麦を食べた。正月には、おせち料理、雑煮を食べた。気のせいか体が少し重い……気がする。気のせいかもしれないが。餅は意外に体内に蓄積されるようだ。


 そして冬休み明け、だるく重たい体を引き摺るようにして登校した新学期初日。また面倒で単調な、連続した学校生活かと思うと本当にだるい。教師もクラスメイトの顔も見飽きてしまった。みんな、お面でも着けてくれば良いのに。変化があって新鮮で楽しいと思う。俺は着けないが。などと勝手なことを考えつつ、俺は始業式をやり過ごした。


 新学期初日から通常通りの授業が始まるということで、今日から早速、時間割通りの授業である。だるい。眠い。帰宅希望。救いは、五、六時限目が音楽だったことだろうか。しかし、逆に脳味噌のフワフワ感に拍車を掛けたような気がしないでも無い。


 だるだる感の漂う一日がようやく終わり、さあ真っ直ぐ帰宅するぞと軽く意気込んで俺が鞄を手にしたところで、


「あ、相模原」


 と、担任教師に呼び止められた。


 俺の帰宅を邪魔するからにはそれなりの用事なんだろうな、つまらない用だったらどうしてくれよう、いや、どうにも出来ない。


 という心情など露ほども出さず、


「はい、何ですか」


 と、俺は尋ねた。


「明日の漢文、自習なんだ。悪いが、今からプリントを取りに来てくれ。で、明日の四時限目に配ってくれるか」


「はい、分かりました」


 心とは真逆の返答をし、俺は担任に付いて廊下を歩いた。


 実は俺は学級委員という非常につまらないものをやっている。高二の一学期、誰も立候補者がいなかったので沈黙が流れる教室内において、こともあろうに俺を推薦した奴がいた。同じ中学校だった友人、響野ひびきのの高らかな推薦によって、俺は学級委員になってしまったのだ。一年間通じての。学級委員なんて結局はパシリみたいなものだ。面倒この上無い。


 ――先日、響野は「高校生の時の恋愛は高校生の時にしか出来ない」という当たり前のことを、ひどくもっともらしく俺に語った。


 何が言いたいのか良く分からないが、響野は恋愛願望があるということだろうか。高校生という今において。対する俺は、別に恋愛がしたいとは思わない。恋愛がしたくないわけでも無いが。つまり、あまり興味が無いのかもしれない。


 今日、


「そういえば、あの子と仲良くなった?」


「片桐のことか?」


「そうそう」


「別に仲悪くは無いけど」


 という会話を響野とした。


 どうも、アイツは俺と片桐が付き合う一歩手前だと思っているらしい。勘違いも甚だしい。そういえば、俺と片桐って何だろう。友人だろうな、多分。そんなことは考えなくとも分かることだ。響野がうるさいから余計な思考が生まれてしまった、それだけだ。


「じゃあ、これ。新学期早々に自習で悪いが、よろしくな」


 担任教師から渡されたプリントは数十枚でワンセットになっていて、それが人数分、つまり三十六部もある。厚さも重さもある。後者は、大したことは無いが。どのみち教室に戻るのなら鞄を置いて来れば良かった。仕方無い、鞄を横に持って、その上にプリントを積むか。本当に面倒だな。そう思いながら持ち運びやすいように鞄とプリントを抱え直し、踵を返したところで、視界に片桐の姿があった。考えてみたら俺と片桐は学年が違うせいか、校内ですれ違ったことは無いかもしれない。だから、帰る時以外で片桐を見かけるのは珍しいな、そう思いつつ職員室の出口に向かって歩いていた時だった。


「ふざけるな!」


 怒号が響き、それは俺の足を止めさせた。


 声の大きさに驚いたからというのもある。しかし、それよりも、怒鳴り声は片桐のいた方から聞こえてきたからという理由が大きい。


 気付けば、職員室中がシンとしてしまっていた。片桐と、その向かいにいる教師に視線が集まっている。


「ふざけるな、って馬鹿にするなという意味でしょうか。私は、そんなつもりは無いのですが」


「なら、どういうつもりだ!」


 冷たい水のように静かな片桐の声と相反するように、男性教師の声は燃え盛る火のようだった。


「どういうつもりと言いましても……先程に申し上げた言葉通りの意味なのですが」


「生徒が教師にあんな言い方をして良いと思っているのか?」


「では、教師ならば生徒に何を言っても良いとでも?」


「片桐、お前のその言い方がだな……!」


 二人の会話の応酬が始まってしまったところで、


「まあまあ柳田やなぎだ先生、片桐も。どうしたんですか」


 と、俺のクラスの担任であり学年主任でもある城井しろいが止めに入った。


「ああ、城井先生」


 柳田は城井の声に顔を上げたものの、そこから先を紡ごうとしない。片桐も黙ったままだ。


「一体、どうされたんですか」


 城井が重ねて尋ねると、意外にも口を開いたのは片桐の方だった。


「何ということはありません。柳田先生が発した言葉に私が言葉を返し、会話というものが生まれただけです」


「そう……か? 柳田先生、何か問題があったのでは?」


「問題というか……その、片桐の言い方がですね、生徒として相応しく無かったもので注意をしたんですが」


 しばし沈黙が流れた。


「そう仰るのでしたら私も申し上げます。あなたの言い方は教師として相応しくありません」


 と、沈黙は片桐の静かな声によって破られた。


「片桐! 大体お前は普段から人を馬鹿にしたような態度で、一度きちんと注意をしようと思っていたんだ。どうしてそういう物の言い方をする?」


「最後の問いは、そのままお返し致します」


「片桐!」


「柳田先生、落ち着いて下さい。片桐もやめなさい」


 城井が間に入ったものの、収拾は付かないままだ。


 その場を動けず、片桐たちから視線を外せなかった俺は、自分でも意外な行動に出た。


 俺が両手を離すと、勿論抱えていたプリントの山は鞄ごと一気に床に落ちる。そして、ドサドサドサッという大きな音がして、職員室にいる人間の注意も視線も俺に向く。


 案の定、片桐たち三人も俺を見ていた。


「あ、すいません」


 と、心にも無いことを言いつつ、俺はスタスタと三人に歩み寄った。


「差し出がましいようですが皆さん少し興奮していらっしゃるように思います。この場は収めて頂いて、その上で何かあるようでしたらまた後日、ということにしてはいかがでしょうか」


 灰色のスウィブルチェアに座っている柳田が、ポカンとした顔で俺を見た。


「あ、僕は二年一組の相模原です」


 すると城井が我に返ったように、


「そ、そうだな。柳田先生、私で良かったらお話を聞かせて頂けますか? 片桐にはまた別の日にでも、改めて話をする場を設けるなりした方がよろしいかと」


「あー……そうですな」


「じゃあ片桐、今日のところは帰りなさい」


「……はい」


 城井の言葉に返事をした片桐の表情からは、何も読み取れなかった。そして片桐は俺の横をすり抜けて、職員室の出入り口へと歩いて行く。


「それでは、失礼致します」


 と、俺は教師二人に頭を下げ、片桐の後を追った。


 片桐は、さっき俺が落としたプリントの束を拾い集めていた。その表情は見えない。俺も無言でプリントを集める。職員室内は静寂が押し包んでいて、何とも重苦しい空気である。


 パサリ、と目の前に差し出されたプリントの束。片桐は無言だった。


「ああ、ありがとう」


 俺がそれを受け取ると素早く立ち上がり、片桐は出入り口へと歩き出す。慌てて俺はプリントを揃えて鞄ごと横抱きにし、早足にて職員室を後にした。


 片桐の様子も気になるが、正直、俺達がいなくなった後の職員室の様子も気になる。俺にしては珍しく大胆なことをしたものだ。後悔はしていないが。それどころか、もっとスマートな方法は無かったものかと頭の片隅で今、考えている。つまり、あの場で何かをすることは俺の中で決定事項だったのだ。あのまま立ち去るということは選択肢に無かった。


 ――俺の前方を行く片桐の歩くペースは、いつになく速かった。


「おい、片桐」


 振り向く気配ゼロ。肩を掴むにも俺の両手はプリントと鞄で塞がっている。


「片桐! これ置いて来るからさ、そしたら……えーと、レモネード奢ってやるよ。だから正門で待ってると良い……かも」


 うまい言葉が思い付かず、しかし早歩きに進んで行く片桐を止めたくて、何とか言った言葉がそれである。俺は、もう少しボキャブラリーを増やした方が良いだろうかと軽く悩んだ。しかし、振り向きはしないものの片桐はピタリと立ち止まった。まるで床に縫い留められたかのごとく。レモネードは有効だっただろうか。


 だが、片桐はいつまでも振り向かず話さずのままだったので、


「えーと、レモネード。好きだよな」


 と、俺は更に「レモネード」という単語を重ねてみる。


 すると、小さく頷く片桐が見えた。


 ――良かった。その時、俺は何とも言い難い安堵感を味わった。


「じゃあ、正門で待っててくれ。プリント置いたら行くから」


 またも片桐は小さく頷いた。


「ん、後でな」


 振り向かず黙りこくったままの片桐が気掛かりだったが、とにかくこのプリントを教室に置いて来ない限りは帰れない。まったくタイミングの悪い担任だよ。急いで教室へ向かいながらそう思ったが、しかし担任が俺を呼び止め無かったら俺は速攻で帰宅していたわけで。そうすると、さっきの場面には遭遇しなかったことになる。ということは、担任のタイミングは良かったのか?


 物事ってのは何事もタイミング勝負だと思う。勿論、努力とか運とか環境とか、そういう色々な要素が絡み合って事は起こるわけだが、タイミングが悪いと流れが塞き止められてうまく行かない気がする。今だ、という瞬間を見極めるのは難しい。それだけに、その瞬間を見極められた時というのは大きな成功を掴めるように思う。また、成功云々関係無く、タイミングというものは不意に訪れる。まるでそうなることが必然であったかのように。


「悪い、待ったか」


「ううん」


 まるで、さっきのように。隣を歩く片桐は無言のままだった。その視線は自分のつま先辺りを見つめていて、顔が下向き加減で。表情は俺には見えない。肩の辺りでサラサラと揺れる黒髪が視界に入るだけだ。


 事の顛末てんまつを聞こうかどうか、俺は少し悩んでいた。言いたくないことを無理に言わせるのは気が引けるし、職員室にいた時から今までの様子を見ていると、気軽に尋ねて良いことだとは思えなかった。何より、話を聞いてほしいと片桐自身が思っているかが分からない。沈黙を続け視線を合わせないのは、つまりそういうことではないかと思う。構われたくない、と。


 だが、本当に構われたくないのなら、一人でサッサと帰ったはずだ。それとは反対の気持ちが少しでもあったから――だから片桐は今、ここにこうしているのではないだろうか。


 まさか、レモネードにつられたからだけとは思えない。が、否定も出来ない。どうするべきか思案しつつ、俺は何となくだが一つの仮説を立てていた。というのも、片桐と言い合っていた柳田という教師は、俺が一年生の時に英語を担当していて、あまり良い噂を聞かない教師だったのだ。他の生徒同様、俺も好きになれない教師ではあったが、俺は教師というものに大して期待をしていないので周囲よりは冷めた目で柳田を見ていた。


 しかし、大して期待をしていない俺からしても、教師として授業をする気があるのか? と思わせるようなことが多く、辟易していた。五十分授業の内の半分近く、つまり全体の中で合わせると二十五分近くが授業とは無関係な話に費やされるのだ。それも、ほとんど毎回。授業料返せと時々、俺は思っていた。払っているのは俺では無いが。その、授業とは無関係な話が雑学とか万人受けしそうな面白い話ならばまだ良かったのだが、九十八パーセントが家族自慢という始末。娘が誕生日にネクタイを贈ってくれたとか、奥さんが作ってくれたパスタがうまかったとか、そういう話から始まり、家族は何物にも代え難い大切なものだからとか、家族との会話は大切にしなくてはならないとか。このような結論で締めることが大半だった。


 世の中には正論というものがある。世間一般的に見て、正しいとされる意見。そんなものは吐いて捨てるほどにある。ただ、それが全ての人間に当てはまるなんてことは有り得ない。価値観も環境もバラバラな多様な人間に、一つの意見がピッタリと綺麗に重なることは無い。そういう点を踏まえて考えると柳田は最悪と言っても過言では無く、家族自慢だけならまだしも、その自分の価値観や考え方を他者に押し付ける態度は敬遠されて当然のように思えた。


「あーあ」


 公共のバス停を過ぎたところで、片桐が溜め息をついた。


「瞬間的にリセットを発動させることが出来なかったよ。まだまだ子供だよね、私」


「子供だろ? 十六歳になったばかりじゃないか。それを言うなら柳田は三十六だぞ。大人として、あの対応はどうかと思う」


 不意に視線を感じて俺が目線を下げると、カチリと片桐と目が合った。


「柳田先生情報に詳しいね」


「俺が一年の時の英語担当だったからな。良くは思われてなかったけど」


「そっか、変わってないんだ」


「そういうことだな」


 再び、片桐が下を向いた。


「咄嗟にリセットを発動するのはやっぱり難しいなー。なかなか習慣にならない」


「そういえば以前に言ってたよな。嫌なことはリセットして忘れるようにしてるって」


「大正解!」


「さっき、嫌なことあったのか?」


 割と自然に尋ねることが出来たような気がする。俺は事の顛末を聞きたいという心情が、ただの興味本位から生じているのか片桐への心配からかなのか、明確には分からなかった。しかし、片桐が理由も無く教師に対してあのような態度を取るとは信じ難い。俺は、それが知りたかった。


「プリントをね、持って行ったのですよ」


「うん」


「サッサカ渡してサッサカ帰ろうと思っていたのに、呼び止められて」


「うん」


「片桐はお父さんが好きか? と」


 どうも、俺の予想が当たりそうな感じがする。


「で、とりあえず黙っておいたらですね。反抗期かもしれないがお父さんと仲良くしないとダメだぞ、と」


 お母さんは良いのだろうか?


「更に黙っていたら、家族っていうものは世界に一つしか無い、かけがえの無いものなんだ、だから大切にしないと、と」


 柳田の言いそうなことだな。


「それで、何て反論したんだ?」


「ご自身がお幸せなのは結構ですが、そのような軽率かつ不躾な言葉を他者に告げることはお控えにならないと人格を疑われますよ、と」


「うわ、言い過ぎ」


 俺は正直、凄く驚いた。まさか片桐がそこまで言ったとは予測していなかった。


 しかし当の本人は、


「言い過ぎかな?」


 と、激しく疑問に思っているような顔と口調で俺を見上げた。


「それは言い過ぎだろ、いくら何でも。せめてもっとこう、オブラートに包んで言うとか」


「でも、私だってあんなこと言われなければ言わなかった言葉だよ。言い過ぎはあっちじゃないの?」


 若干、不満そうに片桐は言った。


「確かに事の発端と原因は柳田にあるとは思うんだが……」


「ま、私が大人になりきれなかった愚かな子供というわけなのです」


「いや、何もそこまで」


「来年の英語は違う先生になると良い。じゃないと、英語の成績が下がりそうだよ」


 ()き道にあった小さな石を軽く蹴飛ばし、片桐はポツンと落とすように言った。俺は何だか居た堪れなくなり何かを言おうとしたが、


「ま、こんなにちっぽけなことを気にしていても始まらない終わらない状態なので、やめます。リセットします」


 と、綺麗サッパリな口調で片桐が言ったので、そのタイミングを逃してしまった。


「あ、リセットする前に一つお尋ねしたい事柄が。職員室でプリントをバサバサーっと落としたのって、故意と過失どっち?」


「故意」


「うわ、勇気あるんだね、相模原君」


「俺も自分で自分に驚いたよ」


 俺は、問題を起こさない・巻き込まれない・騒がない、をモットーとしている節がある、ような気がする。いわゆる、事なかれ主義というやつかもしれない。何て言うか、面倒なんだよな。くだらないことに、いちいち腹を立てたり注意をしたりすることが。そこに何のメリットがあるのか考えずにはいられない。特に高校なんて人生におけるただの通過点に過ぎず、今後、俺が大学に進学しようが就職しようがそういう長い人生の中で振り返れば非常にちっぽけな点でしかないわけだ、高校生活というやつは。


 内申書が良ければ進学に有利。だから成績は上がるように努力して来たし、今もしている。推薦されて仕方無くとは言え、学級委員をしているのも、その為。素行に気を付けているのも、その為。


 別に、そこに不満も苦痛も無かった。逆らわず、反論せず、問題を起こさず問題に巻き込まれずにしていれば、日々は穏やかに緩やかに過ぎて行く。という、響野に言わせれば「緩い人生」とやらを送っていた俺が、まさか静寂に包まれた職員室という場所でわざとプリントの束を落として大きな音を立てた上、教師二人と生徒一人の間に入って仲介役を務めてしまうとは。


 他の誰でも無い、俺が俺に驚いたよ、本当に。


 しかし、片桐が柳田に言ったらしい言葉にも驚いた。確かに片桐はちょっと変わった奴かもしれないが、そこまでの発言を教師に向かって、しかも職員室でするとは。そういえばあの時、職員室にいた教師らの視線のほとんどが片桐達に向けられていたというのに、片桐は周りを全然気にしていない風だったな。肝が据わっているのかな。


「あ、レモネードをごちそうしてくれるんだよね?」


「ごちそうってほどでも無いけどな」


 駅前のコンビニが見えたところで、片桐が弾むような声で言った。いつもの通りに俺の分は缶コーヒーを買おうとしたが、何となく俺もレモネードを選んだ。


「あら、お揃い!」


「どんな味なのか気になってな」


 駅のベンチに座って、俺は生まれて初めてレモネードとやらを飲んでみた。


「甘い……」


「蜂蜜入りだもんね。でも、そんなに甘い?」


「普段、あんまり甘いものは飲まないから。でも、たまには良いかもな」


「私は毎日飲みたいです、レモネード。炭酸で割っても素敵なおいしさです」


 そう言い、大切そうにレモネードを飲む片桐。


 ――やがて電車がホームへと走り込んで来て、俺が立ち上がると何故か片桐も続いて立ち上がった。


「あれ、片桐はあっちだろ?」


「今日は、こっちなの」


 疑問に思う俺を追い越し、片桐は先に電車へ乗り込んで手招きした。


 ガラガラに空いた車内の座席に座り、俺は残りのレモネードを飲んだ。片桐はと言えば、携帯を片手にカチカチと忙しなく指先を動かしている。打ち終わったのか、片桐は脇に置いていたレモネードを手に取り、キュルリとキャップを開けるとおいしそうに飲んだ。


「幸せすぎる。ありがとね、相模原君」


「いや、そんな大したことじゃないし」


「大したことですよ! 大切なマネーを自分以外の人に遣うのですから」


「そういえばクリスマスの時に言ってたけどさ、なんか俺のことをお金大好き人間とか思ってない?」


「ん?」


「そう言ってただろ、あの日」


 片桐は罪の無い笑顔を見せ、


「何となくですよ、何となく」


 と、言った。


「何となくか」


 俺は、何となくお金大好きに見えるということだろうか。それは凄まじく嫌だな。


「ま、みんなお金は大好きなんだから、気にしない気にしない」


「いや、俺は金が大好きだと一言も言った覚えは無いぞ」


 そういう特に意味の無い会話をダラダラと続けている内に、俺の最寄り駅に到着した。


「あ、私も降りる」


 片桐は俺にくっ付いて来るようにして、電車から軽やかに降りた。


「じゃあ、私は乗り換えるからここでバイバイです」


「ああ、またな」


 ヒラヒラと舞う蝶のように片手を振り、片桐は階段を素早く駆け上がって行った。


 レモネード効果なのか、片桐自身のリセット効果なのか分からないが、どうやら少しは浮上したみたいだった。俺は安堵感を覚えつつ、改札を通って帰路を辿った。


 電車内で話している時は明るい声と表情だったし、別れ際に手を振って見せた時も片桐はニコニコ笑っていた。だから、俺は安堵したんだ。


 ――まさかその後、片桐が六日間も学校を休むとは思わなかった。






「なあ。そういえば最近、あの子が来ないよな」


 響野は機会を見付けては俺と片桐のことを尋ねて来る。悪いが、ちょっと鬱陶しい。


「あの子?」


 分かってはいつつも、俺はわざと空とぼけてみた。


「ほら、良く廊下でお前を待ってる子だよ。肩辺りまで髪を伸ばしてる」


「髪の長さまで覚えてるのか」


「だって結構頻繁に来てるし。でも、ここのところ見ないよな。どうしたんだろ」


「忙しいんじゃないの」


 素っ気無く言った俺だったが、実は俺も響野同様に気になっていた。


 毎日とは言わないが、割とちょくちょく片桐は教室までやって来ていた。二日連続して来る時もあったし、一日置きの時もあった。連続して五日間来なかったことは今までに無い。そこまで考えて、俺は片桐が来ない日数を数えていたことに気が付いた。


「冬休み明けだし、体調崩したのかな」


 響野が、やや心配そうに言った。


「随分、気にするんだな」


「え、サガミは気にならないのか? としたら、お前の中に流れている血は凍っているに違い無いな」


 凍っていたら血は流れないがな、と冷静に俺は心の中でツッコミながら、確かに片桐は急に姿を見せなくなったなと思った。


 俺と片桐は時々、帰り道を共に歩いてはいるものの、毎日一緒に帰ろうね、などという約束をしているわけでは無い。帰りのホームルームや小テストが終わった後、俺が帰り支度をして廊下に出ると、教室の後ろ扉を開けた真正面の壁に寄り掛かっている片桐がいる。それだけだ。だから、そこに片桐がいなければ、それはそれとして俺はいつもの通りに一人で帰途に就く。


「お前、メールとかしないの?」


「誰と?」


「時々、教室前でお前を待っているあの子とに決まってるだろ。そういえば、名前何て言うんだ?」


「片桐綾」


 なるほど、片桐さんか、と響野は頷いている。


「で、片桐さんとメールしないのか?」


「用が無ければ特に」


 俺の回答が不満だったのか、響野は大仰に溜め息をついて見せた。


「ダメだ、冷酷人間だ。人間冷凍庫だ」


 そんなコメントを貰っても全然嬉しくない。


 これ以上、響野に付き合っていても発展性の無い会話が続くだけになりそうだったので、俺は鞄を持って立ち上がった。


「あれ、会話終了?」


「終了です」


 すると、これだけは言わせてくれと口早に前置きして、


「心配ならメールの一通でも送った方が良いぞ。友人としてでも、体調とかを気遣ってメールするのは全然不自然じゃないからな」


 と、何故か「友人としてでも」を強調して響野は言った。


「アドバイスありがとう」


「棒読みで言われてもな」


 不服そうな響野を残し、俺は教室を出た。


 昇降口に向かいながら、響野は教室に何の用があるのだろうと、ふと考えた。明日は第二土曜日で休日、つまり、その翌日と合わせて二連休になるというのに。ちなみに俺は素早く帰宅するつもりだったのだが、響野に捕まっていたというわけである。


「あ、相模原」


 廊下の向こう側から声をかけてきたのは、担任の城井。面倒なことになった、と俺は咄嗟に思ってしまった。教師が話し掛けて来る場合、何か頼み事をしてくるケースが九割だからである。


「お前、一年の片桐とは親しいのか?」


 片桐の名前が挙がるとは予想していなかったので、俺は少し驚いた。


「友人ですが」


 多分。


「片桐と連絡は付けられるか?」


「と、言いますと?」


 スパリと用件を先に言って貰いたいものだ。その方が余計な手間が省けるし合理的で良い。


「先週の金曜日、職員室で片桐が柳田先生とぶつかっていただろう。あれから学校を休んでいるみたいなんだよ。土曜日の朝は体調不良で休むと連絡が来たんだが、それからは連絡無く欠席しているらしくてな。片桐のクラス担任が心配しているんだ」


 一度言葉を切り、頭に片手をやってから、また城井は話し始めた。


「で、それを知った柳田先生が気にしているらしくてな。それに、担任が何回か電話をしているらしいんだが誰も出ないそうだ」


「家の人もですか?」


「そうだ」


 ザワリ、と心に小さな音が生まれた。


「担任はクラスの女子に何か知らないか聞いてみたようだが、誰も何も聞いていないということで、ますます心配になったらしい。欠席の連絡が無いから余計だろうな。それで、あの時お前がいたことを思い出して、もしかしたら片桐と親しいのかもと思ってな」


 再び、城井は言葉を切った。その間に俺は何か言うべきなような気がしたのだが、何も思い付かなかった。


「もし、片桐と連絡が取れるならお願い出来ないかと思ったんだが」


「あ、はい。連絡してみます」


 ほとんど反射的に、俺はそう答えていた。


「そうか、助かるよ。連絡付いたら教えてくれ」


 ホッとした様子で言い、城井は職員室方向へと歩き去って行った。逆に俺は嫌な緊張感に包まれた。


 片桐が六日間の欠席。その内、五日間は無断欠席。そして、家に電話しても誰も出ないという。これらが示すものは何だ?


 まさか、自宅で倒れているとかじゃないだろうな。その様子を思わず脳裏に描いてしまい、底冷えした何かが俺のつま先から頭のてっぺんまで瞬時に走り抜けて行ったのを感じた。二連休に浮かれていた気分は何処へやら、俺はさっきまでとは違う理由で足早に昇降口を目指した。そして正門を出てから、だんだんと歩くスピードが速くなって行った。


 スタスタと歩いて行った先で、タイミング良く公共のバス停にバスが停車していた。俺にしては非常に珍しく、迷わずバスに乗り込んだ。


 一応、バス内を見渡してから、俺は携帯電話を取り出して開いた。開閉ロックを解除する時間も惜しみつつ、新規メール画面を立ち上げる。




 -----------------------------


 To:片桐綾


 Sub:体調


 Text:学校休んでるって聞いたんだけど、体調悪いのか?


 -----------------------------




 片桐にメールを送信し、俺は携帯を閉じた。


 落ち着かない気分のまま帰宅し、夕食を食べて部屋に戻ると、片桐からメールの返事が来た。夜十時過ぎだった。




 -----------------------------


 From:片桐綾


 Sub:メールありがとう


 Text:こんばんはー!体調はそんなに悪くないんだけど、なんだか行く気がしなくて休んだんだ。心配かけちゃってごめんね。


 -----------------------------




 文面的には、おかしなところは無い。いつもの片桐のような気がした。それでも俺は何かが引っ掛かっている。




 ------------------------------


 To:片桐綾


 Sub:月曜


 Text:担任とかも心配していた。月曜日は来る?


 ------------------------------




 俺の返信から五分後。携帯電話が音と光でメールの着信を知らせる。




 -----------------------------


 From:片桐綾


 Sub:Re:月曜


 Text:どうしようかな…なんだか面倒になっちゃったんだよね。考え中。


 -----------------------------




 俺はどう返信するか迷った。やはり先日のことが原因なのだろうか。リセットするとは言っていたが、うまくリセット出来なかったのかもしれない。人間は意識だけではどうにもならないこともある。片桐が落ち込んでいたとしても、それは不思議なことでは無かった。




 -----------------------------


 To:片桐綾


 Sub:提案


 Text:今、時間があって体調が落ち着いていたら、電話しないか。


 -----------------------------




 五分後、俺の携帯は音と光を放つ。それは電話の着信を知らせていた。


「もしもし」


「もしもしもしもし」


 俺の呼び掛けを二回繰り返した片桐。意外に、その声は明るかった。


「元気そうだな」


「まあまあ元気だよ?」


 それでどうしたの? と問いたそうに語尾を上げた片桐に、


「風邪を引いたとかじゃないのか?」


 と尋ねると、


「先週の金曜日に、ちょっと熱出たけど治ったから大丈夫」


 と、返って来た。


「いつ治った?」


「土曜日」


 治ったけれど学校に来ない。土曜日に治ったとするならば、以降、五日間休んでいることになる。これが意味するところは何だ?


「じゃあ、もう具合は良いのか?」


「そんな感じです」


 確かに片桐の声は明るいし、無理をしているような雰囲気は感じない。それなのに、俺は何故か何かが引っ掛かったままだ。それが何かと聞かれても、明確に答えることは出来ないのだが。


「月曜日はどうするんだ、学校」


「そうねー……行かないとダメだろうね」


 本当は行きたくないと、片桐は暗に告げていた。


「やっぱり、気にしてるのか。この間の」


 直球すぎるかと思ったものの、俺は聞かずにはいられなかった。けれど、それを尋ねたところで何が出来るのだろうと、片桐の言葉を待つ僅かな時間の間に俺の脳は自問していた。


「や、正直に言うとね、気にしていないつもりだったんだ。だってあんなの単なる出来事の一つで良くあることだと思ったし。ホント、全然平気のつもりだった」


 予想に反して、片桐はなめらかに話し始めた。


「でも、ダメだったみたい。なんだかグッタリしちゃって。あれぐらいで馬鹿みたいって自分でも思うし、つまんないことしてるなって分かってる。分かってるけど止まっちゃってた」


 電話口から小さな溜め息が聞こえた。


 思わず俺が口を開き掛けた時、


「あ、悪い。電話中だったんだ」


 という見知らぬ男性の声が、カチャンという扉の開くような音の後に携帯の向こう側から届いた。そして再び、カチャンという音。元の静けさを取り戻した、携帯電話の向こう側。


「あれ、今のって誰?」


「えっと……家庭教師」


 再度、訪れる静寂。


「あ、あのさ。相模原君、明後日は時間ある? 日曜日だし、どこか出掛けちゃう?」


「いや、暇」


「じゃあ、良かったらなんだけど、お見舞いに来てくれない?」


「お見舞い?」


 ついさっき、具合は良くなったと言っていたような気がするのだが。という俺の頭の中を覗いたかのように、片桐が続きの言葉を紡いだ。


「体調は良くなったんだけど、何だかぼんやりしちゃってね。相模原君と話すと楽しくなるかなって。ダメかな」


「俺は凄く楽しい話が出来るとかいうスキルは無いけど、それでも良いなら」


 自分でも意外なほどに、即答する俺がそこにいた。


「やった! ダメもとでも言ってみるものだねー!」


 ちょっとびっくりするくらい、片桐は声を弾ませて言った。そして、続く言葉の中で都内にある駅名を告げる。


「相模原君の家から遠い?」


「いや、一時間くらいで着くよ。駅から片桐の家は近いのか?」


「あー……えっと、近いよ」


 何故か、片桐は僅かに困惑を滲ませながらそう言った。そこに違和感を覚えつつも家の詳しい場所を尋ねると、


「駅に着いたら連絡くれる? そうしたら飛んで行くよ、ビュンビューン!」


「体調は?」


「こんなの仮病みたいなものだから迎えに行くくらい、モーマンタイだよ」


「そうか?」


「そうそう」


「じゃあ何時が良い?」


「お昼の十二時頃希望です」


「分かった」


 俺と片桐は日曜日の約束を取り付け、その後は少々の雑談をした。そして夜も遅いということもあって、俺達は電話を終えた。通話時間は三十七分五十九秒、時刻は夜の十一時を過ぎたところだった。


 名目としては「お見舞い」に行くわけなので、何かお見舞いの品を持って行った方が良いのだろうかと俺は携帯電話を閉じて考えた。お見舞いと言うと、立派な果物カゴとか立派な花束とかしか浮かばないのだが……何を持って行くのがベストだ? 勿論、やたらと値の張るものは無理だ。


 果物カゴって結構高いイメージがあるよなと思いつつ、とりあえず明日行く前にスーパーを見てみるかと考えて、俺は携帯をもう一度開き、乗換案内のサイトへ飛んだ。発着駅を入力しながら、ふと思い出したことがあり、俺の手はピタリと止まった。高校の帰り道、俺と片桐は別々の電車に乗る。俺の電車は上り、片桐の電車は下りだ。都内に出るには上り方面の電車に乗る必要がある。さっき、片桐は俺に都内の駅名を告げた。そこから自宅までは近いという。


 片桐の家は二つあるとでも言うのだろうか。湧き上がった疑問が消えることは無かったが、とりあえず俺は明日に備えて乗換案内サイトへの入力を進めて行った。






 翌日、俺は一応、果物カゴとやらをスーパーで見てみたのだが、何と五千二百五十円という驚きの値段が付けられていて俺は諦めた。代わりに三百九十八円の蜜柑を買い、それを片手に俺は駅へと向かった。


 日曜日の午前十時半過ぎ、電車は割と空いていた。座席の端に腰掛け、膝上に置いたスーパーの袋の中に目を落とす。蜜柑で良かったかな、と俺は微かに疑問を抱いた。


 しかしそれよりも、片桐の家は二つあるのかどうかという疑問の方が強い。いや、普段は祖父母か親戚などの家に帰っているのかもしれないし、あまり気にすることでも無いのかもしれない。だが、それ以外にも気になることはある。昨日、電話で片桐が言った、家庭教師の存在だ。


 普通に考えて、夜の十時半を過ぎても教え子の家にいる家庭教師っておかしくないだろうか? 俺が家庭教師を頼んだことが無いから知らないだけで、そういうものなのだろうか。電話中に俺が感じた違和感は続いた片桐の言葉で一瞬、消されてしまったが、電話を切って乗換案内サイトを見ていた時、片桐の家の場所についての疑問と共にそれは再び浮き上がった。


 良く分からない。それが今の正直な気持ちだ。


 しかし、とにかく今は電車に揺られて都内に向かおう。それに、明日の月曜日は学校に来るかどうかを、直接、顔を見て片桐に聞きたい。


 ――俺は、少なくとも高校では、嫌なことがあって学校を休みたくなったことは無い。というか、嫌なこと自体が無いと言った方が正しい。


 それを以前に響野に話したらひどく驚かれ、


「良いねえ、ストレスフリーの生活が出来るサガミ君は」


 と、羨望と皮肉の混じったコメントをされた。


 別にストレスフリーというわけでは無いのだが、確かにイライラするようなことはほとんど無い。その代わり感動も無い。まあ、学校生活に感動なぞを求めるのは間違いな気がするが。学校という場に期待していないから落胆も無く、怒りも生じない。時々いる一部の非常識な生徒には若干の腹立たしさを感じる場合もあるものの、面倒だから関わりたくないという気持ちの方が強く、また、ムカムカするのも阿呆らしい気がして、その場も心情もスルーしてしまう俺がそこにいる。そういう姿勢や考え方が良いか悪いかは別として、俺は満足していた。疲れなくて楽だからである。


 蜜柑の入ったスーパーの袋を抱え直し、俺は正面の流れ行く景色に目を遣り、考える。片桐は、ひどく一生懸命に毎日を送っている気がした。学校では学年が違うせいもあり、校内で見掛けることはほとんど無く、授業中の態度とかを知るわけでも無いけれど。それでも。とても真剣に学校という場に立っているように思えた。いや、学校に限らず、当たり前の日常を大切にしている。そんな気がした。以前に片桐が言っていた、「毎日を楽しく」という言葉が、それを物語っているように感じた。


 だからこそ、きっと反動がデカいんじゃないかと俺は推測する。日常と正面から向かい合っていれば、楽しいことを見逃さず、また、それを何倍にも膨らませることが出来るだろう。反面、悲しいことや腹立たしいことがあった時、それらはダイレクトに心の奥底に刺さってしまうのではないだろうか。


 ――きっと、言われたくない言葉だったに違いない。それを真正面から受け止めた片桐は、真正面から柳田に反論したのだろう。


 それにしても、柳田は本当に変わっていないな。一年も経てば多少は成長しそうなものだが。職員室という、他の教師や生徒らが多数いる場で、デリカシーに欠ける発言をする奴の頭の中は一体どうなっているのだろうか。


 やがて乗り換えの駅を知らせる無機質なアナウンスが車内に響いた。そして、乗り換え先から更に三十分ぐらいを掛けて、電車は目的地へと到達した。


 駅前から短いメールを片桐へ送ると、「ごめん、今行く!」という焦った感じの返信が届いたので、焦らなくて良いと返事をしておいた。


 俺は待つことが嫌いではない。待ち合わせ場所付近をぼんやりと眺めながら相手を待つということが、結構、楽しかったりもする。ただし、夏は除いて。


 賑やかな駅前。日曜日だからだろう、行き交う人の数は多く、待ち合わせをしているような人も多かった。ふと目に入った改札口近くのケーキ屋。ガラスケースの中に並べられた種々様々なケーキやシュークリームが目を引いた。風邪のお見舞いにはケーキの方が良いのだろうか、という思いが頭をよぎる。


 ――お見舞いと名の付くようなことは父にしたことがあるだけで、当時、中学生だった俺は見舞いの品を用意するという発想も無く、手ぶらで病室に向かっては三十分から一、二時間ぐらいの雑談をして帰るということを繰り返していた。今にして思えば、蜜柑や林檎やケーキなんかを持って行くべきだったのかもしれない。俺は、学校や塾や友人やゲームなどの他愛ない話の数々を聞いてくれた父の顔はハッキリと覚えている。当時、見舞いの品まで気の回らなかった日々の自分を悔やむと同時に、定期的に病室へと足を運んでいた自分自身と、過ごした時間に安息に似た気持ちを覚えた。


 何となく安穏とした気分になり始めた時、不意にコンコンコンという足音が辺りの賑わいを掻き分けるようにして耳に届けられ、それに導かれるようにして俺が前方を見ると片桐が転びそうな勢いでこちらに向かって走って来ているのが見えた。


「ご、ごめんね。遅くなって……」


 走って来た勢いそのままに片桐は俺に駆け寄り、息を切らしながら告げた。


「急がなくて良かったのに。大丈夫か?」


「大丈夫、大丈夫。これくらいは余裕です。ホントごめんね」


「まだ十二時少し前だし、走らなくても……」


 腕時計を見ながらそう告げた俺を、片桐は驚いたように目を丸くして見つめた。ギョ! というような擬態語が聞こえて来そうな顔だった。


「だって居間の時計は十二時過ぎてて、自分の部屋の時計は十一時四十五分くらいだったのに何これ! って思って焦って走ってここを目指して来たんだけど……」


「居間の時計、進んでるんじゃないのか」


「かもしれない」


 なーんだ、と言いたげな顔に変わった片桐は、


「これじゃ走り損だよ」


 と言って、少し照れたように笑った。


 自分のミスを誤魔化し隠すかのように照れ笑いを浮かべた後の片桐は何故かその場から動こうとせず、俺は軽く疑問に思った。


 それを見て取ったのだろう、


「あー……えーと、良い天気だね」


 と、片桐は不意に視線を逸らして言った。


 冬、一月半ば過ぎの空は白く広く。昼時、その空には薄雲の向こう側で光を放つ太陽があった。


「まあ、良い天気……かもな」


 駅前は相変わらず行き交う人々で溢れ、待ち合わせをしている様子の人も相変わらずいた。その賑やかな空間、視界の片隅で、俺は待ち人に出会って駅前を後にして行く二人組を捉えた。


「えーっと、その、ちょっとした誤算がありましてですね」


「誤算?」


 片桐は足元に敷き詰められたカラフルな石畳に視線を落とし、言いづらそうに口を開いた。


「十二時には外出すると言っていた方が予定変更されまして。午後二時頃に出掛けるみたいなんですよね、どうやら」


 俺が話が見えず黙っていると、


「なので、今、行くとバッタリ会うわけです。それがちょっと……でも仕方無いか。よし、ご案内します」


 と、一人で話を完結させた片桐は、コン、と靴音を鳴らして俺の前に立った。


 そして、コンコンと更に二歩、足を進めて振り返ったので、それに続くようにして俺も歩き出す。


「さっきの話、良く分からなかったんだけど。家に誰かいるってことが言いたかったのか?」


「ザッツライト」


「で、その人に会いたくない?」


「大正解」


 片桐はトーンの落ちた声で答えた。


「金曜日には、昼頃出掛けるって言ってたのに。一度、口にしたことは守ってほしいよ」


 半ば独り言のように言った片桐に、


「それ、誰? って聞いて良いか分からないけど」


 と、俺は核心を尋ねてみた。


「家庭教師的人物」


「家庭教師……的、人物?」


 コンコンコンという軽快な片桐の足音とは裏腹に返答する声は若干、暗さを帯びていて、そして肝心の回答は要領を得ないものだった。


「家庭教師じゃないけど勉強を見てくれている人とか?」


「惜しい。以前に家庭教師だった人です」


「今は?」


「頼めば時々見てくれるけど、私はあんまり勉強って好きじゃないから宿題で分からなかったところがあった時に聞くぐらいかな、最近は」


 舗装された道を進む片桐の足元からは、会話中もずっとコンコンコンという軽い靴音が響いていた。


 俺がつられるようにそちらを見ると、深い紫色の靴が目に入った。ヒールは低いみたいだが、どうやらそれが軽やかな音を生み出しているらしい。


「ああ憂鬱だ。あ、そういえば『ああ無情』っていう物語あるよね。フランス文学の」


「いや、初耳」


「一本のパンを盗んだことから始まるんだ。司教が銀の食器と燭台を主人公に差し出す場面が私は印象的です、凄く。また読みたくなって来た」


「読書好き?」


「かなり!」


 そう言った片桐の声は先程とは比べようも無いほどに弾んでいて、俺は何だかホッとした。理由は分からないが。


 ――駅から片桐の家までは徒歩で十分くらいだった。その間、片桐は今までに読んだ純文学やライトノベルやケータイ小説などの話をしていて、非常に楽しそうな様子だった。


 しかし、とある建物の前に立つと片桐は、ふうと溜め息をつき、


「着いたよー」


 と、とてもやる気の無い声で俺に教えてくれた。


 片桐が右手で示した目の前に建つのは、かなり立派なマンションで少しばかり驚いた。煉瓦風の建物で、見上げてみると二十階ぐらいまではありそうだった。


「ああ気鬱」


 そう呟いた後、片桐はエントランスへと進んで行き、俺も後を追った。


 入口付近に配置されたパネルを慣れた仕草で操作し、電気錠によって施錠された自動扉を解除した後にも、


「気鬱だ」


 と、片桐は小さな声でポツリと落とした。


 エレベーター内で片桐は無言だった。そして少しばかり俯き加減なその様子を見て、俺は何か言うべきのような気がしたのだが、「そんなに嫌な奴なのか?」というストレートな物言いしか頭に浮かばず、そうこうしている内にエレベーターは九階に停止した。


 エレベーターから降りて通路を右に曲がった一番奥の扉の前で片桐は立ち止まり、


「よーし!」


 という掛け声みたいなものを小さく呟いた後にドアノブに手を掛け、扉を開けた。


「ただいまー」


「おかえりー」


 それはまるで(つい)になっているかのように、同じ調子の声音だった。コンコンと軽い音を立てて靴を脱ぎながら言った片桐の言葉に対し、部屋の奥の方から穏やかな男性の声が返された。


「はい、どうぞ」


 と、片桐がスリッパを出してくれ、そこで俺は自分がぼんやりとしていたことに初めて気が付き、若干慌てて靴を脱いだ。


「お邪魔します」


「うん」


 スタスタスタとスリッパの音をさせながら片桐は廊下を歩き、奧へと向かう。僅かに気後れしながら俺も続いた。


 気後れ。というのも、玄関先からして何だか立派な雰囲気を感じてしまったことと、奥にいるらしい男性、片桐が言うところの「家庭教師的人物」がどんな人なのか気になったゆえである。


 木目が美しい廊下の先、開かれたままの扉を片桐に続いて思い切って抜けると、これまた立派な雰囲気のリビングがその姿を現した。


「初めまして」


 部屋の様子に気を取られていた俺は、その言葉でハッと我に返った。


「あ、初めまして。えーと……片桐さんと同じ高校の相模原です」


たちばなです、よろしく」


 タチバナ。ミカン科の木だ。


 そこで俺は右手に持ったビニール袋の存在を思い出し、


「あ、これお見舞い品」


 と、片桐に差し出した。


「えっ、何それ!」


 片桐はビニール袋を受け取り、中を覗き込むようにして見ると、


「蜜柑!」


 と、嬉々としてそれを取り出した。


「柑橘類、愛してるんだー! ありがとう!」


 ひゃっほう、と付け足して、片桐はリビングに置かれた存在感たっぷりの黒いソファに座り、さっそく蜜柑の包まれた網を切ろうとし始めた。手で。


 それに俺がコメントするよりも早く、


「綾、ハサミ使いな」


 と、橘さんが片桐にハサミを差し出した。


 ――瞬間、心の何処かがザワリと言った気がするのは何故だろう。何も問題は無いはずの一コマが、小さな棘のようなものを携えて俺の耳と目に飛び込んで来た。そんな気がした。


「ありがとう」


 橘さんから受け取ったハサミで赤い網を切り、蜜柑を一つ取り出す片桐。


「蜜柑、大好き」


 嬉しそうに蜜柑の皮を剥き、サクサクと中身を四つに割り、その内の一つを手に持ちながら蜜柑を食べ始めた片桐。ビーズのような極小の何かが弾けるように、蜜柑の爽やかな香りがリビングに広がって行った。


「相模原君も食べる?」


 蜜柑。そう言外に告げた片桐の言葉で俺は現実に引き戻された。どうもこの家に来てから、俺は何度か意識が吹っ飛ばされているようだ。確か、これで三度目だ。


 何かが引っ掛かっている。引っ掛かり続けている。俺は自分の今いる状況を、何処か現実離れしたものとして見ていた。


 ――その時、まるでこれは現実だと俺に知らせるかのように、高らかな電子メロディが鳴り響いた。それは何かの警鐘のようにも思えた。理由は分からない。


 メロディの出処(でどころ)は橘さんの携帯電話だったようで、彼は携帯を開いて二言、三言を話した後、それを閉じた。静かな室内に、パチンという音が響く。


「綾、やっぱり今から出掛けて来る。戻りは夜だな、多分」


「夜遊びー?」


「違う。夜には戻るって言ってるだろう。夕食は何か頼んでも良いけど……明日はどうするんだ」


「お寿司の特上を頼んでも良いなら行くよ」


「それで良いからちゃんと明日行った方が良い。勉強遅れるし単位落としたらマズいだろう」


「……分かってるよ」


 リビングと廊下とを繋ぐ、開け放たれたままの扉。その前に立ち、橘さんは片桐から視線を外さずに淡々と告げた。対する片桐は、手に持った蜜柑にいつしか視線を落としていて、最後の言葉は少しふてくされたような物言いだった。


 二者の間で繰り広げられた会話。この場に何となく居心地の悪さを感じた時、


「それじゃ、相模原君。ごゆっくり」


 と、橘さんは不意打ちで俺に告げた。


「あ、すみません」


 何故か謝ってしまった俺。日本人は何かと謝ってばかりな気がする。と、一瞬の内に思考した俺の脳味噌などは露知らず、といった感じで橘さんは軽く会釈をしてリビングを後にした。俺は会釈を返すタイミングを失って、ただ彼の真っ直ぐな背中を見ていた。


  やがて玄関扉の開く音、続いて閉まる音、施錠する音が聞こえた。


「鍵、閉めて行くんだね」


 ふと思った疑問を俺が片桐に向かって尋ねてみると、


「うん。中にいる私が閉めないままでいた時が多くて、前に帰って来た時、不用心だとか言ってた。それで閉めて出るようにしたらしいよ」


 と、相変わらず蜜柑を見つめたままの片桐から回答があった。


 その後、無言のまま蜜柑を食べる片桐。立ち尽くしたままの俺。正直、物凄く居心地が悪い。雰囲気というか空気というか沈黙というか、とにかく全てが重い。唯一の救いと言えるものは、リビング中に漂う甘酸っぱい蜜柑の香りだけだった。


 この後、俺はどうしたら良いだろう。一応は見舞いという名目でここへ来たものの、片桐曰く、もう体調は良いらしい。見舞い品の蜜柑も渡したことだし、それじゃあお大事に、とでも告げてスタスタ帰るべきだろうか。というか、他に何かすべきことがあるだろうかと仮に問われれば、それはもう片桐に聞きたいことが沢山あって「疑問をぶつける」という選択肢が瞬時に思い浮かぶ。が、そこまで立ち入ったことを尋ねるのは不躾な感じがしたし、それらの疑問は心配というより興味だ。興味本位で他者の環境や心情を探ることは俺が俺にストップを掛ける。


 では、他に何をすべきか? 明日、片桐は学校に来るのかどうか、俺はそれを尋ねたかった。しかし先程の橘さんと片桐の会話を思い返すと、どうやら学校に行く予定らしいことが窺えた。それならば今、俺がするべきことは何も無いのでは――窓の向こう、景色の遠くを見遣りながらそう考えていた時、


「ね、蜜柑食べないの? さっきも聞いたけど」


 と、無邪気な様子で片桐が言った。


 ふわりとした言葉に引かれるようにして振り向くと、


「食べる?」


 と、更に重ねられ、まだ剥かれていない蜜柑を一つ、ちょこんと手のひらに載せて差し出している片桐と目が合った。


「ああ……貰う」


 見舞いとして持って来たものを、持って来た本人が食べて良いのかどうかという問いがチラリと脳裏を掠めたが、とりあえず今は気にしないでおくことにした。


 俺は片桐の手のひらにオンしている小ぶりの蜜柑を受け取り、立ったまま皮を剥き始めると、


「座らないの? 疲れない?」


 と、自身が座る黒いソファの隣を勧め、ボスボスとそこを叩いて見せる片桐。


 勧められるまま、俺はその高級そうなゆったりとした二人掛けのソファの左隣に腰掛けた。思ったほど体が沈み込むことが無く、その意外性に驚いた。立派な、しっかりとしたソファ。まさか本革張りでは無いだろうなと俺はドキリとした。


「あ、そういえばお昼ご飯食べた?」


「ああ、軽く」


「お腹空いた?」


「いや、そうでもないな」


「じゃあ、何か飲む?」


 そう言って、半分以上残っていた食べ掛けの蜜柑をポイポイポイと次々に口に放り込み、すっくと片桐は立ち上がった。


「何がある?」


「色々あるよ。コーヒー、紅茶、緑茶……」


 言いながら片桐はダイニングの方へと回って行く。どうやら冷蔵庫を開けているらしい。


「あと、オレンジジュースと野菜ジュースと炭酸水と水。お酒が豊富なんだけど未成年だしね、私達は」


「炭酸って無糖の?」


「そうそう」


「じゃあ、それ貰って良いかな」


「いいよー。私もこれにしよっと」


 冷蔵庫を閉めた音に続き、グラスを用意しているのだろう、カチャカチャという音が響いた。


 この部屋は、ひどく静かだった。俺達二人だけということを除いてもだ。隣室などからの生活音はチラとも聞こえて来ないし、街の喧噪も届いて来ない。まるで無音の世界のようだった。


 丸い木製のお盆に二人分の炭酸水を載せて片桐が戻って来た。ソファの前にあるガラス製のテーブルに一旦、それを置くと、俺の方へと先にグラスを差し出してくれる。


「ありがとう」


「いえいえ、どんどん飲んでね。おかわり沢山ありますよー」


 元の通りに座った片桐は一度、両腕を宙へと伸ばした後に小さく欠伸をした。


 そして一口だけ炭酸水を飲み、


「ね、何か話したい」


 と、驚くほどに穏やかな声で言った。


 静寂という水面にポタリと一滴の雫が落とされたような、そんな声だった。今まで片桐からそういう話し方を聞いたことがないような気がして、そしてそれは空気すら止まっているかのような室内の静けさと相まり、何故だか俺は心臓が強く鳴ったような感覚を覚えた。


「何かって?」


「何でも良いんだ。相模原君と話したら元気になれるかもって思って」


 ああ、そういえば昨日、電話でもそんなようなことを言っていたなと俺は思い出した。片桐は今、元気では無いということなのだろうか。


「何でもって言われても迷うな。どういう話がしたい?」


「相模原君は何でも良いの?」


「いいよ」


「じゃあ、学校の話」


 意外な選択だと思った。いや、意外では無いのかもしれない。片桐が六日間学校を休んだのは、あの職員室でのことが原因だろう。何か思うところがあって、それを話したいのかもしれない。うまく会話が出来るかは分からないが、片桐が明るさを取り戻せるなら。そう、思った。


「相模原君は学校って楽しい?」


「楽しくは無いかな」


「全然?」


「少なくとも、もっと休みが増えないかなとは思う。私立校だからか、月二回は隔週で土曜日も登校するだろ? あれが休みだったらどんなにか良いだろうと良く思うよ」


 片桐は炭酸水の入ったグラスを再び手に持ち、しかし口を付けること無く、グラスの底から小さな泡が浮かび上がって来る様に視線を落としている。


「私、学校大嫌いなの、実は」


 視線を固定したまま、静かに言う片桐。


「あと二年間もあるなんて。どうやって楽しくして行けば良いのか、こうやって時々分からなくなるんだ」


 炭酸水から生まれているシュワシュワという音が、いやにハッキリと耳に付く。片桐がまた一口それを飲んだので、何となく俺も自分のグラスを傾けた。刺激が喉の奥を滑って行く。


「……そんなに深刻に考えなくても良いんじゃないかな」


「え?」


 気持ち前屈みになっていた片桐が、疑問に満ちた顔で俺を見上げた。


「前にさ、毎日を楽しくしようとしているって話してくれただろ。あれを聞いた時、片桐って凄いなって思った。そういう考え方が新鮮だったし、何より俺には無いものだったから」


 俺と片桐の視線はぶつかったまま、互いが互いを捉えたままだ。俺は続きを話して行った。


「うまく言えないけどさ。楽しくやろうっていうのは良い考えだと思う。でも、たとえば嫌なことがあって元気が無い時、無理にその考えを通さなくても良いと思うんだ。時間が経って来ると自然に元通りになることってあるだろうし、元通りとは行かなくてもちょっとずつ元気にはなって行くだろうし……俺がいい加減だからそう思うのかな」


 微妙に何を話しているのか、何を話したいのか分からなくなって来たような気がする。誰か俺の脳内を整頓してくれ。そう切望した。


「相模原君が、いい加減?」


「え、意外? 結構な割合でそう言われるんだけど」


「見えない。しっかりしているように見える」


「あー、最初はそう言われる。で、だんだんみんな分かって来るらしく、いい加減という形容動詞をほしいままにする」


 へー、と何故か感心したように片桐に呟かれる。ここは感心するところでは無いような。


「別に、いい加減に過ごせってわけじゃないんだけどさ。無理しなくても良いんじゃないかっていうこと」


「そっか……」


 もっと分かりやすい励ましの言葉の方が良かっただろうか。しかし、無責任に「元気出せよ」なんて言うのもな。いや、無責任って言うなら今の俺の言葉も無責任か? なら、どう言えば良かったのだろう。だんだん分からなくなって来た。暖房が強すぎるのだろうか、脳が茹だって来たような。


「なあ、ちょっと暑くないか」


「あ、下げる?」


 片桐は立ち上がり、リビングの片隅に置かれた小さなカラーボックス上にあるリモコンを手にした。


 間も無く、ピ、ピ、という無機質な電子音が響き、


「二度、下げた」


 と、振り返りつつ片桐が言った。


「何度にしてた?」


「二十六度になってた」


 暑いはずだ。一月半ば過ぎ、今日は割と日も出ているし、室内温度としてそんなには必要無いだろう。


 ボスン、と音を立てて再び隣に座った片桐は目の前の炭酸水を一息に飲み干し、気怠そうに肘掛けに半身をもたれ掛けさせた。そして、長い溜め息を下方に向かってつく。


「眠いのか」


「いやー……メンドいなあと思って」


「何が?」


「学校」


 囁くような微かな声でそう言った後、片桐は不意に俺を見上げて視線を合わせた。その両目の光があまりに頼り無く、それでいて何かを訴え掛けるようなものだった為、


「明日は学校来る?」


 と、俺は思わず口にしていた。


 それは昨日の夜に尋ねたことでもあり、今日、片桐に会って俺が一番聞きたいことでもあった。しかし、俺はどうして片桐が明日登校するかどうかをこんなにも気に掛けるのだろう。


「多分……行くよ」


 返って来た片桐の返事は断定では無い意を示す副詞を伴ったものであり、とろんとした溶け掛けのアイスクリームのように心もとないものだった。相変わらず片桐は肘掛けに寄り掛かったままであり、目の表面には弱々しさを湛えたままだった。


「分かった、全部話してくれ。一つずつ」


「え、何を?」


「学校、面倒だなって思う理由。打開策を考えよう」


「うーん……それもメンドい」


「いや、そこはやる気出してくれよ」


「話しても解決には辿り着かないと思うんだよね。卒業まで耐えるしかないと思われます、楽しくやる努力をしつつ」


 もう諦めているかのように言い、片桐はゆっくりと体を起こしてグラスを片手に席を立った。そうして再び冷蔵庫の方へと回り、グラスになみなみと炭酸水を注いで戻って来る。対する俺のグラスは、まだ八割以上のそれで満たされていた。


 ――以降、黙々と何度かに分けて炭酸水を飲み続ける片桐を、俺は何とか話をしてくれる方向へと引っ張ることに成功した。一度、決めたら動かないタイプなのか単に本当に面倒だったのかは分かりかねるが、ポツポツと降り落ちる雨のように片桐は少しずつ話してくれた。


 全体的な印象として俺が思ったのは、片桐は学校を含める日常というものを本当に大切にしているんだなということ。そして、それゆえに期待も大きいらしいということ。ここへ来る途中に考えた俺の予想は当たった。また、本当に俺とは正反対に近いなということ。学校という場を含め、そこに関わる全てに俺は期待をしていない。今のところは大学進学を考えている為、このまま成績良好を保ち、平穏無事に高校卒業を迎えたいと思っている。というか、高校に限って言うならば、それしか考えていない。


 そういう俺なので、


「この間の音楽の授業なんだけど、先生が無駄話を二十分もしてね、つまり全体の半分弱が無駄に潰れたの。しかも、その内容っていうのが幸せについて。今、あなたは幸せですか、みたいなことを急に話し始めて。そして時々、生徒に話を振って来るの。何あれ」


 と片桐に言われても、確かに何だろうな、ぐらいの感想しか思い浮かばないのである。


「すっごく時々ならまだしもなんだけど、絶対に授業の始まりはそういう変な話からスタートするの。聞いているだけで疲れるし腹立たしいし、私に質問されても困る」


 至極不満そうに片桐は言うわけだが、俺としてはあんまり良くは分からない。多分、その場にいたとしたら音楽教師に対して授業料返せと静かに思うだろうが、片桐ほど不満を抱えることも無いだろう。何と言うか、教師や授業に対してあまり期待をしていないのだ、俺は。とは言え、授業はしっかり(おこな)って頂きたい。が、それに反したからと言ってそんなに腹立たしくは俺は思わない。俺なら自習を始めるか、話を聞いているフリをして想像の世界へ羽ばたく。もしくは、あんまり頻繁なら叔父から学年主任に言ってもらおうなどと考え始めるだろう。計算高い奴なのかもしれない、俺という人間は。


 ポツポツと水滴が落下しているかのような話し方だった片桐だが、いつしかザアザア、どしゃ降りの雨のような話し方になっていた。きちんと返答をする俺という存在がいなくとも充分過ぎるくらいに充分では無いだろうかと考えてしまうくらい、片桐は良く喋った。


「それで、ね」


 喋り尽くしたのか、不意にプチリと片桐が言葉を()った。途端に室内は静かになる。波紋一つない水面のように。


「それで?」


 先を促す俺を、チラと片桐は見上げて、


「この間、二者面談があったの。担任と保護者の」


 と、先程までとは打って変わった様子、遠慮を滲ませたかのような声で呟いた。


「ああ、俺も一年の時にあったよ。二年になる時にクラス分けもあるし、重要な時期として見ているんだろうな」


「相模原君は、どっち?」


「俺は理系」


「ほほー」


 意外だったのか予想通りだったのか、どちらとも付かない調子で片桐は反応した。そして一人、思慮深そうに何度か頷いて見せる。


「そんな感じですね、確かに」


「どの辺りが?」


「合理的な辺りとか雰囲気」


「合理的か」


 理系って合理的なのか? という疑問が俺の頭上を掠めて去って行く。今は考えなくても良いだろう。


「で、面談がどうしたって?」


「冬休みに入る前にね、あったんだけど。あ、ちゃんと面談のお知らせは渡したよ。渡したんだけど……来なかったらしいんだ」


「家の人が?」


「そう」


 少しの()を空けて、更に片桐は続けた。


「私、それ知らなくて。親が行かなかったこと。面談日の翌日に、教室で担任の先生から聞いて。知らなかったから、知りませんでしたって言った。そしたら」


 今度は長い間が空いた。エアコンが送り出す丁度良いはずの暖かい空気が、じわりと肌に纏わり付く。そんな錯覚を覚えたほどに、この時の空気は重たかった。


 沈黙の時間は長く。片桐は目の前のグラスをじっと見つめたまま、自身の膝の上に置いた指先すら動かす様子を見せなかった。言葉を口に乗せることを躊躇っているような、何かに怯えて不安そうな、そんな心もと無さそうな様子で片桐はそこにいた。


「何か、あったのか。その時」


 まるで俺の問い掛けを合図としたかのように、片桐の目のふちにジワリと涙が滲んだ。


「私、本当に知らなかった。だから、そう言ったのに。嘘をつくなって。嘘じゃないって言ったら、それなら私と親の仲が悪いからこんなことになるんだなって。その時ね、放課後で、教室で。まだクラスの人はほとんど教室にいた。みんな、こっち見てた」


 片桐の目に滲んでいた涙がみるみる溢れんばかりになって行き、表面張力でそこにかろうじて(とど)まっているぐらいになった時、パチパチという数度の瞬きによってその一部が流れて落ちた。


「先生なら、何を言っても良いの? それとも私がいけなかったの……」


「違う」


 即座に否定した。前半と後半、どちらにも掛けて。


「片桐は悪くない」


 否定しなければならない、そんな焦燥感にすら包まれて俺は口にしていた。悲しみや困惑からか、片桐の歪んだ黒く丸い瞳と視線が重なる。


 ――どうしてこんなに苦しそうな表情をするのだろうと、心のひどく静かな片隅で俺の意識が呟く。俺の知る片桐は、三百ワットの電球みたいな明るい笑顔と、弾んでそのまま何処かへ跳ねて行ってしまいそうな声と。ハムスターのように夢中でパンを食べる様子と、それでね、と色々なことを次々に話してくれる懸命さ。時々見せる翳りが気にならなかったと言えば嘘になる。それでも、それでもこんなにも、零れ落ちそうなほど耐えていたものがあったとは思わなかった。


「片桐は悪くないから」


 もう一度、俺は繰り返した。それにどれほどの意味があるのかは分からない。だが、俺の目の前でまるで何もかもを否定するかのように涙を流した片桐を、どうしても安心させたかった。どうしても。


 ポタン、ポタンと、片桐の両目から一滴(ひとしずく)ずつ涙が流れ落ちてスカートの上に辿り着く。そして吸い込まれて行く。その小さな雫は、俺の心の奥底にも投げ込まれる。


「そんなに泣かなくても大丈夫だから」


 何がどう大丈夫かなんて俺には分からないし、言えない。それでも言わずにはいられない。


「……片桐の担任って、誰だっけ」


関島せきじま先生だけど……」


 すん、と鼻を啜って片桐は不思議そうに答えた。それがどうかした? とでも言うかのように。


「せきじま……ああ、英語の教師か」


 俺の記憶の端っこの方にいた名前を呼び出すと、一年の時の英語、ライティング担当だったことを思い出せた。俺は一口、炭酸水を喉へと流し込む。舌先と喉奥で、無糖の中に存在する清涼な炭酸がはじけるのを感じる。


「これ、味しないのにうまい気がする」


「あ、私も好きなの。炭酸強すぎないし」


 ほんの幾分かだけ、明るさの灯った声で片桐が答える。その右手の人差し指で両目に付いた涙を拭いながら。それを見ていると、俺の中で更に急速に思考が練り上げられて行く。が、同時にデメリットも浮かび上がる。


 急に黙り込んだ俺に違和感を覚えたのか、


「相模原君?」


 と、片桐が尋ねて来た。


「ああ、ちょっと考えてたんだけどさ。やっぱり不利益があるかな……」


 更に片桐の頭上にクエスチョンマークが増えた。


「いや、抗議してやろうかと思ったんだけど、それで片桐の内申が下がっても腹立たしいなと思って」


 どうしたら良いのだろうかと、腕組みをして目の前のキッチンを見るとは無しに眺めつつ、俺は思考回路を働かせた。


 ――それにしても、この家は立派だ。玄関からリビングに通され、そこまでの全体的な印象としてそう思った。


 廊下とリビングの床は木目が明るく美しく、リビングにはガラスの小さなテーブルに革張りのソファ、照明はまるでシャンデリアのようで、目の前にはおそらくシステムキッチンと呼ばれるであろうものがある。部屋の片隅にはベンジャミンが置かれ、それは白波のようなレースのカーテン越しに日の光を緩やかに享受していた。物の少ない、ひどく落ち着いた部屋だった。俺の部屋とは大違いだ。それ以前に広さの問題かもしれないが。


 ――思考する方向性がズレてしまっていた。軌道修正。


 片桐の担任に、どう話をするかだ。しかし物事には、第三者が口を挟むと余計にこんがらかったりする場合もある。今回のケースでは、俺が関島に話をした結果、面白く思わなかった関島が片桐の内申点を下げるという可能性が有り得る。片桐の不利益になることは避けたい。どうすべきだろう。


 良い案が浮かばない。その時、ふと静かになった隣を見ると、すっかり涙の乾いた顔でポカンと俺を見上げている片桐の眼差しとぶつかった。


「ん、どうかした?」


「やー……相模原君の意外な一面を知りました」


「意外?」


「そうそう、意外で驚いていたところ」


 よいしょ、とソファに座り直してから片桐は改めて俺を見た。


「だって、私の担任の先生に何か言おうかって考えてくれてたんでしょ?」


「ああ。それが意外?」


「超。相模原君って面倒事は嫌いそうな感じがするんだ。だから、わざわざ先生に、しかも自分とは関係無い先生に意見を投げ付けようと考えてくれるなんて、今、すっごくびっくり」


 そう言って片桐は僅かに笑顔を滲ませた。


「……ちょっと、嬉しい」


 リビングの床を蹴るように片足を揺らしながらポツリと落とされた片桐の言葉。それが、小さくはじける炭酸水の気泡のように感じられた。


「いや、でもヘタに意見して片桐の印象が悪くなっても困るから、どうするのが良いかなと考えてる途中」


「……それだけで嬉しいよ。考えてくれたことが嬉しい。良いの、もう済んだことだから。でもちょっと今、飽和状態になって泣いちゃったけど」


 へへ、と照れを隠すかのように、誤魔化すかのように片桐は笑う。


「あと二年だもんねー。長いのか短いのか」


 ふっと、何処か心を手放し飛ばすかのような顔をして呟いた片桐は、


「相模原君は、あと残り一年だもんね。良いなあ」


 と、言葉を付け足した。


 ――学校なんてものは小さな世界で、終わってしまえばあっと言う間に感じられるはずだし、当たり前のように何処にでも自分と合わない奴とか明らかに非常識な奴とかがいるし、そういうものの為に片桐がそんなに泣くほど何かに耐える必要など無いのだと。


 そう、言えたらどんなに良かっただろう。しかしながら俺は、何故だろう、思った通りそのままに口にすることが出来なかったのだ。


「……何かあったら、さっきみたいに言うのって良いと思うな。ほら、言うだけで軽くなることってあるだろうしさ、聞いて何か考えて、事態解決に運べることもあるだろうし」


 代わりに俺から生まれた言葉は、それだった。


「え、ホントに言って良いの? 相模原君に?」


「ああ」


「ホントのホント?」


「本当だって」


 きょとん、としていた片桐の表情が半信半疑のそれになり、そして最終的にパアッと花開いたような笑顔に変わった。


「メールでも電話でも?」


「学校帰りでも良いし」


 俺がそう答えると、ほんの一瞬の間の後、


「ありがとう、相模原君」


 と、ポタンと落ちる水滴のように片桐が言い、笑った。その言葉が二人だけの静かな室内に滲むように広がり、そしてまた再び、元の静けさを取り戻す。その笑顔が、俺の奥底に届けられる。


「ちょっと、落ち着いた」


 肩に落ちる髪の先を指に絡めつつ、片桐が言った。


「そうか。良かった」


 俺は今日、やっと少し安堵した心持ちで残っていた炭酸水を一気に飲み干した。僅かにぬるくなっていたそれは、しかし先程とほとんど変わりない炭酸の刺激を含んでいた。


 ――その日、夕方六時過ぎに俺は片桐家を後にした。いや、正確には片桐家では無く橘家と言うべきか。尋ねたいことは多々あった。が、しかしそれは単なる興味本位が八割以上だった。だからその時、俺はその場で必要なことしか聞けなかった。


「片桐は、帰らないのか」


 と。


「明日、帰るよ」


 そう言って、にこりと笑った片桐に(かげ)は無く。自然、ホッと息をついた俺だったが、ビデオテープの巻き戻しのように瞬時に脳裏に蘇った場面があった。


「明日、来るよな?」


 学校。暗にそう告げて俺は片桐を改めて見た。目に映り込む片桐の笑顔が嘘では無いと信じたい。嘘と言うか無理と言うか。


 先々週の金曜日。片桐は笑顔で手を振って駅の階段を上って行った。その後、まさか六日も欠席するなどと誰が思っただろう。片桐は無理をしているのかもしれない、今、無理をして笑っているのかもしれない。まるで何事も無かったかのように。そう思うと小さな不安とでも言うべきものが、ススキが互いに柔らかくぶつかり合うような音となって心臓の深いところで生まれて来たのだ。その感覚を何と呼べば良いのだろう。


「学校でしょ? ちゃんと行くよ。大丈夫」


 ほんの少しだけ首を傾けるようにして更に片桐は微笑む。その笑顔に、およそ無理など見当たらない。繕っているようになど思えない。それでも俺の心臓の深い芯のところで微かな音が鳴り止まない。


「明日の帰りさ、一緒に帰らないか。時間あるなら」


 瞬間、本当に一瞬だけ片桐の両の瞳がパチリとまるく開かれ、すぐにまた柔らかく細められた。


「……うん。教室前で待ってる」


「ケイタイは仕舞っておけよ、面倒だから」


「うん」


「じゃあ、明日な」


 ――玄関扉を開けると、既に夜の気配を広げ始めた空が目に入った。冬は暗くなるのが早い。少しばかり夜気を含んだ風がヒュルリと目の前を駆け抜けて行った。


「相模原君」


 振り向くと、さっきまでとは違った雰囲気を纏った片桐と目が合った。


「気を付けて帰ってね」


「ああ。またな」


 扉を静かに閉めると当然のように片桐の姿は視界から消えた。エレベーターに向かって歩き出した俺一人分の靴音が、ひっそりとしたマンションの廊下に追想のように響いていた。


「あ」


 反射的に声が飛び出た。マンションを出てすぐのところ、橘さんが目に入ったからだ。向こうもほぼ同時にこちらに気が付いたらしく、とても爽やかに微笑み掛けて来た。マンションに入る前の片桐の様子からして、家にいるのは凄く嫌な人間なのだろうかと俺は思ってしまっていたのだが、先程も今もそんな感じは少しもしない。


「どうも、お邪魔しました」


「あっ、ちょっと待って」


 進行方向、すれ違いに軽く会釈をして駅へと進もうとした足を橘さんが呼び止める。ごく少量の緊張が湧き出たのは何故だろうか。そんな俺の心情など知らずと言った感じで、橘さんは気さくに話し掛けて来る。


「今日はありがとう。綾の様子を見に来てくれたんだよね?」


「あ、はい」


「相模原君は何年生?」


「高校二年です」


「そうか。綾の先輩なんだね」


「一応、そうなります」


 不意に途切れた会話。橘さんの向こう側、視界の上部に一月の夜空が織り込まれる。ちらちらと、白銀の輝きが幾つかそこに見え始めていた。


「相模原君は綾の彼氏?」


「え?」


 その突然の質問は俺を大いに動揺させた。思わず、夜の空を取り込んでいた視野の全てを意識的に目の前に立つ人に総集合させてしまった。橘さんは、ただ単に俺の回答を待っています、というような感じでそこに立っていた。もう辺りが暗くなっているせいだろうが、その表情が良く見えず、俺はますます困惑を極めた。この人は何を考えているのだろう、と。


「いえ、違います」


「あれ、そうなの?」


「はい」


「そっかー……」


 至極意外そうに確認した後、心なしか残念そうに言った橘さんは、


「今度、一緒にお茶飲まない? あ、昼とか夕食でも良いんだけど」


 と、これまた驚くような発言を放った。


 先程会ったばかり、交わした言葉は少なく。そんな人物に片桐の彼氏かどうかを突然に尋ねられた後、食事に誘われる。この後に展開される図は何だろうと、頭の片隅で考え始めた俺がいた。


「近くに、良い喫茶店があってね。この辺りはレストランも多いし。相模原君の都合が合う時で構わないからさ。どうかな?」


「ああ、えっと……」


 言い淀んだ俺に、


「悪い、いきなりすぎたかな。綾のことで少し話がしたいんだ。今日は遅くなってしまったし、今度さ。気が向かなかったら断ってくれて良いよ。あ、連絡先……」


 そう言って、橘さんは自身の右ポケットからダークブルーの携帯電話を取り出し、パチリと開いた。正直、戸惑いはあった。しかし半ばつられるようにして俺も携帯を取り出し、開く。徐々に深まって来た冬の夜、街灯を除くとほとんど暗闇の街中で、男二人が赤外線通信をする為に近距離でセンサーを合わせる姿は何処か滑稽な気がした。受信したデータを保存すると、「橘芳久」という名前が目に飛び込む。


 気が向いたらよろしく。そう言い残して橘さんは俺とは反対、マンションへ向かって歩いて行った。


 ――駅への道は割と人通りが多く、駅に近付くにつれて光を皓々(こうこう)と放つブランドショップやファッションショップの明かりが目立ち始める。後方へと流れ去って行くそれらを目の端で捉えながら、俺はさっきの橘さんの言葉を脳裏に思い返していた。


 比較的、電車内は空いていた。乗り込んだ正面奥の扉横に寄り掛かり、俺は携帯を取り出した。電話帳には先程、追加したばかりの名前がある。


 連絡をすべきだろうか。気が向かない、というわけでは無いのだが、かと言って気乗りしているかと聞かれればそうでも無い。良く分からないというのが一番、しっくりと来る。自身の心情も、橘さんの考えていることも。


 気になるならば会えば良い、会って話を聞いてみれば良いと、俺の内側から声がする。確かにと思う。だが、素直にそれに頷く気になれないのはどうしてなのだろうか。


 電車の走行音が、耳から遠く離れた何処かで聞こえている感覚に包まれる。押し流すように人を運び行くそれに揺られ、俺は帰途を辿る。


 自室の扉を開けたのは午後七時半を回った辺りだった。そして夜の十二時、日付が変わる頃。明日の準備をして眠りに就く寸前、片桐からのメールが届く。


 たった二つの文。それだけで俺は、今日が有意義だったと思えた。




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 From:片桐綾


 Sub:柑橘類


 Text:蜜柑、おいしかった。ありがとう。


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