竜の楽園に行きました〈2〉
リリーとジョンを乗せたシルバーは急上昇し、谷の上の風を捉え、もの凄いスピードで飛んでいった。
その後ろをペコが必死についていく。
ジョンがリリーの手ごと手綱を握ったお陰でリリーの手の震えはおさまり、間違って落下することはなかった。
「手を掴んでいてくれて、ありがとう」
リリーがそう言って後ろを向くと、ジョンの心配そうな視線とぶつかった。
「リリーを怯えさせているのは誰? さっきの騎士たちの中にそいつがいたの?」
「う、ん……」
リリーは竜の楽園に到着するまで、ハロルドとの婚約破棄について話すことになった。
「私が9歳の時だったわ。父が言ったの『リリーは将来公爵家の長男と結婚するんだよ。私の信頼している友人の息子さんだから、きっと幸せになるよ』って。
子爵家と公爵家の結婚は普通あり得ないんだけど、父はコーリン・ステファノフ公爵とは子ども時代からの友人で、学生時代に父が彼を救うような出来事があったらしいの。
その時から父に恩義を感じていたのね。長男のハロルド様が12歳になった時、コーリン公爵は父に『君の娘さんを息子と結婚させたい』と言って下さって、とんとん拍子で婚約は成立したわ。
婚約の話を聞いて私は胸をときめかせたわ。お父様の信頼するお友達の息子さんですもの、きっと優しく素敵な人だって。4年間、私は彼のことを王子様みたいに想像して、会える日をそれは楽しみにしていたの。
でも、初めて会った舞踏会で……」
リリーは初めて会ったハロルドが氷のように冷たい態度をとり、リリーを拒否したことを話す。
「後から分かったことなんだけど、婚約が決まってからハロルド様は反抗期に入って、親が決めた婚約のことをとても嫌がったらしいの。だから私が14歳になるまで一度も会って下さらなかったのだわ」
「それに、ハロルド様はとても美しくておしゃれな方だから、私のように地味で垢抜けない私のことを見て、きっと心底がっかりなさったんだわ」
「でも、両家で交わされた婚約はそう簡単には破棄できないんじゃないの? 僕はそういうのよく分からないんだけど」
「ええそうね。父が言うには、ハロルド様のお父様が婚約破棄の数ヶ月前から肝臓の病気で倒れて寝込まれているの。だからその頃から家の中のことも対外的なこともハロルド様が決めることができるようになったとか」
「なるほど。で、婚約破棄の手紙がハロルドから来て、受理したと言うわけだね?」
「うん。でも、こうなって良かったと今は思ってる。私にとってハロルド様は身分が違いすぎてつり合わないし、少しの好意も持たれていないのに一生を共に過ごすのは辛すぎるもの」
リリーはふぅとため息をつく。
この話をすると今だに胸がモヤモやし、じくじくと心の傷がうずくのだ。
「彼のこと好きなの? 今もとても傷ついているみたいに見えるんだけど」
「好きじゃないわ。ただ夢を見た分がっかりしてしまったし、私の存在を全否定されてしまって、とても怖ろしくなってしまったの。私、小さい頃は女子校だったし男の子と接する機会が殆どなくて、ハロルド様とその周りの人しか知らないの。……女性として、自信がなくなってしまったし……私と結婚してくれる人なんて、いないんじゃないかって……」
リリーは喋りながら、自分の気もちが整理されていくのを感じた。今までペコのお世話で忙しく楽しくて、考えないできてしまったけれど。
ジョンはリリーに重ねた手に力を入れる。
「ハロルドは全く残念なことをしたな。リリーの可愛さや優しさを知る前に婚約破棄してしまったんだから。リリーはもっと自信をもって。自分のことを卑下したらダメだよ。リリーはね、例えると谷の奥深くに咲く一輪のゆりの花みたいな女の子なんだよ。あるいは、海の底の真珠貝に抱かれ守られてる一粒の真珠かな。簡単にはその存在に会うことはできない、でも出会ったら魅了されて自分のものにしたくなる」
ハロルドが気が付かなくて本当によかったよ、とジョンは最後に小さくつぶやいた。
ジョンの優しい労りのある言葉が、リリーのひび割れてかさかさだった部分に染み込んでいく。
「ジョンは人を癒やす魔法の言葉をたくさんもっているのね。私、ジョンと出会ってから、いっぱい前むきな言葉をもらってる。どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「それは当然、リリーのことす……
ピキューン! ピキューン!
タイミングよくペコが後ろから大声で鳴いた。
ジョンがふり返るとヘトヘトになったペコが涙目で訴えている。待ってほしいと言っているようだ。
「しまった。速く飛びすぎたかな? ごめんよペコ」
話がとぎれてしまいジョンは小さく息を吐いた。
そうこうしているうちに、2人と2匹はようやく竜の楽園に到着した。
◆◆◆
そこは竜の楽園と言うのにふさわしい場所だった。
岩の大地の上にはふかふかの苔や一面の花畑が広がっている。果樹は色々な種類の実をたわわに実らせ、緑の大きな葉を繁らせる大木があちらこちらに涼しい木陰をつくっている。
奧にはこんもりした岩山と小さな滝があり、滝壺からこちらにむかって清い小川が流れている。
そしてその園の中で虫や小動物、竜たちがのんびりと草や実を食みくつろいでいるのだ。
「なんてステキな場所! まるで天国みたい」
渓谷の上流部にこんな美しい場所があるのかとリリーは驚いた。
「あら? ぺコたちは?」
「ほら、あっちだよ」
シルバーとぺコはさっそく他の竜のところへ行き、おいしい草を食べはじめている。混ざっていると、どの竜がペコなのか分からなくなりそうだ。
「そうだわ。お弁当にしましょう? 今朝ジイヤといっしょにサンドイッチを作ったの」
「それは楽しみだな」
リリーはカバンを開けて「そうだったわ!」と声をあげた。
「これはペコの観察記録ノートよ。返すのはいつでもいいからね?」
「ありがとう。これは凄い物を借りちゃったな。なくさないようにカバンにしまっておくよ。家でゆっくり見るからね」
「うん!」
ジョンは自分のカバンの奥にリリーのノートを大事にしまう。
2人は木陰に座り、サンドイッチを食べた。
「とっても美味しいよ」
「なら良かった」
きれいな空気、美しい野外でのお弁当はどうしてこんなに美味しいのだろう?
ジョンと一緒に自然の中で竜を眺めている時間は、なんて楽しいんだろう?
リリーは、この時間は人生の中でもとくべつ幸せな瞬間だと噛みしめる。
私は今幸せ。
だとしたらお父様お母様、ジイヤたちも幸せかしら?
ふとアンナと水晶玉の言葉を思い出す。
≪これから出会うもの、人を大切にしなさい≫
たまごを拾って温めてみた。
ペコに出会えた。
そしてペコを通してシルバーとジョンに出会えた。
大切にすべき人たち。
小川の方でペコとシルバーがじゃれあって水あびをしている。
こんな時間が続いたらいいな……。
どうか続きますように。
リリーは目をつぶり心の中で祈る。
そうしないと幸せが手から零れ落ちてしまいそうな気がしたのだ。