表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/90

ミレイの軽口

夕方のスタジオ。

ローズの鍵盤に細い指を添えたまま、玲音はじっとディスプレイを見つめていた。

外は、ゆっくりと色を変える空。

カーテン越しの西陽が、玲音の頬を柔らかく照らしている。


彼女の指先の下で、ローズ――

まるでガラスの粒が転がるような、澄んだ音を秘めた電気ピアノが、まだ音を鳴らす前から、空気に静かな緊張を漂わせていた。


奏汰は隣の椅子にいて、ミックスの微調整を続けていた。

でも、耳は時折、玲音の小さな動きに自然と向かってしまう。

鍵盤に落ちる指の音。

小さく喉が動く音。

髪がさらりと肩をこすれる音。


そして――


「お、いい感じじゃん」

ドアが開いて、ミレイがふらりと入ってくる。


「生活に馴染んでる感じだな~」

缶コーヒーを片手に、モニターを覗き込んだ。


「料理の腕も上がったって? 

 もう嫁入り準備、万端ってやつ?」


その軽口に、玲音の指がぴくりと止まった。

小さく息を吸い、フードの影で表情が揺れる。


「……ばか」


玲音はぽつりと呟いて、手元のイヤホンのコードをゆっくりと巻き始めた。

その動きは、どこかぎこちなくて――でも艶めいている。

白い指先が、細いケーブルをなぞるたびに、彼女の体温がそのまま伝わってくるような気がした。


ミレイはその様子を見て、にやりと笑う。

「いや、マジで。結婚しちゃいなよ、もう。

 ずっとそういう空気出してるしさ」


その言葉に、奏汰は手を止めた。

玲音の横顔を見る。

頬のライン、耳の色。

なにより、言葉には出していない震え――それが、コードを巻く手の動きに出ていた。


だからこそ、奏汰はまっすぐに言った。


「……そのつもりだよ」


玲音は顔をそむけたまま、コードを巻く手を止めなかった。

けれど、耳ははっきりと――ほんのり赤く染まっていた。

さっきよりもずっと深く、赤く。


ミレイはそれを確認するように、わざとらしく缶コーヒーを飲んで、嘆息する。


「はあ〜……青春。音楽と恋愛が混ざるとさ、響きに“体温”が出るんだよね。

 不思議なくらい、リアルになる」


そのとき、玲音の動きが止まった。

そっと視線を落として――小さく息を吐いてから、言葉を零す。


「……あと少し。……18になったら、ちゃんと届け、出すから」


奏汰の方を見ずに言ったその声は、かすれていて、それでいて確かだった。

イヤホンを巻き終えると、玲音はそれを静かに机に置く。


何も言わなくても、指先が――呼吸が――すべてを伝えていた。


スタジオの窓から差し込む夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていく。

ミレイは照明のダイヤルを回し、室内の明かりを少し落とした。


「じゃ、私はそろそろ戻るね。……ふたりとも、いい感じに仕上げてよ」


ドアが閉まる。

空気が少し沈んで、代わりに、ふたりの距離だけがじわりと近づいた。


静寂。

スピーカーの通電ランプが、小さく脈を打っている。


玲音はなかなか顔を上げない。

だけど一度だけ、ちらりと奏汰の方を盗み見る。

目が合った瞬間――視線を逸らし、唇がかすかに緩んだ。


「……ばか」


その声はさっきよりも、ずっとやわらかかった。

空気に溶けて、肌をくすぐるような、体温のある言葉だった。


奏汰は笑って、ローズの鍵盤に手を置く。

「じゃあ、次の曲……“誓い”ってテーマでどう?」


玲音はゆっくりと目を閉じて、そしてこくんと頷いた。


窓の外には、静かな夜が降りてくる。

けれど、ふたりの部屋には、まだ“始まったばかりの熱”が残っていた。


ローズの低音が響く。

指先が鍵盤をそっとなぞるたび、玲音の肩がぴくりと揺れる。

もう言葉はいらなかった。


――触れてはいけないものに、少しだけ触れてしまった夜。


それでも、ふたりの音楽はまたひとつ深くなる。

“そのつもり”という言葉が、ふたりの未来を、静かに、でも確かに照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ