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進路希望調査票

秋の夕暮れ。窓の外では茜色が街を包み込み、ゆっくりと夜の匂いを滲ませていた。

玲音の部屋には、さっき奏汰が録音したローズ・ピアノのフレーズが、ループで静かに流れている。


ローズは、金属音叉の振動を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノ。

その音色は、アコースティックピアノよりも柔らかく、どこか曖昧で、

感情の揺らぎやためらいをそのまま音に変えてくれるような響きがある。


深く息を吐いた奏汰は、ギターを抱えたままベッドに寄りかかり、玲音の横顔をちらと見た。

ドレイクやナタリーとのセッション以来、彼女はローズにすっかり夢中だ。

音を聴く瞳の奥に、何かにすがるような光がある。


玲音はタブレットを前に、じっと画面を見つめていた。

担任から送られてきた進路希望調査票のフォーム。

「進学希望先」「志望理由」「現在の出席状況」——その文字たちが、彼女の体温を少しだけ奪っていた。


指先が震え、スクロールするのもためらう。

出席日数の欄には、空白が多すぎた。


「……わたし、高校に行けるのかな」

小さなつぶやきは、かすれた吐息のようだった。


奏汰はギターの手を止め、玲音をじっと見た。

その声には、彼女の脆さと、それでも立っていたいという願いがにじんでいた。


「行けるよ。行けるように……俺がちゃんと、支える」

それはただの慰めじゃない。まるで、約束のように響いていた。


玲音はゆっくりとタブレットを閉じて、膝の上に置いた。

少し首をかしげながら、視線を落とす。


「でも……私の“普通”は、みんなの“普通”じゃないのかも。先生にも、“通信制もあるよ”って、さりげなく言われたし……それって、遠回しに“無理”ってことだよね」


「“普通”なんて、誰が決めたんだよ」

奏汰は真っすぐにそう言ってから、声を少しだけ和らげた。

「玲音が音楽を続けたいなら、それに合う道を選べばいい。進学はそのための手段なんだよ」


玲音は目を伏せ、少しだけ頷いた。

それは納得じゃなく、まだ答えの出ない問いに仮の印を打っただけのように見えた。


しばし、部屋に沈黙が落ちる。

ローズの音が空気のように、ふたりの間を漂っていた。


やがて奏汰が立ち上がる。

「……ココア、淹れてくる」


玲音がわずかに微笑んだ。「うん……」


少しして戻ってきた奏汰は、湯気の立つマグカップを2つ手にしていた。

玲音の指先が、あたたかい陶器にふれた瞬間、ほっとしたように息を吐く。


「……ねえ」

玲音が、カップの縁を見つめたまま言った。

「進学って、本当に音楽に関係あるのかな……?」


その声は、どこか甘く、どこか切ない。

まるで、奏汰だけに聞こえてほしい秘密のようだった。


奏汰は答えず、ゆっくり隣に座った。

肩がふれそうで、ふれない距離。

でも、玲音の体温は、確かに感じられる。


「……それ、次の夜のセッションで話そうか」

奏汰は、彼女の目をまっすぐに見つめた。

「夜のスタジオで、音と一緒に答えを探そう」


玲音は、ほんの少しだけ笑った。

その笑みはまだ不安定だったけれど、かすかに潤んだ瞳の奥には、彼への信頼が宿っていた。


その夜、ふたりはスタジオに行く準備を始めた。


ベッドの上でリュックに荷物を詰める玲音のシャツの裾が、ふと持ち上がって、白い素肌がのぞく。

奏汰が視線を逸らしかけたとき、玲音がふと顔を上げて、じっと見つめてきた。


「……奏汰。わたし、もし音楽を選んだら……どこまで行けるかな」


その目に宿るのは、将来の不安ではなく、もっと今この瞬間を確かめたくなるような——

言葉にならない想いだった。


奏汰はその瞳に引き寄せられるように、そっと手を伸ばした。

玲音の指先と、自分の指先がふれる。

少しだけ、指が絡まった。


「……一緒に、確かめていこう」

奏汰が低く、熱をこめてそう言ったとき——


ローズの音が止まり、部屋の静けさが、ふたりの間に流れた。


——その夜のスタジオは、音だけじゃなく、ふたりの“気持ち”も鳴っていた。


進路希望調査票の「志望理由」の欄には、まだ何も書かれていなかった。

けれど、玲音の中では、もうひとつの物語がはじまりつつあった。


——音楽を続けたい。

——この人と、未来を歩きたい。


そして、音の向こうにある“本当の自分”に、少しずつ手を伸ばしていく。

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