自分のペースで
ローズ・ピアノの音が、深い夜の底に、灯りのようにともっていた。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノ。
その音色は、アコースティックピアノよりも柔らかく、どこか曖昧で、
静かな空間にそっと寄り添うように響く。
玲音の細い指が、机の上のパンフレットをそっと押さえている。
「週2登校」「個別指導」「音楽活動との両立」——
その文字の並びは、今の玲音には、やさしく微笑みかけてくるようだった。
「……これ、ルナが通ってる学校?」
そう尋ねる玲音に、奏汰は首を横に振った。
「ルナが言ってた。“自分に合う社会を選ぶのが進学だ”って。
……俺も、それって、けっこう大事なことだと思った」
玲音は視線をパンフレットに戻す。
柔らかな紙の感触に、彼女はどこか、居場所のようなものを感じていた。
「……自分に合う社会、か」
その言葉は、彼女の中でゆっくりと転がり、心のどこかに触れた。
「玲音、音楽、続けたいんだろ?」
奏汰は、ローズの鍵盤に指を置いた。やさしい和音が、部屋を包んだ。
「だったら、自分のリズムで学べる環境を選ぶの、悪くないと思う」
「でも……通信制って、“逃げ”って思われそうで……」
玲音の声は、どこか震えていた。
奏汰は首を横に振る。
「“逃げ”じゃない。“選択”だよ」
そう言って、玲音の前髪にそっと触れた。
玲音は驚いたように目を見開き、そのまま、目を伏せた。
「……やってみたいかも」
その声は、まるで夜のスタジオに灯るローズのように、静かで、確かだった。
そして——
スタジオのドアが、控えめにノックされた。
入ってきたのは、小町。夜の街に溶け込むような、艶やかな和服姿だった。
「お邪魔するよ。……進路の話、してたのか?」
彼女は、玲音と奏汰の間に漂う微熱のような空気を感じとったらしく、すこしだけ、目を細めた。
「玲音、通信制の高校を考えててさ」
奏汰の声に、小町はふっと微笑んだ。
「悪くない選択だ。“普通”にこだわることほど、愚かなことはない」
彼女はローズの鍵盤に指を滑らせ、軽やかなフレーズを弾いた。
そしてそのまま、奏汰の横に立ち、すこし身体を寄せる。
「私はね。——大学にも行くつもりだ」
「えっ、そうなの?」玲音が驚いたように言う。
「刺激が欲しいのさ。音楽一本の人生じゃ、体が飽きる。……それに」
小町はささやくように、奏汰の耳に言った。
「学校に通ってれば、……いろいろ、口実もできるだろ?」
そのとき、小町の指が、奏汰の肩にそっと触れた。
玲音の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
けれどその気配に気づかぬふりをして、小町はふわりと離れた。
「……進学って、もっと堅いものだと思ってた」
玲音の言葉に、小町は肩をすくめる。
「堅くするかどうかは、自分次第さ」
そう言って、小町はスタジオを出ていった。
着物の裾が、微かに揺れていた。
——残されたふたり。
玲音はパンフレットの最後のページを見つめた。
「……やってみたいな、本当に」
その声は、静かに未来へ踏み出していた。
奏汰はローズの音に、コードを重ねる。
ふたりの音が、少しずつ、ひとつになっていった。
そして、スタジオの外。
月明かりの下、小町は立ち止まり、ポケットの中のリップクリームを指で回す。
「……焦るな、小町。遊びじゃない」
そうつぶやく彼女の横顔は、夜の光の中で、どこか淋しげで、熱かった。




