ソロオファー
夜のスタジオは、妙に静かだった。
ローズの鍵盤は閉じられ、DAWの画面だけが淡いブルーで光っている。
その静けさの中に、さっきまで鳴っていたローズの音――
まるで水面に落ちた小石の波紋のように、澄んだ余韻がまだ空気に漂っていた。
ローズは、音を鳴らしていなくても、そこにあるだけで空気を変える。
その音の記憶が、部屋の静けさに染み込んでいるようだった。
俺が戻ったとき、玲音はその前にひとり、じっと座っていた。
鍵盤には触れていない。けれど、指先はまだ、何かを探しているようだった。
「……ただいま。遅くなって、ごめん」
声をかけると、玲音は振り返らなかった。
それでも俺にはわかった。――泣きそうなほど、迷っていることが。
トラックには仮歌のファイルがずらりと並び、いくつかの波形が消され、また録音されては、すぐに切り取られていた。
俺がいない間、ずっとやってたのか。こんな深い時間まで。
モニター越しに再生された玲音の歌は、確かに玲音の声だった。けど、どこか透明で、触れようとすると逃げていく。
“ふたりの響き”じゃない。
ひとりきりで整えられた音。綺麗すぎて、怖い。
玲音はメールを開いていた。
件名に「ソロオファーの件」とあるのが一瞬見えた。
その時、俺の心臓が変な跳ね方をした。
“……やっぱり来たんだ。玲音に、ソロの声が。”
指がキーボードを叩く。
「お世話になっております。今回は――」
そこまで打ったところで、指が止まった。
いや、止まったというより……震えてた。
言葉にできない感情が、スタジオの空気を満たしていた。
俺は、何かを言うべきか迷って、それでも黙っていた。
だって、俺には何の権利もない。
ソロでやるって決めたら、俺は――
そのときだった。
玲音が、ぽつりと、かすれた声で言った。
「……ふたりで響かせたいの」
それは俺に向けられた言葉じゃなかったのかもしれない。
でも、胸の奥に熱いものが灯った。
俺の手が、勝手に玲音の肩に触れていた。
冷たかった。けど、震えていた分、余計に愛しかった。
「……ごめん、見た。メールのこと」
そう言うと、玲音はゆっくりと俺のほうを見た。
「見てたなら、黙っててよ……」
言葉の端が震えていた。涙じゃない。たぶん、怒りでもない。
ただ、どこにも出せなかった気持ちが、今、ようやく外気に触れたような、そんな声音だった。
「……だってさ、怖いんだよ。
一人でやるの」
「うん……」
「でも……期待されるのも、ちょっと嬉しくて……」
「うん」
「でも……でも、……私、やっぱり……」
玲音の手が、俺の胸に触れた。
押し返すでも、すがるでもない。
ただ、そこに置かれたその手が、今の玲音の全部だった。
俺は、何も言わずに、その手を包んだ。
声なんかいらなかった。
だって俺たちは、何度も音で会話してきたんだから。
そして、ふたりの距離がゆっくりと近づいていく。
さっきまで声が鳴っていたマイク。
その前で、俺たちは無音のまま、互いの存在を確かめた。
首筋に指を這わせると、玲音は少しだけ息をのんだ。
けれど、逃げなかった。
震えながら、それでも俺の服の裾を掴んだ。
「……ねえ、奏汰。響かせてよ。
ふたりで、ちゃんと……」
俺の鼓動が、玲音の体に伝わるのがわかる。
鍵盤もギターも鳴っていないのに、音が溢れていた。
ふたりの間にある、この沈黙そのものが、もう音楽だった。
玲音の耳元で囁く。
「響かせよう、何度でも。ふたりの音を――世界に、そして……お互いに。」
そして静かに、玲音の唇に触れた。
深夜のスタジオ。
冷たい光の中で、ふたりの音楽は新しく生まれ変わっていく。
ソロでは出せない“温度”で。
この場所にしかない“響き”で。
――たとえ一人でも立てる。でも、ふたりなら、飛べる。
その夜、俺たちはそれを確かに、身体で知った。




