家事と音楽
週末の午前。
玲音はキッチンに立っていた。
その背中には、どこかぎこちなさと、静かな艶があった。
パーカーの袖から伸びた白い指先が、包丁をそっと握る。
スマートフォンの画面には、ルナの笑顔。
「じゃあ、まず皮をむいて~。玲音ちゃん、包丁でもむける?」
「……たぶん」
玲音は囁くように答え、袖口を指でぎゅっと握る。
包丁の刃がジャガイモに触れた瞬間、かすかな息が漏れた。
その音は、空気の中に溶けていく。
奏汰は機材のチェックを止め、マイクをキッチンに向ける。
録音ボタンを押すと、空間が少しだけ張り詰めた。
ジャガイモの皮をむく音。
包丁がまな板に触れる音。
ボウルを叩く指の音。
玲音の吐息。
それらは、ただの生活音ではなかった。
DAWの中で切り取られ、ピッチが与えられ、旋律に変わっていく。
ジャガイモを潰す音は、低音のベースラインに。
水が沸騰する音は、アンビエントのパッドに。
玲音の吐息は、ハイハットのように刻まれる。
「……変な音、しない?」
玲音が振り返る。
頬がわずかに赤く、目元には不安と、少しの期待。
「録ってるよ」
奏汰は答える。
玲音は肩を震わせ、唇を尖らせる。
「ばか……そういうの、やめて……」
でも、手は止まらない。
包丁がジャガイモの肌をなぞるたび、小さな音が響く。
それは、スタジオの静けさに心地よく溶けていく。
「妬けるわね~、ふたりとも」
ルナの声が画面越しに届く。
「生活と音楽、ちゃんと混ざってるって感じ」
玲音はまた頬を染め、包丁の角度を変える。
奏汰はその音を、サンプラーに取り込んだ。
夕方。
ふたりはちゃぶ台に並んで座っていた。
玲音のポテトサラダは、少し塩気が強かった。
「……うまい」
奏汰の言葉に、玲音は静かに見つめ返す。
「次は、揚げ物やる……」
「え、マジで? やる気あるじゃん」
「うん。……音が、気持ちいいから」
夜。
スタジオには、新しいトラックが流れていた。
ジャガイモの音、吐息、包丁のリズム――それらが、旋律になっていた。
「この曲、タイトルどうする?」
玲音は少し考えて、答えた。
「……“キッチン・ビート”」
奏汰は音楽ノートにその名前を記す。
ペンの音が、静かに響く。
その音も、録音されていた。
春の夜。
窓の外には街のざわめき。
でもこの部屋には、ふたりだけの“音”があった。
生活と音楽が、まるで恋のように溶け合っていく。
それは、まだ始まったばかりの、ふたりの“伴奏生活”だった。




