新生活のはじまり
春の午後。
スタジオのドアを開けた瞬間、俺の中の何かがひとつ、崩れ落ちた気がした。
そこにいたのは、グレーのカーディガンに白いブラウス、そしてふわっとしたプリーツスカートを着た玲音。
そう、あの“衣裳部屋で見つけた学生風コーデ”。前に見せてもらったやつだ。
ローズ・ピアノを弾く姿を想定して選んだって、確かに言ってた。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノで、
その音色は柔らかく、どこか曖昧で、空気に溶け込むように響く。
玲音が弾くと、まるで春の風が音になったみたいに、スタジオが優しく染まる。
知ってた。
見たことあった。
むしろ俺が最初の目撃者だった。
……それでも、不意打ちで実戦投入されると、破壊力がちがった。
ふとももに当たる光が春風で揺れて、それがまたプリーツの影に微妙なグラデーションを生んで、いやこれ何の罠?
「……その服、今日も着てきたんだ」
平静を装って言ったつもりだったけど、声がワントーン上ずってたのは自分でもわかった。
「うん。せっかくだから。ほら、“初登校っぽい”感じ?」
玲音はスカートの端をそっと整えながら答えた。
何のてらいもなく、いつもの調子で。
まるでこれが、“春の制服”というドレスコードの自然な遵守であるかのように。
こちとら心のドレスコードが崩壊しかけてるんですけど。
「悪目立ちしたらイヤだなって思ったけど、電車の中、意外と誰も気にしてなかった」
「……俺は、すごく気にしてるけどね……心が」
「え?」
「いや、なんでもない。音出してみよっか」
「うん」
椅子に座った玲音が、ローズに指を置く。
その瞬間、スカートがふわっとひろがって──
ほんのり太ももが日差しにさらされて──
なぜか俺の鼓動がジャズセッションみたいに裏拍を刻みはじめた。
俺は、オープンEチューニングにしたレスポールを構え、スライドバーを指にはめる。
レスポールは、重厚なボディと太く粘りのある音が特徴のエレキギターで、ロックの定番として多くのギタリストに愛されている。
オープンEチューニングは、スライド奏法に適している。
金属製のバーを弦の上で滑らせることで、音程が連続的に変化し、まるで声のように揺れる、情感豊かな音が生まれる。
……が、コードがうまく浮かばない。
あれ、この曲、キー何だっけ?
メジャー? マイナー? 太もも?
……ちがう。
「“はじまりの音”、Aメロからいこうか」
「うん……」
玲音が弾きはじめたローズの旋律は、春の風みたいに柔らかくて、
どこか懐かしくて、でもちゃんと前を向いていて。
……だからこそ困る。
その音色に合わせてギターを鳴らしたいのに、脳内ではなぜか「スカートがめくれるまでの秒数」みたいな余計なタイマーが作動してて、集中できない。
「奏汰、今のコード、ちょっと違うよ?」
「……そ、そうか。ごめん。たぶん春風のせい」
「春風?」
「いや、あの、比喩というか……なんでもないです」
玲音は小首をかしげたままローズを見つめ、俺のギターに合わせて弾き直す。
その横顔が、またズルいくらいに真っ直ぐで。
本人はきっと気づいてない。
その服装が、どれだけ俺の中の“平常運転”を奪っているかなんて。
このスタジオに一歩足を踏み入れた瞬間から、俺の中の理性はずっと非常ベル鳴りっぱなしだ。
「あ、そうだ。これ」
と、玲音がカーディガンのポケットから取り出したのは、小さな安全ピン。
「スカート、ちょっと広がりすぎるから、裾を少しだけ留めてみたんだよね。ほら、こうやって」
──やめてくれ。
そんなこと言われたら、どこが留まってて、どこが留まってないのか、考えてしまうじゃないか。
「……なるほどね。いや、うん。いい工夫だと思う。実用性って大事だしね。あはははは」
笑い方が完全に壊れた。
完全に不審者だ。
だれか俺に、冷却スプレーかけてほしい。
それでも、俺たちは音を重ねていく。
ギターとローズが絡み合い、やがてひとつの旋律になる。
奏でる音は真剣だけど──
俺の脳内はずっと、制服属性と太ももバフの話し合いでフル会議中だった。
春の午後。音楽室みたいなスタジオで、俺はまたひとつ、青春に殺されかけた。




