ミレイの軽口
夕方のスタジオ。
ローズの鍵盤に細い指を添えたまま、玲音はじっとディスプレイを見つめていた。
外は、ゆっくりと色を変える空。
カーテン越しの西陽が、玲音の頬を柔らかく照らしている。
彼女の指先の下で、ローズ――
まるでガラスの粒が転がるような、澄んだ音を秘めた電気ピアノが、まだ音を鳴らす前から、空気に静かな緊張を漂わせていた。
奏汰は隣の椅子にいて、ミックスの微調整を続けていた。
でも、耳は時折、玲音の小さな動きに自然と向かってしまう。
鍵盤に落ちる指の音。
小さく喉が動く音。
髪がさらりと肩をこすれる音。
そして――
「お、いい感じじゃん」
ドアが開いて、ミレイがふらりと入ってくる。
「生活に馴染んでる感じだな~」
缶コーヒーを片手に、モニターを覗き込んだ。
「料理の腕も上がったって?
もう嫁入り準備、万端ってやつ?」
その軽口に、玲音の指がぴくりと止まった。
小さく息を吸い、フードの影で表情が揺れる。
「……ばか」
玲音はぽつりと呟いて、手元のイヤホンのコードをゆっくりと巻き始めた。
その動きは、どこかぎこちなくて――でも艶めいている。
白い指先が、細いケーブルをなぞるたびに、彼女の体温がそのまま伝わってくるような気がした。
ミレイはその様子を見て、にやりと笑う。
「いや、マジで。結婚しちゃいなよ、もう。
ずっとそういう空気出してるしさ」
その言葉に、奏汰は手を止めた。
玲音の横顔を見る。
頬のライン、耳の色。
なにより、言葉には出していない震え――それが、コードを巻く手の動きに出ていた。
だからこそ、奏汰はまっすぐに言った。
「……そのつもりだよ」
玲音は顔をそむけたまま、コードを巻く手を止めなかった。
けれど、耳ははっきりと――ほんのり赤く染まっていた。
さっきよりもずっと深く、赤く。
ミレイはそれを確認するように、わざとらしく缶コーヒーを飲んで、嘆息する。
「はあ〜……青春。音楽と恋愛が混ざるとさ、響きに“体温”が出るんだよね。
不思議なくらい、リアルになる」
そのとき、玲音の動きが止まった。
そっと視線を落として――小さく息を吐いてから、言葉を零す。
「……あと少し。……18になったら、ちゃんと届け、出すから」
奏汰の方を見ずに言ったその声は、かすれていて、それでいて確かだった。
イヤホンを巻き終えると、玲音はそれを静かに机に置く。
何も言わなくても、指先が――呼吸が――すべてを伝えていた。
スタジオの窓から差し込む夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
ミレイは照明のダイヤルを回し、室内の明かりを少し落とした。
「じゃ、私はそろそろ戻るね。……ふたりとも、いい感じに仕上げてよ」
ドアが閉まる。
空気が少し沈んで、代わりに、ふたりの距離だけがじわりと近づいた。
静寂。
スピーカーの通電ランプが、小さく脈を打っている。
玲音はなかなか顔を上げない。
だけど一度だけ、ちらりと奏汰の方を盗み見る。
目が合った瞬間――視線を逸らし、唇がかすかに緩んだ。
「……ばか」
その声はさっきよりも、ずっとやわらかかった。
空気に溶けて、肌をくすぐるような、体温のある言葉だった。
奏汰は笑って、ローズの鍵盤に手を置く。
「じゃあ、次の曲……“誓い”ってテーマでどう?」
玲音はゆっくりと目を閉じて、そしてこくんと頷いた。
窓の外には、静かな夜が降りてくる。
けれど、ふたりの部屋には、まだ“始まったばかりの熱”が残っていた。
ローズの低音が響く。
指先が鍵盤をそっとなぞるたび、玲音の肩がぴくりと揺れる。
もう言葉はいらなかった。
――触れてはいけないものに、少しだけ触れてしまった夜。
それでも、ふたりの音楽はまたひとつ深くなる。
“そのつもり”という言葉が、ふたりの未来を、静かに、でも確かに照らしていた。




