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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第2話 自由は、思ったより心細い

短編の『旅立ちの船』編と同じ内容です。

 船が港を離れていく。


 白い帆が風を受け、ゆっくりとふくらんだ。


 港に並ぶ人影が、少しずつ小さくなる。


 父の渋い顔も、母の困ったような顔も、リリアの赤くなった目元も、もうはっきりとは見えない。


 それでも私は、しばらく船の上から港を眺めていた。


 戻りたいわけではない。


 それだけは、はっきりしている。


 けれど、不思議なことに胸の奥が少し痛んだ。


 家族を愛していなかったわけではない。


 リリアのことを、何も感じずに置いてきたわけでもない。


 カイルに未練があるわけではないけれど、あの場で軽く扱われた痛みまで、すぐに消えるわけではなかった。


 けれど、それでも私は船に乗った。


 もう、誰かが決めた道を歩くのは終わりにしたかった。


 私が乗った船は、セイント・マリー号という名の商船だった。


 客船ではない。


 香辛料や布、異国の酒のたるを積み、商人や旅人も乗せて海を渡る船だ。


 船の上には、大きな木箱が縄で固定されている。


 船員たちは忙しそうに行き来し、商人たちは荷物の数を確認している。


 旅人たちは遠ざかる港を眺めたり、早くも船室へ引き上げたりしていた。


 その中で、女ひとりの旅人は少し目立った。


 ちらりとこちらを見る者もいる。


 物珍しそうな目。


 心配そうな目。


 少し失礼な目。


 私はそれらに気づかないふりをして、背筋を伸ばした。


 女がひとりで海を渡るなど、褒められたことではないのかもしれない。


 けれど、だからこそ胸が高鳴った。


 誰かの許しを待たずに、自分で行き先を決める。


 それは、私にとって初めての冒険だった。


 船室は、思っていたよりも狭かった。


 小さな寝台と、壁に固定された机。


 丸い窓からは、青い海が見える。


 床は船の揺れに合わせて、ゆっくりと上下していた。


 私は旅行カバンを開けた。


 慰謝料で買った、丈夫な革のカバンだ。


 中には、着替え、手袋、旅の言葉の本、港町ミラの案内書、そして何枚かの地図が入っている。


 どれも、私が自分で選び、悩んだ末に買ったものだった。


 その事実が、少しおかしかった。


 婚約者を妹に奪われた女が、慰謝料で船旅に出る。


 みっともない話だと、実家の誰かが笑うかもしれない。


 でも私は、みっともないとは思わなかった。


 少なくとも、あのままカイルと結婚するよりは、ずっとましだ。


 それに、これは逃げではない。


 私はようやく、行きたい場所へ行くのだ。


 私が旅に出ようと思ったきっかけは、図書館で見た一冊の本だった。


 そこには、アステリア王国の港町ミラの絵が載っていた。


 にぎやかな港。


 白い船。


 坂道に並ぶ家々。


 そして丘の上に立つ、聖マリアの大きな教会。


 その絵を見た時、胸が弾んだ。


 当時、私は十二才だった。


 いつか自分の足で、この町を歩いてみたい。


 丘の上から海を見て、大市場で異国の品を眺めてみたい。


 そう思ったことを、私はずっと忘れていた。


 いいえ。


 忘れたふりをしていただけかもしれない。


 姉だから。


 娘だから。


 婚約者だから。


 そうやって後回しにしてきた願いが、今になって私を動かしている。


 私の目的地は、アステリア王国の港町ミラ。


 十二才の私が、初めて「行きたい」と思った場所だった。


 私は机の上に案内書を広げた。


 港町ミラは、海に面した美しい町らしい。


 聖マリアの大きな教会の鐘の塔からは、港と海が一望できるという。


 大市場では、午前中に香辛料市が立ち、午後には異国の布を扱う商人が店を広げる。


 古書店の通りもあるらしい。


 そこまで読んで、私は思わず口元をゆるめた。


 古書店。


 それはとてもいい。


 リリアなら、きっと宝石店や仕立屋を最初に探すだろう。


 私は古書店を探す。


 どちらが正しいという話ではない。


 ただ、私はようやく、自分が見たいものを選べる場所へ向かっている。


 そのことが、嬉しかった。


 船が大きく揺れた。


 机の上の旅の言葉の本が滑り、床に落ちる。


 私はあわてて拾い上げた。


 窓の外を見ると、港はもう遠かった。


 陸地の線が、青いもやの向こうに薄く沈んでいる。


 胸の奥に、少しだけ不安が広がった。


 私は本当に、ひとりでやっていけるのだろうか。


 知らない国で、知らない言葉を聞き、知らない道を歩く。


 荷物を盗まれるかもしれない。


 道に迷うかもしれない。


 誰かにだまされるかもしれない。


 今まで屋敷の中で守られていたことを、外に出て初めて思い知ることになるのかもしれない。


 でも、それでも。


 私は戻りたいとは思わなかった。


 怖いからやめる。


 危ないからあきらめる。


 女だから家にいる。


 そうやってまた元の場所に戻ったら、私はきっと一生、自分を許せない。


 私は旅の言葉の本を机に置き直し、小さく息を吐いた。


 戻る場所がないのではない。


 戻らないと決めた場所があるだけだ。


 それで十分だった。


 夕方近く、私は再び船の上へ出た。


 海は、昼間よりも深い青になっていた。


 風には少し塩の匂いが混じっている。


 船員たちの掛け声が聞こえ、どこかで商人たちが値段の話をしていた。


 見知らぬ人々の声。


 見知らぬ海。


 見知らぬ明日。


 それらが、今の私には少し怖くて、同じくらい心地よかった。


 船のへりに立ち、行く先に思いをはせて、私はもう一度地図を広げた。


 アステリア王国。


 港町ミラ。


 聖マリアの大きな教会。


 大市場。


 古書店の通り。


 指で一つずつなぞっていると、急に強い風が吹いた。


「あっ」


 手元から地図がさらわれた。


 貴重な地図だ。


 あわてて追いかけようとしたけれど、船が揺れて一歩遅れてしまった。


 地図は船の上を滑り、木箱の間を抜け、誰かの足元で止まった。


 その人が、地図を拾い上げる。


「失礼。こちら、あなたのものでは?」


 落ち着いた声だった。


 私は顔を上げた。


 そこに立っていたのは、若い男性だった。


 年は、私より少し上だろうか。


 黒に近い髪に、灰色の目。


 服装は旅人らしく地味だったが、立ち方が妙に整っている。


 荷物も少ない。


 ただの旅人にしては、手の動きが丁寧すぎた。


 貴族かしら。


 それとも、貴族の家に仕えていた人?


 私は地図を受け取り、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。助かりました」


「港町ミラへ?」


 彼は地図の端に書かれた文字を見て、そう尋ねた。


「ええ。教会と市場を見に行くつもりです」


「良い町です。初めてなら、朝の市場は見た方がいい」


「お詳しいのですね」


「少しだけ」


 彼は笑った。


 その笑みは穏やかだった。


 けれど、どこか人に見られることに慣れている笑みだった。


「私はエリオット・レインといいます」


「エレノア・アルディスです」


 名乗ってから、私は少しだけ迷った。


 以前なら、家名を名乗ることに何の疑問もなかった。


 アルディス家の娘。


 それが私の立場だった。


 でも今は、その家から離れるために船に乗っている。


 それでもまだ、私はその名を名乗る。


 家族も、過去も、傷ついた記憶も。


 それを全部捨てて自由になるのではなく、持ったまま前へ進むしかないのだろう。


 エリオットは、私の迷いに気づいたのか気づかなかったのか、ただ静かにうなずいた。


「では、エレノア嬢。地図はしっかり持っていた方がいい。この船の風は、どうも旅人の予定を変えるのが好きらしい」


「予定を変えられるのは困ります」


「そうですか?」


 エリオットは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「予定にない場所へ行くのも、旅の楽しみでは?」


 私は地図を胸に抱えた。


「私は、予定を立ててから動く方が好きです」


「なるほど」


「それに、予定外のことはもう十分経験しましたので」


 そう言うと、エリオットは少しだけ首を傾げた。


 聞き返してくるかと思った。


 けれど彼は、何も聞かなかった。


 その沈黙が、意外と心地よかった。


 必要以上に踏み込まず、かといって無関心でもない。


 珍しい人だと思った。


 船がまた揺れた。


 私は地図を押さえ、海の向こうを見た。


 夕日が沈みかけている。


 水面が金色に光り、セイント・マリー号の帆が赤く染まっていた。


 エリオットも同じ方を見ていた。


「旅は、お一人で?」


「ええ」


「勇気がありますね」


「そうかしら」


「少なくとも、そう見えます」


 私は少し笑った。


「本当は、勇気というより勢いです」


「勢いで海を渡る人は、案外遠くまで行けますよ」


「経験談ですか?」


「少しだけ」


 またそれだ。


 少しだけ。


 どうにもはっきりしない人だ。


 けれど、不快ではなかった。


 私は地図を畳んだ。


「では、予定外のことが起きないように、今度から地図はしっかり持っておきます」


「それがいい。ですが、もしまた飛ばされたら拾います」


「親切なのですね」


「風に困らされる人を見ると、放っておけないだけです」


 それを親切と言うのではないかしら。


 そう思ったが、口には出さなかった。


 エリオットは軽く頭を下げ、船の反対側へ歩いていった。


 その時、近くにいた船員の一人が、エリオットに向かって姿勢を正しかけた。


 けれどエリオットが軽く目を向けると、船員は何事もなかったように顔をそらした。


 私はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


 やっぱり、ただの旅人ではないのかもしれない。


 でも、今は深く考えないことにした。


 旅立ったばかりだというのに。


 まだ港町ミラにも着いていないというのに。


 どうやら私は、少し面倒そうな人に出会ってしまったらしい。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 私はもう一度、海を見た。


 港は見えない。


 実家も見えない。


 カイルも、リリアも、遠い陸の向こうだ。


 胸の痛みは、まだ完全には消えていない。


 不安もある。


 期待もある。


 知らない土地へ向かう怖さもある。


 それでも、船は進んでいる。


 私も、進んでいる。


 セイント・マリー号は夕暮れの海を渡っていく。


 その先に何があるのか、まだ私は知らない。


 けれど少なくとも、昨日までの私ではない場所へ向かっている。


 私は畳んだ地図を胸に抱き、潮風の中で静かに笑った。


 世界は、思っていたより広い。


 そして私の旅は、まだ始まったばかりだった。

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