第5話
グランメリエ家にティナが嫁いで来て、既に1か月が経とうとしていた。
この一カ月、気づけば月が変わっていたというほどにティナの日常はひどく緩慢で、変わり映えのしないものだった。
どれほどかと言うと、まず朝起きて朝食を終えると、庭の植物に水やりをする。
それが終わると昼食で、午後は暇つぶしに刺繍や編み物などをしてやり過ごす。
夕食を終えると手紙を書いて、就寝。
以上のことを約31日間。寸分の変化もなく毎日毎日繰り返している。実につまらない日々だ。
「せめてお茶くらい一緒に出来る友達がいればいいのに」
あまり文句や小言を口に出さないティナがぼやいても仕方ないほどに、毎日が暇だった。
せめてもとロザリーを何度かお茶に誘ったけれど、使用人なんかが主と席を共になど出来ないと断られてしまっている。
規律やマナーに厳しいしっかりとした育ちの女性なのだろう。
その証拠にロザリーは毎回とても丁寧に、心をこめてお茶を入れてくれて、ティナの身の回りのものにも気を使ってくれていた。
彼女のおかげでティナは何不自由のない生活を出来ている。感謝してもしたりないほどだ。
お茶に付き合ってくれないのは少し寂しいが、こんなに尽くしてくれている彼女に不満など言えるはずもなかった。
---誰一人知る人のいない首都での生活。
残念ながら庭仕事は水やりくらいしか任せてもらえてない。
都会の令嬢は土で手を汚すなんてもっての他らしく、ティナはただこんなものを作ってほしいと指示を出すだけでよいらしい。
侯爵家の妻として正しい姿がこうなのだと諭されてしまえば、もう何も言えなかった。
野山をかけて育ったティナにとってここでの生活は思った以上に窮屈だ。
そして持て余した時間もどうにもならない。
ティナはため息を吐きながら、編み棒を動かす。
今やっているのはレース編みだ。細かいから時間がかかる分、暇つぶしにはちょうど良い。
「普通の奥さんなら、社交界で忙しいのでしょうけど」
ティナにはそんな役割は求められていないらしい。
だって何の仕事も、夜会や茶会への出席も、言い渡されることなく1月がもう経ってしまっているのだから。
田舎に住む実家の母でも、もっといろんな場へ出かけて余所の貴族たちと交流を持っていたのに。
(もしかすると、リカルド様はマリアンヌ様を令嬢をエスコートしているのかも)
だからティナは社交の場へさえも出る必要なないということか。
そんなことを考えながら、ティナは延々と編み針を動かす。
丸く纏めた白く細い糸の玉が減っていく様子だけが、時間の経過を教えてくれる。
「……はぁ」
また、今日何度目かのため息を吐いてから、窓の外を見た。
青々とした晴天だ。実家にいたころならば外へ飛び出していたことだろう。
「そういえば、まだ外出したことがなかったわね」
実家のレジトール周辺は田畑や放牧地ばかりだったから、外出といっても散歩くらいだったけれど。
考えてみればここは首都。
この国でもっとも栄えている場所だ。
街にはたくさんの商店があふれ、賑わっているのだろう。
-----暇つぶしには、なるかもしれない。
「どうせほかに、何もないのだし」
引っ込み思案で自分から活発になるなどあり得ない性格のティナが、思わず外に出てみたいと思ってしまうほどに、彼女は時間を持てあましている。
ティナはテーブルの上に置いてある鈴を手に取り、2度ほど振った。
リンリンとなる音は高く響き、隣室で控えているロザリーにまで届くだろう。
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王宮近くにある通りには、比較的裕福なものたちが訪れる高級店が整然と並んでいる。
気飾った紳士淑女しか見かけない閑静な場所にティナとロザリーの乗った馬車は止められた。
実家ではなかった都会的な空気に少し戸惑いながらも、馬車を降りて綺麗に整備された石畳の道に足をつける。
首都では中心部に富裕層が集まり、反対に王宮から離れれば離れるほど治安の悪さも上がるらしい。
わざわざ厄介ごとに巻き込まれに行くような冒険好きでもないので、大人しく一番平和的なここを外出の先に決めたのだ。
「ティナ様、気になるお店はございますか?何でもおっしゃって下さいませ」
「そう、ね…可愛い髪飾りとか見たいかも」
「でしたらあちらの方に…」
「おおおっと!!」
並ぶ看板に目を向けてながら店を見つくろっていたティナとロザリーの会話を中断したのは、背後からした大きな声。
驚いて振り向くと、何やら赤い球状のものがこちらへと転がってきている。
「何?」
「…林檎ですわね」
「あぁ。そうね…林檎、ね」
赤い球体のものは、間違いなく林檎。
それが幾つも幾つもころころとこちらへ転がって来ていた。
今のいままで気づかなかったけれど、どうやらこの通りは僅かに坂道になっているらしい。
上の方で穴の開いた紙袋を手に慌てている男の様子からすると、うっかり落としてしまったリンゴが勢いずいてしまい、下の方へ転がって止まらなくなっているのだろう。
さすがにこれを見て見ぬふりをするほどの悪人ではないティナとロザリーは、1つ、2つと順々に足元に転がってくる林檎を順番に拾っていった。
傾斜はわずかなものだからそれほどに速さはなく、幸いにも8つ全部をせき止めることができた。
「すまない!助かった!!」
そういって穴の開いた紙袋を手に走って来たのは、金髪の男性と、後ろには彼の連れらしいもう少し年上に見える赤毛の男だ。
金髪の青年はかぶっていた帽子を脱いで胸元に置き、ティナたちに向かって丁寧に腰を折る。
その間に、赤毛の男がティナとロザリーから林檎を回収していく。
実に統率のとれた2人の行動は、おそらく長いこと共にいる主従の関係なのだろうと予想がついた。
「いいえ。お気になさらずに。でも、ずいぶん痛んでしまいましたね。瑞々しい良い林檎ですのに」
「いやいや。焼き菓子に入れてもらうつもりだから形が崩れてもかまわない…な?」
金髪の男が赤毛の男に同意を求める。
「もしかしなくても作るのは私ですか?」
「嫌か?では私が作ろうか」
「……やめてください。厨房の者がひっくり返りますよ。私が作ります」
「そうかそうか。あっはっは」
場を離れるタイミングを見失ったティナとロザリーは、気軽い彼らのやりとりを眺めていた。
声を上げて笑う彼に合わせて揺れる金髪。
丁寧に手入れされているのか、太陽のにさらされた髪が淡く光っているかのようにも見える。
(目は、きれいな青。…王子様みたいな人だわ)
金髪碧眼で、すらりとした体躯の長身。
爽やかに笑う表情にも嫌味がなくて、まるで絵物語に描かれた定番の王子様のようだと思うのはティナだけではないだろう。
その証拠に、通りを歩いている女性たちが揃って彼に熱い視線を浴びせている。
そして彼の1歩後ろにいる赤毛の男は、おそらく金髪の男より年上の30歳前後。
腰には細い剣を穿いていて、こちらも絵物語の中の騎士を思い起こさせる。
ぼんやりとそんなことを考えていたティナに、金髪の青年が急に振り向く。
何を言うのかの首をかしげて待つティナを、彼はじっと綺麗な青い目でただ見つめてきた。
まるで観察するかのような、探るかのような、身の内までも見られているかのようなほどに、ひたすらに凝視されてしまう。
「……?」
(な、何…?)
「もう参りましょう」
ロザリーも無言のまま見つめてくる男を不思議に思ったのか、ティナにそう耳打ちをした。
もちろんロザリーの意見に大いに同意するで頷いてみせる。
いまだにティナを見つめてる金髪の男に、ティナは愛想笑いを浮かべて「ではこれで…」と立ち去ろうとしたのだ。
だが、それよりも一瞬早く金髪の男が口を開く。
「いやぁ!とにかく非常に助かった。心優しいご令嬢たちに感謝しよう」
「いいえ、私たちは何も。あの、では…」
今度こそ立ち去ろうとして、だがやはり失敗する。
男ははっきりとした口調で台詞を被せてくるのだ。
ティナの少しのんびりとした話し方では、負けも当然と言うこの強引な会話術にはどうやっても勝てない。
「そうだ!!これは礼をしなければ。時間は大丈夫だろうか?近くに良い店があるのだ、お茶とデザートでもごちそうさせてもらおう!な!キラール、良いだろう」
「まぁ、宜しいのでは。シ…」
「メオだ。私はメオと言う。おおっと、家名は聞かないでくれよ?秘密がある方が恰好よいからな」
「………えぇ…と」
「では行こうか、お嬢さん?…そうだ、君の名前も聞こうか」
そう言ってメオと名乗る金髪の男は腰を折り、まるで舞踏会へのダンスの誘いでもしているかのように優雅に手を差し出す。
(…着いて行って大丈夫なの?)
どう考えて大丈夫で無い気がする。
強引すぎて怪しい。良い家柄の人であることは間違いないのに、家名を隠すところも不可思議すぎる。
ロザリーを振り返ると、無言のままで首を振られた。関わるなと言う意味だろう。
ティナももちろん同意見なので差し出されたメオの手に乗ることは当然なく、断ろうと口を開こうとした。
しかしまた、メオはティナの意見など聞く気もない様子で無理やりティナの手を握ってしまった。
「え?あの?!」
「心配しなくても、すぐそこの店に行くだけだ。怖いことなどなにもない」
そういって、メオと名乗った男は爽やかに笑う。
きらきらした金髪がとても綺麗で、整った顔と印象的な青い瞳に目を奪われる。
----少なくとも、悪い人ではない気がした。
だって悪い人がこんなにも透き通った目をしているものだろうか。
こんなにも衒いなく優しい笑顔が出来るのだろうか。
つい最近、最悪な旦那様に引っかかってしまった己の人を見る目の無さを、その時のティナは忘れていた。
首都に来て1か月。いまだにロザリー以外しか知る人はいない。
一人で鬱々と過ごしていた日々に光をさしたこの綺麗な青年に、ティナの気持ちがぐらりと傾いてしまう。
「…本当に、お茶だけ?」
「もちろん」
「変な場所に連れ込もうものなら、大声を上げます」
「ははっ。大丈夫。君に危害は加えない。で、名前は教えていただけるのかな」
「………ティナと申します」
「いけません!」
ロザリーが、窘めるように声を上げるけれど。
ティナは握られた手を自分から握り返してしまった。
出会って数分の相手に着いていくなんて馬鹿みたいなことしていると分かっている。
でも…だって、ティナは寂しかった。
話を聞いてくれる人を求めていた。
自分で納得してここに居て、今の体裁だけの妻をしているこの状況に甘んじているけれど。
だからって平気な顔をしていられるような大人じゃない。
そんな不安定な心境に揺れるティナの前に颯爽と現れたメオは、すごく眩しい存在に見えて、どうしても乞わずにはいられなかったのだ。
「…信じてくれて、ありがとう」
手を握リ返したティナにメオは本当に、とても嬉しそうにはにかんで力を込める。
慣れた動作で完璧なまでにスマートに、彼はティナを店までエスコートした。
---メオが連れてきてくれた店は、ティナたちが居たところから徒歩5分程度のところだった。
富裕層を相手にしている店だけあって広く豪奢なホール内に各テーブルがそれぞれかなりの間を開けて置かれている。
スタッフに促されて座ろうとしたティナに、ロザリーはそっと声をかける。
「…私はあちらの席に」
「え?」
「一緒でいいじゃないか」
「いいえ。一介の侍女が主人と同席など出来ません」
「ふむ…ではキラールは侍女殿と同席すればいい。こちらはこちらで楽しもう」
そんなやり取りの結果、ティナとメオ。ロザリーとキールが別々のテーブルへ着くことになった。
ロザリーと引き離され、一人で見知らぬ男性と対面してお茶をするこの状況。
夫の居る身として正しくはないだろう。
「………」
リカルドを裏切っているような罪悪感に、ティナは表情を曇らせる。
「ティナ殿?どうした、好きなものを頼むがいい」
「…はい」
元気のないティナに、メオは優しく笑って声をかける。
本当に優しい。細やかに気を使える紳士は実は貴重だろう。
皆大体は何らかの思惑や下心があるもので、その裏のある心は結構分かりやすいのだ。
なのにメオにはそれが無い。
無意識にこれだけ相手を気遣えるのは、元々の気質のようだ。
「ずいぶん女性の扱いに長けてらっしゃるのですね」
「マナーに煩い家庭に育ったもので。レディファーストは徹底されている。何にする?」
ティナは苦い紅茶の気分にはなれなくて、オレンジジュースとショコラケーキを選んだ。