――わたし、ステージに立つから
ライブ当日。朝7時。
玲音の部屋のドアの前で、俺は静かに呼吸を整えた。
ノックはしない。
代わりに、部屋の前に立つだけでいい。
いつもそうしてきた。俺たちのやり方だ。
やがて、ドアが音もなく開いた。
玲音はすでに衣装を着ていた。
黒地に銀のアクセントが入ったシャツワンピース。
母が最後に選んでくれた一着。
ステージに立つための、たったひとつの服。
「……おはよう」
「おはよう」
玲音の声は小さかったけど、ちゃんと聞こえた。
この三日間で、彼女の声は少しずつ変わってきた気がする。
「朝ごはん、軽くでいい?」
「うん……のどに残らないやつ、お願い」
「任せとけ」
キッチンに向かう途中、俺はそっと後ろを振り返った。
玲音は、扉の前でしばらくじっと立っていた。
両手を胸元でぎゅっと組んで、目を閉じていた。
たぶん、祈っていたんだと思う。
自分自身に。
会場は、都内の小さなライブハウス。
地下にあるワンフロアだけど、機材はしっかりしていて、配信設備も整っている。
俺たちが到着したとき、スタッフが数人、準備を進めていた。
玲音は衣装の上に黒いパーカーを羽織り、フードを目深にかぶっていた。
「大丈夫?」
「……うん。今のところは」
スタッフにあいさつを済ませ、控室に案内される。
玲音は機材を丁寧にチェックして、マイクの感度を自分で確かめた。
すべてが、静かな決意に満ちていた。
「配信は10時ちょうどに始まります。
直前にカウントダウン演出が入るので、それまではここで待機で」
ディレクターの言葉に、玲音は小さく頷いた。
9時55分。
控室のモニターに、配信画面が映る。
すでに100人以上の視聴者が入っていた。
玲音は深く息を吸い、フードを取った。
髪はきれいに整えられていて、緊張の面持ちの中にどこか凛とした空気があった。
「……兄さん」
「ん?」
「“あの言葉”……ちゃんと、最初に言うから」
「ああ」
俺は、玲音と約束していた“最初のひとこと”を思い出した。
彼女が自分で決めた、はじめの一歩。
10時。
画面にカウントダウンが始まる。
3、2、1……
“Live Now”の文字が表示された。
照明が当たり、音が切り替わる。
玲音は、マイクの前に立った。
そして、そっと口を開いた。
「……はじめまして。リリカルです」
たったそれだけ。
でも、それだけで十分だった。
視聴者のコメントが一斉に流れる。
『!?』
『今、しゃべった……?』
『本当に声だ……』
『かわいい』
『泣きそうになった……』
玲音は笑わなかった。
でも、ほんのすこしだけ、頬が緩んでいた。
次の瞬間、イントロが流れた。
一曲目は「Eight Miles High」。
The Byrdsが1966年に発表した、サイケデリック・ロックの先駆けとも言われる名曲だ。
リリカル・ノイズのカバーでは、柔らかな電子音に続いて、ヴィンテージ感のあるエレピが静かに鳴り始める。
ローズ・ピアノ――ガラスのように澄んだ音色と、ほんのり温もりを帯びた響きが、空気を優しく染めていく。
玲音の歌声は、震えていなかった。
透明で、まっすぐで、少しだけ切ない。
モニター越しに、彼女の声が世界へと広がっていく。
コメント欄が埋まる。
“奇跡”なんて言葉は軽いけど、それでも、
彼女の一音一音には、
確かに何かを変える力があった。
俺はその瞬間、思った。
このライブは、きっとひとつの“はじまり”なんだと。
玲音にとっても、俺にとっても。