0.始まりは緩やかに
生きているのに、死んでいるかのようだ。
まるで別次元の生き物のように、僕はそこにいた。
行き交う人々。色づくことのない灰色の雑踏をしり目に、密やかに息をする。誰にも気づかれないように。誰にも見咎められないように。密やかに、密やかに。
凍えるような寒さの中、冬物の制服にマフラーを巻いただけの姿で、僕は立ち尽くす。動くこともできず、けれど、蹲ることもできずに。
そんな僕にさらなる追い討ちをかけるように、空からこぼれた雫が、叩きつけるように僕を濡らしていく。悴んでいた指は感覚をなくし、小刻みに震えている。噛み合っていない歯の根が、カチカチと音を立て、水分を吸った衣類に体温を奪われているのだと知った。
殊更、足は地に張り付いたように動かなかった。
「なにしてんだ、そんなところで」
叩きつける雨が不意に止んで、数時間前に聞いたはずの、懐かしい声が鼓膜を叩いた。
顔を上げた先に見つけたその人は、呆れたように肩を竦めて。
「…ミカゲ、さん?」
涙、なのだろうか。それとも雨?自らの頬を伝う雫がなんなのかもわからずに、ただどうしようもない安堵感を覚え、震える手を伸ばす。その手を暖かい大きな手が包み込んだ。
「こんなに冷えて、風邪引くぞ。帰って温まらないと」
いつものように笑う。困ったような苦笑い。苦笑い。…笑み。 何か、別のものに繋がりそうなのに、長時間雨に打たれたせいなのか、熱に浮かされたように思考に霞がかかる。
取られた手をひかれ歩き出す中で、その背が、俄かに何かとダブった。
「みかげ、さん…」
黒い、黒い何か。影のような闇が、ずるりと這うように繋がれた手へと伸びてくる。それに呑まれるかのような錯覚を起こし、勢いよく手を振り払って、後退る。バシャバシャと水が跳ね、縺れる足に、靴の中まで濡れているなと、恐怖に震える思考とは別のところで思った。
「おい…?」
困惑したような表情を向けられ、弁解しなくてはと思う反面、恐怖に身が竦む。
違うのに。彼じゃないのに。この人じゃないのに。
この人が私を傷つけるなんてことは、ありえないのに。それはわかっているのに、身体は心を裏切って、思うように動かない。動け動けと念じれは念じるほど、身は竦み、震え、力が抜ける。
尻もちをつくように音を立てて座り込んで、息苦しくなった呼吸に喘ぐ。
「おい… っ!」
傘を取り落とし、僕を抱き上げる彼は、必死に何か呼びかけていたけれど、耳鳴りの高い音に掻き消された。
苦しくて、苦しくて、苦しくて。でも、抱きしめられている腕の温度に、安堵して。苦しいのに、幸せだなんて、なんだか変態みたいだ。
先ほど恐怖したはずなのに、絶対的な安心感を覚えているのも、考えてみれば不思議で。
「 ! !」
閉じたま蓋の裏。呼ばれている、だから応えないといけない。そう思うのに、もう、指一本動かせそうになかった。
ああ、そもそも。それは、僕の名前なのか。本当に?本当に?だって、だって…。
僕は、だれ…?
名前すら思い出せない。僕は何なのだろう。思い返してみれば、覚えていることも極僅かで。それさえ、自己の確立には至らない。
沈んでいく思考という闇の中で、僕は自問する。自答できず、ただ沈んでいくだけの行為。
覚えていること。ミカゲさん。センセイ。沙織ママ。ヒデ兄。顔も、声も、どんな人だったかも思い出せるのに、その人との思い出はない。
食べる、寝る、多分、数学や歴史といった勉強したことも全て思い出せるのに、どこでどう習ったのかは思い出せない。
自己を証明するものは何もない、記憶。記録。もしくは、データ保持?
この身体は、実はアンドロイドだとでもいうつもりか?なんて中二病な。
「シュウ」
闇の中、一筋の光を灯すように、記憶にない、けれどはっきりとおぼえのある少女が目の前に立っていた。
「シュウ、ミカゲさんが呼んでる」
名を、呼ばれた瞬間、漣のように記憶が広がった。
その記憶に気を取られていると、腕を取られ、立ち上がらせられる。見た目のほっそりとした体型に似合わず、ずいぶんと力強く引っ張られた。
「…きみ、は?」
目深にかぶった野球帽と逆光で、口元しか見えない。その口元が、ゆるりと柔らかく弧を描く。
長い髪が水底にいるかのように揺らいで、広がる。それが翼のようだとぼんやりと思うと、背を押された。
慌てて振り返ってみれば、少女は手を振っていた。
弧を描いていた唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「っぁ!」
何か、叫ぼうとして、目が覚めた。
咽喉がひりついて、息を吸った瞬間に大きく噎せる。何とか落ち着いて周囲を見れば、そこが養父であるセンセイの廃ビルだということを知った。
今眠っているパイプベッドと、石油ストーブしかない部屋。シュンシュンと石油ストーブに置かれた薬缶が湯気を立てている。
静かにそれらを確認するかのように見渡してから、剥き出しのコンクリートに揃えられたスリッパを履いて、部屋のドアを開ける。
二つあるドアの内、迷いなく右手にあったドアを開けた。
その向こうはすっかり居住スペースで、先ほどいた部屋がまるで嘘のように物で溢れていた。
物といっても本の類が多く、何らかの専門書から、週刊誌の類までもが足の踏み場もないほどに散乱していた。
その本の山の中に鎮座しているソファーから、長い脚がはみ出しているのが見えて、頬を緩ませながらそろそろと近づく。
毛布に包まって穏やかに寝ているのは、思ったとおり、ミカゲさんだった。
寝こけている姿が可愛くて、小さく笑う。
「あぁ、目が覚めたみたいだな」
本棚で死角になっていたPCの置かれたデスクから、不精ヒゲにメガネの男が顔を出した。
椅子から立ち上がり、キッチンスペースへとペタペタとスリッパを鳴らしながら歩くその人を目で追いながら、あぁ、センセイだなと、目を細める。
そうして、あれと思う。記憶があるはずの僕は、それらすべてを照合するかのように現状を確認しようとしている。そうすることで、記録にすぎない記憶を自らの記憶にするかのように。
「ほら」
僕のマグカップ。白に英字が入ったそれには、甘い香りのココア。
僕が好んで飲んでいたもので、舌に残るくらいの甘さが好きだった、それ。なのに、なぜか嫌悪感を覚えた。
受け取らないわけにもいかず、両手で受け取って、少しだけ口に含む。
「…甘い」
記憶と生じる、ズレ。
口に広がる甘さに思わず顔を顰めたら、先生が驚いたような表情を浮かべていた。
「お前…誰だ?」
その問いに、特に疑問はなかった。
ただ、つい先ほど得られた答えを口にするだけなのだと、思ったから。
「僕…“僕”は、シュウ」
「シュウ…?」
その名を吟味するかのように、センセイが口の中で呟く。
何度か呟くうちに、難しい顔つきになって、ソファーで眠るミカゲさんを蹴り起こした。
「ってぇ!何すんだ、蕪木!!」
飛び起きたミカゲさんの罵声も聞き流し、センセイは僕にソファーに座るように言って、自分はテーブルに置かれた本をどけて、向かうようにその上に腰かけた。
「なんだ、一体」
寝起きで苛立っているのか、睨つけるようにミカゲさんがセンセイを見れば、センセイは僕を見た。それだけで、ミカゲさんは眉間にしわを作る。
声を上げようとするミカゲさんより早く、センセイが口を開いた。
「シュウ、だったな」
「はい」
確認を取られるまでもなく、僕はシュウだ。
なのに、目の前の人たちにとって、僕はシュウではないということが、今更ながらに漠然と感じられた。
「シュウ…?」
ミカゲさんが訝しげに僕を見る。
「僕は…いえ、この身体は、“シュウ”では、ない、のですね?」
記憶と生じるズレは、何もココアだけではなかった。しっかりと状況と記憶を見分してみれば、腰まである髪と、膨らんでいる胸、そして、女物の服。
僕は、自分が女だということを、シュウであるかを確認されて、ようやっと認識したのだ。
「オレたちの記憶が正しければ、お前さんは蕪木秋って名前のはずなんだがな」
罷り間違っても、シュウなんて名前ではなかったと、そう突きつけられても、僕の中のアイデンティティが崩壊することはなかった。名前によって確立したはずのそれなのに。
それは名前というもの以外に、僕のアイデンティティを形成するに何かがあるということだ。
よく、わからないけれど。
「僕は、“シュウ”です。“シュウ”でなければなりません。蕪木秋がこの身体の名前だというのなら、僕は蕪木秋として生きていくのでしょう。ですが、僕は“シュウ”で、“シュウ”として生きることを求められています」
つらつらと述べられる言葉に、僕自身、深く意味を理解していなかった。ただ、何かに突き動かされるままに、口が動く。
「求められているって、誰に」
ミカゲさんが、茫然と言った。
問いかけですらなかったのかもしれないその問いに、僕は困惑した。
誰。誰だろう。誰に何かを求められたことも、シュウという自己を確立してから、まだ一度もないはずだ。一度も。否。
「おん、なの…こ」
髪の長い、女の子。
目の前で、あの少女が立っているかのような錯覚…幻覚?
帽子をはずし、にっこりと笑って。
「蕪木、秋…?」
自分と同じ顔の少女。
「シュウ?」
センセイの声がどこか遠くで聞こえる。
それと同時に、目が覚める前の言葉を思い出した。
『生きるために、忘れていって』
わかってる。だから、僕は君のことも忘れないといけないんだ。
読んでいただきありがとうございます。
亀以上に遅い更新かとは思われますが、どうぞよろしく。
誤字脱字ありましたら容赦なくお教えください。