第一章【残雪と雪消】
――今年の初雪の日にして、太平洋側にしては珍しい降雪量を記録した昨日から一夜明けた翌日、自室から窓の外を見た俺は自分の祈りが届かなかったことを知った。雪は、ほとんどと言って良いほど残っていた。
深夜に下がった気温、そして冬の弱々しい日光を考えれば当然の結果なのかもしれない。理解は出来ても納得はし難く、許容は不可だ。
残雪と氷とが入り乱れる道をいつもより十分程、多くかけて歩き、辿り着いた高校でいつも通りに授業を受け、いつも通りに帰宅しようと正門まで歩いた、その時だった。
「リセットボタンがあったら良いなって、良く考えていたからかな」
「たとえば?」
という声がして、俺は何とは無しに振り向いた。
自然、正門の左脇に寄り掛かり、向き合って話している二人の女子生徒が目に入った。その内の一人はコートも着ず、手袋もしていない。
寒そうだな、という率直な感想が生まれた。そう言う俺も手袋はしていないが。
ポケットに突っ込んだ右手を軽く握り締め、手袋を買うかなと考えながら俺は帰路を歩き始めた。
冬空は外気の冷たさをアピールするかのように白く、道も白く。南中時刻を過ぎても大量に残されたままの雪は、今朝と同じように俺の行方を邪魔していた。周囲に広がる小さな山のような丘のようなところにはチラホラと雪間が見えるものの、舗道の九割には雪か氷が蔓延っていて、歩きにくい上に腹立たしいことこの上無い。
通学用バスの誘惑には打ち勝ったものの、あまりの歩きづらさに、思わず公共用バスの時刻表を俺はバス停にて眺めた。しかし、次が来るのが三十分程は後だと分かり、やはり俺はいつものように徒歩で駅へと向かうことにした。いつも通りの俺を阻むのは、いつも通りでは無い、この雪道だった。
雪だけでは無く、氷にまでも気を付けなければならないのは非常に面倒だった。これならまだ氷が無かった分、昨日の方がマシだろう。
確実に不愉快と疲労がチクチク溜まって行く俺の後ろから、
「それでね、昨日は雪が降ってね。今もまだ溶けないで残ってるんだ。珍しいよね」
という明るい声がしたかと思えば、ゆっくりとその声の主は俺の横に並び、やがて追い抜いて行った。
彼女は、この寒空の下にコートやマフラーや手袋といった防寒具を一つも身に着けていなかった。しかし、それ以上に俺は彼女の身軽な足取りに驚いた。ヒョイヒョイと、まるで雲の上を渡り歩くような後ろ姿に、思わず俺は彼女の足元を見た。かんじきでも着けているのかと思ったのだ。だが、彼女の靴は学校指定の普通の革靴であり、俺と同じものだった。スノー・シューや藁沓を履いているわけでも無い。
俺は、また彼女の背の辺りに視線を戻した。俺の右横を通り過ぎて行った彼女の左手には携帯電話があった。通話中ということだろう、背面ディスプレイに青い光が緩やかに明滅しているのも見えた。良く、この雪と氷の道を電話をしながら身軽に歩いて行けるものだと感心する。その間にも、特別ゆったりと歩いているつもりは無い俺と、先を行く彼女との距離は少しずつ開いて行った。自身の足元に注意を払いつつも、俺は何となく彼女の後ろ姿を見ていた。
やがて電話が終わったのだろうか、彼女は一瞬だけ立ち止まり、手にしていた携帯電話をブレザーの左ポケットに仕舞ったようだった。そして、すぐにまた彼女は歩き出した。やはり足取りは軽く、それはフワフワとした浮遊感すら感じさせた。速度はアレグロよりは遅く、モデラートよりは早い、アレグレットくらいだろうか。滑らないようにとか転ばないようにとかの心は無いのだろうかと、見ているこっちがハラハラするような歩き方をする彼女。また、高校に持って来てはならない携帯電話をあろうことか高校から駅までの道のりで取り出し、しかも堂々と通話をしていたことも目を引いた。
単に注意力が無いのか? と、俺は名前も知らない彼女に失礼なことを思いながら、彼女に続くようにして駅への歩みを進めて行った。
やがて、いつもの本屋が見え始めた。その向こうにはいつもの駅。やっと、この雪と氷だらけの道を行かなくても良くなると思うと、思わず小さな溜め息が出た。ブレザーの左ポケットに入っているパスケースを取り出し、それを右手に持つ。そして視線を上げたところで、またも彼女が目を引くアクションを取っていた。
――何だ、あれ。
生まれた疑問は何度も頭の中を巡り、視線は主に彼女の指先に集中した。彼女は右手に持った何か小さなものを、冷たい冬空に翳していた。何を持っているのかまでは、ここからでは分からない。右腕を真っ直ぐに空へと伸ばし、その指先に持つ何かを見上げる彼女。しかし歩みは止めず、軽快で浮遊感を感じさせる足取りも変わらなかった。
何をしているのかは知らないが、あれでは今に転ぶのではないかと気になった。何しろ下は雪と氷の道、その上を進むあの歩き方、加えて視線は空を向いている。
大丈夫なのか? と思うものの、この離れている距離を縮めて「危ないからやめた方が良いですよ」などと告げに行く勇気も気力も俺には無い。しかし、気になる。
そんなわけで前方を行く危なっかしい彼女を見ていたが、その彼女が突然急速に地面に座り込んだので俺はまた驚かされた。彼女は背を丸めて下を向き、辺りを見回しては片手を雪の中に入れて引っ掻き回していた。
一体、何をしているというのだろうか。そう考えている間にも、歩みを止めた彼女と歩き続けている俺との間隔は徐々に狭まって行き、やがて俺は彼女の真横に立った。
立ち止まるつもりは無かった。しかし、通り過ぎるつもりも無かった。つまり、どうするべきか思考しつつ歩いている内に俺は彼女に追い付いてしまい、咄嗟に足を止めてしまったというわけで。
だが、彼女は自分の左横に立ち止まった俺を気に留めてなどいないのか、先程からしている行動を何度も繰り返すばかりだった。手袋をしていない彼女の手は心なしか僅かに赤く染まり、制服のスカートの裾は雪に濡れていた。
俺は少し迷った後、
「何をしているんですか」
と、彼女に声を掛けた。
そこでようやく彼女は顔を上げ、初めて俺の存在に気付いたような目で俺を見た。
ほんの少しの時間、俺と彼女の間には沈黙が流れた。時間にしてみれば二十秒も無かっただろう。しかし、生まれた無言空間は非常に気まずかった。少なくとも俺にとっては。
無かったことにして、このまま駅へと向かってしまおうかとも思ったが、
「落としちゃって探してるんですけど、見付からなくて」
と、俺を見上げたまま彼女が言ったので、
「何をですか?」
と、俺は聞いてみた。
彼女は雪の中に入れたままになっていた右手を取り出し、くっ付いて来た雪の破片を払うように手を何度か振った。
「石です、水晶」
そう告げた声も顔も、とても困っている様子だった。
それに引き寄せられるようにして、俺も彼女のようにその場に座り込み、先程まで彼女がしていたように雪に手を突っ込んでガサガサと動かした。
「探してくれるんですか?」
少し驚いたような、しかし喜びと安堵を含んだ声がすぐ隣から聞こえて来て、俺は短く肯定の返事をした。
「ありがとうございます!」
心底、嬉しそうにお礼を言った彼女は、再び雪の中に手を入れて探索を始めた。
五分程は経ったのだろうか。その時、俺の指先に何かが当たった気がして、俺はそれを掴んで持ち上げてみた。俺の手の中で、親指くらいの大きさをした透明な石が雪と共に光っていた。そのハッとするような存在感に、俺は一瞬、目を奪われた。
「もしかして、これですか?」
彼女へと振り向き、俺が手のひらを差し出すと、
「それです! 良かった!」
と、彼女は石を受け取りながら言った。
俺が立ち上がり、手に付いていた雪の残滓を払うと、それに倣うようにして彼女も立ち上がり、自身の手に付いていた雪を払った。
「じゃあ、俺はこれで」
ちょうど目の前に見えていた本屋に入ろうとした俺に、彼女は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました!」
「いや」
短く返事をして、俺は本屋へと足を進めた。彼女のお礼の言い方が大袈裟なような気がしたのだが、それだけ大切なものだということだろう。
雪の中にあった無色透明の水晶は、とても冷たくなっていた。僅かにその感覚が残る右の手のひらに意識を向けながら、俺はいつものように新刊コーナーを見た後、奥の文庫本の書棚へと向かった。しかし、その日は特に気に入った本が見付からなかった為、何も買わずに俺は本屋を後にした。
駅の構内へと続く階段を下り、改札に定期を通そうとして、俺は右手に持っていたはずのパスケースが無いことに気が付いた。ブレザーの左ポケットに手をやるとパスケースの感触があって安堵したのも束の間、取り出したパスケースの中身は空だった。
「おい」
困惑が声になった。確かまだ三ヵ月は有効期間があったはずの定期券。何故、それがいつも通りにここに無いのだろうか。
考えられるのは落としたということ。そしてそれは、さっきの水晶探しの時という線が濃厚だ。もしくは、それ以前にパスケースを手に持っていた時に滑り落ちて行ったか……。
俺は、すぐさま改札に背を向けて元来た道を小走りに急いだ。濡れている階段に気を付けつつ、俺はそれを一段飛ばしに下り、そして地上に続く階段を一段飛ばしに上る。雪と氷の共同戦線に注意をしながら俺は本屋の前まで戻り、その辺りをウロウロとしながら舗道を覆う雪を蹴散らした。
しかし、一向に定期券は発見出来ない。俺は先程のようにその場にしゃがみ込み、周囲の冷たい雪の中に手を入れて動かした。そして定期券に指先が触れる瞬間を期待し続けたが、その期待は実らないままだった。
仕方無しに俺は立ち上がり、更に帰路を逆走して雪を蹴散らし手を突っ込みと探索を続けたが、定期券は見付からなかった。
やがて暗くなって来たので、俺は渋々、探索をやめて再び駅へと向かうことにした。だが、本屋の前まで戻って来た俺は再度その辺りをウロウロとし、しつこく定期券を探した。しかし、冬は日が落ちるのが早い。もともと弱々しい太陽が薄雲の向こうにあるだけだった今日、既に薄暗くなってしまった今ではもう探し物など不可能に思われた。本屋から駅に向かうまでの道のりも一応探してはみたが、やはり見当たらなかった。ダメ元で駅員に聞いてもみたが、定期券の届け物は無いと言う。それが決定打になり、俺は仕方無く二百四十円をチャリチャリと自動券売機に投入し、切符を購入した。
ホームのベンチに脱力しつつ座りながら、明日からの通学はどうするかを考えた。毎日ご丁寧に切符を買うか、いや、それなら回数券の方が一枚得だから回数券が良いか、あるいは定期券を買い直すか。
けれど、もしかしたら明日以降に定期券が見付かる可能性も否定出来ない。雪が綺麗に溶け去って、俺自身か他の誰かの手によって発見されるかもしれない。むしろ、その可能性を九十九パーセントと俺は見たい。ただの希望的観測かもしれないが。
やがて電車がいつものようにホームに滑り込んで来て、いつものように俺はそれに乗り込んだ。銀色のポールに寄り掛かりながら後ろに流れて行く景色を何とは無しに見ていた俺は、大切なことを見落としていたことに気が付いた。
高校は、もうすぐ冬休みに入る。あと二週間弱だ。それなら定期券を買い直すよりは、その間は回数券で通学をした方が良いだろう。しかし、それにしても予想外の出費に変わりは無い。俺は、また軽く脱力感を覚えた。それに冬休みが空けても定期券が見付からなければ、やはり買い直すしか無いのだ。としたら、明日から定期券を購入した方が金額的には得なのか?
二十分程の乗車時間は、明日からの通学を回数券にするか定期券にするかばかりを考え、どちらにしろ出費するということに気重になっている内に過ぎた。
氷の中にいるような空気の中、見上げた冬空は暗く重く。まるで俺の心を映したかのようだった。などと詩的なことを思っても、迫り来る明日という現実からは逃れられない。軽く自嘲気味になりながら、俺は自動改札機に切符を通した。
「さがみはられい君って、いらっしゃいますかー?」
放課後、まだ帰りのホームルームが終わったばかりの教室にはクラスメイトの半数以上が残っていた。そんな中、かなりの大きな声で呼ばれた俺の名前。これからいつも通りに帰路を辿るべく鞄を手にして立ち上がるところだった俺は非常に驚き、ほとんど反射的に声のした方を見た。
――そこにいたのは、昨日の女子生徒だった。
大胆にも通学路を歩きながら携帯電話で話をし、雪と氷が表面を覆う道を雲の上を歩くような足取りで身軽に進み、突然に何かを空に翳したかと思えば蹲り、石を落としたと言うので探してやった、昨日に出会った生徒。
何故に彼女が大声で俺の名前を呼んだのかは分からないが、
「さがみはられい君、いませんかー?」
と、教室内をキョロキョロしながら更に俺の名を繰り返した後、
「……いないなら、良いや」
と、速攻で諦めて立ち去ろうとしたので、
「待て」
と、俺は立ち上がり、若干、慌てて彼女を引き留めた。
彼女の第一声で静まっていた教室内に、俺の声だけが響いた。その事実を頭の片隅に捉えながら教室の後ろ扉に足を進めている途中で、廊下に立つ彼女がクルリと振り返って俺を見た。
「あ、さがみはられい君ですか?」
「……ああ」
何かが意識に引っ掛かった。その正体を突き止めようと動き始めた俺の脳味噌の活動を妨げようというかの如く、彼女は良く喋った。
「良かった、見付かって。一年生の教室を八組から順に回って、そして二年生に来たんですけど、まさか一組にいるとは思いませんでした。書いてある年齢的に一年生か二年生だとは思ったんですが、まさか十六番目に当たりを引くとは驚きです。先生に預けちゃおうかとも思ったんですけれど、やっぱり自分で探そうと考えて頑張った甲斐がありました!」
本当に待ってくれ。勢い良く話し過ぎだ。しかも、どこからツッコミを入れたら良いか分からない発言もあった。
何から尋ねようか、とりあえず俺に何の用か聞こうかと考えて口を開き掛けたその瞬間、彼女はまたも喋り始めた。
しかし、その言葉の初めには俺の尋ねようとしたことが乗せられていたので、俺はそのまま彼女の言葉を聞いていた。
「これ、今朝、拾ったんです。困ってると思って。朝のホームルームの少し前に一年八組と七組に行って、一時間目の休み時間に一年六組と五組に行って、そうやって空き時間ごとにちょっとずつ探索を続けて来たんですよ。まさか当たりが最後の最後とは思わなかったけど、ラスボスはそういうものだし納得も出来ます。あ、それでこれはいらないんですか? いりますか?」
話しながら、彼女はブレザーの右ポケットから一枚の定期券を取り出して俺に差し出していた。それは間違い無く昨日に俺が落とした定期券で、それがこうして早々に見付かったことは嬉しいのだが、俺はまず何を言うべきか軽く悩んでしまった。特に彼女の末尾の言葉の「いらないんですか? いりますか?」とは何事だ。俺に渡す為に持って来て差し出したのでは無いのだろうか?
「いります。わざわざありがとう」
「ですよね、もちろんいりますよね。定期券なんて買い直したら大きな出費だし、それ、まだ三ヵ月くらいは有効ですもんね。良かったですね、見付かって。大切にしてあげて下さいね」
色々な疑問を抱えながらも定期券を受け取り礼を言うと、またも彼女は瞬く間にペラペラと話した。お喋りが好きなのだろうか。いや、そんなことよりも俺には気になっていることがある。
「それでは私はこれで。ではでは」
と、先程のようにクルリと背を向けた彼女を俺は思わず再び引き留めた。
「なあ、昨日、石を落とした人だよね?」
彼女は、またクルリとこちらを向いたが、その表情には戸惑いが浮かんでいた。
「ほら、本屋の前で」
俺が情報を追加したところで、彼女の戸惑いは消えなかった。むしろ、その深さが増したような気さえする。
そして、俺が感じていた引っ掛かりという名の潜水艇も更に深度を深めて行った。さがみはられい君ですか? と尋ねた時、彼女は俺に対し全くの初対面ですと言わんばかりの態度だった。それが俺には引っ掛かりとなっていた。彼女は、この短い数分の間にかなり気になる発言を数々重ねたが、それよりも気になったのが、その初対面のような構えだった。
彼女は、更なる俺の言葉を待っているのか、それとも単に去るタイミングを図っているのか、そのままそこに立ち尽くしていた。やはり表情に戸惑いを残したままで。
「昨日、本屋の前で石を落としてさ、それを一緒に探したの覚えてない? 何だっけ、あの石。透明で冷たい……」
「水晶?」
俺の言葉の続きを拾うようにして彼女が言葉を紡いだ。
「それだ」
短い肯定を返すと、やっと彼女の顔付きが変わった。
「水晶を見付けてくれた人ですね! あの時はありがとうございました! 大事なものだから凄く嬉しかったです……!」
先程からの戸惑いの代わりに、大きな喜びが彼女を包んでいた。
「あ、ああ。見付かって良かったよ」
引っ掛かりの名を冠した潜水艇が浮上した今、特に何を話したいというわけでも無かった俺は言葉に困り、彼女の勢いに押されるまま適当な相槌でその場を凌いだ。
「あの、携帯持ってますか?」
「……持ってるけど?」
「アドレス交換、しませんか?」
「……良いよ」
唐突な提案に疑問を感じつつもOKしてしまった俺は、俺自身にも疑問を感じていた。
「良いよ、って、どっちの良いよですか? オッケーってこと? それとも遠慮申し上げるって意味?」
「オッケーの方」
俺が問い掛けに答えると、彼女の顔がパッと明るくなった。
「そうですか、それでは早速……」
と、彼女はブレザーの左ポケットから携帯電話を取り出し掛けた。ので、俺はそれを慌てて止めた。
「え、アドレス交換しないんですか? 真っ赤な嘘っぱちだったんですか……」
「いや、校内で携帯はマズいだろう。教師に見付かったらどうするんだ」
彼女は一瞬の間を置いた後に、なるほど、と頷いた。
「リセットされたのかと思って焦っちゃった。それじゃあ一緒に帰りましょう。で、駅のベンチに座って是非とも赤外線通信を。定期券を使っているってことは電車通学ですよね? 私もそうなのです」
半分姿を見せていた携帯電話を元の通りに仕舞い込み、彼女は水が流れるが如くに絶え間無く言葉を続けた後、
「では、鞄を取ってから正門前に行きますので」
と、俺の返事を待たずに足早に去って行ってしまった。
「……凄い」
自然に生まれた呟きは、その言葉だった。それは端的で間違いの無い、彼女の形容詞のように思えた。
手に持ったままになっていた定期券をパスケースに入れて教室へ戻ると、そこにいた大多数のクラスメイトが俺を見ていた。
……確かに、彼女の声は少し大きかったかもしれない。それに廊下は意外に声が響く。もしかしたら会話の九割方は教室に筒抜けだったのかもしれないと思った。会話と言っても、やはり九割方は彼女の言葉で埋め尽くされていたような気がするが。
俺は自然を装うようにして自分の席まで戻り、既に帰り支度のしてあった鞄と机の上に置いていたコートを手にして教室を出た。
――いつもの廊下、いつもの下駄箱、いつもの正門。いつもと違ったのは、その正門に彼女が寄り掛かっていたこと。
昨日の帰り道に大量に残っていた雪はすっかり消え去り、いつも通りの帰路と風景が姿を現していた。打って変わって歩きやすくなった道に感謝しつつ、やはりいつも通りが良いと俺は思った。
こうしてほとんどが普段と変わらない中、横を歩く彼女の存在だけが異色だった。少しだけ、俺は落ち着かなかった。と言うのも、彼女は先程と全く様子が変わり、正門からバス停を過ぎたところまで歩いている現在、その間中、ずっと無言だ。視線は、つま先に固定されている。時々、思い出したようにヒュウと前方から吹く細く冷たい風が、彼女の黒髪の毛先を肩の上でチラチラと揺らしていた。
――もうすぐ、いつもの本屋が見えるだろう。あの角を左に曲がって少し進めば左手側に本屋、その先にはいつもの駅がある。角を曲がってから駅までは徒歩十分くらいだ。
高校からここまでは徒歩二十分くらいだが、その間に一言も言葉を発していない俺の隣を歩く彼女は未だに無言で、そして、やや俯き加減のままだ。
俺は、だんだんこの沈黙空間に耐え切れなくなりつつあった。彼女の様子が先程と違い過ぎることも気になっているのだろう。しかし、この空気を打破すべく話し掛けようにも俺はまだ彼女の名前を知らなかった。それでも何も言わないよりはマシだと軽く話題を考え始めていたら、
――チャララッ、チャッチャチャチャ♪
という、この場にそぐわない明るく軽快なメロディーが彼女の左ポケットから流れて来た。
着メロと言うよりは電子音の集まりと言うべき、そのレトロテイストな音楽は間違い無く携帯電話への着信を知らせるものであり、予想通り彼女はポケットから携帯電話を取り出し、パカリと開いた。
「もしもーし!」
今の今まで、ずっと無言で俯いたまま歩いていたとは思えないほどに、彼女の声は明朗だった。
「今? 学校からの帰り道。もうすぐ駅が見えるよ」
その快活な声音に若干の驚きを感じつつも、学校からの帰り道と知りつつ携帯電話で通話をしている事実の方に、俺は更なる驚きを感じていた。そもそも、携帯電話をマナーモードにしていなかったことにも驚いた。まだ下校中の生徒は多数いるし、それに通話中、もしも教師に見付かったら面倒なことになる。というような思考は彼女に存在しないのだろうか?
「……うん、雪は全部溶けちゃったよ。短い幸せだったよね。せっかくの雪景色だったのに。次はいつだろうね?」
仮に、太平洋側地域にまさかの次があるなら、今度はもう少し控え目に舞い降りてほしいものだ。雪は白い天使、と表現されているのを何かで読んだことがあるが、あんなに降り積もった挙句に一部は凍り付き、行く手を阻むなら、白い悪魔としか俺には思えない。
「今日? ううん、大丈夫! じゃあ、えーと……うん、分かった。待ってるね。またねっ」
パタン。彼女は勢い良く携帯電話を閉じ、元の通りにブレザーの左ポケットに仕舞った瞬間、
「そういえば無言でした! ごめんなさい!」
と、これまた勢い良く俺の顔を見上げて告げた。
「あ、ああ。別に良いよ」
その勢いに驚きつつそう答えた俺は、どうして彼女は無言だったのだろうという疑問が頭を掠めて行ったのを感じた。
「ホントに失礼しました! 考え事をして夢中になって、つい無言に……!」
「いや、気にしてないから」
口にはしていなかった俺の疑問に、やはり勢い良く答える彼女。
「世界って丸いんだよなあ、だから私がこうやって歩き続けて行けばいつかは世界を一周して、いつかは元の場所に帰って来るんだよね、それって無休憩で実行し続けたとして何年くらい掛かるんだろう、一年くらいで可能なのかな、とか考えていたら、やめられない止まらない状態になってしまって」
そして、尋ねてもいない考え事の内容について彼女は少々、弁解気味に語り。
「ごめんなさい」
と、少しの間を空けた後に謝意を述べた。
それが、あまりにも落ち込んでいるように見えたので、
「いや、本当に気にしていないから。大丈夫」
と、俺はフォローの言葉を告げた。つもりだった。しかし。
「そうですか、気にしていないんですか……」
彼女は俺から視線を外し、再び自分の靴のつま先を見つめてしまった。そしてまた、沈黙の空間が生まれた。
……俺は何かマズいことを言ったのだろうか。焦りつつ弁明をし、謝る彼女をフォローしたつもりだったのだが。
やがて俺たちは本屋を通り過ぎ、駅前にあるコンビニの前まで来た。
「あ、何か飲む?」
「はい!」
気まずい空気を打ち破るべく言った俺の言葉で、パッと顔を上げた彼女の目は心なしか輝いていた。
「さがみはら君は何か飲むんですか?」
コンビニの手動扉を片手で押しながら、彼女は振り返った。
「あー……コーヒーかな」
正直、彼女が良く分からない。
冬の寒さが深まる十二月の中旬間近、俺は缶入りのホットコーヒー、彼女はホットレモネードを手に、いつもと変わらないこの小さな駅にあるベンチに座っている。その事実に少しばかりの違和感を覚えつつ、俺は一口、コーヒーを飲んだ。隣に座っている彼女は、二百八十ミリリットルのペットボトルを両手で持ち、その温かさを味わうかのようにしていた。そして一口飲んでは、やたらと嬉しそうな顔をする。
「あ! さっそく赤外線通信をしなくては」
一秒前の表情とは一転、彼女は焦燥感すら感じ取れる顔になった。そして素早くペットボトルのキャップを閉めてベンチに置くと、いそいそと携帯電話を取り出し、パチリと小気味良い音を立てて開いた。
「あれ、しないんですか?」
赤外線通信。と言外に告げて、彼女は不思議そうな目で俺を見上げた。
「ああ、ちょっと待って」
缶コーヒーを右脇に置き、俺は鞄の中から携帯電話を取り出す。
「じゃあ、私が送りますね」
赤外線センサー同士を合わせると、あっという間にデータが送られて来た。そしてデータを保存する時に「片桐綾」という名前が目に入った。
「はい、次は、さがみはら君が送って下さいね」
語尾に八分音符のマークでも付いていそうな感じで彼女は言い、再びセンサーをこちらへ向けた。
データを送信して少しした後、
「あ、やっぱり合ってたんですね、読み方」
と、携帯をカチカチ言わせながら、半ば独り言のように彼女が零した。
「読み方?」
「はい、名前の読み方。ちょっと自信が無かったんです。でも今、見て安心しました」
ああ、定期券で見たのか、と俺は思い当たった。
しかし、読みに自信が無い名前を、あんなに大きな声で呼んだのか? もし間違っていたら、どのクラスを探そうと定期券の持ち主とは会えないままだっただろう。
「あ、私の名前は読めますか?」
「かたぎりあや」
「大正解です!」
「いや、これは読めるだろう」
そうこうしている内に「まもなく二番線に上り列車が参ります」と、常と変わらないアナウンスが流れた。
「あ、乗りますか?」
「ああ……こっち?」
「いえ、あっちです」
「そうか」
向かいの二番線にはガタガタと音を立てながら電車が滑り込み、俺と同じ制服を着た何人かの学生がホームに立ち始めた。
携帯電話を鞄に仕舞い、飲み掛けの缶コーヒーを持って俺が立ち上がると、
「それじゃあ、また」
と、彼女――片桐綾が言った。
振り返ると、ひらひらと片手を揺らしながら、それはもう楽しそうな笑顔を見せている彼女と目が合った。何がそんなに楽しいのかサッパリ分からないが、笑顔を見て嫌な気分にはならない。つられて俺の顔にも少しばかりの笑顔が浮かんだ――ような気がした。
「また」
それだけ言って俺が電車に乗るとすぐに扉は閉まり、ほどなく電車は走り始めた。扉の向こうには、先程と同じように手を振る彼女が見えた。
やがて電車は駅を後ろに送り、見慣れた景色が視界に映り込み始めた。その平素と変わらない様にいつもなら退屈を覚えているところだったが、今回は何故か違った。何故か。それは聞かずとも分かり過ぎるくらいに分かりやすい。
まるで怒涛のようにやって来て、ダッシュボタンを連打するかのような勢いで話し、色々と引っ掛かる話や単語をバラバラと落とし、それを俺が拾い集める間も無く、本当に色々と気に掛かる様子を見せた彼女。
「何だったんだ……」
ごく小さく、疑問の声が洩れた。
しかし、そんな彼女とアドレス交換をした俺自身も何だったんだ、とも思える。何と言うか、勢いに負けたと言うか……。
ラスボスがどうとか、世界は丸いとか色々言っていた気がするのだが、どうも話に脈絡が無かったせいか、あまりハッキリと記憶が出来ていない。けれど、今の僅かの間の話や発言や態度を見聞きして、とにかく勢いがある、ということは確実に理解していた。
――その夜、十時を回った辺りで携帯がメールの着信を知らせた。
読み掛けの漫画を伏せて、パカリと携帯を開く。片桐綾からだった。
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From:片桐綾
Sub:初メール♪
Text:やっほう!明日は土曜日です。ってことは、お昼ご飯は持って来ないよね?二十種類のパンが食べ放題!の、お店の半額クーポンを二枚貰ったので、学校が終わったら一緒に行きませんか?
あ、でも部活動があるのかなー。どうかなー。
そーいえば、相模原君って二年生ですね!私、敬語を使えていたかな…?超不安。
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何とも彼女らしいメールだと思った。話していた時の口調や雰囲気が目の前に浮かんで来るようだった。しかし、昨日と今日に少し話したばかりで、パン食べ放題に誘って来るというのも凄い気がした。やはり、彼女は勢いがあるようだ。などと考えていたら、またメールが受信された。
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From:片桐綾
Sub:追記
Text:サラダも食べ放題!
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思わず笑いが洩れた。だから行こうよ! と言う彼女が容易に想像出来た。明日の午後、別に用事は無い。むしろ暇だ。それに半額は魅力的だ。
その後、店の場所と値段を尋ねて、俺はその誘いを受けることにした。そして「敬語は面倒だからいらない」と最後に書き足したメールを送信して、携帯を閉じた。
明日は千円でパンとサラダが食べ放題である。他に一品は料理が付くらしいし、非常に楽しみだ。
それにしても、明日もまた彼女は今日のように勢い良く話すのだろうか。そして、脈絡の無い話を流水の如くに述べたり、何かが引っ掛かる単語を霰のようにパラパラと落としたりするのだろうか。その未知数ぶりが少し怖くもあり、少し楽しみでもある俺がいた。
とにかく、明日はパンとサラダが食べ放題である。明日の昼飯はいらないことを告げる為、俺は立ち上がり部屋の扉を開けた。