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ふたりの約束

静かな夜だった。


スタジオのローズが、低く、柔らかく響いている。

その音は、まるで空気の粒子に語りかけるように、静かに部屋を満たしていた。

玲音は隣の部屋で、トラックの整理をしていた。

キーボードのクリック音が、遠くで小さく鳴っている。


俺は、ぼんやりとミキサーのフェーダーに手をかけながら、さっきのセッションを思い返していた。

あのコード進行、あの一瞬だけ、妙に胸がざわついた。

誰かの祈るような気配。

誰かが誰かを、音で呼び止めようとしているような——。


ローズの音は、ただの楽器の響きではなかった。

それは、見えない誰かの想いが、音の波に乗って届いてくるような感覚だった。

まるで、夜の静寂に紛れて、過去と未来が交差する瞬間を告げる鐘のように。


「……小町、かな」


思わず、呟いていた。

ルナが言っていた言葉が、ふと頭をよぎる。


「小町、最近ずっと部屋にこもってる。

 モニターで、あんたたちの配信、何度も見てるって」


「……そう」


言葉は短かったが、玲音の声は、いつもより少しだけ低く聴こえた。


そのあと、しばらく沈黙が続く。

俺は隣のローズに視線をやる。

さっきまでの響きが、まだ指先に残っていた。


ふと、気配に気づく。

玲音が、何か言いたそうにこちらを見ていた。

でも、言葉にはしない。

口を開きかけて、また閉じて――それを、何度か繰り返している。


「……玲音?」


声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らした。

すぐに「ううん、なんでもない」と小さく笑う。


でも、それが嘘だってことくらい、俺にはわかる。

玲音の目が、落ち着きなくモニターの波形を行ったり来たりしていた。


「……ごめん。ちょっと、大事な話がしたくて……」


ようやく絞り出したその声は、かすれていた。

目はモニターのままだったけれど、耳は俺の返事を待っていた。


「うん。なに?」


なるべく優しい声で答えると、玲音はふぅっと息を吐いた。

それは、深呼吸というより、覚悟を決める直前のような、

心の中に溜めていた何かを、吐き出そうとするような――そんな息だった。


「……いま、こうして一緒に曲作って、

 一緒に住んで、

 たまに喧嘩もして、でもまた笑い合って……

 すごく幸せなんだけど……」


そこまで言うと、言葉が止まった。

沈黙が、不自然なほど長く続く。

彼女の指先が、机の端をぎゅっとつかんでいるのが見えた。


俺は、じっと待った。

このあとに続く言葉が、きっと彼女にとってどれだけ重たいものなのか、この沈黙の中から感じ取れてしまったから。


「……わたし、ずっと迷ってた。

 言うべきか、言わないほうがいいのか。

 タイミングを待ってるうちに、どんどん怖くなって……」


そして、彼女は、ようやく顔をこちらに向けた。


「でも……やっぱり、ちゃんと伝えたい」


目が、真っ直ぐに俺を捉えていた。

怯えてるのに、逃げていなかった。


「わたし……18になったら、

 奏汰と――結婚するんだよね?」


心臓が、ドクンと跳ねた。

頭が真っ白になるほどの衝撃だったのに、

どうしてか、涙が出そうになった。


玲音はすぐに目を逸らし、焦るように続けた。


「そういう未来をちゃんと考えたいって、思って……

 ごめん、びっくりさせたよね……」


最後の言葉は、小さな声だった。

まるで自分の存在をかき消すように。


俺は、彼女の手をそっと握った。

細くて、少し震えていて、だけど、ちゃんと温かい手だった。


「……びっくり、したよ。でも、嬉しい。

 俺もそろそろ準備しなきゃって、考えてた」


玲音の目に、ぱっと涙がにじんだ。

すぐに慌てて手で拭おうとする仕草に、俺はくすっと笑ってしまう。


「そんな大事なこと、ちゃんと面と向かって言ってくれるの、

 玲音らしくて、好きだよ」


「うう……奏汰、やさしすぎて、泣く……」


「泣いていいよ。

 泣いたぶんだけ、俺が笑わせるから」


そう言ってもう一度手を握りしめると、彼女はふっと息をついて、目元を拭いながら笑った。


そして、二人のあいだに、言葉にならない音楽のような静寂が流れた。

まるで、その瞬間だけ、世界にふたりしかいないみたいに。


ローズの音が、ふたたび静かに流れ始める。

でも、さっきまでとは違う響きだった。

ふたりの未来を照らすような、穏やかで、あたたかな音。


それはきっと、恋の終わりではなく、始まりの音だった。

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