修正と祈り
午後のスタジオ。
外は、夏の終わりを告げるように、重たい雲が垂れ込めていた。
でも、それよりも僕の視線を引きつけるのは、
ローズ・ピアノの前に静かに座る玲音の、横顔だった。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に拾って鳴らすエレクトリックピアノ。
その音色は、アコースティックピアノよりも柔らかく、どこか曖昧で、
静かな午後の空気に溶け込むように響く。
彼女は、何かを迷っているようだった。
細い指で鍵盤をなぞりながら、さっきから一言も発していない。
仮ミックスは、もう完成している。
音も、詞も、僕と玲音の“祈り”そのもの。
だけど、A&Rから新たなメッセージが届いた。
「映像コンテが届いたよ」
僕はモニターを指差しながら言った。
「サビの入り、ちょっとズレてるかも。
監督から、“もう少し疾走感が欲しい”って」
玲音は、困ったように眉をひそめた。
「疾走感って……この曲、静かな祈りだったのに」
「うん。でも、映像のテンポが速くて。
キャラの動きに合わせるなら、少しテンポ上げたほうがよさそう」
玲音は黙り込んで、天井を見上げた。
白い肌が、スポットライトに照らされて、透けるように輝いて見える。
──そんな視線の先にあるのが祈りなのか、悩みなのか。
僕は、少しだけ嫉妬してしまう。
「……“妹”って、誰かに届かないものだと思ってた。
ずっと名前を呼べなかった、誰かへの想い。
でも……アニメになって、誰かの目に触れるなら──
もう少し、前に出してもいいのかも」
その言葉を聞いて、僕の心がふわっと熱くなった。
玲音の声は、柔らかくて、それでいて芯がある。
時々、近すぎて触れてしまいそうで、怖くなる。
「アウトロはフェードじゃなくて、スパッと切るってさ」
「……潔いね」
玲音がぽつりと呟いた。
「でも、潔さも“祈り”のかたちかもしれないよ」
玲音が僕の方をちらっと見て、笑った。
その笑顔が、眩しかった。
再びDAWを開き、テンポを少し上げて、イントロのエレピを削り、サビの入りを映像に合わせて調整していく。
玲音の手が僕の手にふと触れた。
「あ……ごめん」
彼女の頬が少し赤くなったのが、可愛すぎて、
僕は変な声を出しそうになるのをなんとか飲み込んだ。
「この修正で、映像と合うはず」
僕は集中してるふりをしながら、彼女の首筋に視線を泳がせる。
「うん……でも、音楽としても納得できる。
これは“妥協”じゃなくて、“調整”だよね」
そう言った玲音の胸元が、少し開いたTシャツからちらっと覗いて、
いやいや、今は仕事に集中、って自分に言い聞かせた。
「……音って、変えられるんだね」
玲音が、モニターの進捗バーを見つめながら呟く。
「怖かったけど、今はちょっとだけ、嬉しい」
「うん。変えることで、届くなら──それも音楽だと思うよ」
ファイルをアップロードしながら、
僕の手が玲音の手とまた重なった。
今度は、彼女も引っ込めなかった。
「提出、完了」
僕は画面を見ながら、そう告げた。
玲音は、じっと僕の方を見ていた。
そのまま、何か言いたげに、唇を開きかけて──そして、閉じた。
スタジオの空気が、急に甘くなる。
「ねえ、奏汰」
玲音がぽつりと僕の名前を呼んだ。
「ん?」
「……“妹”って、誰かのための祈りじゃなくて、
自分のための祈りだったのかも」
僕は目を閉じて、ゆっくり言葉を選ぶ。
「……それ、すごく音楽っぽい言葉だね」
玲音は、僕の肩に、そっと頭を乗せた。
その重みとぬくもりに、鼓動が跳ねる。
──もし、今、彼女に触れたら。
このまま、唇を近づけたら。
音楽も、祈りも、全部崩れてしまうかもしれない。
でも、それでも。
それでも今夜は、ほんの少しだけ、
玲音の“祈り”に、触れていたいと思った。




