志望理由書
夜の机。
奏汰は、ペンを握ったまま動けずにいた。
目の前の志望理由書の用紙には、まだ一言しか書かれていない。
けれど、彼の胸の奥では、言葉にならない何かがゆっくりと形を取り始めていた。
ローズ・ピアノの音は止み、スタジオは静寂に包まれていた。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノ。
その音色は、アコースティックピアノよりも柔らかく、どこか曖昧で、
感情の揺らぎやためらいをそのまま音にしてくれるような響きがある。
玲音は少し離れた場所で、タブレットを片手に譜面を眺めていたが、
ときおり奏汰のほうに視線を送っていた。
「……書けそう?」
彼女の声は、夜の中で柔らかく響いた。
「うん。今、書いてるところ」
奏汰はわずかに笑って答える。
その微笑みが、なぜだか玲音の胸を締めつけた。
ペン先が紙をゆっくりと滑る。
“僕が創作を始めたきっかけは、妹との音楽活動です。
彼女がローズを弾き、僕がスライドギターを重ねる。
スライド奏法は、指にはめた金属製のバーを弦の上で滑らせて音程を変える奏法で、
その瞬間に生まれる音が、僕にとっての原点でした。”
玲音は、そっと隣に腰を下ろした。
奏汰の肩に、静かに寄り添うようにして。
画面ではなく、今は彼の言葉を見つめていた。
「……それ、わたしのこと?」
問いかけは、どこか戸惑いを孕んでいた。
「うん。玲音との創作が、俺のすべての始まりだったから」
ペンを置いた奏汰が、玲音の手にそっと触れる。
その温度に、玲音の身体が、ほのかに震えた。
「俺にとって、玲音との音楽は、ただの趣味じゃない。
人生の軸なんだ。だから、それを大学でも続けたいと思ってる」
玲音は、言葉の代わりに、奏汰の手をそっと握り返した。
その指先に、微かな熱が伝わってくる。
重ねた時間と、これからを想う気持ちが、指先から溢れていた。
「……わたし、嬉しい。
なんか、ちゃんと“認められた”って感じがする」
「認めるも何も、玲音はずっと俺のパートナーだよ」
その言葉に、玲音は目を伏せる。
頬が、ほんのりと赤らんでいた。
しんと静かな部屋の中で、息遣いだけが、ふたりの距離を物語っていた。
「……じゃあ、わたしも書いてみようかな。志望理由」
「うん。玲音の言葉で、ちゃんと書いてみなよ。
“兄と一緒に音楽を作りたい”って、面接でも言ってたじゃん」
「うん……でも、文章にするのって、難しいね」
「大丈夫。俺も、最初は何書いていいかわかんなかった。
でも、気持ちをそのまま書けばいい。玲音の音みたいに」
玲音は、静かに頷いて、ノートを開いた。
ペンを握る手は少しだけ震えていたけれど、
それでも迷いのない眼差しで、彼女は前を向いていた。
寄り添うふたりの間に流れる、ぬくもりと呼吸。
スタジオの空気は、静かで、けれど確かに熱を帯びていた。
この夜が、ふたりの未来を刻む、音のように滑らかな記憶になる。
——この音楽は、玲音と出会ったから始まった。
——創作は、ふたりの絆の証。
机の上に並んだ原稿用紙の隣で、ふたりの指が、そっと絡まった。




