表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リセットランキング  作者: 有未


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

第二章【山頂と山麓】

 ――結果から言えば、彼女は非常に良く食べた。それはもう表現し難いほどに。ねえ、それ、何日分? と尋ねたいほどに。


「……パン、好きなのか?」


「超!」


 その食べっぷりに対して「それ、何日分?」とストレートに聞くことは少々、はばかられる気がしたので言葉を変えてみたのだが、返って来た返事が「超+エクスクラメーションマーク=超!」という非常に分かりやすく簡潔なものだったので、食べっぷりに加えて俺はまた驚いた。


 店の奥にあるテーブル席に着き、パンとサラダの食べ放題セットと、それに付いて来る、選べる一品料理から各々好きな料理を注文した後、彼女は即時に席を立ち、丸く白い皿を手にしたかと思ったら、そこに次々とパンを積み、素早く席に戻って来た。


 そこから、俺の驚きは始まった。


 彼女が持って来た小さな丸い皿の上に、小さなパンが山になっている。十個以上はあるだろう。そのバランステクニックには賛辞を贈りたい。


「いただきます」


 と、とても嬉しそうに言った彼女は、山の頂にある四つ葉のクローバーのような形をしたパンを手にし、半分に割って食べ始めた。もぐもぐ。という音が聞こえて来そうなくらい、彼女の頬が動いている。ハムスターみたいだ。


「あれ、食べないの?」


 一つ目のパンを食べ終えて水を一口飲んだ後、彼女は初めて俺の存在に気が付いたかのように言った。


「……ああ、食べるよ」


 まさか、食べている様子が面白くて見ていましたとは言えない。


 俺も席を立ち、所狭しとパンがひしめき合っている地に向かった。確か二十種類と聞いていたが、こうして見るとかなりの種類数に思える。一種類に付き、相当の量が積まれているせいもあるだろう。


 とりあえず適当に五個を皿に載せ、席に戻った。彼女は自分の目の前のパンに夢中で、俺の方をチラとも見ない。


 何となく辺りを見回してみると、女性客が八割くらいを占めていた。パンとサラダが食べ放題、そして一品の料理が付いて二千円という値段は確かに安い気がするし、女性にとっては特に魅力的なのかもしれない。今回、俺たちは半額の千円でそれを頂けるわけで、非常に有り難い。


 皿の手前に置いたパンを一口、齧ってみたら、カリカリとした何かが歯に当たった。パンの中を見ると、木の実のカケラのようなものがいくつも詰まっている。多分、クルミだろう。ほど良く焼けた、もちもちとしたパンの中に結構多くのクルミが入ったそれは、素朴な味で懐かしい感じすらした。小さなパンなのだが、しっかりとした食べ応えがあり好感が持てる。


 クルミパンを食べ終えた俺が次のパンを手にし掛けた時、


「あ。それ、おいしかったよ。ヨモギパンかな、多分」


 と、彼女が言った。


「ヨモギか」


 顔を上げた俺の頭の上に、クエスチョンマークが浮かんだ、そんな気がした。


 見ると、彼女の皿にあったパンの山は二つのパンを残すばかりになっていたのだ。その内の一つに彼女は笑顔で手を伸ばす。


 待て。さっき見た時は、確かに十個はあったはずだ。それがどうして既に二個になっている?


 俺が席を立ち、席に戻り、軽く周りを見て、クルミパンを食べ終えるまでに、そんなに時間が経過したとは思えない。少なくとも、パンを八個程、食べられる時間だったとは明らかに思えない。


「なあ、さっきまであったパン、もう食べたの?」


「うん!」


 輝かしい表情、光溢れる返事。


 そして彼女は手にしていた丸いパンを食べ終えたかと思うと、最後の一つを手に取った。立方体のようなそれの表面の所々には、やはり立方体のような飾りが散らばっている。チーズかもしれない。


「あ、チーズ」


 一口、食べて言った彼女の言葉で、俺の予想は当たっていたことを知った。


 もぐもぐもぐ。と、彼女はチーズパンをあっという間に食べ終えて、水を飲み、空っぽになった皿を持って再びパンを取りに行ってしまった。


 凄すぎる。それが正直な感想だった。


 再びパンを持って席に戻って来た彼女。その皿には、やはり十個はあると思われる小さなパンが、今にも崩れそうな山となって載せられていた。そして再び、彼女は山の頂のパンに手を伸ばし、半分に割り、もぐもぐと頬張り始めた。やっぱりハムスターのようだ。


 そこで、


「……パン、好きなのか?」


「超!」


 という会話が生まれた次第である。


 俺もパンは好きだ。種類は豊富だし、店によって味も違う。全体的に当たりの店もあれば全体的にハズレの店もあり、その店の、そのパン一種類だけ、あるいは二種類か三種類だけが当たりという場合もある。大当たりなパンに出会った時は心密かにかなり喜ぶ。


 だが、と思う。だが、彼女ほど喜んだことは無いかもしれない。また、彼女ほどの勢いでパンを次々と口にしたことも。


 一つパンを食べては、一口か二口、水を飲み。ほぼ、それの繰り返しで目の前の彼女はひたすらにパンを食べている。そろそろ彼女の胃の中が心配になってきた。


「そんなに一度に食べて大丈夫か?」


「モーマンタイ!」


 やや遠慮がちに伝えた俺の心配の言葉は、何故か「無問題」という中国語によって掻き消されてしまった。日本語なら「大丈夫」、英語なら「No problem」にあたる。


 食の合間にそう答えた彼女は、すぐにまたパンを千切り、もぐもぐと口を動かしていた。


「――お待たせ致しました、バジリコスパゲティとナポリタンでございます」


 運ばれて来たスパゲティは、パンとサラダの食べ放題セットに付けられる一品料理である。他に、小ぶりなピザや、山盛りのフライドポテト、少量のシチューなど、色々な種類があった。


 このスパゲティは少量ではあるものの、パンをメインと考えて食事をすると、結構な量のように思える。事実、俺はもう腹六分目くらいにまで達している。彼女の食べっぷりに触発され、自分の皿にあった五個のパンを食べ終えたばかりの俺は、テーブルに置かれたスパゲティを見て少し辟易した。


 小さなパンとは言え、それなりに食べ応えはあった。そのパンを彼女は一体、何個食べたと言うのだろう。まだ食べている。しかも、その目は運ばれて来たばかりで僅かに湯気を立てているスパゲティに向けられている。


「おいしそうだねー!」


「ああ」


 返事をしながらも、俺は内心、少し恐ろしく思っていた。まさか、このスパゲティも……?


「ねえ、相模原君。食べてる?」


 俺の心の内などカケラも知らないような口振りで彼女は言い、


「このメロンパン、おいしいよ?」


 と、半分になっているそれを見せながら付け足した。


「メロンパン、好き? 嫌い?」


「ああ……好きだけど。あのさ、いつもこんなに食べてるのか?」


 彼女はニコニコ笑って俺の質問に答えてくれた。


「そうでも無いよ? 今日は嬉しくて、つい」


 もぐもぐ。最早、彼女の頭の上には、そういう文字が表れているように感じた。


「相模原君が一緒に来てくれたでしょ。だから」


 もぐもぐもぐ。彼女の目の前の皿にあるパンの山が、確実に小さくなって行く。


「あ、もしかして今、つまんない? 帰る?」


 ピタリ。と、彼女が食べるのをやめて突然に真剣な顔をして尋ねるものだから、


「いや、そんなことは無いよ」


 と、半ば反射的に俺は言い、自分の右横に置かれた温かなバジリコスパゲティの皿を取った。途端に、バジルの深く爽やかな香りが届けられる。


「そう? 楽しいし、おいしい? 退屈してない?」


「ああ」


「そっか、それなら良かった」


「……そんなにつまらない顔してたか?」


 あまりにもホッとした顔付きで彼女が俺を見たので、思わず、俺はそう聞いていた。


「あ、いえいえ。単に私だけが楽しんでいるのかと、ふと不安になっただけで。退屈中とかだったら申し訳無いなと。やっぱり、つまんないより楽しい方が圧倒的に良いですもんね」


 そこで一度、言葉を切り、俺に倣うようにしてナポリタンの皿を取った後、


「ルンルンですか?」


 と、彼女は俺に質問をした。


「えーっと……楽しい、けど」


「じゃあ、ルンルン?」


 敢えてその単語を避けたというのに、彼女は再度、俺に尋ねて来た。


「……ああ」


 簡潔に返事をした俺を未だに彼女がじっと見ている。


「ルンルンです」


「良かった! 安心しました。これで更にスパゲティがおいしく頂けるね」


 微笑む彼女の右手には半月のようなメロンパン。それを二口で食べ終えると、皿に残っていた一つの白パンを彼女は手にした。そして、むぐむぐと、とてもおいしそうに食したその後、先程に取ってあったナポリタンを彼女はくるくるとフォークに絡める。


 ――フォークがバレリーナのように踊っていた。踊り終えたフォークには綺麗にスパゲティが絡め取られている。それを口元に運び、食べる。その一連の彼女の動作は流水のようで、ひどく俺の目を引いた。


「おいしい!」


 と、言った彼女の声でハッとした俺は、彼女につられるように目の前のバジリコスパゲティをフォークに絡めた。


 しかし、くるくると綺麗に踊ったものの軽く持ち上げてみたそれからは、三ヵ所くらい、スパゲティの麺が飛び出ている。テーブルマナーを勉強しようかと、ふと思った。


 ――彼女は非常に良く食べた。俺よりも食べたのでは無かろうか。あの勢いにはとても驚かされた。


 パンを食べ終え、スパゲティを食べ終えた彼女。その後はサラダバーに向かい、深さのある丸い皿にサラダを山程、入れて帰って来た。山程。その表現は決して大袈裟などでは無い。彼女が持って来たサラダを良く見ると、ごく僅かに皿の縁から顔を出したレタスに囲まれるようにして、皿の中央には「やっほう!」と言いそうなほど存在を主張するポテトサラダが見える。その周りを、ぐるりと一周しているミニトマト。十二個くらいはありそうだ。そして俺から見て手前には、小さな森のようにブロッコリーとカリフラワーがいくつも並んでいる。その向こう側には思った通り、彼女の笑顔。


「あ、すみません。お水を頂けますか?」


 通り掛かったウェイトレスに彼女は言い、ポテトサラダをフォークでやはりとても綺麗に掬った。


「カリフラワーとブロッコリーって脳味噌みたいだよね」


「は?」


「ほら、ここら辺」


「あー……。まあ、見えなくも無いか」


 彼女は、カリフラワーとブロッコリーの花蕾からいの部分を人差し指でくるくると示して見せた。


 確かに、言われてみれば人間の脳味噌を連想させる野菜かもしれないと思った。そして、こういうことは一度そう思ってしまうと半永久的にそう思い続けてしまう。きっと今後、カリフラワーとブロッコリーを見るたびに俺は今日のことを思い出すだろう。


 ――その後、小さな山のようなポテトサラダと、小さな森のようで脳味噌のようなカリフラワーとブロッコリー、十数個のミニトマト、複数枚のレタスを優雅に、しかし素早く食べ終えた彼女。その彼女が二回目のサラダバーに席を立ち、持って来た、やはり山のようなオニオンサラダとミニトマトを半ば食べ終わるか否かというところで俺はバジリコスパゲティを食べ尽くし、水を飲んだ。そして、せっかくだからと俺もサラダバーに向かい、ポテトサラダとマカロニサラダを控え目に盛って戻ると、心なしか彼女の後ろ姿が俯いているように見えた。


「あ、ごめん」


 席に着いた俺に気付くと、パッと彼女は顔を上げた。


「メール見てた。ごめんね」


「いや」


 それよりも、ついさっきまで彼女の前にあったオニオンサラダが姿を消していることの方が俺は気になった。そしてナポリタンは半分になっている。


「ねえ、この後は超多忙?」


「いや、暇」


「やった! 良かったら一緒に球根を探してほしいなー」


「球根?」


 聞き返した俺に、彼女は頷く。


「水栽培をしたいの。ヒヤシンスの。ホントは十一月が時期なんだけど、まだギリギリ大丈夫だと思わない?」


「花は詳しく無いな」


 花を育てる時期についてなんて、覚えている限りでは一度も考えたことが無い俺が、一ヵ月くらい過ぎても大丈夫なんじゃないのか? と何の根拠も無く思っていると、


「じゃあ、何には詳しいの?」


 と、予想もしていなかった彼女の言葉が聞こえた。


「何に……ってほど、詳しいものは無い、かもしれないな」


「そう? 何となく物知り博士に見えるんだけどなー」


 言いながら、彼女は再びフォークを踊らせ、気品溢れる動作でナポリタンを口元へ運んだ。ハムスターのようにパンを頬張っていた者と同一人物とは思えない。この違いは何だろう。


「あれ、もう食べ終わりで良いの?」


 パンとサラダはいくらでも食べて良いんだよ? と、無邪気に付け加えた彼女に俺は辞退の意を告げ、コップに余っている水を飲んだ。


「そっか。じゃあ次は球根探しだね。楽しみ! ちょっと待ってね。今、食べちゃうから」


「いや、そんな慌てなくても……」


 良い、と伝える間も無く、彼女は優雅さを携えたまま素早くフォークを動かし、最後の一本までを美しく食べ終えた。


 キュ、と口元をセルヴィエットで拭くと、


「もう食べない?」


 と、俺に確認をし。


「ああ。じゃあ行くか」


 俺が言うと、ひどく満足そうに立ち上がる彼女。


 会計を済ませて店を出ると、


「おいしかったね! 凄く!」


 そう言って彼女は俺を振り返った。「凄く」にアクセントを置いて同意を求めるように笑ったその笑顔が、まるで一枚の絵のように印象的で。


「ああ。にしても、本当に嬉しそうだな。こっちまで楽しくなる」


「ホント! 良かった! それが一番だもんね。私だけが楽しいより、一緒にいる人も楽しいと思ってくれた方が遙かに良いもん」


 そう言って前を行く彼女。追い付き、並ぶ俺。


 エレベーターで、デパートの八階から一階まで下りると、彼女は迷わず園芸コーナーへと向かった。


「花、好きなのか」


「うん。でも水栽培は初めての挑戦です。うまく行くかなー」


 彼女によれば、ヒヤシンスの水栽培に適した時期は十一月だそうだが、十二月半ばを過ぎた今日でもヒヤシンスの球根は沢山、置かれていた。


 座り込み、一つ手に取っては戻しを繰り返し。やがて両手に一つずつ持っては戻し、を繰り返し始めた彼女。


 しばし沈黙が訪れた。


「ねえ、相模原君も一緒に見ようよ」


 沈黙を破り、振り向いて俺を見上げながら言う彼女。その顔は、やや不満そうであった。


「俺はヒヤシンスがどんな花かも知らないが」


 彼女の隣、球根が互いに押し合うようにしている木箱の前に座り込み、そう言った。


「ホント!?」


「……本当」


 驚愕に満ちた彼女の声。それに誘導されるように左隣に顔を向けると、やはり驚愕の表情をしている彼女と目が合った。


「大体、何で球根にテープが巻いてあるんだ?」


「花の色だよ、ヒヤシンスの。これなら買う時に何色か分かるし」


 ――納得。


「あ、それは水栽培じゃないよ。土に植える方。地植えと鉢植え」


 俺が何とは無しに手に取った球根を見て、彼女が言った。


「水栽培は、こっちのだよ。ほら、書いてある」


 ね? と言うように少し首を傾げた彼女。


 しかし、見比べてみても俺には双方の違いは分からなかった。


「私だって、何も書いてなかったら分からないよ。違いも知らないし。どうやって分けるんだろうね? 見た感じ、水栽培の球根の方が大きいよね」


「水栽培用ヒヤシンス」と手書きされたネームプレートの前の木箱から、彼女は一つの球根を取り出し、軽く掲げて見せた。ピンクのカラーテープがぐるりと巻かれている。


「何色にーしようかなー」


 唐突に歌い始めた彼女。


「相模原君は何色が好き? この中なら」


 木箱の中にぎっしりと詰められた球根には、白、ピンク、紫、赤のテープがそれぞれ巻かれていた。


「どういう花かも知らないからな」


 彼女の右手から、ピンク色のテープが巻かれているそれを手に取ってみる。


「ラッパが沢山、咲いたような花だよ。小さなラッパの集合体。もしくはトランペットの先っちょ」


「ラッパの集合体……?」


 イメージが湧きづらい。


「あ、ピンクが好き?」


 俺が持つ球根を目にして彼女が尋ねた。


「嫌いでは無い」


「じゃあ、それにしよっと」


 差し出され、広げられた彼女の手のひら。そこに俺が球根を到着させると、


「よし、次はガラスポット」


 と言い、彼女は瞬時に立ち上がった。


 ――彼女は、終始楽しそうだった。少なくとも俺にはそう見えた。


 ピンク色のカラーテープが付けられた球根と、水栽培に使う、とっくりのようなガラスの器を購入し。それを大切そうにバッグに仕舞った後、


「石鹸とかシャンプーとか見たいなー」


 と、彼女は言った。


 俺と彼女はエスカレーターで七階に上り、固形石鹸や液体石鹸、シャンプーやコンディショナー、ハンドクリームなどを物色した。


 俺にはあまり縁の無い場所ではあったが、


「納豆石鹸だって!」


「『オレンジの香りでフレッシュなボディに』って、どのくらいフレッシュになれると思う? 少なくとも、そのまま冷凍して良いくらいの新鮮さ?」


「『溶け込むように手に馴染む、オリーブオイル配合ハンドクリーム』って、細胞の奥まで溶け込んでくれるのかな?」


 など、興味深そうに商品を手に取っては、彼女はキャッチコピーや成分表を見て感想のようなものを述べてくれるので、退屈はしなかった。


「あ。相模原君、退屈?」


「いや、面白い」


「良かった! 何か買うー?」


「特には無いけど。楽しいから気にしないで良い」


 宝探しをするように、それぞれの棚に並べられた商品を丁寧に見て行く彼女。一時間くらいは経ったのかもしれない。彼女は、小さな林檎のケースに入ったハンドクリームを買った。


「禁断の果実だよね」


「創世記のか」


「凄い! やっぱり物知り博士!」


「さっきから何だ、そのネーミング」


 旧約聖書における創世記にて描かれる「禁断の果実」は「林檎」だとハッキリ定められているわけでは無い。後世の人々が勝手にそう解釈し、それが定着してしまったに過ぎない。と、言われている。


 真実を自分の目で見たわけでは無いから断定は不可能だけれど。


 そう付け加えると、


「博士……!」


 と、俺を見上げる彼女の目が変に輝いていた……気がした。


  ――そんな風に、彼女は楽しそうだったから。


「やっぱり冬は寒いねー。冬なのに暖かいような異常気象よりは良いけどね」


 振り向いて、白い息を吐きながら言う彼女。


「もう雪は降らないのかな」


 人のまばらなプラットホームのベンチに座り、空を見上げて言う彼女。


「ね、今日楽しかった?」


 重く垂れ込めるような冬の薄暗い空から、パッと俺に視線を移して尋ねた彼女。


「ああ」


 俺が頷くと、ひどく嬉しそうに彼女は笑った。


「何か飲むか?」


「ねえ、ちゃんと名前覚えてる?」


 質問を質問で返され、俺は少しばかり戸惑った。その迷いが顔に出たらしく、それを質問内容への答えと受け取ったらしく、彼女は言った。


「覚えられていないのかな、私の名前。たった六文字、されど六文字。相模原君は七文字、ちゃんと覚えたのにな。私の名前は記憶からリセットされているの?」


「いや、覚えてるよ。なあ、この前の全校集会の時、壇上で表彰された?」


「あ、見ててくれたの?」


「見てたというか……クシャミの聞こえた方向を見たというか」


 忘れ掛けていた、少なくとも思い出すことの無かった十日前の記憶が、ふと呼び起こされた。壇上にて盛大にクシャミをし、「リセットで」と発言し、周囲の目など物ともしない流麗な動作でステップを下りて行った彼女。


「そのリセットって良く使うのか? そういえば、以前に本屋でも聞いたような気がするな。どっちの本を買うかで迷ってて」


「あ、それ私。絶対私」


 話を遮って勢い良く肯定をし、


「今日より前に結構多くの接点があったんだね」


 うん。と、一人頷きながら彼女――片桐綾は言った。


「あ。私、何か飲みたいな。買って来るね」


 チョコレート色の小さなバッグの留め金をパチンと開けた片桐が、財布を見付ける前に俺はベンチから立ち上がった。


「何が良い?」


「ごちそうしてくれるんだ! 凄い! ブラボー! 是非、レモネードをお願いします。あったか~い、にあると思う。無かったら、ミルクティー。それも無かったら、ストレートティー。よろしくお願い致します」


 アルファベットの「V」の小文字を小さくしたようなハートが、語尾に付いていそうな調子で片桐は言った。


「レモネードかミルクティーかストレートティーな」


「うん」


 丁寧に第三希望まで伝えて来た片桐。何となく「らしい」と思った。


 改札機横にある二台の自販機のうちの片方に、片桐の第一希望であるレモネードがあった。ボタンを押してすぐにガタンと落ちたレモネードを拾い上げながら、そういえば昨日もこれを飲んでいたなと思った。


 俺はいつものように缶コーヒーを買い、元いたベンチに戻り……掛けた。


 ――片桐は、目の前に広がる空を見ていた。時刻は午後五時過ぎ、十二月半ばの冬空は既に暗く。まだ月は無く、星も無い。その闇を、片桐はぼんやりと見つめて座っていた。まるで、さっきまでとは別人のようだった。楽しそうに笑っていた片桐は何処へ行ってしまったのかと、そんな疑問が頭の中に浮かんですぐに消えた。片桐は片桐だ。今、そこにいる。


 ジャリ、という俺の足音に気が付いたのか、片桐は瞬時にこちらを見た。


「あ、レモネードあったんだ」


 一度、視線を俺の手元に向けてから俺を見上げた片桐の表情は、明るい笑顔で満ちていた。今度は、先程の夜空を見ていた片桐が別人のように思える。


 レモネードを片桐に手渡し、俺は缶コーヒーを手にベンチに座ろうとした。すると、さっきまで俺が座っていた場所で、皓々《こうこう》と携帯電話のディスプレイが光っているのが目に入る。危うく圧力を掛けてしまうところだった。


「あ、ごめんごめん。つい、うっかり」


 サッと携帯を持ち上げてパチンと閉じ、押し入れるようにしてバッグに仕舞い込む片桐。


「大丈夫か、それ」


「だってバッグが小さくて」


 片桐はチョコレートカラーのバッグの留め金を無理矢理に閉めたようで、バチン、という力強い音がした。


 そして以前のように、ホットレモネードの入った小さなペットボトルを大切そうに両手で持ち、その温かさを手のひらで味わうようにしながら、少しずつ飲んでいる片桐。俺も以前のように缶コーヒーを飲む。冬の寒い外で飲むホットコーヒーは本当にうまいと思う。


「人間って、嫌な記憶は忘れて行ける生き物なんだって」


「え?」


 唐突に言った片桐に対し、思わず俺は振り返り、聞き返した。


「人間は、嫌な記憶は忘れて行ける生き物なんだって。でも、連続した毎日の中で生じる嫌なことの全てを、忘れられるわけじゃないと思うんだ。そんな仕組みだったら、多分困るし。でも、忘れたいことって、やっぱりあるから。だからリセットしてるんだ、私は」


 一息に言い、片桐は手元のレモネードに視線を落とした。その横顔が、少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。あるいは、外の暗さのせいだろうか。


 何かを言おうと思うも、言葉が見付からず。結果的に黙ったままになってしまった俺に、


「あれ、黙っちゃった。さっき聞いたよね? リセットって良く使うのか、って。だから理由をお答えしてみた次第なんだけれど、何かおかしいこと言ったかな?」


 と、心底不思議そうに尋ねて微かに首を傾げた片桐。


「ああ、いや、おかしくない」


「そ?」


 ――その時、電車の到着を告げる、お決まりのアナウンスがホームに流れた。


「もう来た! 早く飲まないと」


「ペットボトルなんだから、キャップを閉めておけば良いんじゃないのか」


 という俺のアドバイス空しく、片桐は一気にレモネードを喉へと流し込んでしまった。熱くなかったのだろうか。


「相模原君も早く早く」


 確かに、缶コーヒーにキャップは無い。俺は片桐に倣うようにして残りのコーヒーを飲み干した。少し、熱かった。


 俺と片桐は、途中までは同じ電車だった。その間、片桐はとても良く喋った。電車内ということを意識してか、いつもより若干、小さな声で。その内容は、パンがやたらおいしかったとか、ヒヤシンスの水栽培についてとか、雪がもっと降ってほしいとか、もうすぐクリスマスだけどサンタクロースって信じてる? とか、そういう他愛の無い話ばかりだった。だからと言って退屈かと聞かれれば全くそんなことは無く、むしろ、ありふれたような話が片桐の口を通すと何故にこんなに面白くなるのだろうと、隣で片桐のそれを聞きながら、俺は心の片隅で考えていた。


「あ。次、降りるよ」


「そうか。乗り換え?」


「うん。相模原君は?」


「次の、二つ後」


 窓から見える景色は既に夜色に染まっていた。冬は日が落ちるのが早い。


 暗いし気を付けて帰れよ、そう言おうとした矢先、


「もうすぐ冬休みだね」


 と、片桐が言った。


「ああ、そうだな」


「何処か旅行に行ったりとかするの?」


「いや、行かない」


「私の誕生日、クリスマスなんだ」


 いきなり話が飛んでしまった。


「だから、是非お祝いしない?」


「片桐の誕生日を?」


「そうそう」


「えーと……」


 あまりに唐突で、俺は少しばかり考えた。


「あ、着いちゃった」


 電車は、片桐が乗り換える駅に停車しようとしているところだった。


「今日は来てくれてありがとう! じゃあ、誕生日についてはまた今度ね。ではでは」


 いくらか早口にそう告げて、片桐は電車を降りて行った。そして、降りたところでクルリとこちら側を向き、ダイヤモンドゲームの駒のように背筋をピンと伸ばして立っている。


 やがて電車がゆっくりと走り始めた瞬間、片桐は右手をひらひらと振って笑顔で見送ってくれた。つられて俺も軽く手を振ったが、電車は僅かにスピードを上げて走り始めていた為、それが片桐の目に入ったかは分からない。


 本来の勢いで走行を始めた電車が駅を後方へと送った時、急に気恥ずかしくなって俺は手を下ろした。電車内にあまり人がいなくて良かったと思った。






 日々は淡々と過ぎる。そこに何の不満も無い。得てして学生生活とはそんなものだろうと思う。アルバイト禁止で働けないから大きく自由になる金は無いし、一日の大半を学校で過ごすことになっているから自由では無いし、勉学に励むことが専らの課題であり義務であり、摩訶不思議な事象なんて無いに等しい連続した毎日。それは、平和とも言えるのかもしれない。勉強さえしていれば大抵のことは許される。大人になれば、そんなわけにはいかないだろう。やがて訪れる何かを漠然と感じながら、二十四時間という区切りを持つ日常を流されるままに俺は生きている。


 そういえば、有名な覚え方のある、二十三時間五十六分四秒だが、あれは地球の自転周期であって、イコール、一日の長さというわけでは無い。


 などと考えていると、


「なあ、最近あの子良く来るよな」


 と、頭上から声が降って来た。


 それに答えずにいると、


「一年生だよな?」


 と、更に尋ねられたので肯定した。


「どうやって知り合ったんだ?」


「どうって……石を落としたって言うから探してさ」


「石?」


「この間の雪の日に落としたらしくて、雪に手を突っ込んで探してたんだよ。確か、水晶とか言ってたかな」


「それがきっかけで仲良くなったってことか」


「仲良く……?」


 そこで一旦、会話は途切れた。


 俺がこれ幸いと帰り支度の出来た鞄を持って立ち上がると、


「もう付き合ってるのか?」


 と、興味深そうに尋ねられた。


 引いた椅子を入れながら、俺はそれを否定する。


「じゃあ、これからか。高校生といえば恋愛だよな」


「何だそれ」


「高校生の時の恋愛は高校生の時にしか出来ない。だから大切にした方が良い。と、俺は思う」


「そうか。ご高説どうもありがとう。良い冬休みを過ごせよ」


「お前、人の話を聞いてないだろ。絶対」


「じゃあな」


 まだ何か言っている気もする友人を後ろに、俺は教室を出た。


 ――廊下には、壁に寄り掛かりながら携帯をカチカチやっている片桐綾の姿があった。


「校内で携帯はマズいって」


「あ、相模原君」


 顔を上げた片桐は三百ワットくらいの明るい笑顔で。しかし、右手に持った携帯電話を仕舞おうともしない。


「とりあえず、それ仕舞えって。面倒だから」


「面倒?」


「教師に見付かったら面倒だろ」


「確かに。激しく納得!」


 俺は、前にも同じような会話をしたような気がすると思った。


「明日から冬休みですね。超楽しみですね!」


「超、ってほどでも無いかな」


 片桐が携帯電話を鞄に仕舞ったことを確認してから、俺は歩き始めた。その左隣に片桐が並ぶ。


「じゃあ、どれくらい楽しみ? 真夜中に流れ星を期待してワクワクするくらい? それとも、明日は芽が出るかなってアサガオの種が埋まった鉢植えを眺めるくらい?」


「喩えが分かりづらい」


「そう? 分かりやすくしてみたつもりなのに。あ、そういえば私の誕生日はお祝いしてくれる?」


「二十五日だっけ?」


「そうそう、大正解」


「えーと……」


 そうこうしている内に、俺は下駄箱に辿り着いた。


「あ。じゃあ、あとでね」


 一年生の下駄箱は一階にある為、片桐は階段を一段飛ばしで勢い良く下りて行った。あんなに急いで転がり落ちたりしないのだろうか。


 ――明日から冬休みということで、校内は妙に浮き足立っていた。放課後のざわめきはいつもより大きく、ふわふわとした雰囲気が辺りを包んでいる。


 俺はといえば、別に特別嬉しくは無い。とりあえず連休になって良かったくらいの感動だ。ああ、この寒空の下を薄っぺらなコートで行き来する日々が一旦終わることは嬉しいかな。


「やっほー」


 下駄箱を出て外階段を下りたところに片桐が立っていた。そういえば片桐はコートを着ていない。


「なあ、コート着ないの?」


「相模原君は着てるね?」


「高い上にセンスのカケラも無い服だけどな。無いよりはマシだと思った。暖を取るということにおいてだけは」


「ほほー」


 フクロウか? と、瞬時に思ってしまった。


「で、片桐は?」


「私も、高いなーと思ったからっていうのもあるし、可愛くないって思ったのもある。一万円もして、あれは一体何様なんだろうと」


 思わず笑いが生まれた。


「だって一万円だよ? それで素敵センスな服なら良いけど、あれは無いと思うの。パッと見、レインコートみたくない? しかも、色は紺と黒をグルグル混ぜたような……魔女が大きな壷で煮込んだような色。無理」


 その無理な服を着て、今、歩いている俺は何なのだろう。


「そんなわけで購入には至らなかったんだけどね。でも、それ以上に大きな理由があるんだ。あ、そういえばバスが良かった? 公営のバスに乗る?」


 片桐のその言葉で、校内にある通学用のバス乗り場に行くことを互いに提案せず、ここまで歩いて来てしまったことに俺は気が付いた。


「片桐は? バスが良いならそれで良いよ」


「私は歩く方が良いな。バスは百五十円掛かるんだよ? 長距離でも無いし、歩きが良いな」


 同感だ。ということで、俺たちは公営のバス停を素通りし、しばらくは一直線に延び続ける駅への道を歩くことにした。


「さっきの続きは?」


「続き?」


「ほら、コートを買わなかった大きな理由」


「あ。そうそう、そうでした。聞きたい?」


 何故か少し勿体を付けた様子で片桐は尋ねた。


「聞きたい。気になる」


 端的に俺がそう告げると、


「では、お話しましょう。昔々、あるところに一人の女の子がいました。名前は……えーと、名前はカタギリリと言いました」


 いや、待ってくれ。何だそれは。昔話なんか頼んでいないぞ。俺が聞きたいのはコートを買わなかった理由だ。それにカタギリリって何だ。虫の名前か? えーと、って明らかに今、考えているだろう。


「カタギリリは、いつも毎日を楽しく過ごすことを目標にしていました。あ、カタギリリの好物はアイスクリームです。冬でも食べます」


 俺の心情など露ほども知らぬ勢いで、片桐は話を続けた。


 ……カタギリリ、って、まさか「片桐」から考えたのか?


「いつもいつでも明るく楽しく。それをモットーとしているカタギリリにとって、あのコートは激しく論外でした。何故なら、あのような薄暗い、重い空のような色の洋服を身に着けることは、そのままモットーを覆すことに繋がりかねないからです。つまり、明るくも楽しくも無い日々へと転化する可能性が大きかったということなのです」


 ストーリーテラーのような口調で、片桐は物語った。


「そういうわけで、カタギリリは、たとえ冬の寒い空気の中を震えながら歩くことになろうとも、あれには頼らないぞと決意した次第なのです。めでたしめでたし、ハッピーエンド」


 めでたしめでたし……か?


「っていうのは、嘘なんだけど」


「嘘!?」


「いや、ホント」


「……どっちだよ」


 意に反して、わりと大きな声が出てしまった。それだけ、片桐の話を心ならずも俺は真剣に聞いてしまっていたということだろうか。


「ホントだけど、あれは理由の四十パーセント程度かな。それより、カタギリリって響き良くない? 即興だけど気に入っちゃった」


「やっぱり今、考えたのか。カタギリリって何か虫みたいだと思ったけど」


「虫! 何ということを! 虫だって毎日を一生懸命、せっせと生きているのですよ?」


「いや、別に俺は虫を馬鹿にしていないから」


 ……何で俺はこんなことを弁明しなければならないんだ?


「そっか。それなら良いんだ。虫が生きられないところには人間も生きられないと聞くし、だから虫が周りにいることは喜ぶべきことなんだよ? さすがにスズメバチがブンブン大量に飛び回っていたら困るけど。防護服必須だよね」


「蜂蜜はうまいけどな」


 俺がそう言うと、やたらと嬉しそうな声で片桐が答えた。


「蜂蜜は神の味がするよね……! レモンとの相性が抜群でね、レモネードにすると素晴らしくおいしいんだよ」


「ああ、そういえば良く飲んでるよな」


「こういう寒い日に飲むレモネードは、また格別のおいしさなんだよね」


「レモネードって甘いのか?」


 俺が問うと、駅に着くまでの約十分間くらい、レモネードの味や作り方や魅力について片桐は切々と語ってくれた。その間、片桐の目は夢みるように輝いていた。そう見えた。


「あ。お誕生日をお祝いしてくれるならメールしてね。それでは、良い冬休みを」


 蜂蜜やレモネードの話が終わる頃に駅前に着き、そこにあるコンビニでレモネードを買った片桐は、その残りを片手にベンチから立ち上がり、そう言い残して電車に乗って去って行った。


 ちなみに、電車が来るまでの約七分程の間の話は、サンタクロースについてだった。北極に住んでいるのかとか、煙突の無い家にもプレゼントは配られるのかとか、子供にしかプレゼントは配られないというけれど、そもそも子供の定義って何? とか、そういうことを約四百二十秒間、ペラペラと話したり尋ねたりしていった。その片桐がいなくなると、急に世界が静かになったような気がした。


 サンタクロース。確かに、あの存在については誰しも一度は考えたことがあるかもしれない。サンタクロースは一人しかいないのか、たった一人で一夜にして世界中の子供たちにプレゼントを配れるのか、どうしてサンタクロースは子供のほしいものが分かるのか、サンタクロースは何処にいるのか、どうしてソリに乗っているのか……考え始めるとキリが無い。色々な角度から考えてみて、サンタクロースという存在はいないのかもしれないが、いるのかもしれない。


 物事を断定するには、客観的かつ信憑性に足る証明材料が必要だ。今のところ、俺の知る限りではあるが「サンタクロースはいない」と証明した奴はいない。ゆえに、サンタクロースはいないとは言い切れない。というのが俺の持論だ。


 ……何故、俺はそんなことをこんなにも真剣に考えているのだろう。いつもと同じように電車の中で後方へと流れ行く景色を見ながら、俺の頭は、ふと現実に戻された。


 そういえば、片桐の誕生日は今月の二十五日、つまりクリスマスだと記憶している。俺にサンタクロースについての話題を振り、サンタクロースがイメージさせるもの、すなわちクリスマスイヴやクリスマスを連想させ、更に自分の誕生日を思い起こさせようという片桐の作戦なのだろうかという邪推が一瞬、頭に浮かび上がったが、泡がはじけるようにすぐに消えた。片桐は、そういう計算の元に話をするようなタイプでは無い。と、思う。


 年内最後の登校日、普段と変わり無く定期券を改札機に通しながら、俺は思った。






 ――さて、始まった冬休み。高校に登校しなくて良いということ以外、別段変わったことは無い。隕石が自宅に落ちて来るわけでも無ければ、居間にあるシャコバサボテンが喋り出すわけでも無い。つまり、平常通りの毎日。平凡、平和。


 ああ、一つだけ、いつもとは少し変わったことを予定していた。三日後のクリスマス、つまり片桐の誕生日、それを祝うという予定がある。


 実は、結構迷った。突然に「誕生日を祝ってくれ」と言われたら、多少なりとも驚くのは普通だろう。まだ、そんなに親しいとも言えないしな。


 ――まだ?


 俺は俺の思考に疑問を感じて、天井を見ながら反芻した。


 まだ、というのはどういうことだろう。これから親しくなるつもりだとでも言うのだろうか。確かに、片桐綾は面白い。男女共に、今まで俺の周りにはいなかったタイプだ。表情が良く変わるし、話には脈絡が無いことが多いが、意外性があって引き込まれる。彼女は毎日を懸命に過ごしている。そんな気がする。


「いつもいつでも明るく楽しく……か」


 ふと、片桐が話していた物語めいた中での言葉を思い出し、それが口を突いて出た。


 カタギリリなんて言っていたが、あれはきっと片桐自身のことだろう。片桐は「いつもいつでも明るく楽しく」を軸として日常を過ごす努力をしているのだろう。それは、とても凄いことでは無いだろうか。


 学生は勉強さえしていれば良いから楽だとか、学生には悩みが無いとか言われたことがあるが、それは嘘だ。悩みが無い人間がいるのなら、是非ともお目に掛かりたい。学生だって学生なりに大変だ。そう思った。しかしながら、こういう発言をする人間に対して何かを言ったところで、それが正しく伝わるとは思えなかったし、それを理解しようとしてくれるとも失礼ながら思えなかった。だから俺は、その時その言葉を飲み込んだ。


 毎日を、楽しく。それはとても簡単なようで、とても難しいことに思えた。

 

 片桐の言葉は、俺の心に静かに息づいている。






 ――クリスマス前日の夜。天気予報をチェックした俺は非常に驚いた。


 俺が住む地は埼玉県、明日行く地は東京都、どちらも太平洋側だというのに、そのどちらもに雪だるまのマークがハッキリと付いている。


「また雪か……」


 独り言が零れた。


 冬とは言え、太平洋側地域に雪が降ることは珍しく。二週間半程前に降り落ちた雪に、初めは俺は少し感動したのだが。あの歩きづらさは二度と経験したくないとすら思ったばかりだというのに、同月内にまた雪が降ると告知されようとは思わなかった。まあ、あれは学校指定の革靴なんかを履いていたせいもあるだろう。明日の朝、予報通りに白い天使のような悪魔のようなふわふわとした冷たい奴らが認められたら、しっかりした運動靴でも履いて行けば問題無いだろう。多分。生憎、寒冷地仕様のスパイクシューズや、かんじきなんてものは持っていないしな。それ以前に、天気予報はあくまでも「予報」だ。外れないとは限らない。


 ――その時、携帯電話から明るいメロディーが響き、メールの着信を知らせた。




 -----------------------------


 From:片桐綾


 Sub:明日のお天気


 Text:やっほう!今、天気予報を見ていたんだけれど、なんと明日は雪だよ!やったね♪


 -----------------------------




 片桐からだった。相変わらずテンションが高いメールだ。


 そういえば、片桐は何度か「また雪が降ったら良いのに」とか言っていたような気がする。その片桐にとって明日の雪は喜びでしか無いだろうな。まだ「予報」の段階だが。


 というような返信をすると、一分もしないうちに返事が届けられた。




 -----------------------------


 From:片桐綾


 Sub:予報でも


 Text:信じれば願いは叶うのです。小さい時、晴れてほしくて、てるてるぼうずを作ったりしたでしょ?それと一緒なのです。


 なので、私は大雪を祈って眠ります。ちゃんと相模原君も大雪を祈ってね。では、明日を超楽しみにしています♪


 -----------------------------




 悪いが、大雪は祈れない。が、ちらほら程度の雪なら――まあ、悪くない。かもしれないな。






 そして訪れた十二月二十五日、クリスマス当日。片桐綾の誕生日。


「十六歳になっちゃった」


「なっちゃった、って。嫌そうなニュアンスだな」


 待ち合わせをした駅前、会って五分程度で片桐はそう言った。


「加齢は恐ろしいよ? 可能性が増えて行くようで、本当は減って行くのだから」


「まあ、そうかもしれないな」


 白紙だった未来には、自分の知らない内に日々、色々なことが書き込まれて行く。大人に近付いて行くことで可能性を広げて行っているように見えて、その実、可能性を淘汰されているのかもしれない。


 などと思わず真剣に考え始めた俺の思考回路は、


「雪がー降りましたー。でも、ちょっぴり物足りないのよー」


 という、片桐の変な歌によって遮断された。


「ちゃんと祈ってから眠ったのにな」


「太平洋側なのに雪が降っただけでも奇跡だと思うぞ」


「それは確かに! でも、私はもっと大量の雪に出会いたかった。そこかしこに、かまくらが作れるくらいの降雪量」


「その降雪量は歩きづらくて困る」


 あーあ。という声の後に大きく溜め息をつき、足元に僅かに積もっている雪を、歩きながらパサッと前方へ蹴飛ばした片桐。心なしか俯いているように見えた。その横顔は髪に隠れて見えない。


 俺としては大雪にならなくて良かったと思っているのだが、あまりにガッカリしているような気がしたので、何か元気付けることを言おうと思った矢先、


「自然現象にいつまでも落胆していてもダメだよね! 今、考えるべきことはこれから食べるランチのことよ。うん」


 と、俺を見上げて、


「ね、楽しみだよね。ドリンクとケーキのセットが無料なんだよ?」


 同意を求めるように片桐は俺に尋ねた。


 その表情には「期待」という感情が良く表れていて、雪への興味など何処かへ吹き飛んでしまったかのようだった。その様子がおかしくて、俺は少し笑った。


「あら、笑われちゃった。ひょっとして、食いしん坊大魔王とか思われているのかな」


「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」


 片桐の頭の上にはクエスチョンマークが見えた。


「そういえば、前に行ったパンとサラダの食べ放題も割引チケットを持っていたよな」


 話題を変えるべく、俺は口を開いた。


「……うん」


 何故か返事に間があったような気がしたが、あまり気にすること無く俺は尋ねた。


「そういうのって誰かに貰ったりしてるのか?」


 沈黙。どうしてか片桐は黙ってしまった。何かマズいことを聞いただろうか。


「うん。貰った」


 さほど沈黙は続くこと無く。しかし、それは強く言い切るような反論を許さないような、そういった語調の片桐の言葉によって崩された。だが、また沈黙。雪道を進み行く二人の足音が、いやに耳に付く。俺は所在無さを感じていた。


 そして今度、その沈黙を破ったのは俺の携帯電話の着信音だった。二人の周りだけ、しんと静まり返っていた中、明るく鳴り渡った着信音。


 ちょっとは空気を読んでくれ、と心の中で呟いた俺は電話の相手に応対し、


「午後に行きますので、よろしくお願いします」


 と告げて、通話を終わらせた。


「え、午後に何処に行くの? 一人で? まさかランチのドリンク&ケーキ無料が目当てで今日来ていて、それを食べたら、はいサラバイっていう予定なの?」


 携帯電話を閉じた瞬間、質問責めに合った俺。合わせた片桐の目には、先程までの沈黙など少しも見当たらない。少し、ホッとした。


「俺をどういう奴だと思っているんだよ」


「お金大好き?」


「何で」


「何となく」


 ――街は、クリスマスの演出に溢れ返っていた。待ち合わせ場所でもあった駅前には大きなクリスマスツリーが二本もそびえていたし、いずれも沢山のクリスマス飾りを枝々から下げていた。そして、その頂には星飾りが見えた。


 こうして歩いていても、両側に見える店のほとんどがクリスマスに染められていて、赤や緑や銀色のモールでウインドーを飾り付けているところもあれば、小さなクリスマスツリーを入り口近くに配置しているところもある。「クリスマスセール」と書かれたポップは、そこかしこで見られた。街行く人々を含め、街全体がクリスマスに包まれて華やいでいた。


「ね、午後に何処に行くの?」


「あー……あ、あのケーキ屋の外観はオシャレだな」


「超、誤魔化した」


「まあ、見てみろって」


 華々しい街の雰囲気とは逆に、片桐の服装は落ち着いたレトロモダンな感じだった。二色の色使いで、わりとシンプルなコートなのだが何故か目を引く。


「あっ、ホントだ可愛い! 屋根の上に煙突があるよ!」


 左側を歩く片桐は、そう言って右側の通りにあるケーキ屋の屋根を指差した。俺の前を横切る袖口には、チョコレート色のリボンが蝶結びになって留まっている。


「ケーキって、どうしてあんなにおいしいのかな。幸せの塊だよね。ね?」


「どういうケーキが好きなんだ?」


「全般的に愛してるなあ。チョコレートケーキ、チーズケーキ、レアチーズケーキ。モンブラン、アップルパイ、タルトレット、プリン、焼きプリン。ドーナツも……」


「そうか」


 途中からケーキ以外も入って来たが、そんなことよりも放っておくとエンドレスにお菓子やデザートの名前を挙げて行きそうだったので、僅かに言葉が途切れた瞬間を見計らって俺は返事をした。


 片桐が挙げた中で、俺は一つ聞き慣れない単語があった。


「タルトレットって何だ? タルトじゃないのか?」


「タルトの小さいものがタルトレットだよ」


 後方に流れて行くケーキ屋から首を前方に戻して、片桐は答えた。


 よっぽどあの店の外観が気に入ったのか、ケーキが食べたかったのか。俺の予想では後者な気がする。


「もうすぐ着くよ。この通りにあるから」


 サービスチケットの裏側にある、簡単な地図を見ながら片桐が言った。


「どんなケーキがあるんだろうね。メインより楽しみだな」


 ワクワク。と、頭の上に書かれているかのような片桐。


 ザクザクサクサクと雪を踏み、歩きながら、俺は片桐が右手に持つサービスチケットへと視線を向けていた。さっきの片桐の様子が、俺はどうにも気になっている。


 ――毎日は、楽しいことばかりでは無い。悩みの無い人間がいると言うのなら是が非でもお目に掛かってみたいものだ。どんなに明るく、それこそ三百ワット+αのような光を放つ片桐綾も、例外では無いだろう。当たり前に悩み事や迷い事があるはずだ。知り合って二週間強。その期間の中で片桐と関わっていた時間は少ない。メールは数える程、外出回数は今日を除けば一回で、会話をした時間も短い。


 だが人間は、およそ表面に見えているものを、その全てだと認識してしまいがちだ。と、俺は思っている。言い訳なのかもしれないが、そういうわけで俺は片桐の表面しか見ていなかった……のかもしれない。片桐という光源から放たれる光の光束こうそく、光度の値があまりにも高過ぎて、そればかりに気を取られていたような気がする。


「あ、あの赤い屋根のお店がそうだよ。結構広そうだね」


 前方に見えて来たレストランを指差し、片桐が言う。


「まさに商売繁盛中って感じだね。でも大丈夫、ちゃんと予約しておいたから。意外に賢いでしょ?」


「意外にって自分で言わなくても」


 俺は笑ってしまった。


「それが良く言われるんだよ、ちゃんと考えてる? とか、思い付きだけだと後で困るかもしれないよ、とか。阿呆だと思われているのかと、非常に心外なわけなのですよ」


「片桐は明るいイメージがあるんじゃないのか? それが転じて、ちゃんと考えているのかなと思われたりするとか」


「その通り! 良く分かったね! エスパー?」


「いや、ただの勘」


 その勘に対して惜しみ無い賞賛を告げた後、


「あとは、悩みが無さそうとか幸せそうとか良く言われる」


 と、肯定も否定も含まない淡々とした語調で片桐は付け足した。


 それは、たった今まで俺が考えていたことに非常に近いことだったので、内心でドキリという音がした。


「それも、やっぱり明るいからだろうな。良く笑うしさ」


 平静を装って俺がそう言うと、


「私、明るい?」


 と、先程の淡々とした調子のまま、片桐が尋ねた。


 俺を見上げる黒い瞳がリスのようにまるくなっている。そんな気がした。


「凄く明るいと思う」


「どれくらい?」


「三百ワットくらい」


「それはかなり明るいね!」


 先程まで、あっさりとしていた片桐の声に明かりが灯った。


 ――そこで会話は一時中断、俺たちはカントリー調のレストランの扉を開けた。







「ランチで予約した片桐です」


「お待ちしておりました。お席にご案内致します」


 案内された席は角のボックス席。角の席が落ち着く俺は、ちょっとしたラッキー気分だった。何故、人は角や端が好きなのだろうか。


「はい、メニュー。料理は予約制じゃないんだ。コース料理なら予約出来るんだけど、高校生でコース料理なんてちょっと分不相応な気がして除外したの。異議あり?」


「異議無し」


「良かった!」


 手渡されたメニューの最初のページには、大きくコース料理の案内が掲載されている。次と、その次と、その次のページもコース料理。それらは非常に魅力的なこと限り無しだが、俺は五ページからの単品料理やサラダセットなどを眺めることにした。


 片桐は既に真剣な顔で俺と同じページを見ている。そして、時折メニューの後ろの方をチラチラと確認していた。デザートのケーキなどを見ているのだろうか。


 メニューを開いてから五分程は経っただろうか。俺が顔を上げると、まだ片桐はメニューと格闘していた。そして、さっきよりも一生懸命です、という顔をしていた。


 一口、水を飲む。右に位置する窓から外を眺めると、主に緑や赤といったクリスマスカラーに彩られたいくつもの店が立ち並ぶ様と、真っ白な雪と、コートを着た行き交う人々が見えた。


 ホワイトクリスマスなんて何年ぶりだろうか。先日よりは少ないものの雪が積もったこと自体が奇跡的なのに、加えてクリスマスという日に雪が積もるとは。おそらく夜半から朝方に掛けて舞い降りた雪は、今はもう止んでしまっている。しかし、充分だ。片桐の祈りとやらは、半分くらいは聞き届けられたみたいだな。


「決まった!」


「じゃあ注文するか」


「あ、それ私が押したい」


 店員を呼ぶ為のブザーを渡すと、片桐はすぐさまそれを押した。その指には、桜色のマニキュアが薄く塗られていた。


 そして、やっぱりというか予想通りというか、当然の如くに片桐は非常に良く食べた。しかし、穏やかに流れる水のようなその動作は以前と変わり無くて。それは何処かでテーブルマナーなどを学んだ経験があるのだろうかと思わせる、それほどの流麗さなのだ。


 ハンバーグを切り分ける時にはほとんど音は立てず、銀色のナイフとフォークに軽く添えられた指先が、見る者――つまり俺に優美さを与える。一つの大皿に盛り付けられた二人分のサラダを小皿に取り分ける時も、水の入ったグラスを手に取り口元に運ぶ時も、付け合わせの楕円形をしたニンジンを食べる時も。全ての時において片桐はスマートだった。


「なあ、片桐ってテーブルマナーとか詳しいのか? 習ったとか?」


 食事中のタイミングを見計らって俺が尋ねると、


「習ってないよ? でも知ってると便利そうだよね。憧れはあるよ」


 と、あっけらかんとした様子で片桐は答えた。


「充分知っているように見えるんだよな」


「あら、儲かった」


 そう言って片桐はニッコリと笑って見せた。


 その表情は、まるで小さな子供がガラス玉を拾った時のような純粋な喜びに溢れていて、何と言うか――ひどく、好感が持てた。


 ふと、俺は自分の食べているペンネアラビアータに目を落とした。汚くは無い(と思いたい)が綺麗な食べ方でも無い。そんな気がした。辛過ぎず、しっかりしたトマトの味が口の中に広がるそれはとても美味だった。


 メインの済んだ後は、片桐が待望していたケーキタイム。


 至極真剣にメニューとの戦闘を繰り広げた後、勝者の顔付きで、


「ブッシュ・ド・ノエルと、アールグレイのミルクティー。やっぱりクリスマスと言えば、このケーキだよね」


 と、片桐は告げた。


「ああ、キリストの誕生を祝って暖炉で夜通し火を燃やしたとかいう……」


「凄い! 私は、クリスマスの薪、っていう意味を持つことしか知らなかったよ」


「いや、これくらいはネットで調べればすぐヒットするし凄くも何とも」


「あ、調べたの?」


 正面に座る片桐が、邪気の無い瞳で俺に聞いた。


「軽く。クリスマス、で検索していたら目に付いた」


「意外! 調べたんだね。クリスマスとか、そういうイベント事は割と嫌いそうに見えるから。あ、ケーキ決まった?」


 ああ、と返事をすると、テーブル横を通ったウェイトレスを片桐は呼び止めた。


「ブッシュ・ド・ノエルとアールグレイのミルクティーをお願いします。あと、えっと」


「ブッシュ・ド・ノエルとダージリンのストレートを」


 ウェイトレスは注文を復唱して下がって行った。


「ケーキ、お揃いだね」


「せっかくのクリスマスだし、ブッシュ・ド・ノエルを食べておくかと思って。ああ、そういえばさっきの」


「ん?」


「良く分かったな、俺がイベント事をあまり好きじゃないこと」


 あの時、サラリと言った片桐だったが少しばかり俺は驚いていた。観察眼が鋭いな、と。いや、しかしまさか今日の俺がつまらなさそうに見えたとしたらそれは片桐に失礼だな……。


 などと思考し始めた俺だったが、


「あれは勘よ」


 という、スパリとした片桐の発言に思考は中断された。


「勘? 俺が退屈そうに見えたとかじゃないのか」


「えっ、退屈なの」


「いや、違う。片桐からしたらそう見えたから、俺がクリスマスとかを嫌いそうに思ったのか、ってこと」


「ああ、違う違う。純粋蜂蜜のように純粋な勘だよ」


 退屈。その言葉に驚愕を見せた片桐だったが、続けた俺の言葉に心から安堵したようで、ふわりと笑って見せた。


「何となーくだけどね、相模原君ってイベントとかワイワイ騒ぐとかガヤガヤ集まるとか嫌いそうだなって。嫌いっていうかメンドいって感じかな」


「……本当に良く分かったな」


 非常に俺は驚いている。つい先程、片桐が俺に言った「エスパー?」という問い掛けをそのまま片桐に返したいくらいだ。


「単なる勘だよ。でもね、そんな気がしてたから今日、誘うことを実はちょっと迷ったんだ。と言っても、アールグレイのストレートティーにお砂糖を入れようかやめようか程度の迷いだけど」


 喩えが良く分からない。


「つまり、それくらいの小さな迷いだったってことなのです。伝わりづらいかなー」


 ――やがて、ケーキと紅茶が運ばれて来た。小ぶりのブッシュ・ド・ノエルが二つ、片桐にはアールグレイのミルクティー、俺にはダージリンのストレート。


 少し驚いたのが、紅茶がティーポットで出されたこと。


「珍しいな、ポットで出す店は」


「これなら二杯分はあるよね」


 片桐は慣れた手付きで紅茶を注ぐ。


「では、切望のケーキをいただきます」


 まるでナレーションのように言い、片桐は小さなフォークをサクリとブッシュ・ド・ノエルに入れた。そして、食べる。


 俺も紅茶をカップに注いでから、ブッシュ・ド・ノエルを一口食べてみた。ココアとチョコレートの味が広がる。甘過ぎず苦過ぎず、丁度良い感じだ。俺は、二口目を食べてから紅茶を飲んだ。ケーキの甘さがスッキリとした紅茶の味わいで緩和され、そしてケーキの糖分と紅茶の温かさのせいか、とても落ち着いた気持ちになった。片桐はと言えば、無言でサクサクとブッシュ・ド・ノエルを切り取っては、モクモクと口を動かしている。そして、その合間にミルクティーを飲んでいた。


 そういえば、片桐はミルクティーなんだな、と思う。俺は甘い物を食べる時は甘くない飲み物――紅茶ならストレートティー、他なら緑茶、ほうじ茶、黒豆茶など――が好ましい。甘いケーキを食べて甘い紅茶を飲んだら、体内が糖分尽くしになる気がする。ちょっと想像したら気持ち悪くなってしまった。


 片桐は、まだ沈黙を守ったまま食べ続けている。旨くて夢中になっているのか、マズくて腹立たしくなりつつ無理矢理に食しているのか、考え事でもしているのか……。


 何となく俺も静寂を壊さずに、ケーキを食べては紅茶を味わった。ケーキも旨いが、軽めの良い渋さがある、しっかりした味のダージリンも旨い。最近は紅茶では無くコーヒーを飲むことが多くなっていたので、新鮮に感じた。


「凄く、おいしいね!」


 唐突に片桐が言った。


「おいしさの嵐だね! すっごく夢中だったよ」


 どうやら俺の三つの予想のうち、一つ目が当たったらしい。


「ケーキは幸せの塊なんだよね。出来れば毎日食べたい」


「毎日……?」


 胸焼けしそうな日々だな。


「ケーキ屋さんに行くと、どれを買おうかなって絶対に迷うんだ。私には野望があってね。ここからここまで一個ずつ、って注文してみたいんだ」


 花咲くような笑顔で片桐は言った。よっぽどケーキが好きらしい。






 ――ケーキと紅茶の時間をゆっくりと楽しみ、少しばかり休んだ後、俺たちはレストランを出た。ちなみにケーキと紅茶は片桐が持って来たチケットのおかげで無料である。有り難い。有り難いのだが……やはり俺は先程の片桐の様子が頭から離れなかった。チケットについて尋ねた時の片桐の様子が。しかし今更、聞くことは出来ず、俺は自分の不甲斐なさを軽く嘆いた。


「おいしかったね!」


「ああ、そうだな」


「さーてと、次は何処に行く? 雪だるま作る?」


「いや、作らない」


 片桐の言葉は、何処から何処までが本気で、何処から何処までが冗談なのか分からなくなることが非常に多い。それが面白さと言えばそうなのかもしれないが。


「行きたい店があるんだけど良いか?」


「勿論!」


 雪に飾られたアスファルトの道を俺が先に立って歩き始めると、それに倣うようにして片桐が付いて来る。


 やがて隣に並んだ片桐は、


「真っ白で綺麗だね」


 と、前方を見ながらポソリと言った。


「雪が好きみたいだよな」


「うん。好き」


 夢みるような瞳で片桐が答える。


「雪が降っている時に良く思うんだ。このままずっと降り続けて積もり続けて、世界なんか隠してしまえば良いって」


 心ここに在らずのような夢見心地のような目で、片桐が語る言葉は悲嘆的だった。そして、その声は囁くように小さく、まるで雪に吸い込まれんとするかのようだった。


 どう返すべきか分からず――と言うよりも、片桐が突然に放ったそれに驚いて――俺は言葉を失ってしまった。


「あら、びっくりしちゃってる? 冗談だよ冗談。単に雪は魅力的だよねっていうお話だよ」


 少しの沈黙の後、片桐が明るくポップな様子で言った。


「こんなに綺麗なのに冬にしか出会えないんだから残念だよね。残念賞」


「そういえば、確か雪は空気中のチリやホコリを核にして、水蒸気を纏わせながら降って来ているんだったような……」


「えっ、チリにホコリ! 恐ろしい! 私は雪を食べたりしているというのに……もう食べられない」


「それって小さい頃の話じゃなくて?」


 え、今でもサクサクいただいていますよ? と、疑問に満ちた俺の顔を見上げて幸福に満ちた顔の片桐が言った。


「しかし、チリやホコリ……うん、今日でやめよう」


「今日もやめておいた方が良いぞ」


 真剣に呟いた片桐に、俺も真剣に返した。


 そういう、きっと他の人間から見れば他愛の無い会話を繰り返しながら俺たちは歩いた。いや、当人である俺たちからしても他愛の無い会話だろうとは思う。しかし、それがとても楽しく、ささやかでありながらひどく大切なものに思えた。日常は、そういうものの積み重ねで成り立っているように思えるから。空中を漂い泳いだ雪が、少しずつ地表に降り積もるように。


「見えて来た。あの店」


 俺が指を差して示すと、


「あっ、お花屋さん! 大好き! 花には人を幸せにする力があるのですよ。知ってる? 結婚式でも花束を投げるし、お祝い事には花束が似合うのです」


 と、幾分か興奮気味に片桐が言った。


 そう、お祝い事。本日、十二月二十五日はクリスマスであり、片桐綾の誕生日。それならプレゼントを贈ろうと考え、俺は生まれて初めて花屋に電話し、花を注文した。誕生日用ということでラッピングを頼み、二十五日の午後に取りに行くという約束を三日前にしてある。


 正直、花なんか良く分からない。道端に咲いているタンポポ、花壇に咲いているチューリップやヒマワリ、公園にある桜の木や、近所の通りにある藤棚ぐらいが、俺の花についての知識の関の山だ。冬の花とか、詳しいはずも無い。そんな俺が注文した花は、花の部分はとても小さく、花だと思っていたところは花では無いという、何とも不思議な花だった。


「ポインセチア!」


 片桐が言った。


 そう、ポインセチア。十二月になると、花屋やホームセンターなどに多く並べられている。その多くは真っ赤だ。まるで火のようなその部分を俺は花びらだと思っていたのだが、どうやら違うらしいことが三日前に分かり、理解した。花びらのように見えるあの赤い部分は、花でも葉でも無い。花のつぼみを包む、ほうという部分らしい。花は、中心部に複数で固まっている小さなものだ。


 と、俺は花屋にポインセチアについて問い合わせた時に聞いた。


「うわ……真っ赤」


 店員が持って来たポインセチアは透明のフィルムにふんわりと包まれ、その上部は苞と同じ赤い色のリボンで結ばれていた。


「綺麗……」


 片桐は、この空間には自分とポインセチアだけだとでも言うかのように、じっと見入っていた。


 少し大きめの紙袋に収められたポインセチア。片桐は、それを大切そうに受け取った。


 花屋を出て、


「この後、どうする?」


 買い物とかカラオケとか。そう続けようとして、片桐が俯いていることに気が付いた。


「どうした?」


 俺の問い掛けに、片桐は黙って首を横に振った。


 何かマズいことをしただろうか。実は花が嫌い――さっきの様子から考えて、それは無いな。ポインセチアに何か悲しい思い出がある。体調が悪い。もう帰りたい。どれだ?


 考えても分からないのだから聞くしかない。そう思って再度、尋ねようとした時、


「花、貰ったの初めてなの」


 と、小さな声で片桐が言った。


「凄く、嬉しくて。凄く……」


 街のざわめきに掻き消されてしまいそうな小さな声は、けれど確かに俺には聞こえていた。


 ――花屋を後にした俺たちは、片桐の希望でカラオケに行った。片桐の歌声は、まるい、飛び跳ねるようなもので、まさに片桐そのものという感じだった。


 二時間、歌った後は駅前に戻り、雑貨屋に寄った。白を基調とした店内は明るく、所狭しと沢山の雑貨が並べられていた。鍵をモチーフにしたストラップやネコのぬいぐるみ、冬季限定ホワイトチョコレートなどを次々に見ては目を輝かせる片桐。


「あ、これ買おう。素晴らしくおいしそうだよ」


 片桐が手を伸ばした先には、水晶玉のように丸いガラス製の入れ物。中には色とりどりのキャンディーが詰められていた。


「買って来た」


 かさり、と小さな紙袋を掲げて見せた片桐は、宝物を見付けたような笑顔だった。


 雑貨屋を出ると、まだ夕方の時刻にも関わらず空は薄暗く染まっていて、そこにはいくつかの小さな星が光って見えた。


「あら、真っ暗」


「冬は日が短いからな」


「ね、夕食はどうする? 私ね、何だかお腹いっぱいなんだ。モリモリ食べたくない予感で満ちています。軽くなら食べたい」


「じゃあ喫茶店でも行くか?」


 ということで、俺と片桐は駅前のコーヒーショップに入った。


 俺はエスプレッソとチョコチップのスコーン、片桐はココアとアップルパイ。


「アップルパイを考えた人は誰だろう。こんなにおいしい食べ物を食べられる私は幸せだなー」


「片桐って、幸せが顔に出るよな」


「あ、そうかも。チョコレートパフェを食べている時に、おいしそうに食べるね、って言われたことがある。自覚は無いんだ」


「おいしそうに食べるってのもあるんだけど、何かこう、幸せって感じが顔とか片桐全体から発信されていると言うか」


 実際、見ていて本当にそう思う。こっちまで幸せになりそうな雰囲気が片桐から出ていて、それが辺りを包むような気がする。


 コーヒーショップを出ると、空は本格的に黒一色に染められていて、銀色の星の光が先程よりもハッキリと輝いて見えた。十二月の風はヒヤリと冷たく、冬という季節を確かに知らせて来る。駅に向かう俺と片桐は他愛無い話をする中で「寒い」と何度か口にしていた。


「ただ寒いだけなんて損した感じになるんだよね。寒いなら雪が降ってくれないと」


 駅のベンチに座って、片桐が不満そうに言った。


「あっ、これ。ささやかなクリスマスプレゼントです」


 はい、と片桐から唐突に差し出された紙袋から、ふわりとコーヒーの良い香りがした。


「コーヒー豆なんだ。挽いてあるからすぐ飲めるよ。あっ、コーヒーメーカーある? もしくはドリッパー。うっかりしてた」


「もしかして、さっきの店で買ったのか?」


 俺は意外性を突かれて少し驚きながら尋ねた。


「大正解です! あれ、コーヒー好きだよね?」


 少しばかりの疑問を含んで片桐が問い掛ける。


「ああ、好きだけど。言ったかな」


「ううん、何回か飲んでいるのを見たし。好きなのかなーと。当たってる?」


「当たってる」


「良かった! ザ・勘違いだったらどうしようかと思った。いらないよって返されても私はコーヒー飲めないし」


 片桐はホッとした様子になり、疲れを取る時のような感じで手足を伸ばした。


「片桐はコーヒー飲めないんだな」


「んー、絶対に飲めませんよってわけじゃないんだけどね、お腹痛くなるんだ。コーヒー自体は嫌ってないんだけれども。お砂糖と牛乳を大量に入れて飲むなら好き。まるでコーヒー牛乳のようにするんだ。あれはおいしい」


 おいしさを思い出しつつ言っているような片桐に返事をしながら、俺はもう一度、コーヒー豆に視線を落とした。


「これ、ありがとな」


「いえいえ。相模原君もありがとう、ポインセチア。大切にお育てするから安心してね」


 ポインセチア。そういえば俺はまだ、誕生日のお決まりのセリフを言っていない。


「片桐、誕生日おめでとう」


 その時、温かく笑っていた片桐の表情がびっくりしたような表情に一瞬で変わった。そして、きょとん、という言い回しが似合う目になってしまった。


 ――あれ、今日って片桐の誕生日だよな?


 俺は密かに自分に尋ねてしまった。それくらい、片桐の様子はきょとんとしていたからだ。


「あー……そう、そうだった。今日は私のお誕生日でした。そうだったよ」


 自分自身に確認を取るように、片桐は独り言めいた声で言った。


「え、嘘だったとかじゃないよな?」


「あら失敬な。本日、十二月二十五日は正真正銘、片桐綾のバースデイですよ?」


「それにしては今、思い出したみたいな口振りだったから」


「あ、ちょっとうっかりで」


 ちょっとうっかりして、自分の誕生日を当日に忘れるものだろうか。しかも今日は片桐が「誕生日だから祝って」ということで誘って来たというのに。


「誕生日を祝ってもらえるのって意外に嬉しいね。雪まで降ってくれたし、今日は本当に良い日だね。ありがとう、相模原君」


 疑問を感じている俺に片桐はそう言い、自身の黒髪を撫で付けながら微笑んだ。その笑顔は、いつものパッと明るく花開いたようなものでは無く、照れたような遠慮がちな表情だった。


「いや……良い日になったなら良かったよ」


「うん、ありがとう」


 静かな沈黙が、ごく自然な感じに流れた。


 ――やがて電車の到着を告げるアナウンスが響き、俺はふと電光掲示板を見上げた。


「片桐って電車どっちだっけ」


「あっちだよ、一番線」


「じゃあ同じか」


「同じですね」


 俺たちはどちらからともなく立ち上がり、一番線ホームに足を進めた。


 途中まで片桐と俺は同じ電車に揺られて帰路を辿り、その間にした話と言えば、さっき買ったキャンディーを食べるのが楽しみとか、さすがにもう雪は降らないだろうとか、サンタクロースの存在を信じるか否かとか、そういうささやかなものばかりだった。しかし、それらは非常に新鮮で楽しく色鮮やかなものとして俺の心に残った。そして、降車間際に言った片桐の明るい、けれど静かな言葉が特に心に残された。


「誕生日をお祝いしてもらうと、ここにいてもいいんだよって言ってもらえたような気がするんだ」


 ――降りたところで手を振る片桐はいつもの朗らかな笑顔なのに、俺にはどうしてかその笑顔が切なく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ