恋を綴る、その最後の一行で
式が終わったあと、控室には、夢の抜け殻のような静けさが漂っていた。
スポットライトも、祝福の拍手も、もうそこにはなかった。
けれどまだ、ふたりの記録が映ったスクリーンの余韻が、ローズの音が、指を握ったあの影が、胸の奥で震えていた。
玲音は、白いドレスの裾をそっと直しながら、ソファに腰を下ろしていた。
長い髪は少し乱れていて、でもそれが妙に自然だった。
まるで、この瞬間だけが真実かのように。
「……終わったね」
玲音がぽつりと言った。
その声には、少しの寂しさと、たくさんの安堵が混じっていた。
「うん。そして始まった」
俺は隣に腰を下ろし、あいつの手をそっと握った。
指先は少し冷たかった。
でも、もう震えてはいなかった。
しっかりと、俺の手を返してくる。
その確かさに、胸が熱くなった。
「……ルナちゃんも、ミレイちゃんも、すごかったね」
「うん。あいつらがいなかったら、ここまで来られなかった」
玲音の声が、やさしく揺れる。
あいつの見てきた景色と、背負ってきた重さと、その全部が、今この静けさに溶けていくようだった。
そのとき、控室のドアがノックされた。
「迎え、来たよ」
顔を覗かせたのは、ルナの兄だった。
少し不器用で、でも俺たちの音楽をずっとそばで聴いていてくれた人だ。
玲音のことも、あいつなりにずっと見守ってくれていた。
「ありがとうございます」
俺たちはゆっくりと立ち上がった。
玲音が俺の腕にそっと手を添える。
その仕草だけで、すべてが伝わった。言葉はいらなかった。
「……なんか、夢みたい」
「でも、現実だよ。ちゃんと、ふたりで作った現実」
車に乗り込むと、運転席からふたりの曲が流れてきた。
『ノイズのない日』のイントロ。
あの夜、何度も一緒に重ねた、静かで確かな音。
窓の外には、街の灯りが流れていた。
電車の音。踏切の警報。
信号の点滅。風の音。
全部が、今夜だけは、俺たちふたりの“音楽”に思えた。
玲音が、俺の肩にもたれて言った。
「……ねえ、奏汰」
「うん?」
「ちゃんと手、つないでいてくれる?」
「もちろん。離さないよ。絶対に」
玲音は、ほんの少し目を伏せて、それから真っ直ぐに俺を見た。
「……次の曲は、“ふたりで生きていく音”にしよう」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
こみ上げるものを隠せなかった。
「うん。ふたりで、ちゃんと“生きていく”音を」
車がゆっくりと、家の前に停まった。
俺たちは並んで降りた。夜風が少しだけ冷たくて、でもそれすら心地よかった。
玄関の前で、玲音がふと立ち止まる。
「……ただいま」
「おかえり」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
家の中は、いつもと変わらない。
だけど、確かに何かが変わっていた。
俺たちは、“音楽だけじゃない”夫婦になった。
同じ音を聴き、同じ生活を紡ぎ、同じ未来を奏でる――
そんなふたりになった。
スタジオに入ると、玲音がローズの前に座った。
「……ちょっとだけ、弾いてもいい?」
「うん。弾いて」
玲音の指が、鍵盤に触れた。
静かに、やさしく、でも確かな音で。
夜の空気が、その音に溶けていく。
俺はマイクを手に取り、あいつの音に寄り添うように、言葉を紡いだ。
「今日の音、すごくきれいだったよ」
玲音は、少し笑って言った。
「……奏汰が隣にいてくれたからだよ」
ふたりの音が、重なっていく。
それは、結婚式の余韻なんかじゃなかった。
“これから”の始まりだった。
ふたりの人生が、ちゃんと、音になって鳴り始めた瞬間だった。
窓の外の夜の灯が、静かに滲んでいた。
それも、きっと俺たちの音楽の一部になる。
ふたりの“ノイズのない日々”が、静かに、確かに――。




