第11話
リカルドがティナを見つけたのは、もう深夜遅くになってからだった。
小さな街のはずれにある小高い丘の上。
なんとなくティナにプロポーズしたあの場所に似たそこで、ティナは一人で月を見上げていた。
「ティナ!!」
馬から飛び降り、叫びながら走り寄るリカルドに振り向いたティナは、ひどく驚いた様子で立ちすくんだまま動かない。
逃げられる前にと歩を速め、ティナの前に立った。
ずいぶん長いこと探しまわったから、リカルドの呼吸はずいぶん乱れていた。
呼吸を整えて滴る汗を衣服の袖で吹きながら、ティナを見下ろす。
「ティナ」
もう一度名前を呼ぶと、ティナの身体がびくりと跳ねる。
脅えたような反応にリカルドは胸の奥が疼いた。
(傷つくのは間違いだ。ティナにこんな顔をさせているのは自分なんだ)
そうやって自分に強く言い聞かせないと、彼女に何をしてしまうか分からなかった。
走り回って探し回ってやっと見つけたのだ。
リカルドとティナの身長差はずいぶんあるから、俯いてしまったティナの表情はまったく見えない。
「ティナ」
今度はゆっくりと、怖がらせないように出来るだけ優しい声音で彼女の名を呼ぶ。
「………ごっ、めん…なさい…」
消え入るような小さな声で、ティナが発した言葉はリカルドへの謝罪。
「どうして謝る?」
訳が分からなった。
だってティナは、結婚したのに1度も顔を見せない薄情なリカルドに怒って出て行ってしまったのだと、リカルドは思っているからだ。
馬鹿なことをして見限られた。
どう考えたって悪いのは自分で、ティナが謝る理由が分からない。
怪訝に思って訪ねるリカルドに、ティナはずっとうつむいたまま、やはり消え入るような細い声で返す。
「…片田舎の小貴族の娘なんかが、こんな…一方的に離縁など無礼なことを…」
「私が、身分になどこだわる人間だと?」
「……っ…で…でも」
----何かが変だ。
リカルドはそう確信した。
自分とティナの間に、何かもの凄く大きな誤解が生じているのだと、やっと理解した。
「ティナ、何があった。どうして家を出た。言ってくれないとわからない」
ティナに会わないで、一切言葉を躱す機会を与えなかったのはリカルドの方だ。
だからこそ今、きちんとティナの言葉を聞かなければならないと思った。
「……わ…私、は…」
「あぁ」
そう言ったきり、ティナはしばらく押し黙ってしまった。
けれどリカルドは次の台詞を辛抱強くまった。彼女が何を伝えたいのかを、どれほど小さな声で言われても逃さないために耳を澄ます。
しばらくして、ティナは思い切ったように突然顔を上げて、叫ぶように訴える。
目じりには涙が溜まっていて、必死な表情だった。
「っ…私は!あなたの奥さんになりたかったんです!」
「……?」
ティナが必死に伝えてくれた台詞の、意味がわからない。
願わなくてもティナはリカルドの妻だ。
それを嫌がって出て行ったのは、ティナなのに。
「何を言っている、当たり前だろう。ティナは俺の…」
「見せ掛けだけの妻なんてもう沢山です!」
「……は?」
「好きな人が他の人を想っているなんて嫌!もう私は、あなたの求めるような従順な妻ではいられません」
「見せ掛、け…おい、ちょっと待て。何を言っている」
ティナの台詞を聞いたリカルドの表情がとたんに鋭くなる。
元々ある怖い顔のせいではない、実際の感情そのままを映す厳しい表情だ。
でもティナは、そんなリカルドの戸惑いに気付けるような余裕はすでに失っているようだった。
「他の女性を想ってらっしゃって、彼女の元に通ってばかりで家に帰って来てくださらない。体裁だけの妻でも、あなたが望むならいいと思ってた。役に立ちたかった。愛してるから、嫌われたくなかった。でも、そんなの寂しすぎて…どんどん汚い感情が大きくなっていって…。これ以上いると、あなたの好きな女性に何をしてしまうか分からなっ…」
「ティナ?」
「…ふっ…ぇ…っ」
「っ…」
くしゃりと顔をゆがませたかと思えば、ティナの目から大粒の涙が流れだす。
次から次へと溢れ出す涙に、リカルドは慌てた。
急いでポケットを探すけれどあるのはあの『離縁状』だけ。
焦って出てきたためにハンカチさえ持っていなかったのだ。
「ひっ…っ、ごめ、なさっ…」
「謝るな。いいから落ち着け。お前、完全に何か勘違いしている」
リカルドは手を伸ばしてティナの頼りない手首を捕まえる。
身じろぎして首を横に振るティナの顔をこちらに向けさせて、ティナを捕まえていない方の手を濡れた薄茶の目元に持ってくる。
服の袖で、何度も目元をぬぐってやった。
でもティナの眼から流れる涙は一向に留まらなくて、リカルドの服の裾はすぐに色を変えて染みになってしまう。
「だっ…よ、汚れ…ますっ!」
「いいから」
「っ……」
ティナは更に激しく首を横へ振る。
逃げようとするかのように足を後ろへ持っていこうとするが、手首を捕まえたリカルドの手の力がそれをゆるさなかった。
「ティナ、もう一度言うがお前は何か勘違いをしている」
「……な、っ…に…」
リカルドは服で擦りすぎたがためにティナの目元の皮膚が赤くなってしまったのに気が付いた。
刺激しないようにゆっくりと。今度は指の腹でそっと優しく、溢れた液体を掬う。
「ティナ以外に好きな女なんて居ない。仕事が忙しくて…あとは俺が抜けていたせいで寂しい思いをさせていたのは謝っても足りないが…しかしこれだけは信じろ。愛しているのはティナだけだ」
一言一言、真剣に言葉を紡いだけれど、ティナはまた首を横へ振ってしまう。
「…っ、…う、そ」
「…どうしてそう思う」
「マリアンヌ様と…な、仲良くっ…なさってらっしゃっい、ました…っ…」
「マリアンヌ様?」
どうしてここで、マリアンヌ様が出てくるのか。
リカルドは首を捻る。
「ティナは、俺がマリアンヌと恋仲だと。そう言いたいのか」
訪ねると、答える変わりにティナの目元から更に大粒の涙が溢れてきた。
リカルドはまた慌てて指の腹で涙を救う。
どうしてか分からないが、ティナは自分がマリアンヌを好きだと勘違いしている。
だから辛くて離れたのだと聞かされれば、それが原因で泣いているティナが一層愛おしくなった。
真っ赤な顔をして涙でぐちゃぐちゃに汚れた顔がまた可愛くてたまらないと、こんな状況なのに思ってしまう。
「ティナ、マリアンヌ様は 王がずっと片思いしてらっしゃるご令嬢だ」
「……え?」
「ご身分もあるから公には出来ない。だから適当な人間には任せられなくて、毎日のように恋文や贈り物を俺が届けに行かされているが、それも仕事のうちだ。…どうしてそれで俺とマリアンヌ様が恋仲になる?そんな気持ちを持った時点で国王陛下に打ち首にされるぞ」
「……う、そ…。だ、だって…!」
「だって?」
「………」
「言え。疑問に思う事は何だって言えば良い」
「……ロザリーが…」
「ロザリーが、そう言ったのか?俺とマリアンヌ様が恋仲だと」
こくんと、頷くティナにリカルドは納得して、それから大きくあからさまなため息を吐く。
「嘘だ」
「……?」
「ロザリーが言ったのは、嘘だ」
ティナが涙が溜まった目を瞬かせる。
「さきほど、ロザリーにその…告白されてな。おそらくティナに妬いて嘘をついたのだろう」
「え?」
驚きでティナは呆けたように口を開けて固まっていたが、しかし少し待っていると納得したかのように一人で頷いた。
どうやら元々、行動の端々にそういう思いが出ていたのだろう。
「……あの」
「ん?」
「その。だと言うことは、私は勘違いして一人で勝手に騒いでいた、と…」
「…いや、仕事にかまけて放っておいた俺が悪かった」
「………」
「ティナ?」
勘違いが気恥ずかしいのか、頬を薄赤色に染めたティナがリカルドを見上げる。
「帰ってくるのが難しいほど、お忙しいのですか?」
「…帰っていたぞ?」
「え?!」
「ティナの寝た後に帰って、朝はティナの起きる前に出ていたからな…」
「……な…え、えと。どこでお休みに?」
「毎日一緒のベッドで眠っていたが…」
「っ……」
その瞬間、ティナの顔が火が付いたかのようにさらに真っ赤に染まる。
「わ、私ったら…全然気づかないで…そのっ…」
ティナは両頬に手を当てて動揺からか「うぅ」とか「えぇ」とかひとしきり唸っていた。
一人で照れたり落ち込んだりしている様子が可愛らしくて、抱きしめたい衝動に駆られたものの、リカルドはぐっとこらえた。
触れていいかどうかが分からなかったからだ。
逃げられるのが怖くて、触れることも出来ないなのどと、自分がこんなに臆病な人間だったなんてリカルドは今初めて知った。
悶々と男ならではの苦悩にリカルドが打ちのめされている間に、等のティナはひとしきり照れて落ち着いたらしい。
彼女は頼りない不安げな表情でリカルド見上げてくる。
「…あの、ですね」
「ん?」
「ロザリーを罰するおつもりなのでしょうか」
「それは…罰を与えないでほしいということか?」
頷くティナに、リカルドは難しい顔をする。
使用人であるロザリーが、仕えるべき相手であるティナに背いたのだ。
何らかの罰則を受けさせるのは当然のことだった。
「私も、同じことをしたと思うんです。リカルド様の事を好きなのに、横から簡単に奪われたなら、やるせなくて一つや二つの嘘、言ってしまうと思います」
ロザリーのついたのは、ほんの小さな1つの嘘。
リカルドがマリアンヌ様と言う令嬢を好きだということ。
きっとティナがロザリーの立場だったなら、もしかするともっと酷い嘘をついたかもしれない。
だってそれくらい、リカルドの隣に居るマリアンヌ様が憎いと…嫌いだとティナが思ったのだから。
「ロザリーは、ずっと私の傍に居てくれました。私が寂しい思いをしないように一緒にいてくれて、不自由な思いをしないように身の回りの世話を妬いてくれて、それはもうただの仕事だなんてことを超えるくらい親身になって、傍にいてくれたんです」
小さな一つの嘘なんてどうにもならないくらい、ロザリーの存在はティナの支えになっていた。
彼女がいなければ、きっともっと早く根を上げて、泣きながら実家へ帰って居たことだろう。
だから、ティナはこれからもロザリーに侍女として傍にいてほしいと思った。
そういう思いを、必死にリカルドに伝えた。
上手く説明出来ていないような気がするけど、それでも分かって欲しくて。
「……そう…か」
「お願いします」
リカルドはしばらく思案して、それから小さくため息を吐く。
仕方ないな。と小さく呟いて苦笑してみせた。
「ティナが望むなら、いいだろう」
リカルドの台詞にティナがやっと、満面の笑みをみせた。
「ありがとうございます」
「まぁ…それは構わない……のだが…ティナは俺が嫌いになったと言うわけではないのだな?」
「も、もちろんです!御迷惑でなければこれからも末長く宜しくしていただければ」
「宜しくも何も…あぁ、もう…っ…」
苛立たしげなリカルドに気がついたらしいティナは首を傾げた。
どうされましたか?と心配そうに聞かれてしまい、またため息を吐かれてしまう。
リカルドは苛立たしげに自らの黒い堅そうな髪を掻きむしって唸ってしまった。
さっきティナに向けてした優しいため息とは違って、今度は苦悩を含んだため息にティナが眉を下げる。
「ティナ……その」
「はい?」
「……そろそろ、触ってもいいだろうか」
苦しそうにあえぎながら、耳元を赤くしてリカルドが言う。
ティナは最初、台詞の意味が分からなくて、目を瞬かせて心の中で何度か繰り返した。
徐々に意味を理解するとともに、同時に見る見る間にティナの顔はリカルド以上に赤くなった。
「さすがにもう、限界なんだが」
実のところリカルドはロザリーのことなどどうでも良かった。
ティナが喜ぶならばそれでいいと思っている。
それより早く触らせろと、抱きしめさせろと、そっちの方の欲求の方が強かった。
だってリカルドがティナの声を聞いたのは1カ月ぶりなのだ。
開いた綺麗な薄茶の目を見るのも、頬を染めて恥ずかしがる仕草を見るのも久しぶりだった。
でもやっぱり勝手に触って傷つけるのは怖くて、何よりもまた逃げられたらもう立ち直れそうもないから。
ティナに言葉での許可を求めないと、情けないけれど足がすくんでどうしても近づくことが出来なかった。
色気を帯びた熱い視線で、焦燥感を隠すこともせずリカルドはティナを見つめている。
ティナがさらに顔を赤くして泣きそうな笑顔で頷くのを、リカルドはさながら餌を目の前にした犬の気分で待つのだった----。