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進学って、なんのため?

夜のスタジオ。

機材のランプが低く灯り、ローズ・ピアノの音が、静かに空気を撫でていた。

ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノで、

その音色は柔らかく、どこか曖昧で、静かな夜に溶け込むように響く。


混ざり合うように、溶け合うように。

奏汰が弾くスライドギターの音に、玲音の即興のメロディが滑り込む。


スライド奏法は、指にはめた金属製のバーを弦の上で滑らせることで、

音程を連続的に変化させ、まるで声のように揺れる音を生み出す。

その響きは、感情の揺らぎや言葉にならない想いを、音にして伝えてくれる。


何も話さなくても、音がすでに会話をしていた。

でも、今夜の音には、わずかに揺れがある。

昼間から続く、玲音のどこか焦燥めいた表情が、それを裏打ちしていた。


「……学校に行くことが、音楽にどうつながるの?」

突然、玲音が口を開いた。


静寂。

奏汰はローズの鍵盤に指を置いたまま、短く息を吸った。


「直接じゃない。だけど、音楽は、遠回りから生まれることも多い」

その声は低く、やや熱を帯びていた。

「偶然出会った一文が、歌詞になる。すれ違った誰かの癖が、リズムを生む。……そういうこと」


玲音は目を伏せた。

濡れたような前髪が、頬にかかる。


「でもさ」

彼女はぽつりとこぼした。

「教室って、息が詰まるんだよね。ずっと誰かと一緒ってだけで、胸の奥がざわざわして……」

声は、まるで囁くように、スタジオの闇に溶けていった。


奏汰は、隣に座り直す。

すぐ近くで、玲音の呼吸が微かに聞こえた。

彼女の細い肩に触れるくらいの距離で、言った。


「だったら、合う場所を探せばいい。週に数回だけ登校して、他は自宅でできる学校とか」

「そんなのあるの?」

玲音が、少しだけ振り返る。距離が、ほんのわずかに縮まる。


「あるさ。玲音には、たぶんその方が向いてる」

奏汰の声が、低く落ちた。

「無理に“普通”に合わせる必要なんてない。玲音は、玲音のリズムで生きればいい」


その言葉に、玲音のまつげがわずかに揺れた。

視線が重なった。

しばらく、お互い何も言わない。


張り詰めたような、でもどこか心地いい空気が漂っていた。


「……ねえ」玲音が、ぽつりとつぶやく。

「“進学”ってさ、結局、なに?」


奏汰は軽く笑った。

「未来の投資、ってとこかな。今のままじゃ届かない場所に、届くための切符」


玲音は鍵盤に指を置いた。

ひとつ、コードを鳴らす。

ほんの少しだけ、音が揺れた。まるで、迷っているみたいに。


「わたし、怖いよ。進学のことも、将来のことも。でも……音楽だけは、捨てたくない」

言葉の端が、かすかに震えていた。

そして同時に、どこか甘えてもいた。


奏汰は、ローズから手を離して玲音の指にそっと触れた。

彼女は驚いたように、でも拒まなかった。

指先から伝わる、かすかな熱。音じゃない、生の体温。


「その気持ちがあれば、十分すぎる理由になる」

奏汰の声が、やけに近くて低かった。

「怖いのは、踏み出す証拠だよ。玲音は、ちゃんと進んでる」


玲音は目を伏せて、小さく笑った。

「……わたし、ちょっとずつでいい?」

その声には、さっきよりも確かな響きがあった。


「うん。玲音のテンポでいい」

奏汰がそう言うと、再びセッションが始まった。

コードとメロディが、ふたたび絡み合い、少しずつ熱を帯びていく。


夜のスタジオ。

音と沈黙のあいだに、ふたりの距離が少しずつ近づいていく。


“進学”なんて言葉が、妙に遠く思えた。

今、この空間で確かに生まれているのは、もっと生々しくて、曖昧で、それでいて——逃れがたい「関係」だった。

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