――わたし、しゃべれないけど、歌うのは……
ライブ当日まで、あと三日。
学校から帰った俺がリビングに入ると、玄関のほうからかすかに物音が聞こえた。
リハーサルに向けて、玲音が準備をしているのだろう。
衣裳部屋で選んだあの黒いワンピースも、今はリビングの椅子に丁寧にかけられている。
俺は台所で氷を入れた麦茶を用意し、自室に戻ろうとして――
足を止めた。
玲音の部屋から、かすかに“歌声”が聞こえてきたのだ。
本当に、かすかに。
イヤホンの隙間から漏れたのか、マイクのチェック中なのかはわからない。
でも、それは間違いなく、玲音自身の声だった。
俺は、そのまま足音を殺してドアの前に立つ。
「……あれくらいの、おべんとうばこに……」
小さく、震えるような声。
子供の童謡みたいなリズム。
歌詞の一つひとつを、慎重になぞるようなテンポで。
「にんじんさん、さくらんぼさん……」
録音ではない。
生の声だ。
――玲音は歌えるんだ。
俺は拳を握った。
感動というよりも、胸の奥が締めつけられるような気持ちだった。
それは、言葉にならない何かだった。
夜になって、俺がいつもどおり夕飯を作っていたときだった。
玲音が、無言のまま、キッチンの隅に立っていた。
PCを開いて、タイピングで文字を打ち、こちらに向けて画面を見せる。
『歌の練習、聞かれてた』
「……ちょっとだけ。声が漏れてた」
玲音は少しだけ頬をふくらませて、またキーボードを叩く。
『恥ずかしい』
「ごめん。でも、嬉しかったよ。玲音の声、ちゃんと届いてた」
しばらく無言が続いたあと、玲音はそっとひとこと呟いた。
「……歌うのは、怖くないの」
俺は手を止めて、顔を上げた。
玲音は目を伏せたまま、かすかに唇を動かしている。
「しゃべるのは、怖い。でも……歌ってるときは、わたしじゃない気がする」
それは、彼女が“初めて”口にした長い台詞だった。
俺は言葉を失ったまま、ただその場で立ち尽くした。
「だから、歌いたい。……ステージで、伝えたい。
自分の声で、ちゃんと」
震えていないわけじゃなかった。
むしろ、玲音の両手はテーブルの端をぎゅっと握っていた。
でも、彼女は逃げなかった。
声を出すことからも、過去からも。
その夜、俺は久しぶりに眠れなかった。
玲音の言葉が、頭の中で何度もリピートする。
「しゃべるのは、怖い」
「でも、歌うのは怖くない」
そう言っていた玲音は、少しだけ泣きそうな顔をして、
それでも笑っていた。
きっと、このライブは彼女にとって、
何かを壊すチャンスで、何かをつかむための一歩になる。
そして、俺はその一歩のそばにいる。
それだけで、十分だった。