第34話 私は決めた
話が単調になって来たので、途中を飛ばして本題に移りました。
国を変えていく物語とします。
私が旅に出て、三か月の月日が経っていた。
長かった。
大変だった。
怖い思いもした。
でも、楽しかった。
今思えば、あっという間だった気もする。
私は今、母国であるルーベル王国へ向かう船の上にいる。
商船ではない。
ルーベル王国の国王専用の船だ。
レオンハルト殿下と結婚するために。
私には、もう迷いはなかった。
旅に出てから、私は多くの町を見た。
笑って暮らす人たちを見た。
貧しさに沈む町も見た。
生まれた場所だけで、選べる道がほとんど決まってしまう人たちも見た。
それでも人は、食べて、働いて、笑っていた。
強いと思った。
たくましいと思った。
伯爵家の中にいた私は、何も知らなかったのだと思い知らされた。
そして、私が一番大きく考えを変えたのは、グランヴェル国だった。
グランヴェル国は、ルーベル王国とは何もかも違っていた。
良質な鉄が採れ、その鉄を扱う技術がとても進んでいる。
軍備を整えるために磨かれた技術が、町の中にも流れ込んでいた。
最初に驚いたのは、人輪車だった。
人が、大きな車輪のついた細い乗り物にまたがっている。
足元の板を交互に踏むと、車輪が回り、馬でもないのに前へ進む。
私も、おもしろそうだから乗ってみた。
最初はまっすぐ進むこともできなかった。
補助の人に支えられ、何度もふらつく。
けれど、足で板を踏むたびに、車輪が回る。
体が前へ進む。
風が頬を打つ。
馬でもない。
馬車でもない。
自分の足で動かしているのに、走るよりずっと速い。
怖い。
でも、楽しい。
私は思わず笑ってしまった。
こんなものが、もう作られているのだ。
自鳴箱という小さな木箱にも驚いた。
店の主人が、大事そうに箱の横についたねじを巻く。
かち、かち、と音がして、ふたを開けると、中から澄んだ金属音が流れ出した。
「自鳴箱です。グランヴェル国でも珍しい品です」
店の主人は得意げに言った。
「中の歯車が回ると、小さな突起が金属片を弾くんです。大きなものなら、鐘を鳴らす時計にも使われます」
人が弾いているわけではない。
人が演奏しているのでもない。
それなのに、箱の中から音楽が流れている。
私は、しばらく言葉を失った。
こんな精巧なものまで作れるのか。
でも、一番驚いたのは、本だった。
本屋に入った時、私は思わず値札を二度見した。
安い。
ありえないほど安い。
伯爵家にあった本は、どれも高価だった。
人が一文字ずつ写したものだから、当然だと思っていた。
けれど、この国では違った。
同じ表紙の本が、棚に何冊も並んでいる。
同じ題名。
同じ文字。
同じ挿絵。
「これは、すべて人が写したのですか」
私が尋ねると、本屋の人は笑った。
「まさか。印刷ですよ」
印刷。
紙に、同じ文字を何度も写す技術。
人が一冊ずつ書かなくても、同じ本を何冊も作れる。
私は一冊を手に取った。
軽い。
薄い。
けれど、確かに本だった。
本が、貴族だけのものではなくなっている。
そのことが、何より衝撃だった。
人輪車は、人の動き方を変える。
自鳴箱は、人の楽しみ方を変える。
印刷された本は、人の学び方を変える。
技術とは、珍しい道具のことではない。
人の暮らしを変える。
町を変える。
国を変える。
私は、グランヴェル国で初めて理解した。
レオンハルト殿下が言っていたことは、嘘ではなかった。
このままでは、ルーベル王国は置いていかれる。
本当に、国がなくなるかもしれない。
私にも、まだ行きたい場所はあった。
見たい町もあった。
会いたい人もいた。
けれど、その頃から少しずつ、実家に帰りたいと思うようにもなっていた。
そんな時だった。
グランヴェル国の宿に泊まっていた私のもとへ、レオンハルト殿下の使節団が来た。
宿の人は、何事かと驚いていた。
たぶん、私の方がもっと驚いていたと思う。
なぜ、私の居場所が分かったのだろう。
使節団の一人が、内々に教えてくれた。
殿下は、アステリア連合国の内情を調べるために、各国へ人を放っていたらしい。
エレノア様がグランヴェル国にいることはつかんでいました。
そう言われて、私は言葉を失った。
殿下は重要なことを正式に伝えるため、アステリア連合国の各国に使者を派遣したのだという。
その使節団の人数を増やし、私の居場所も探していたらしい。
「公に探すことはできませんでしたので、大変苦労しました」
そう言われてしまった。
私を見つけるために、そこまでしたのか。
好きな女性のために、殿方がそこまでするのだろうか。
私に、そこまでの価値があるのだろうか。
本当に、厄介で、嫌いだ。
そして、渡されたものは、手紙と、書類の塊だった。
私は最初、間違いではないかと思った。
私に送る量ではない。
けれど、封に刻まれていた紋章は、間違いなくルーベル王国のものだった。
手紙には、驚くことばかりが書かれていた。
国王陛下の病が進んだこと。
もともと病を抱えていて、それが急速に進むものだったこと。
陛下はそのことを、国を乱さないために伏せていたこと。
レオンハルト殿下も、知らされていなかったこと。
通商会議は、殿下の力を見極めると同時に、実績を作らせるためでもあったらしい。
通商会議を取りまとめた殿下の手腕は、高く評価された。
そして物の値段が下がり、殿下は民の人気も得た。
ある日、殿下は国王陛下に呼ばれた。
お前が王位を継ぐとしたら、この国をどう変えるか。
そう問われたのだという。
殿下は、すべてを正直に話した。
自分の首が飛んでも構わない、と。
国王陛下は驚きながらも、いたく喜んだらしい。
余の目が黒いうちに、レオンハルトに王位を継がせる。
そう言われたのだと書かれていた。
つまり、レオンハルト殿下は、もう殿下ではなかった。
レオンハルト国王陛下になっていたのだ。
私は驚きのあまり、「はあ」とぼけた声を上げてしまった。
町の人の言葉が移っていたのかもしれない。
はあ。国王陛下。
はあ。国で一番偉い人。
はあ。あの殿下が。
けれど、私の中では、まだどうしても、あの厄介な殿下のままだった。
そして、殿下の考えている改革の詳細が、山のような書類となって私の手元にあった。
私は、その書類の山を何度も読み返した。
胸が落ち着かなかった。
私では考えられないことだった。
すごいと思った。
けれど、同時に、とても危険だと思った。
貴族は反発する。
商人も警戒する。
教会も黙ってはいないかもしれない。
民は最初、喜ぶとは限らない。
変化は、いつだって痛みを伴う。
殿下が歩こうとしている道は、光の道ではない。
泥と血の道かもしれない。
それでも、あの人は進むつもりなのだ。
そして、改革案の書類の山の下に、手紙が一通置かれていた。
その内容を見て、私の心臓は跳ねた。
王の妻になれ。
王と同じ道を歩け。
王が間違う時は、君が正せ。
王が暴君になる時は、君が止めろ。
君の家は、すでに侯爵家に上げている。
結婚の障害はない。
だが、君が私と同じ道を選ぶなら危険を伴う。
君を守るには王妃の位が必要だ。
結婚が嫌なら、偽装でも構わない。
私は、その最後の一文をしばらく見つめていた。
本当に正直で。
強引で。
厄介で。
嫌いだ。
偽装でも構わない、などと書くところも腹が立つ。
私が断る逃げ道をふさがれているようでもあった。
でも、分かってしまった。
殿下は、私を飾りにしたいのではない。
横に立てと言っている。
自分の間違いを正せと言っている。
暴君になったら止めろと言っている。
そんなことを求める王が、どこにいるのだろう。
そんな厄介な人を、どうして私は放っておけないのだろう。
私は、一人で歩きたかった。
誰かに決められた道ではなく、自分の足で歩きたかった。
でも、旅に出て分かった。
一人で歩くのではなくて、私を理解して、私と共に歩く人を見つけたかったのだと。
私は数日考えた。
そのたびに、レオンハルト殿下の言葉が頭から離れなかった。
ルーベル王国を変えなければならない。
あの人は間違っているかもしれない。
強引すぎるかもしれない。
でも、進もうとしている。
私は、使者に言った。
「帰ります」
言葉にした瞬間、不思議と胸が軽くなった。
帰り道は、すべて殿下が手配してくれていた。
護衛も。
馬車も船も。
必要なものすべてを。
本当に、用意のよい人だ。
腹が立つくらいに。
帰りの工程の途中でエリオット王太子殿下にも、挨拶をした。
エリオット様は、少しだけ寂しそうに笑った。
「あなたが選んだ人なら、間違いないでしょう」
その言葉が優しすぎて、胸が痛んだ。
この人は、最後まで私を責めなかった。
引き止めることもしなかった。
ただ、私の選択を尊重してくれた。
だからこそ、私はこの人の手を取れなかったのかもしれない。
エリオット様は優しすぎた。
私は、守られるだけでは満足できなかったのだろう。
私は船の上で、海を見ていた。
海の匂いがする。
風が強い。
風の中を、カモメが飛んでいる。
そして一羽のカモメが、私のそばに降りてきた。
「クワァ、クワァ」と、何事もなかったように鳴いている。
そういえば、私の旅は、カモメが姿を消したことから始まった。
旅に出る時には、こんなことになるなんて、まったく想像していなかった。
まったく、人生とは不思議だ。
でも、私が自分で決めて、自分の足で歩いてきたから、ここまで来たのだと思う。
伯爵家にとどまっていたら、こんなことは起こらなかっただろう。
よいことなのか、悪いことなのか。
私には、まだ分からない。
でも、自分で決めた。
波が船の側面に当たり、白く砕ける。
数日後には、王都に着く。
私に王妃が務まるのだろうか。
殿下の改革は、本当に進むのだろうか。
私が止めなければならない日が来るのだろうか。
分からない。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、もう迷わない。
私は、今度は王妃になると決めた。
誰かに命じられたからではない。
家のためでもない。
レオンハルト殿下に押し切られたからでもない。
私が、自分で選んだからだ。
一人で歩くために旅に出た。
けれど私は、同じ道を歩きたいと思う人と出会った。
私はルーベル王国へ帰る。
そして、レオンハルト陛下――あの厄介な人の隣に立つ。
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