玲音が奏汰の寝息を“音にした”夜
雨が止んだあとの夕方。
窓はまだ少しだけ曇っていて、部屋には湿った空気と微かな静電気が残っていた。
玲音は、いつもよりタイトなカットソーに身を包み、
その上からパーカーを羽織って、ソファに腰を下ろしている。
胸元のチャックは少し開き気味で、そこから見える鎖骨に、ふと目を奪われた。
「……見るな」
玲音が囁く。
「いや、見てたけど」
「……ばか」
顔を背けながら、玲音はローズ・ピアノの電源を入れた。
ヴィンテージの筐体から、ほんのりと灯るインジケーター。
ローズ・ピアノ――その静かな起動音すら、どこか優しくて、夜の空気に馴染んでいた。
「少し寝てて。……その代わり、わたしが起こす」
そう言われ、俺はソファに横になる。
ブランケットをかけられると、そこに微かに彼女の体温が移っていた。
瞼を閉じると、聴こえてきた。
低く、まだ旋律になりきれない、ためらい混じりの音。
そのひとつひとつが、まるで指先で、肌の奥をなぞられているようだった。
俺の息に、彼女の音が寄り添ってくる。
ゆっくりと。
深く。
まるで、音で愛撫されているような感覚。
気がつくと、俺はうっすら汗ばんでいた。
目を開けると、玲音がこちらをじっと見つめていた。
頬が紅潮していて、唇が微かに開いている。
「……どうだった?」
声が、いつもより少しだけ、濡れている。
「……玲音が……俺を、感じてた」
玲音は何も言わず、音源をそっと指差した。
「録った。兄さんの寝息、音に重ねて」
「重ねたって……どこに?」
「呼吸の隙間に。心拍の揺れに。喉が鳴った瞬間も、音にした」
「……全部、感じてたんだ」
玲音は無言で頷いた。
再生ボタンを押すと、
音楽が、身体の奥に直接入り込んでくるような響きで始まった。
途中、微かに聴こえる“息”のようなノイズが、俺の鼓動を速める。
「……これ、俺の音?」
玲音は、俺のシャツの端を指でつまんだ。
「そう。だけどもう、私の音でもある」
その言葉に、喉が鳴る。
俺は立ち上がり、玲音の背後から抱きしめた。
肩越しに、ローズの鍵盤を覗き込む。
「……この音、もっと聴かせて」
「だめ。……兄さんが、また寝てくれないと、続きを作れない」
「なら……寝るまで、こうしてて」
「ずるい」
「玲音こそ」
彼女の指が、俺の手の甲を撫でる。
指と指が、鍵盤の上で重なった。
そして、音が、ふたりの身体を縫うように鳴り始める。
深夜1時。
曲はまだ完成していない。
でも、ふたりの間にはすでに、**音楽より濃密な“なにか”**が生まれていた。
それは旋律ではない。
言葉でもない。
ただ、触れ合いと吐息と、ふたりしか知らない静かな昂ぶり。
玲音はそっと呟いた。
「……今日の音、兄さんしか知らないから」
その声が、いちばん官能的だった。




