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バカと馬龍と魔余練枝豆〜毒定食はいかが〜

掲載日:2026/06/12

今日も階下から「夏色のナンシー」が聞こえてくる。

最近日本のシティポップが海外で流行っているらしいし、その影響かな。

そういえば階下に住んでいるのがどんな人なのか俺は知らない。

蟹箕沢 隆は今日も疲れ切った顔で包丁を動かしていた。

まな板の上で畝っているのはついさっき市場で買ってきたヒョウモンダコだ。

彼はその界隈では一流の人間であった。

察しの良い読者ならわかっているだろうが、専門は毒である。

蟹箕沢に素手で押さえつけられたヒョウモンダコは、抵抗虚しく食材として斬り揃えられていく。

耐性という名の適応を前に、美しい海洋生物の防衛機構はなんの意味もなさない。

蟹箕沢のお気に入りのソファに、家猫よろしくふんぞりかえっているのは彼の甥である。名は昭敏と言い、古風な名に似つかず今年彼は16になる。本来ならば学生の身分である。がしかし、この甥は叔父と同じ道を「志して」いるため、昼間からこのアパートに棲みついていた。

「職人になるには早く弟子入りしないといけないんだってよ」と言い放ち、泣き崩れる母をよそ目にここに潜り込んだのだ。アパートからそう遠くない商店街の廃ビルが、魑魅魍魎の集まる毒食処であった。

普段から不定期で店を開けているのだが、今日は新メニュー開発のため休業だ。

彼は叔父の職業を刺激職人と呼んだ。

生臭い匂いのするタコが、お値段以上、のまな板の上で粉砕されていく。

まるでかつてのシーフードヌードルのCMのようだ。

包丁さばきに見惚れながら昭敏はおじに話しかける。

「フローレンスさんからバレンシアオレンジとミラクルフルーツもらったって言ったっけ。」

「ああ。よかったな。ばあちゃんの蜜柑が溜まってるから、それはお前が食べるといい。」

少し疲れた背中にかっこよさを感じるのは、まだ社会に出ていない人間の特権なんだろう。

「とっくに食べたよ。」

「なんだよなんで報告したんだお前。」

モゴモゴと叔父が言う。

ちょっと期待させてしまったみたいだ。ゴルゴ13みたいな見た目してなんだか反応が可愛い。

「いや、俺の初任給みたいなもんだからさ。」

尊敬する人に報告したいのは当然だろ、と言いかけて口をつぐむ。

「なんだよにやにやして。付き合いたての彼女みたいな反応しやがって。」

「叔父さん彼女なんて居たことあるんだ?」

「なんだと?もう一回言ってみろよ。」

そう言う口調は綿飴みたいに優しかった。叔父さんは強面だが、根はとても善良で柔和なたちなのだ。

僕の父が、線路でイチゴジャムになった時、最初に駆けつけて面倒を見てくれたのは叔父だった。

どんなことでも一人では戦えないことを教えてくれたのも叔父さんだ。

だから僕はこう言う人になりたいと思ったし、ここに居候してあの夜の真実を知るために動いている。

叔父さんにだけは、父は自殺じゃないってことを、正直に伝えることができた。

他人は親父がまるで過重労働に倒れた普通の会社員であるかのように言う。

そんなことを言ったら会社員が可哀想だと思うのだ。

俺の父は組織でも上役の方で、中間管理職ではなく彼らを困らせる側の人間だった。あいつに限って、ストレスで身を散らすなんてことはありえない。

自分が最強のストレス要因なら、誰が下級のストレスに負けると言うんだ。

雨の日も雪の日も、ハレの日も彼岸でも、あいつは全てを人のせいにしてはいちゃもんをつける怪物だった。

根拠は他にもある。

父は酔えない体質だったのだ。

警察の人は「お父様はホームからの転落事故と判断されました。千鳥足でふらふらとぶつかりながら歩いているのを多くの人が証言していて。かなり飲酒していたみたいだから、ね。最近お辛そうな様子はなかったですか。職場のストレスが祟ったんじゃあないですか。」なんて言ってたが。

ちゃんちゃらおかしな話だ。犯人の隠れ蓑でしかない。

父は酔えないだけではなくて、色んな有害物質に耐性があった。

あいつが愛してやまなかったのはフグの内臓だ。

そんなものを食うのは怪物だけだ。

親父の社会のトップクラスは狂った人間が多いらしい。そもそもが酒豪の集まりな上、叔父に言わせると「どいつもこいつも聳り立つエベレストみてえなプライドがある」んだそうだ。

どれだけ下手物に強いかがその人物に箔をつけるからと、食用でないものに手をつけると聞く。

マウントを取り損ねた誰かさんが血迷ってしまったのだな…とフローレンスさんは自嘲気味に言っていた。

親父はデスソースもいけるクチなので、もしかすると余興としてこいつに毒食わせてみよ、みたいな軽いノリで始まったのかもしれない。

父がいちごジャムになったのは、組織で当主の祝賀会があった後だった。

だからきっと、その宴会で千鳥足になるくらい変なものを食ったんだと思う。パワハラの一環で食わされた、と言う方が正確だろうか。

実際のところはわからない。死人に口なしである。

俺はその毒を解明したい。なんなら少し味見してみたいのだ。

叔父さんに教わった料理スキルは俺の腕にだいぶ馴染んできた。お下がりの変な和柄のエプロンも俺に似合い始めてる気がする。

フローレンスさんは俺のパフェを一口食べるなり、毒の加減が天才的で刺激的だ、とか将来が楽しみなヤングシェフだと言ってくれた。

毒に慣らされて生きてきた裏社会の人間は、数が少ない分、出会った時の共鳴の仕方が違うのだ。

普通の人の美味、が線香花火なら、毒食は生死のスリルも相まって、まるで枝垂れ花火のように輝く刹那的な美味だ。まるでお天道様の元で暮らすのをやめた人間たちの生き様のように。

そんな彼らに俺は最高のエンタメを提供したい。

こんなわけで僕は、叔父の経営する毒食屋で見習いをしているのだ。


初心に帰ったらなんだか創作したくなってきた。

昭敏はふわふわのソファに沈み込んだ重い腰を上げて徐にキッチンで動き出した。


階下の住人はいつも何かしらの音楽を流して生きているらしい。先月くらいから住んでいるんだろうか。人生最高ウェイ系パリピなのか、はたまた家にいる時ぐらい音楽を爆音でかけないと倒れそうなストレスフルな人なのか、想像は無限に膨らむ。

柳田くんにちょっくら様子を探ってきてといえば簡単にそいつの戸籍から駐車違反までどんな情報でも手に入るが、そんな無駄遣いしていい才能ではない。それに、知らない方がワクワクして楽しいこともあるのだ。

「昨日のスイートピーまだ結構あるから使っていい?」

甥っ子の腕はめきめきと上達して、卵をレンチンしようとしたアホの面影はどこにもない。こんなふうに創作料理を作っては嬉々として献上してくるのだ。

「うおっ、あっ!マロン!それは食べちゃダメだよ」

本物のイエネコが食い意地を発揮しようと目を爛々と輝かせてよじ登ってくる。

「あうあうあう」

「ダメだってば」

馬龍に毒への耐性はないのだ。どんなにイカれた研究者と言われようが、猫を巻き込むほど外道ではない。


ピンポーン


呼び鈴が鳴った。

叔父が振り返る。目つきは鋭い。

「お前、なんか頼んだか?」

「そんなヘマしないよ。」


ドアの向こうから、高い女の声が聞こえる。

「ごめんくださぁーい」


革手袋をはめてインターホンの画面を見ると痩せたウルフカットの女が見えた。

こちらが覗き込んだのに気づいたかのように、画面越しにこちらに向かって微笑んだ。

何やらビニール袋を抱えている。

「彼女?」

「昭敏、お前はもっと緊張感を持て。」


引き締まった体型からして、その道の者としてこちらも構えるべきだろう。


「嫌な予感がする。」


「シェルター出す?」

蟹箕沢は返事の代わりに部屋へもどれと顎で合図した。


静まり返った廊下はひんやりしていた。


「普通のおそばを渡しにきただけなんだけどな。うう…寒っ。」


ミンミンはぼそぼそと呟いて身震いした。


それとももっと得体の知れないものの方が喜ばれるのかな。爬虫類ペットショップでも行ってくるべきだったか…?

ペットショップってヤドクガエルとか、置いてないのかしら、どうなんだろう。


裏社会には縄張りがある。基本的にその範囲で活動する人間は互いに顔見知りである。住所は極力互いに知られないように心がける。そうなるように「管理」されている。

とはいえ、諸事情で現実にばったり出くわしてしまうこともあるのだ。専門が違えば割とよくあることでもある。こう言う場合、相手が同じ世界に属することを確信し、互いに敵対関係になく業務に影響がないと確認が取れた場合に接触しておくのが不文律なのだ。

接触前にはなんらかのシグナルを送るのが礼儀である。

「できれば分野と能力がわかるようなオリジナルなシグナル。特に相手の経験が自分より上そうな場合はね。」証券会社のビルの屋上で風に吹かれながら、雲母さんはタバコを咥えたままそう言っていた。


私の場合、監視班だからそれを暗に伝えるために、ある種ストーカー的なことをしないといけなかった。

散々考えて編み出したのが、相手の状況に合わせた音楽を爆音で流すこと。

蟹箕沢は、通称鴨川のマンティコアと呼ばれる男で、歴戦の「裏の人」だった。

お気づきだろうか。私は少し前から彼らのレシピに合わせた曲を流していた。


分かりにくかったかな。

茶色い革手袋がプラスチック製の銃を引き出しから取り出そうとしている。


一旦戻って出直そう。


ミンミンは踵を返すと階段を降りた。


「すげえ美人だな。」

スコープを覗き込んだ男はそう言って微笑んだ。

若ーー19代目蒲原家当主、蒲原聖也。彼がそういうことを言うのは珍しくはない。すなわちその女は平均的な整った顔立ちだと言う事、あるいはこの業界の女の容姿が整っている可能性が高いと言うこと、しかしどちらも証明するにはデータが足りない。

「でも帰っちゃったよ。勝手に共倒れするかと期待したんだがな。」

若の笑顔は醜悪だ。見目麗しいと言われる程のキラキラした外皮が余計に。

仕えて十数年余り、これから先どんな気持ちでお支えすべきか。


そもそもがこの出自。私が若に口出しできることなどない。出来ることといえば口と胃袋を貸してやることくらいだ。


聖也はジャッカルのような目つきでスコープ越しに向かいの建物の窓を凝視していた。

フローレンス間宮氏。彼が広めさえしなければ…いや、台頭さえしていなければ、俺の舌はまだ生きていたかもしれないのに!蟹箕沢家。彼らが違うフレーバーを開発しなければ。


味覚を失った苦しみを、あいつらに味わわせてやるのだ。

引き金に巻きついた指を苛立ちがそっと撫でていく。


向かいの建物で何か光った気がしてミンミンはさっと目をやった。

その時、すれ違ったサラリーマンから薬莢の匂いがした。薬莢、みたいな。いや、私が間違えるはずがない。

ここには他にもアンマークのこちら側の人がいるのか。


平静を装ったが、ダメだった。


…気取られた。


ミンミンは軽やかに逃げようとしたが、その男の腕はリーチが長く、ミンミンの口を容易に塞いでしまった。


次に目を覚ましたのはどこか音の反響するボックスの中だった。

両手両足を椅子に縛られて動けない。


手錠抜けは一番苦手なのに。

ここは貸し倉庫かもしれない。騒げばもしかして、と思った瞬間背後から男が現れた。


「目ぇ覚めましたね」

「礼儀はないんですか」 

「ん?」

「ルール、知らないんですか。」

声が震えてカッコ悪い。


「あぁ、誰が始めたんやろな。いい大人が察してちゃんの集まりみたいに…気味悪いんや。」


男は細い目をもっと細くしている。

突如、その顔にミンミンの拳が飛んだ。


タイマンですね。オーライオーライ無問題。柔軟な体を生かして回避、キック、回避、アッパーカット、ジャブ、回避…回し蹴り。こちらに一発でも入ったら終わりだ。ストレート、右脇、アッパー、左回避。頬を掠める拳をすり抜けて、確実にダメージを与えていく。


「くっ、ははは、面白い。闘えるならなんで逃げたんだよ、お前は変な奴やなあ。」


構えたままジリジリと出口らしき面へ近づく。


「あなたこそ、エセ関西弁なんて使って、変ですよ。」


その時外から笑い声が聞こえて、ヒールの音がしたかと思うと、バンバンと叩く音がした。

「シェンリン様」

男は急にあっさり戦闘体制を解除すると入り口をガバッと開けた。

ピンヒールがトタンの床を打ちつける。

女はチャイナドレスを着てツカツカと歩み寄ると、いきなりミンミンの顎を掴み、しげしげと品定めを始めた。

「あなた、屈強な男相手になかなかやるじゃない。感心したわ。」


呆然としたミンミンは我に帰って拳を構えた。

「あら、私と闘うのは30年早いわよ。」

彼女のチャイナドレスは偽物だ。多分シェンリンってのも偽名で、コスプレみたいなものだろう。

由緒ある衣装をフェチズム的に消費する側の人間だ。

いたた……無理やりちぎった結束バンドの縁で皮膚が擦り切れてしまった。最悪のタイミングでアドレナリンが切れたらしい。


逃げるぞ自分、、

真っ赤な唇が皮肉っぽく笑った。

「逃げられないわよ。条件を呑んでくれたら解放してやってもいい。」

条件…何を企んでいるんだろう。断る選択肢はないんだろうな。

「嫌です。」

「お願いじゃないわよ。」

「ふっ、あなた、考えてる事が顔に出るって言われない?虚勢を張るのはみっともないからおやめなさい。」

「条件は何ですか。」

その女は青い小瓶を投げてよこした。

「それを鴨川のマンティコアに飲ませる事。簡単でしょ?」


翌朝ミンミンはその小瓶を彼らの部屋へ持って行った。インターホンを押して、小瓶を床に置き、ミンミンは去った。


実験の鬼である彼らに、小瓶を渡しさえすれば、勝手に味見し始めるはずだ。


ドアを開けて出てきたのはマンティコアではなく甥の方だった。


「何これ」

ーー魔余練枝豆

ラベルが意味不明だが、何かの呪いか、それとも


一滴掌に垂らして、いかにもやばそうなガソリン的な香りを嗅ぐと、インスピレーションが噴水のように噴き出した。


これは、マヨネーズを混ぜて枝豆と和えるべきじゃないかな。


待てよ。それってこう言う類の毒だと吸収率を上げて回りが早くなるんじゃないか。


脳内で小瓶を置いた人の動機予測シナリオが走馬灯のように現れる。


そうか。

昭敏の中で一つの結論が光り始める。

「俺は親父とは違うんだ。いい意味でね。」

そうつぶやいて、父親が食したはずのレシピを、彼は大事そうに神棚に置いた。

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