誘われた音、試される耳
「これ、見て」
夜の部屋。窓の外では蝉の鳴き声が少しだけ残っていて、クーラーの微かな低音が部屋の静けさをさらに引き立てていた。
ベッドにもたれた玲音が、タブレットを俺の膝に置く。
動画の再生画面には、ふたりがライブで演奏した映像が映っていた。
玲音が開いたメッセージ欄には、英語の一文。
Hey. Caught this by accident. Raw but curious. I’ll be in Tokyo next month. Jam?
発信者の名前を見て、指が止まる。
「ドレイク・ハワード……?
え、あのNYの……」
「うん。
しかもナタリー・ミラーと一緒だって」
「うそだろ。なんで……」
「気になったんだって、わたしたちの音。
クセがあって、型にはまってないって」
沈黙が落ちた。
部屋の空気が、何かを待っているように張りつめる。
黙ったまま、タブレットを見つめる。
心臓の鼓動が、さっきよりも速い。
体温が少し上がって、指先がかすかに震える。
「……すげえ話だけど、俺、無理だよ。
ロック上がりだし、ジャズなんて全然……」
「兄さん」
玲音が柔らかく言う。
少しだけ首をかしげて、すこしだけ色っぽく唇をなぞるような声で。
「逃げるの?
こんなチャンスを」
「でも……俺の音なんか、通用しないよ。
ちゃんとしたジャズプレイヤー相手に即興なんて……」
「だったら、練習しよう。
ちゃんと勉強して。
わたし、協力するから」
逃げたくなる。
怖い。
でも、それ以上に、自分が変われるかもしれない期待が胸を焦がす。
「玲音……」
「……ねえ。ちゃんと努力したらさ、少しずつ“ご褒美”もあげるから」
そう言って、玲音は立ち上がり、部屋の隅に置かれたローズの前に座る。
指先が軽く鍵盤をなぞると、ディレイのかかった音がゆっくりと空間に広がった。
「兄さんは、音で愛してきたでしょ」
その音が、静かにすべてを決めた。
翌日から、俺の部屋にコード理論の本が積まれた。
セブンス、ナインス、テンションの役割。
ツーファイブワン。
モーダルインターチェンジ。
ロックとは桁違いに抽象的な構造。
理論に向き合うたび、頭の中でこれまでの奏法が崩れていく感覚があった。
だが難しい理屈よりも、俺を突き動かしたのは――
玲音が、毎晩ローズ・ピアノを持ち込んでくることだった。
「ここで、こんなふうに返してみて?」
そう言いながら、玲音は目を閉じて、ディレイが絡むコードを鳴らす。
ローズ・ピアノ特有の、電気で増幅された柔らかな音が空間に広がる。
まるで水面に波紋が広がるように、ゆるやかに揺れる響き。
触れたら崩れてしまいそうな繊細さと、どこか温もりを感じさせる音色だった。
奏汰は、それにオープンEチューニングのレスポールを構え、スライドバーで応える。
通常のチューニングより優れたチューニング、それがオープンEチューニング。
レスポールの重厚なボディが、低音に深みを与える。
金属製のスライドバーを指にはめ、弦の上を滑らせることで、音はまるで泣いているように揺れる。
けれど指先はまだぎこちない。
音の端々が震え、感情の輪郭がまだ曖昧なままだ。
「ちょっとだけずらして……そう、舌でなぞるみたいに」
「え、どこを……」
「……コードの、分解の仕方」
玲音の目線と息遣いが、明らかに“演奏の領域”だけではない。
触れない。
けど、触れられてる。
音の会話が、身体のどこかに届いてくる。
「……ほんと、兄さんって単純」
そうささやきながら、玲音は自分の太ももに手を添えたまま、次のコードを弾いた。
指の動きが、だんだんと艶を帯びていく。
奏汰は気づく。
「玲音の音を、もっと気持ちよくさせたい」
その衝動が、彼をコードから“意味”へと引きずり込んでいく。
単なる訓練ではない。
これは、欲望のかたちをした音楽だ。
そして、セッション当日が近づいてくる。




