“妹”という祈り
玲音の声が、スタジオの空気を震わせた。
「──兄さん」
それは、たしかに音になっていたのに、旋律のように儚く、ふれた瞬間、ほどけてしまいそうだった。
奏汰は、目を閉じて、その言葉の余韻に耳を澄ませる。
音符にするなら、どこに置こう。
どうすれば、あの一言を聴く人の胸に残せるだろう。
「いまの、録っておく?」
「……やだ。これは、デモじゃなくて、いまの“気持ち”だもん」
玲音はそう言って笑ったけれど、その笑顔の奥に、何かが揺れていた。
「あたし、ちょっと考えてたことがあるんだ」
「うん」
「“妹”って存在が、物語の中だけじゃなくて、本当にいたとしたら……その子はきっと、自分が“妹”であることに、気づいてしまう瞬間があると思うんだよね」
「気づくって……?」
「“妹”としてしか、見られてないって。
でも、ほんとは、もっと違うふうに見てほしかったって、思ってしまう。
一人の女性として、呼ばれたかったって」
奏汰は、手元のコード譜に視線を落としたまま、静かに言葉を探した。
「……名前って、特別だよね。
呼ぶことで、距離が変わる。
言わなきゃ守れるものもあるけど、言わなきゃ伝わらないこともある」
「うん。
だから、この曲の最後には、あたしが“兄さん”って呼んで、奏汰が……」
「“玲音”って呼び返す?」
「……うん」
言葉の交換が、音楽の終止符になる。
それは祈りの終わりであり、呪いの解放でもあった。
ふたりはもう一度、ローズ・ピアノの前に座る。
ローズは、金属音叉の振動を電気的に拾って鳴らすエレクトリックピアノで、その音色は柔らかく、どこか浮遊感があり、コードを鳴らすだけで空気が少しだけ揺れるような感覚がある。
コード進行は、さっきよりも少し温度を帯びていた。
C──G/B──Am──F
F──G──C
「Aメロは日常の景色で、“あたりまえ”の関係を描いて……」
「Bメロで揺らぎを入れる。ほんのすこしだけ、名前の輪郭に触れるように」
「で、サビで、気づかないふりをやめる」
「名前を、呼びたくて呼べない──その狭間」
旋律が言葉を追い越して、ふたりの中でふくらんでいく。
“妹”という言葉を使わずに、“妹”を描く。
それは難しくて、でも、とても自由だった。
「これ、ほんとに完成したら、ライブでやろうよ」
「……玲音、泣くと思う」
「うん、泣くかも。でも、泣くのって、言葉にできなかった感情がこぼれることでもあるよね」
「じゃあ、涙も歌詞の一部だ」
そんなふうに言って笑い合える、いまのふたりの距離。
そのすべてが、音楽だった。
窓の外は、夕焼けが始まっていた。
赤く染まる空に、誰かの祈りが滲んでいくようだった。




