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その音は、名前を呼んでた

セッションの夜が明け、雨が窓を静かに打っていた。

東京の空気は湿っていて、どこかやわらかい。


スタジオの片隅に、ふたり並んで座っている。

機材の電源は落とされたままで、ただ空調と雨の音だけが、部屋をゆるやかに満たしていた。


玲音は毛布を膝にかけ、リハのときに使ったローズ・ピアノの前で、手を遊ばせていた。

ローズは、内部の金属音叉を電気的に増幅して鳴らすエレクトリックピアノ。

その音色は、アコースティックピアノよりも柔らかく、どこか夢の中のように曖昧で、夜の静けさによく馴染む。


俺はその横で、レスポールを抱えたまま、ただ静かに目を閉じている。

ロックの定番とも言えるこのギターは、重厚なボディと太く粘りのある音が特徴だ。

弦はオープンEチューニング――開放弦だけでEメジャーコードが鳴るように調整されていて、スライド奏法に適している。

指にはめた金属製のスライドバーが、弦の上を滑るたび、音はまるで声のように揺れ、感情を帯びて響く。


「昨日の……録音、あとで聴く?」

玲音がそっと訊いた。


奏汰は軽く目を開けて、横目で玲音を見る。

「聴かなくても、身体が覚えてる」


玲音はうっすらと笑いかけるも、どこかそわそわとした指先で、鍵盤の上をなぞった。

「……奏汰」


少し間を空ける。


「その、呼び方……前からずっと、兄さんって、呼んでたけど……」


奏汰が、静かに笑った。

「うん。玲音が、名前で呼んでくれたの、久しぶりだった」


玲音は目を伏せて、頬を赤らめる。

「……あれは、なんか、音に混じって、つい……」


「でも嬉しかった」


玲音ははっとして、手を止めた。

奏汰がふっと顔を寄せ、声を落とす。


「もっと呼んで。

 名前で」

その瞬間、玲音の手がわずかに震えた。


「……え、でも、その、なんか……恥ずかしくて……」


「音ではあんなに触れてくるのに?」


「それとこれとは……っ」


言いながらも、玲音は口元を押さえ、耐えきれずに笑った。


「……奏汰」


そっと、震える声で名前を呼ぶ。


奏汰は目を閉じて、その音を受け取った。

指先が、ギターの弦をやさしく撫でる。


「ありがと」


しばらくして。


「……あのさ」

玲音が、毛布の中から何かを取り出した。

それは、制服姿の美少女が、照れくさそうにスカートの端をつまんでいるイラストの文庫本だった。

後ろには、兄らしき少年がやや困ったような顔で立っていて、二人の距離感が絶妙だった。


──通称『世界妹せかいも』。


「これ、読んだ?

 まだ一巻しか出てないけど……わたし、昨日のセッション終わったあと、一気に読んじゃって」


奏汰が表紙を覗き込む。


「ううん、知らない。

 ……ラノベ?」


「そう。

 でも、なんかすごくて。

 最初は、ただの“妹もの”かと思ったんだけど……感情の描き方が、音楽っぽいっていうか……心のタイミングが、“間”で語られてるみたいなの」


玲音はぎこちなく言葉を探しながら、興奮したように続けた。


「これ、絶対アニメ化する。

 ……そう思った。

 で、もしそうなったら──」


言いかけて、玲音は照れたように目をそらす。


「……主題歌、やりたいなって」


奏汰は、ギターを強く抱きしめた。

玲音の願いに、答えられる音を。

名前で呼ばれるような、確かな音を──。


窓の外、雨はまだやまない。

けれど、その音もまた、ふたりにとっての“始まり”のようだった。

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