バレンタインの声
2月14日。
スタジオの空気は、ローズ・ピアノの甘い残響と、冬の湿った空気が入り混じったような匂いがしていた。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノで、
その音色は柔らかく、どこか曖昧で、まるで誰かの吐息のように、ぬるくて、艶めいている。
鍵盤の上には、小さな箱。赤いリボンが、ほどかれるのを待っていた。
「……それ、何?」
奏汰がレスポールの弦を張り替えながら、ちらりと視線を送る。
レスポールは、重厚なボディと太く粘りのある音が特徴のエレキギターで、ロックを中心に多くのギタリストに愛されている。
指先の動きが、やけにゆっくりだった。
玲音は、唇を噛んで視線をそらした。
「……チョコ。手作り……バレンタイン、だから」
「へえ……」
奏汰の声が、少しだけ低くなる。
「誰に渡すの?」
玲音は、ついとそっぽを向いたまま、
でも、その指先はまっすぐ、奏汰の方に箱を押し出していた。
「……奏汰に決まってるでしょ」
息を呑むような静寂。
ローズの残響が、ふたりの間をすり抜けていく。
奏汰はそっと弦から指を離し、手のひらで箱を受け取った。
リボンが、わずかにふるえていた。
音符模様の包み紙の、紙の質感すら官能的に思えるほど、空気が熱を持っている。
「ありがとう。……嬉しいよ」
玲音は、声の熱に耐えきれなかったように、伏し目がちに目を閉じた。
そのまつげが震えているのを、奏汰は見逃さなかった。
「……玲音らしい味だな」
一粒、口に運んだあと、奏汰はつぶやいた。
「それ、褒めてるの?」
「もちろん」
奏汰は微笑む。
「ちゃんと“音”がある味。……メロディの中に、コードが隠れてるみたいな。
一度、噛んだだけじゃ、全部わからない。……でも、何度でも、確かめたくなる」
玲音は、笑いながら、でもどこか火照ったように呟いた。
「……奏汰って、なんでも音楽に例えるよね」
「だって、玲音との関係は、音楽みたいだから。
一度ハモったら、もう……離れられない」
ふたりの視線が、重なる。
音が止まっても、どこかでまだ鳴り続けている気がした。
玲音は、そっとローズの鍵盤に触れる。
その指先は、いつもより滑らかに、艶やかに鍵盤をなぞっていく。
奏汰がギターを構える。
彼のピックが弦に触れる瞬間、ふたりの呼吸がひとつになった。
——恋も、音楽も。
甘くて、少しだけ苦くて。
ひとたび触れたら、もう後戻りはできない。
スタジオに満ちるメロディは、まるで唇が触れ合うように、
柔らかく、濡れていて、熱かった。
その夜。
ふたりは、音楽を交わしながら、
バレンタインという名の、大人の階段の途中を、静かに、でも確かに登っていった。




